頭陀袋

2003年10月26日
国宝の「耳掻き」

 何じゃそりゃ?なんかの通販の広告のようですね。
「国宝級の使いよさ!職人の手技の光る○○の耳掻き」
でもそうじゃなくて本当にあるんです。国宝に「耳掻き」が。それだけじゃない。「借用書」も「風呂」も国宝 になっているんです。
 まあ耳掻きは厳密にいうと「附(つけたり)」といって、国宝に付属しているんで指定されたものなんです けど、国宝には変わりはありません。それはいわば、「歴史の証人」ともなる物なのですから。
 たとえば太刀『爲次(別名 狐ヶ崎)』。これは鎌倉幕府の重鎮であった梶原景時が、倒幕の動きをした と疑われ、狐ヶ崎で一族もろとも成敗されたとき、御家人吉香小次郎が景時の三男を切って捨てた刀剣 である。小次郎はそのときの刀傷から死んでしまったが、吉香家は代々家の守り刀として当時のままの 拵えで受け継いできた。吉香はのちに吉川と名を変え、戦国時代中国地方に名を轟かせる「吉川家」と 成長した。で、この太刀を国宝に指定したとき、本来なら「刀身」だけでいいけれども、鎌倉時代の刀の 拵えが残っているなんて珍しいから、これも附として国宝にしちゃえってな具合で拵えも国宝になっちゃっ た。本来は附だけでは価値を持たないけれど、国宝の主体についていることでお互いの価値を高めあう もの、それが附。いわば「寅さん」の「タコ社長」みたいなものです。
 あ、それから国宝の耳掻きね、「熊野速玉神社」の『古神宝』のひとつ。あるいは千代姫の『婚礼調度 類』の中にもあり。借用書は『東大寺百合文書』にあるし、風呂(蒸し風呂)は京都東山の『東福寺』にあ る…たしか。



2003年10月25日
偽善者テディー

 1902年11月、大統領選を前にしたセオドア・ルーズベルトは息抜きにミシシッピーの湿地帯に出掛けて 狩猟を楽しんでいた。ところがこの日に限って獲物の熊が一頭として現れず猟は空振りに終わった。引 き上げようとするルーズベルトに従者が、「熊を追い詰めたから仕留めて欲しい」と、猟犬に追い立てら れた瀕死の子熊のもとに案内をした。するとルーズベルトは憤慨してこう言い放ったという。
「こんなことはスポーツマンらしくない。」
 このことは同行していたクリフォード・ベリーマンにより『ワシントン・スター』誌の漫画で紹介され、「美談 だ」として新聞紙上を賑わせた。このこともあり、ルーズベルトは愛称の「テディ」の名を冠する「テディー・ ベア」を選挙マスコットとして戦い見事大統領選に勝利した。
 ところがこの話には続きがあった。ルーズベルトは自分では撃つ事を拒んだが、従者には子熊を始末 するよう指示しとどめを刺させたのである。もっと言ってしまうと、最初からその子熊は用意されており、 選挙コマーシャルとして仕組まれた「高感度アップ」の芝居であったといわれている。なんともはや、恐ろ しい…。
こぼれ話のこぼれ話

アメリカ大統領の話といえば、道徳教育の定番『ワシントンと桜の 木』。あれも嘘。でもこれは選挙がらみではなく、ワシントンの生涯を 描いた作家が、
「もっと刺激的で、ドラマチックな逸話が欲しい」
として、他人様の作品から盗作したお話。でもね、アメリカにはある らしいですよ。ワシントンが切った桜の木の切り株と斧が。


←クリフォード・ベリーマンの漫画。こんなモンに『感動した!』って?



2003年10月23日
絶滅回避

 日本の純粋な朱鷺が絶滅した。乱獲と農薬による食物の減少が主な原因だったという。ところが、世の 中には「大事にされ過ぎて絶滅」しそこなったものもいる。
 中国語で「獅子狗」と書く「シーズー」である。えっ、今じゃ珍しくもないって?
 シーズーは元々唐代にチベットから献上されたラサ・アプソを原種としているといわれる。これにペキニ ーズなどが掛け合わされたとされているが、どちらかというとラサ・アプソからペキニーズを経てシーズー となったと考えるのが自然であろう。このシーズーは宮廷で寵愛され、贈答品としてしか国外に出される ことない門外不出の動物であった。その後、王朝が変わろうとも「小さな獅子」を皇帝が愛玩することに は変わりが無く、九重の外には出さないという禁は堅く守られてきた。
 ところが時代を経て1930年、清朝崩壊後の混乱を収めた中華民国統治下の北京からシーズーを持ち 出したものがいた。イギリス人旅行者マデリン・ハッチンスである。実を言うと清朝崩壊の折、宮中にいた シーズーはすべて殺害されたはずであった。しかし物事には裏がある。皇帝が紫禁城をあとにするとき、 宦官達は金目のものを隠れて持ち出したのである。その中にシーズーがいたのだ(もっと言ってしまえ ば、それ以前に民間の金持ち連中はシーズーを裏から手を回し、手に入れていたのだ!)。マデリンは この中の三匹を祖国に持ち帰ったとされる。
 そして1932年、今度はオランダ駐中公使カウフマンの夫妻が、ノルウェー転勤の折に三匹のシーズー を元宦官から譲り受け、持ち帰った。そしてこのシーズーの子供をイギリス皇室に献上したことからヨー ロッパで「シーズーブーム」が巻き起こったのである。つまり、今世界中で飼われているシーズーは、この 六匹の犬のどれかの血を引いていることとなるのだ。 
こぼれ話のこぼれ話

カウフマン夫妻の持ち出したシーズーの中の一匹には奇妙な癖があった。後ろ足で 立ち上がり、前足を合わせて拝むように上下させるのだ。「ちょうだい」をする。シー ズーの中にはいまだに教えなくてもこの行動をとるものがいる。理由はその犬が、カ ウフマン氏のシーズーの血統を引いているためなのである…といわれているが、実 のところよくは分からない。だが、シーズーがちょうだいを教えなくてもするのは事実 であるので、あながち嘘ではないかもしれない。



2003年08月24日
中から、中から
 ロシアの民芸品「マトリョーシカ」。「入れ子型構造」の代名詞として万国共通に使われるこの人形は、 起源を探るとどうやら日本にたどりつくらしい。
 説は様々なので、いくつか上げておくと、

@ 箱根塔の沢にやってきたロシア人宣教師により、箱根細工「七福神(構造はマトリョーシカと
  まったく同じ)」がお土産として持ち帰られた。
A 箱根細工の「入れ子たまご(七福神より前に作られた玩具)」がロシアの著名人により持ち
  帰られ、これを元に制作された。
B 日露戦争時、従軍していた愛媛の職人が「姫達磨」の作り方をロシア人に教えた。

などがあり、いずれも19世紀中に伝わったとされる。今一番有力な説は@である。
 しかし、ロシアに渡ってからの起源はわりとしっかりとしていて、1890年代半ばに画家のマチューリンと 轆轤師スビョズドチキンが、「民芸運動」の一環として製作したものが最初で、伝統的な「マトリョーシカ」 はこの時の形を踏襲している。数はおよそ11個で、一番小さな人形に願い事をして仕舞っておくと叶う といわれている。



2003年08月10日
そは「そろり」のそ

「曾呂利新左衛門」。昔話のなかに出てくるいたずらの天才。この人が実在の人物だとしたら…。
本名を坂内宗拾という。本業は「鞘師」。つまり刀剣の鞘を作る人のこと。西洋の刀剣と違って弧を描く 日本刀の鞘を作ることは実に難しい。ヘンにゆるいと「鞘走」ってしまい、きついと「抜け」なくなってしま う。この宗拾の鞘はしぶりがなく「そろり」と抜けたところから「曾呂利」を名乗ったという。
 鞘師の腕もさることながら、香りを嗅ぎ分ける「香道」の名手としても知られ、豊臣秀吉の御側近くに仕 え、御伽衆としても活躍したという。
こぼれ話のこぼれ話

 この曾呂利、実は忍者であったとも言われている。元々御 伽衆は各国の情報に通じ、その動向を探る役目も果たして いたという。宇月原晴明の『太閤の錬金窟』のなかではこの 曾呂利は、西洋仕込みの怪しい術を駆使して国家転覆を画 策する黒幕に仕立てられている。



2003年08月09日
ベッキーと呼んでもいいですか?

犬や猫が皮膚病になったりすると、紙で出来た円錐状のものを首に巻きますよねぇ。ちょっと慣れるま でに時間かかりますが。これをエリザベスカラーといいます。16世紀のエリザベス女王の肖像画を見る と、首の周りにふわふわとした襟をつけてますね。この襟に似ているところからエリザベス(カラー)という らしいです。
 この命名の元になった襟、本当の名前は「ラフ(raff フランス語でravat)」といい、ひだの厚みのある ものを「スタンディングラフ」といいます。発祥はスペインで、あの狂女王ファナの妹カタリーナ(英名キャ サリン)がヘンリー8世に嫁入りした頃、イギリスに上陸した「先端ファッション」だったのです。ちなみに エリザベス1世はヘンリーとキャサリン従女アン・ブーリンの間に出来た子。
こぼれ話のこぼれ話

数年前「シェークスピアはエリザベス1世である」というとんでも ない説が浮上した。
理由は「肖像画がそっくりだから」。おいおい。そんな理由かい …。無論今はそんな説無視されていますが。




2003年07月24日
181=1

 以前いわき市のことについて書いたことがあった。明治二十二年からスタートした市町村合併をちょっ と追いかけてみよう。

平町(単独町制) S12.6.1
市制(平市)
平窪村合併
S25.4.1
飯野村編入
S25.5.15
神谷村編入
S29.10.1
豊間町
夏井村
高久村
草野村編入
S30.2.11
赤井村を
一部編入
S41.10.1
(いわき市)
平市
磐城市
勿来市
常磐市
内郷市
四倉町
小川町
遠野町
久ノ浜町
川前村
好間村
大久村
田入村
三和村合併
平窪村(8村合併)
飯野村(9村合併)
神谷村(6村合併)
豊間村(3村合併) S15.6.1
町制(豊間町)
夏井村(6村合併)
高久村(4村合併)
草野村(7村合併)
赤井村(5村合併)
小名浜町(単独町制) S29.3.29湯本町へ一部編入 S29.3.31
市制(磐城市)
小名浜町
鹿島村
泉町
江名町
渡辺村合併
S37.1.1
常磐市へ
一部編入
鹿島村(12村合併)
泉町(6村合併)
江名町(3村合併)
渡辺村(7村合併)
窪田村(7村合併) T14.5.1
町制(勿来町)
S30.4.29
市制(勿来市)
勿来町
植田町
山田町
錦町
川部村合併
植田村(11村合併) T12.4.10
町制(植田町)
山田村(6村合併)
錦村(4村合併) S15.4.1
町制(錦町)
川部村(5村合併)
湯本村(単独村制) T12.8.20
町制(湯本町)
S29.3.29小名浜町を一部編入 S29.3.31
市制(常磐市)
S37.1.1
磐城市を
一部編入
内郷村(8村合併) S17.8.1
町制(内郷町)
S29.7.10
市制(内郷市)
S30.2.10
箕輪村を
一部編入
箕輪村(3村合併)
四倉町(単独町制) S30.3.10
(四倉町)
四倉町
大浦村合併
大浦村(8村合併)
上小川村(2村合併) S30.2.11
町制(小川町)
上小川村
下小川村
赤井村を
一部合併
下小川村(4村合併)
入遠野村(2村合併) S30.3.31
町制(遠野町)
入遠野村
上遠野村合併
上遠野村(4村合併)
久ノ浜村(4村合併) M35.6.1
町制(久ノ浜町)
川前村(4村合併)
好間村(8村合併) S30.2.1
箕輪村を
一部編入
大久村(3村合併)
田入村(3村合併) S16.4.1
(田入村)
田入村
荷路夫村
貝泊村
石住村合併
荷路夫村(単独村制)
貝泊村(単独村制)
石住村(単独村制)
永戸村(4村合併) S30.2.11
(三和村)
永戸村
沢渡村
三阪村合併
沢渡村(3村合併)
三阪村(4村合併)

出だしはすべて明治二十二年四月一日。色の濃いほうに合併の主導権はあった。明治初年ごろは181 あった村も昭和四十一年の大合併でたった一つの自治体となってしまった。消えた地名も数知れない。 これを良しとするかはあなたの判断で・・・。



2003年07月05日
どうどう巡り

 三すくみは日本独特の言い方ではなく、起源はやはり中国にあるようだ。
 陸佃の著した『ヒ(土+卑)雅』によれば、「へび・むかで・がま」となっている。ムカデは蛇の脳を喰ら い、蛇はがまを喰らい、がまはムカデを喰らう。よってお互いを恐れるというのだ。
 ところが日本では違っている。江戸の半ばに書かれた『俚言集覧』には「蛇・ナメクジ・蛙」となっている。 なぜムカデがナメクジになったのか。これも江戸期の書物『本草綱目』に「ナメクジは触れただけでムカデ を殺す」という記述があるため、より強力なナメクジにしたようだ。

 これははみ出し。北関東の三県をそれぞれ代表する山、赤城山(群馬県)・男体山(栃木県)・筑波山 (茨城県)はいずれも古来から修験道が盛んだった山である。この三山には、それぞれ思い出される動 物がある。赤城山と男体山は戦場ヶ原で戦った神の化身ムカデと蛇、筑波山は蝦蟇である。三県は旧 国名であれば上野・下野・常陸。三すくみになっているのも何かのまじないか?



2003年07月04日
アレの置き場所

 ロダンの代表作『考える人』。あまりにも有名な作品なのに、このマネをすると大体の人が間違えたポ ーズをとる。まず座り、おもむろに右手をグーにしてあごを乗せ、右ひじを右のひざの上に置く…ちょっと 待った。ここですでに間違えている。ひじを置くひざは左側である。実際やってみるとこれはかなりきつい ポーズとなる。まとまる考えもまとまりそうに無い。しかしロダンを責めてはならない。内包する考えを人 体を使って表わした、いわば『可視できる思考』の彫刻なのだ。
『考える人』はもとから単独で作られたわけではない。ある彫刻の試作として切り離して作られたものであ る。その彫刻とは『地獄の門』。東京は上野の西洋美術館正面にある巨大な彫刻がそれである。『考える 人』はその門の中央上部に端座している。ちなみにこの『地獄の門』は全世界に六基しかなく、そのうち 一つは前記の美術館に、もう一基は静岡県立美術館にある。
『地獄の門』はルネサンス前夜、ギベルティによって作られたフィレンツェのサンタ・マリア・デルフィオー聖 堂の洗礼堂北及び東扉に霊感を得たものとされている。キリストの一生を描いたこの彫刻は彼のミケラ ンジェロをして『天国の門』と言わしめた名作である。



2003年07月03日
チリ『神』交換

 明治になると国家神道の確立を叫ぶ人々により、全国の神社の統一が行なわれることとなった。
 基本は一村一社。小さな社はその村の鎮守に集約され、「合祀」あるいは「末社」として集められた。ま た、『記紀』に載せられた神のみ祭神とし、わけの分からない神は「改名」あるいは「廃棄」されてしまっ た。神の性格が似ている、名前が似ているというだけでまったく違う名前にされたのである。
 今日、民俗学で一番困っているのはこの改称された神々の本当の正体を知ることである。明治前の資 料もほとんどは遺棄され、古老さえも知らないことが多いからである。この先消えてしまった神々の復活 はあるのだろうか。