Behold the head of a traitor !
-斬首の快楽 再び-
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江戸時代には「十両盗めば首が飛ぶ」といわれたが、一時期ハリファックスでは「13ペンス盗めば首が
飛」んだ。俗に「ハリファックス処刑台」と呼ばれるこの断頭台は、執行人の腕にかかる不確実な斧によ
る斬首に代わり十数年間使用される。高さ5ヤードの二本の柱には溝が彫られており、執行人が引き金
を引くとこの溝を取りつけられた斧が滑り落ち、確実に罪人の首を落とした。これは後にジェームス・ダグ
ラスによりスコットランドへもたらされ、「スコットランドの処女」と呼ばれることとなる。
「ソドミー」という言葉をご存知だろうか。「イラン・イスラム共和国刑法」には「ソドミー」という罪名があり、
これを犯したものは死刑、処刑法は現代においても斬首である。「ソドミー」とは男性同士の鶏姦(性器挿
入)を含む性交渉のことであり、これに近い行為をしただけでも鞭打ち刑を受けることになる。また女性
同士であってもこれは同じ刑を受けるとされる。この刑罰の歴史は古く、七世紀から八世紀のアラブ、正
統カリフ時代の第四代カリフ、アリーが始まりだといわれる。ある同性愛者の処遇について第2代カリフ、
ウマルに尋ねられたアリーは「斬首すべき」と答えたという。執行人たちが首を切り捨てるとアリーは続け
て「死体を焼いてしまえ」と命じたという。こののち同性愛者は発見されると斬首され、死体は焼却される
ようになった。イランはシーア派教学を至上とし、国家経営はその教えに従っている。その教主イマーム
の始祖とされるアリーの言動は絶対であるゆえに、遵守しなければならない。だからいまだに同性愛者
への死刑がおこなわれているのである。(この行為はナチの「純粋なる種の保存」をお題目に行なわれ
た同性愛者狩りと同じである。宗教とはいえ、この差別により国家・民間含め殺害された方に哀悼の意を
表する。)
キリスト十二使徒の一人聖ヤコブは、キリストから弟の聖ヨハネとともに「雷の子」と渾名されるほど、短
気で喧嘩っ早かった。キリストに害が及びそうになればすぐに腕をたくし上げ、がなり立て相手を威圧す
るため、いつもこれをたしなめられていた。顧みればそれだけ純粋で忠誠心が強かったのであるが、キ
リストの死後はこの情熱が宣教活動へと向けられることとなった。もと漁師ということもあり、おもに地中
海を股にかけ、エルサレムから遠くスペインにまで教えを広めた。ゆえに聖ヤコブの像は旅姿が多い。
さて、このヤコブは師の死後十数年後、西暦43年といわれるがエルサレムにいた。例年通り「過越祭」
がおこなわれ、あの時同様ユダヤ人たちの間には反ローマ熱が高まっていた。ユダヤ王ヘロデ・アグリッ
パはローマかぶれで民衆の目の敵、ここで何とかこの一触即発の状態を収めるガス抜きをしなければな
らなかった。そこで生贄となったのは聖ヤコブであった。キリスト教を異端視していた民衆は王の策略と
は知らず、聖ヤコブが斬首されるのを歓喜して見物したという。そして聖ヤコブがキリスト教初の殉教者
となったのである。ヤコブの死体はその後、行動を共にしていたスペインの信徒たちにより本国へと秘密
裏に運び出され、埋葬された。これがキリスト教三大巡礼地である今のサンティアゴ・デ・コンポステラ大
聖堂である。
「九日女王」。イングランド一といわれる美貌の公女、ジェイン・グレイは時代潮流に飲みこまれた悲劇の
「女王」であった。
病弱な(実は梅毒であったらしいが)エドワードY世には嫡子がなく、15歳で余命幾許もない有様であっ
た。王位継承権は異姉妹にあたるメアリー(ブラディメアリー)かエリザベス(のちのエリザベスT世)の二
人にあると考えられていたが、いずれも庶子であった為、遠縁であっても嫡流の者を王位に据えたほう
がよいのではないかという意見も少なからずあった。ここに目をつけたウォーリック伯ジョン・ダッドリー
は、ヘンリーZ世の曾孫にあたるジェインを王位に据える事を画策し始めた。彼の筋書きはこのようなも
のであった。まず、四男ギルフォードとジェインを結婚させる。そしてエドワードY世に敬虔なカソリック教
徒であるメアリーの危険性を吹き込み、ジェインの王位継承を確約させる。王の死後、メアリーを反逆の
罪で逮捕し、勅状を楯にジェインを王位につけ、息子との間に生ませた王子成人の暁には王位を譲らせ
る。(平安期の藤原氏と同じ外祖父になることを望んだのだ!)。ジョンは計画の手始めに、エドワード6
世の外戚(母の兄にあたる)にして保護卿(摂政のようなもの)のサマーセット公エドワード・シーモアを政
治を私しているとしてロンドン塔へ幽閉、処刑し王政内での発言力を強めた。そして手筈通りメアリーを
篭絡し、王の勅状により王位継承権の確約を得るに至ると、ジョンはわが世の春の近い事に歓喜した。
しかし、この動きはメアリー一派に嗅ぎつけられ、ノーフォーク公トマス・ハワードはメアリーを匿ってその
機先を制した。
1553年7月6日、エドワードが崩御、ジョンはメアリー逮捕をあきらめ、同月10日ジェインに王位継承させ
る事を宣言した。これにはメアリー一派のみならず反メアリー派までも異を唱え、ジョンは政界で孤立無
援となる。この事態の打破を狙い私兵の投入するも武力制圧叶わず、19日ジェイン・グレイの逮捕により
ジョンの夢は費えた。かくて策士ジョン・ダッドリーは翌月には処刑されたが、ジェイン夫妻はメアリー即
位後も半年にも及ぶ幽閉がつづけられた。どうやらメアリーはジョンに操られていたジェインを救済する
策をこうじていたらしい。かの陰惨かつ快楽的ともいえる処刑魔のメアリーがである。しかし、ジェインの
父サフォーク公ヘンリー・グレイが所領で反乱を起すと武断派を押さえきれず、翌年2月、唯一の救いで
あるカソリックへの改宗を条件として罪を不問にする事がジェインに告げられたが、これを拒否。同月12
日、ついにジェインとギルフォードの処刑が決定した。
まず、ギルフォードが処刑され、ジェインはそれを落涙で送り、そして自らの処刑所タワー・グリーンへ
向かった。この時の様子はポール・ドラロシュの『ジェイン・グレイの処刑』に描かれている。ジェインは自
らハンカチで目隠しをし、首切り台の上に静かに身を預けた。首が体から離れるまで毅然とした『女王』と
しての態度で刑を受けたといわれる。享年16歳。「九日女王」の最後である。
『ヨハネの黙示録』にあらわれる「蒼褪めた馬」。乗っている者の名を「死」といい、地上の四分の一を支
配し、剣と飢餓と死、さらに野獣により人間を滅ぼすことを許された。この馬は日本にも存在する。「首切
れ馬」。コーベロ、ヤギョウさんとも言われるこの馬は一種のダイバ神である。ダイバ神は風とともに現
れ、これに馬が触れると発狂して頓死する。一方「首切れ馬」は人に死をもたらす。名のとおり首ばかり
の馬が夜中町を駆け巡り、これを見た者には死が訪れる。その姿が「ナイトメア(夢魔)」の馬と酷似する
のも興味を引くが、地獄の獄卒「牛頭馬頭」とイメージが重なる。死を如実の表す馬と死の象徴と首とい
う取り合わせは短絡とはいえ、強烈である。
最後の山田朝右衛門(八世吉亮・よしふさ)が唯一斬首を失敗したのは、稀代の毒婦として名の残る高
橋阿伝の処刑のときのことである。
刑場に引かれてきた阿伝は白い紙で顔を隠され、身は諸肌脱ぎ、後ろ手に縛られて土壇場に正座し
た。後ろには二人、体を押さえる役のものがあって両の手でひじあたりを押さえる。ここに出てきた朝右
衛門はまだ年25歳。16にこの業についたもので、この年が明治12年であるから、幕末も押し迫った頃に
打ち方(首切役)になったことになる。
朝右衛門が阿伝に覚悟を聞くと「情夫の(小川)市太郎にひとめ逢わせて欲しい」と頼んだ。しかし検査
役はこれを許さず、目で切ることを急かせた。逢えぬと分かった阿伝は体を捩り逃げようとする。刑執行
寸前にあがく、朝右衛門にとってはけして珍しい光景ではなかったはずだ。だが朝右衛門は首ではなく、
阿伝の眉間を切りつける失態を演じてしまう。朝右衛門のあせりは斟酌できないが、かなり取り乱してい
たのだろう、失敗のない様確実な据えもの切りに変える。据えもの切りは地面に切るものを据えて押し切
りのように切るのでこの名があり、戦場で大将首を取るときなどに用いた。阿伝は眉間への一撃により
観念し、押し付けられた地面に念仏を唱え始め、骨を絶つ鈍い音ともに消え入った。
日本の斬首刑の話のついでに辞世の句をちょっと。辞世の句というと切腹のときに残すものというイメ
ージがあるかもしれないが、そういうものでもないらしい。「世を辞する」わけなので、死ぬときは誰でも詠
んだものらしい。しかしここは「斬首」をメインに書いているのだから、斬首・切腹のときに詠んだものをあ
げる事にしよう。
よく知られているのは『忠臣蔵』の浅野内匠頭の辞世、
風誘う花よりも猶我はまた春の名残をいかにとやせん
でも仇を討った大石内藏助の辞世は結構知られていない。
あらうれし想いは晴れる身は捨つる心の月に懸かる雲なし
主の古歌の引き写しに比べて、元禄の軽きに拠った滑稽で秀逸な作である。
辞世を詠んだのは何も武士ばかりではない。庶民、それも盗賊すら詠んでいる(当時のヨーロッパでは
考えられない文化レベルである。さすが18世紀に識字率80%以上の国。開国後、領事達が一番驚いたの
は路上生活者が文字が読めることであったという。)。
窃盗で捕まった亀太郎という男は、十両盗んだので打ち首獄門と決まった。土壇場で亀太郎は、
万年も生きよと付けし亀太郎たった十りょ(十両)で首がすっぽん
と詠んでみせた。感心した役人がその晒し首にこの歌を書き付けて札に下げた、とも伝えられる。
また名高い盗賊「鼠小僧次郎吉」は実在の人物で、物語で語られるような「義賊」ではなく、どちらかと
いうと「知能犯」であったらしい。もとは三味線の師匠の家に生まれ、自らも教えるほど上手かったが、生
来の手先の器用さからだんだんその道に逸れてしまったらしい。身軽とはいえない小太りの男で、商家
や武家の家を狙ったのは物語と一緒なのだが、理由は「懲悪」ではなく「手薄で入りやすい」からだとい
う。この次郎吉も捕まり市中引き回しのうえ打ち首獄門が決まった。このとき詠んだのが、
三味線の糸より細き我が命ひき回されてあとはぷっつり
の一句。いやいや、こちらの道で食っていけたのではないだろうか。
「Behold the head of a traitor !(見よ反逆者の梟首を)」
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