2002年11月12日

ガラテアの玉座−あるいは人形愛−

 バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』は幾度となく映画化され、これを翻案として何本ものシナリオ が生まれている。このピグマリオン(pygmalion)とは、無論ギリシア神話に登場する牙彫りの人形に恋をし たキプロスの王である。後にアフロディーテがこれを人間に変え結婚させたといわれおり、その妻の名は ガラテアというが、これはどうやら中世以降の後づけらしい。ショーの物語はそんな現実離れした話では なく、人形も一切出てこない。『ピグマリオン』という題名は「ピグマリオニズム」を指し、人形愛を人形に対 する人間の理想の押し付けとみたショーが、無垢な女性に淑女のたしなみを押し付ける紳士になぞらえ てつけた、彼一流の皮肉である。この構図はイプセンの『人形の家』、もっと古くはシェークスピアの『じゃ じゃ馬馴らし』にまで遡ることが出来る。この種のものは古今東西に係わらず、普遍の題材なのである。


 飛騨工事 内裏ノ御大工ニキコノ大工ト云如何。昔飛騨ノ工、数輩木偶人(オクソコニン)造テ晝夜ニ巧 匠ヲ躁成シムル事、敢テ生身ノ如シ。然ヲ或女官獨リノ人形ニ心ヲ懸テ夜々婚淫ヲ成ス。仍テ一人子ヲ 産メリ。是ヲ名テ木子ト云。工巧成足レリ今ニ其ノ子孫アリ。紫震殿ノ御大工是也。惣テハ三人ノ御大工 アルナリ云々。(『アイ(土+蓋)嚢鈔 巻5「木子大工事」』)


 名工ダイダロスは鍛冶の神ヘパイストスの真似をして、体内に水銀を仕掛けた『オートマタ(自動人 形)』のウェヌス像を作った。ところがこの人形は夜な夜な動き出しては人間や神像と情を結ぶため夜に なると縛り付けておかねばならなかったという。


 上記の二話は良く知られる「名人譚」の一種である。落語の『大師の杵』や艶話『左甚五郎の張形』な ど、物が精を放つという考え方(これには霊的意味を大きく孕む)は東洋に多く、『ダナエの受胎(金の雨 で孕む)』の類とは話の形は似るがまったく違う。これらは東洋特有の陰陽の考え方から発しているの だ。いわゆる名工の神業により製作されたものは、それ自体が天地の陰陽の気を受け、生命を宿すと 考えられた。動くことを目的として作られたものでなくとも自然の節理に沿って、与えられた形質のまま に、たとえば犬なら犬らしく象なら象らしく生活するのである。ゆえに人と同じに作られれば、性行為を欲 するのも自然の成り行きなのである。


 オートマタは古代からの人間の夢であり、西洋ではジャックマイルのような鐘撞き人形や自動書記が製 作されていた。一方、東洋、特に日本では江戸期の茶運び人形や手づま人形に見られる実用というより 玩具としての自動人形が生産された。しかし、幕末に天才が現れた。田中久重、またの名を「からくり儀 右衛門」という。彼は人形を歯車ではなくカムと糸で操ることで微妙な手足の動きを表し、より人間臭く動 く人形を作り出した。その傑作『弓ひき童子』は今もって江戸からくりの最高峰である。この久重が明治に 入り『東京芝浦電気株式会社』を創業、現在の『東芝』の礎を築いた。


 もう一題。田中久重から遅れること三十年、『考える人形』を生み出した学者がいた。彼の名は西村真 琴。科学者にして著述家、教育者、政治家、リベラリスト、マリモの保護を訴えたかと思えば世界中から 孤児を養子として迎える。とにかく多彩な人物である。この真琴は、久重同様、人形の動きを人間の動き に近づけるためには、人間の体内と同じような構造を持たせればよいと考えた。そこで、歯車ではなく筋 に見立てた糸と血管等に相当するチューブに入れた液体でこれを動かした。『学天則』。天に則り学ぶと 名づけられたこの人形は、顔はアルカイックスマイルを湛え、右手にペンに見立てた鏑矢、左手に電球 を持ち、霊感を得ると電球が光り鏑矢を走らせてこれを書き取った。これには見るものすべてが度肝を 抜かれ、なかには拝みだす老婆まで出たという。これに感動したドイツ人がヨーロッパに持ち込んで興行 をもくろんだが、実際はうまく動かずその後行方不明となっってしまった。荒俣宏原作の映画『帝都大戦』 でもこの学天則は登場し、真琴役を西村晃が演じていたが、この晃氏こそ西村真琴の実のご子息であ る。


 ジュモーを筆頭としてブリュー、スタイナー、ゴーチェといった有名どころの名が並ぶ「ビスクドール」の 世界。日本人がフランス人形といって思い出すのはこの手のもので、人の皮膚の質感により近い素焼き のきめ細かさは、見るものを幻惑するに足る美しさを内包する。
 かの碩学デカルトはこのビスクドールを片時も放さず身近に置いていたという。5歳児ほどの愛らしい少 女の人形は、講演旅行に行くときでも専用かばんに詰めて持ち歩いていたという。彼は純粋なピグマリオ ニズムで、かつロリータコンプレックスでもあったといわれる。人形愛好者は時としてロリータ嗜好を併せ 持つことが多い。『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルも少女趣味であったし、人形(彼の場 合、写真という偶像)愛者であった。身体の未成熟さと透明感、無垢というところが人形のそれと結びつく ためであろう。しかし、ここにも性的な欲求を満たすための彼等の(すべてがそうではないが)意図が見え 隠れしている。少女に性的な意味で直接触れる禁忌、あるいは拒絶されることへの恐れから代替物とし ての人形を愛したのである。


 ロリータコンプレックスと同様に人形愛は「屍姦」と結び付けられる。理由は言わずもがなで、屍姦の禁 忌に触れないための代用である。また不感症を愛する者の変形が人形愛であるとも言われる。人形愛 における性愛は、受動的行為(オートマタによる自慰。澁澤は『玉蟲物語』の中でオートマタによる永久自 慰を思考していた)があったとしても所詮は自慰行為であり、相手の絶対服従であることの満足感(征服 欲)に恍惚を迎えるのである。あるいは思いのままになること、たとえば自らの思い描いたストーリーの中 で人形がその通りの行動をする(約束事の遊び。カイヨワの遊びの定義と同じように、『ごっこ遊び』の延 長線上にある。性衝動は4つの遊びの定義にすべて当てはめられるのではないか。)ことは、生身の異 性と付き合うことの不確定さ、それによる煩わしさからの回避にほかならない。その意味において、屍姦 や児童愛との共通性を持つのであって、総体がイコールもしくは完全に内在しているわけではない。


 人形愛好者になぜ女性が少ないのか。これはおそらく自慰における思考の方向性の違いであると思 う。曰く、「男性は未来に、女性は過去に向かって欲情する。」からである。


 「傀儡」。古来、操り人形をくぐつと呼び馴らした。この「くぐ」とは古事記に出てくる「タニグク」と同種の 語源を持つらしい。
 オオクニヌシの命が海を渡って来たスクナヒコナの命に名前を問うたが答えなかったため、知っている ものがいないかを尋ねたところ、タニグクは「クエビコなら知っている」と答えた。クエビコとは案山子のこ とで、この者が命の正体を答えた。
 タニグクの博識は良く知られており、『万葉集』巻5・800番の山上憶良の歌『令反感情歌一首併序』に 「たにぐくのさわたるきわみ」とあり、タニグクあるところすべて(を知っている)と訳される。この「クグ」は 神武東征以前から日本に住んでいた先住民で、この呼び名は、岩穴に住んでいたので「潜る」のクグか らきていると考えれば、「クズ(国巣・国主と書く)」とイコールとみられ、「カガ」や「コシ」といった辺境の土 地の呼称はこのクグの転であるらしい。この民は特定の場所に落ち着かない流浪民で、楽をよくし、独 特の呪術を会得していた(これはヨーロッパにおけるジプシーを起想させる)。これがのちの傀儡師や白 拍子(遊女としての側面を見るにつけ、自由なる性衝動を感受するという意味において彼女等に「人形」 の名を冠しているのは皮肉である)などの諸芸能の基となるのだが、どうやらこのあたりですべてが繋が るようだ。つまり、クグは流浪する民であり、このクグによって操られる傀儡は神の依り代(形をもたない 神が降るための仮の体)となり予言・宣託する。クエビコは「案山子(カカはクグの転)」でありクグの傀儡 として神の依り代となった。神憑りは一種の精神の分裂症状であるから(ヒステリーの症状もこれに良く 似る。ゆえにミコは女性が多いとも言われる。)、過去の体験や知識がないものに対しては正しい宣託が 出来ないが、流浪の民であるクグ達には津々浦々の情報が蓄積されていたため、正しい宣託がなされ たのだ。


 大御番組の菅谷次郎八(四百石取りの旗本)は新吉原の白梅という妓芸に入れあげ、御番以外の日 はナカ(吉原)に入り浸っていた。しかし勤めが二条城勤番に替わり、白梅と早々逢えなくなるのを憂い、 竹田山本(著名な人形細工の店)の細工人に等身大の白梅の人形を作らせた。これは中が空洞で、湯 を入れると人肌に温まるよう細工がなされていた。これを携えて京に上った菅谷は、毎日のように人形相 手に酒を飲んで悦にいっていた。ある日、いつものように杯を傾けながら人形に話しかけると不意にこれ が返事をしたのだ。驚いた菅谷は脇差を抜くより早く人形を真っ二つに切り捨ててしまった。それと同日 の延享二年七月五日宵の八つ時、白梅は初会の客に胸を刺されて死んだ。


 竹田山本は人形で知られた店である。『蝦蟇の油』の口上にも「人形細工師夥(あまた)ありと言えども 京都にては守随(しずい)、大阪表にては竹田縫ノ助、近江が大掾、藤原の朝臣…」と出てくる。これらの 人形店はおもに「雛人形」を作っていたが、なかには「生人形」を作る職人もいた。生人形というのは生き ているかのように作られたリアルな人形であり、菅谷が注文したのはまさにこれであった。目には水晶な どで作った玉眼を入れ、髪には人毛を植え、ときには象牙の歯も差した(フランスの作家ラシルドの『ヴィ ーナス氏』ではヒロインが死んだ恋人の毛髪や歯を使い蝋人形を作っている。)。寛政の改革などで一時 人形の伝統は衰微するが、折からの蘭学ブームに乗り『木骨』や『解剖図』など学術の世界に活動の場 を移すことで、命脈を保った。そんななかで、生人形は幕末から明治にかけて活躍した「泉目吉」の人形 を白眉とする。彼の作品の多くは見世物の『死体』や『生首』であったが、そのリアルさから海外のお土産 となったほどで、現在も日本国内より海外に多く現存している。


 北野武監督作品『Dolls』は日本の伝統芸能である浄瑠璃をモチーフにして、操る側と操られる側が入 れ替わったストーリーが展開してゆく。同様に伊藤潤二の『からくり屋敷』は操られることを欲した家族が 一体の人形により操られてゆくことで進行してゆくホラーである。操る側と操られる側の逆転現象。操ら れる側の独立。それこそイプセンの『人形の家』そのものであるし、人形愛は究極ここにたどり着くのかも しれない。


 人形にはエロス(生)とタナトス(死)の影が常に付きまとう。澁澤龍彦『眠り姫』然り、川端康成『眠れる 美女』然り、江戸川乱歩『人でなしの恋』『押絵と旅をする男』然り。死の恐怖とは同時にエロスにおける 絶頂(これを『小さな死』とよぶ)の最終的に行き着く先である。無表情に体をゆだねる人形に死を感じな がら、その快楽におぼれる、相反する様に思えるこの二つは人形の中には混在し、お互いに成り立って いるのである。


『日本霊異記 中・第十三』和泉国泉郡血渟の山寺で、吉祥天女の像を優婆塞が犯す話(同話『今昔物 語』にも有)があるが、死を説く仏教僧がこの尊像を犯すというのは、サドがキリストを辱める言葉を発し ながら鶏姦されることを好んだことにも一種通じるところがあり、この点において実に興味深い発想であ る(キリスト教に「法悦」と言う考え方がある。吉祥天女が優婆塞の望みをその身に受けたのは即物的な 「法悦」なのだろうか)。




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