科学の発展には無くてはならなかった、中世の暗部「錬金術」。錬金術師たちは自らの発見を他者に
知られないよう、仲間内だけで解かる記号を用いてその製法を記した。そのひとつに「ウロボロスの環」
がある。ウロボロスは神話に出てくる蛇に似た怪物で、一ないし二匹が互いの尾を咥えた「環」で描かれ
る。頭(始まり)が尾(終わり)を飲み込むのは、終わりなき「永遠・無限」を表わしたものらしいが、それが
何の意味を持つのかは不明瞭で、秘中の秘であるらしい。
ではなぜ蛇(ウロボロス)なのか。これは俗説からきていると思われる。蛇は一度口にしたものは吐き
出さない。ゆえに蛇に尾を咥えさせれば、それを飲み込み続けるであろう。また蛇のうろこは粗いので吐
き出そうにも鱗が引っ掛かり吐き出せない。さらに蛇は獲物を丸呑みにするので、身を食い続ける蛇は
途中で噛み切る事が出来ず、最後には毬状になってしまう。なんとも馬鹿馬鹿しいが、つい最近まで信じ
られていた話である。
二匹の蛇という点では、「カドゥケウスの杖」も似ているが、これは意味がまったく違う。これはギリシア
神話のヘルメス(ローマ神話のマーキュリー)の手に握られた、杖に二匹の蛇が二重螺旋を描き絡みつ
いた形のものである。(ちなみに、錬金術ではこれを水銀の記号としていた。ヘルメス=水星=水銀の連
想。不思議と東洋でも水星と水銀を結ぶ考えがあるらしく、辰星(水星)と辰砂(水銀の化合物)のように
「辰」で表される。もっとも、こう呼ばれるようになったのは、西洋からの科学が伝わった江戸期のことか
もしれない。)この杖は「知恵・英知」と与えるものとして、ゼウスの使者たるヘルメスが持ったのである。
蛇と知恵、『旧約聖書』の「楽園追放」の中にもこの影がちらついていますが。「カドゥケウスの杖」は後に
アスクレピオス(へびつかい座。医療の神で死人までも蘇らせた事に怒ったゼウスにより、雷火に焼かれ
て死ぬ。)の持つ蛇の絡む杖「蛇杖」と混同され、「医学」の象徴とされてしまう(「蛇杖」はアメリカの救急
車に描かれている。これには絡まる蛇は一匹のみである。)。もとより「生命」の象徴であった蛇の絡む杖
には、「再生」の意味合いがあったのであろう。
『出エジプト記』には以下のような話がある。
神の声を信じないファラオの御前にあらわれた預言者モーセは、兄アロンに「杖を投げよ」と神の言葉を
伝えた。アロンが前に杖を投げ打つと、杖は蛇となった。するとファラオも博士と魔術師を呼び寄せて同
じ様に蛇を出させた。が、アロンの杖は、彼等の杖をことごとく飲み込んでしまった。
杖が蛇に変化するという話。蛇が蛇を飲み込んでいく、前記の「ウロボロスの環」にも重ならないわけで
もない。終わりのない繰り返し、「輪廻」の考えに近い。
この後に注目するべき話がある。
エジプトを脱出したモーセとその一行は荒野をさまよっていた。ここには神の与えた「マナ」しか食べ物が
なく、皆、不平を口にしていた。これに怒られた神は「燃える蛇」を送り、この者たちをかみ殺させた。生き
残った者たちはモーセに謝罪し、神に許しを乞うよう頼んだ。モーセが神に祈ると答えて曰く、「あなたが
燃える蛇を作り、柱にかけなさい。蛇に噛まれたものは、これを見るときには生きる。」と。早速モーセは
青銅の蛇を作り、柱にかけると、蛇に噛まれてもこれを見たのもは生きた。
これも「再生」の意味を負っている。
これほど蛇に生命のイメージを重ねるのは、蛇が脱皮することを再生のシンボルとみたためであろう。
日本で毛虫を「常世虫」として信仰したことにより、朝廷から弾圧を受けた駿河の女の話が『続日本紀』に
あるらしいが、これも毛虫から蛹、蝶への変様が『再生』のイメージとつながったためである。
中国創世神話に出てくる「伏羲(ふっき)」と「女(女+咼 か)(じょか)」の二神。兄妹であり夫婦でもあっ
たこの二柱の神は、互いに上半身が人間、下半身が蛇であった。伏羲は矩(コンパス)を女(女+咼)は
規(直角定規)を手に持ち、尾の部分を絡めた姿で描かれていることが多い。つまり、中国の陰陽思想を
如実に表した姿で描かれているのだ。
まず、伏羲と女(女+咼)は男女、陽と陰である。これが絡まっているということは、混沌の一極の状態か
ら、渦を巻いて陰陽の二極が生じたことを表している。それが規矩を手にしているのは「方円(万物の
基)」をこれから創造することを象徴する。伏羲が後に八卦を考案したり、人を創造すること、女(女+咼)
が五色の石をこね天の破れを繕うなどはこのためである。(この二柱に神農を加え「三皇」と称することも
ある。三は万物を生ずる数字、「縦+横+高さ」からなる三次元との絡みを考えると、創生には三柱をたて
るものなのか?)
洋の東西を問わず、蛇は国土創生には無くてはならない存在らしい。「宇宙卵」。この世界はこの卵か
ら生まれたという思想が、各地にある。それを生んだのは何か、という段になってさまざまな違いが出てく
るのだが、圧倒的に多いのは蛇である。ギリシア神話のオピオンしかり、ヒンドゥー教神秘主義しかり、そ
してインカしかり。
世界の生まれる以前にあるのはカオス。古代中国ではこのカオスを神格化した。その名を混沌という。
形無く色無く、可視することは出来ない存在であった。ある日、三皇の一人、神農がこの混沌に七竅(し
ちきょう 人の顔にある七つの穴)の無いことを不憫に思い、その顔(とおぼしきところ)に穴をうがった。
ところが、穴があいたとたんに混沌は死んで(消えて)しまった。つまり、混沌とはなにものの形も無いこと
により「混沌」であったのに、穴のある「形あるもの」になったとたんに混沌でなくなってしまったために消
滅してしまったのである。ちなみに『古事記』の「くらげなすただよえるとき」の記述は日本版「混沌」を表し
た言葉である。
大日如来をご覧になったことがおありだろうか。宝冠を戴き、結跏趺坐したうえで、胸の前で印を結ぶ。
この印が実に面白い。
まず両手を握り、人差し指を立てる。そして、左の人差し指を右手の結んだ部分に差し込む。すると左
手の指先が右手の握りからのぞく。これを押さえるように右手の人差し指を折るのだ(解かりづらいな)。
とにかくこのような印を結んでいる。なぜこのような話をしたかといえば、これが混沌から生じた二つの
気、陰陽の流れを表している形なのである。つまり左手の人差し指は「上昇する陽の気」を、右手の人差
し指は「下降する陰の気」を示す。同様に握られた左手の親指は「左旋しながら上昇する陽の気」、右手
の親指は「右旋しながら上昇する陽の気」、左手の中指・薬指と小指は「右旋しながら下降する陰の気」、
右手の中指・薬指と小指は「左旋しながら下降する陰の気」となる(ちょっとしつこくなりました。御免なさ
い。)。
大日如来は無論、太陽神を表す。太陽は朝、東から昇り中空を通り西へと沈む。夜を経てまた東から
現れるところから、「再生」のシンボルでもあった。この再生のシンボルが陰陽の流れを表す印相を表し
ていることは、「輪廻」あるいは無限のくり返しを指していると考えられる。
仏像の話が出たので、ついでながら虚空蔵菩薩の話をひとつ。虚空とはこの世一切を取り巻くものの
こと。あるいは混沌。虚空蔵菩薩は諸界の知恵(仏教では智慧)をその身に蔵する。ゆえに虚空蔵とい
う。この仏は丑寅年生まれの人の守護仏である。丑寅、鬼門にして陽の芽生え、永遠にめぐる陰陽の始
まりに、無限の広がりを内包する仏は配される。(すべての話がここにおさまってしまった。ではとりあえ
ず一巻の終わり。残りは次回に…)
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