2002年06月06日

『斬首』の快楽

 手塚治虫の短編作品に『ペーター・キュルテンの記録』という実録ものがある。ペーター・キュルテンは、 12歳で友人の少年二人を川に突き落とし溺死させたことに始まり、第一次大戦を挟み、放火や連続婦女 暴行殺人を犯した稀代の「ネクロフォビア(屍姦嗜好者)」である。性的興奮が火や血をみることで異常に 高ぶったことに味を占め放火・殺人を繰り返したもので、弁護士が「精神異常」を盾にとって減刑を勝ち 取ろうとしたが、本人は「一連の行動は社会に対する反抗」を主張、自らの異常性を否定した。その後、 無論死刑が確定し、1931年7月2日早朝6時に処刑された。作品のラストシーンで、キュルテンはギロチン に掛けられながら、「さいごにいいのこすことは」と問われ、キュルテンはこう答えたという。
「ないね ただ おれの首から血がダーッと出る音を聞いて死にたいよ」
 彼にとって最期の斬首の血飛沫こそが人生最大最高の『射精』の瞬間であったのかもしれない。
(ボルヘスが匿名で書いたとされる『イギリス人』の終幕で描かれる、館主のダイナマイト爆破ほどの迫力 はないけれど。)


 中国の古典を読んでいるとよく「自刎」の記述を目にする。『史記 刺客列伝』の荊軻の条に、秦から亡 命をしてきた班於其将軍が荊軻の求めに応じ、自刎する場面などは有名だ。文字通り自ら首を刎ねるこ となのだが、本当に出来るものなのだろうかと疑問に思ってしまう。
 ある人に聞くとこれは可能だが、正しくはないという。曰く、日本刀の感覚ではいけない。大陸の刀剣は 長大で重い。たとえば包丁を見ればいい。日本の柳葉と、中華包丁の差に近い。重さだけで「へし切っ て」しまう刀剣なので、後ろ手にもっていければ首は確実に落ちる。ただし、切り口はつぶれ、ささらのよ うになるので、刎ねるというのはいい表現ではない、と。


 オスカーワイルドの戯曲『サロメ』はご存知のとおり『新約聖書』が原典である。ユダヤの王ヘロデにとっ て、人心を掴みつつあった預言者ヨハネは目障りであり、脅威であった。王はヨハネを捕まえ投獄した が、預言者であるため殺すことをためらっていた。ところが、王の誕生の祝いに、妻ヘロデヤ(もとはヘロ デの兄嫁)の連れ子サロメが見事な踊りをみせ、その褒美としてヨハネの首を王に所望する。王は躊躇 するが、約束なのでやむを得ずサロメに首を与えた。
 ワイルドは物語上、ヨハネを至極美男という設定にし、再三言い寄るサロメになびかないヨハネを義父 の威光をもって殺させる話に書き換えた。それと同時に、中世ヨーロッパの頃から妄想逞しく作り上げら れたサロメの淫靡さをより濃密にして、「ニンフォマニア(多淫症)」という性格付けをしたことにより、以後 のサロメ像は「淫女」と固定化してしまった。まったくもってかわいそうなサロメである。そういうワイルドに は断袖(ホモセクシャル)の気があったとされ、首を取られるというテーマの裏に自らの「去勢コンプレック ス」が見え隠れしていると見るのは下衆の勘ぐりであろうか。


 西洋絵画は日本人にとってその背景が理解しづらいものが多くある。それはギリシャ神話であったりキ リスト教の説話や寓話が元になっているからであり、日本の仏教絵画を西洋人がどれだけ理解できるか とおなじである(その両方を理解しようともせず、話題性だけで美術館に大挙する人のいかに多いこと か!)。
 『ホロフェルネスの首を切るユーディット』もそのひとつである。ボッティチェリ、カラヴァッジョ、クラナッ ハ、その魅力的な物語ゆえに多くの画家が製作された題材であるが、背景を知らなければ「阿部定」の ごときゴシップと見まごう絵画になってしまう。『旧約聖書』のユディット記によれば、ベトゥリア市の寡婦で あったユーディットは信託を受け、アッシリアの軍隊に包囲されていた市街地を救おう決心する。敵陣へ 華美に着飾って赴き、その美しさで敵将のホロフェルネスの心を掴むと、泥酔させてその首を取って街を 解放させたという。
 このテーマに限って云えば、バロック期の女流画家アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652)が圧巻 である。アルテミジアは画家であった父の影響から同職を志し、19歳の頃には父の折り紙の付く一人前 の画家になる早熟さを示すが、その前年(1612)に画家のアゴスティーノ・タッシに強姦されたと訴えたレ イプ裁判に敗訴、それどころか「淫女」の烙印まで押されてしまう。それ以来、古代ローマの伝説『ルクレ ティア』を主題とした作品や『ホロフェルネスの首を切るユーディット』をテーマとしたものを描き続けた。こ れは彼女の社会への「叛旗」でもあり、凛とした人間としての主張でもある。(杉浦日向子の『百日紅 其 の八 女弟子』にアルテミジアのことを本歌取りしたと思われる話がある。)
 同じ主題でこれだけ違うということをカラヴァッジョの作品と比べてもらいたい。
 無頼の徒カラヴァッジョにしては『ヨハネの斬首』のときのリアリティーがない。一方アルテミジアのこの 緊迫感、女流画家などという陳腐な差別など、この絵の前には雲散霧消してしまう。


 戦国時代、日本では基本的に集団戦という考え方は薄かった。つまり源平の合戦の頃からの流れで大 将首を取ればそこで勝ちとなり、無駄な流血は避けられたのである。これを一変させたのが足軽の出現 であり、これを大いに利用したのが織田信長であり、羽柴秀吉であった。足軽たちに忠誠心は薄く、日和 見であり、古式などが通用する者達ではなかった。大将首であろうが同じ足軽であろうが、切り殺した者 勝ち、もし生き残らせれば次には自分の首が飛ぶ、まさに修羅場である。そんな中、首を取ることをスポ ーツのように楽しむ男が現れた。「笹の才蔵」こと可児才蔵である。この時代、戦で敵将の首を取るとこ れを自ら大将のもとへ持参し、働き振りをアピールし、首の数で恩賞をこうたのだが、この首は存外重 い。数多く取っても自ら持って歩いていたのでは動きが鈍くなる。そこで才蔵は取った首級に笹の葉を咥 えさせ、自らの功の印としたのである。このときあげた印の数なんと十七級に及んだという。


 この頃、自らの存在をあたりに知らしめるため旗印が使用されるようになり、のちの家紋の発展に大い に影響を及ぼすのだが、初期の頃の家紋は複雑で、洗練されていないので見た目にも分かりづらかっ た。好まれたのは甲冑の飾りなどにも見られる揚羽蝶や勝虫(蜻蛉)・百足、獅子などの猛禽類、奇をて らった髑髏や磔刑の図などもあった。この中に「稲葉(因幡)団子」と呼ばれる家紋が登場する。見た目 には三つの玉のついた串団子なのだが、この玉の正体は団子ではなく「首級」なのである。最初は顔を 書いていたらしいがだんだんに省略されてゆき、結句団子と見まごう玉になってしまう。だが、戦場では かえって見やすく分かりやすい団子のほうが宣伝効果はあったことだろう。団子の出自自体も身代わり の撫で物(人形)であったのだから、なまじ首と縁がないわけでもない。


 戦闘後に行われる論功行賞で差し出される首は、城内の女たちにより鉄漿付け・白粉・紅がほどこさ れ、元結に『何の何某』と付箋がつき、三方もしくは首桶に収められる。これは化粧首と呼ばれ、今でも 行う死に化粧に当たるもので、死者への敬意の意味合いとともに、女たちの賞玩の対象とされたのであ る。近藤よう子の『美しの首(いつくしのくび)』にその様子は描かれている。しかし、早々首を取られては たまらない。敵の慰み物になるくらいならと、敗色濃厚となると陪臣に首を落とさせ、敵に知られないとこ ろにこれを埋めてしまうことがあったらしい。しかも掘り返したときに、面体が知れるといけないとして、肉 をそぎ落として骨ばかりにするという念の入れようである。以前、材木座海岸近くで見つかった数十に及 ぶ頭蓋骨はこのことを物語るように、不自然に削いだ様な刃物の傷があったという。


 幕末期は一種の熱病に犯されたように暗殺が横行していた。ただ殺すのではなく暗殺者たちは、江戸 の治下にえいえいと流れる『見ごり見ごらし主義』の考えから、死体おもに首を晒し、他の見せしめとし た。そのなかでも大楽源太郎の「岡田式部暗殺」のときの晒し方は奇異である。岡田式部こと冷泉為恭 は有職故実に沿った大和絵を描く画家としても知られる一方で、不用意な発言から急進的な尊攘派浪士 に付け狙われていたため、落飾し心蓮と名乗り丹波に隠れ住んでいた。これを探り当てた源太郎は為恭 のなじみの商人を偽り名高い「鍵屋の辻」に誘き寄せる。源太郎は為恭を一刀の下に切り伏せると、こ の首をわざわざ大阪の本願寺へと運び、石灯籠の火袋へ晒すのだが、その理由は不明である。




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