今も根強い人気のある作家、泉鏡花。彼の作品には不思議な当て字が多く現れてくる。吃驚(びっく
り)、莞爾(にっこり)などは他の作家も使うが、天窓(あたま)、翻然(ひらり)などはルビがなければ読もう
としても読めない。また文字が気に入らないと音の通じるものに変えてしまう。
鏡花は「豆腐」をあえて「豆府」と書いた。理由は「腐」という字が嫌いだから。「豆腐」ばかりではなく、実
際にあの膨大な鏡花作品群に「腐」の字はないらしい。なぜそこまで「腐」の字を嫌ったのか。実は鏡花
は極度の潔癖症であった。
幼い頃鏡花は結核を患ったことから「細菌恐怖症」となり、以来病的なまでにこれを遠ざけた。家内は
塵ひとつなく掃き清められ、外出時にはアルコールをしみ込ませた脱脂綿を持ち歩き、ことあるごとに触
れるものすべてを拭いていたという。またタバコ好きの鏡花は吸い口用キャップなるものを発明し、口か
らタバコをはずすとその吸い口に筒状のキャップをはめ、細菌の付着を防いだ。これを見ていた人が、
そのすばやさに感嘆したほどである。ここまでくると病的というより狂気に近い。無論、毎日の生活に不
自由をきたしていたが、なにより一番の問題は食事であった。
作品には必ず食べ物の話が出てくるほど、鏡花は食道楽であった。『高野聖』の僧侶の弁当、『夜叉ヶ
池』の奥さんの鴫焼き、煮売り屋の鰊の煮びたし焼きどうふ、『眉かくしの霊』の夜食二つ盛のうどん、
『婦系図』の朝ごはん鰺の新切れ、水菓子屋の芭蕉実(ばなな)など挙げればきりがない。こんなに食い
意地が張っている反面、鏡花は信用ある店でないと外食をしようとしなかった。だから食事はもっぱら愛
妻の手料理である。だが、有名になれば講演を頼まれて地方へ行かなければならない事だってある。今
みたいに数時間で着けばいいが、車中一泊などということもある。こうなると弁当を食わねばならない
が、誰が作ったかわからないものは食えないし、奥さんが作ったものといっても時間が経ち過ぎていると
「細菌」が不安である。そこで鏡花は考えた。ある講演旅行中、車中で鏡花が奥さんに目配せをした。す
ると、奥さんはおもむろにアルコールランプを取り出し、列車の中で料理を始めたのである。これには車
掌も驚いて即刻かたずけて貰ったが、やはり鏡花もあきらめられず、のちに数度繰り返しチャレンジして
いる(いずれも未遂)。
鏡花は酒も好きで気心知れた友人たちとよく飲んだらしいが、このときの酒には皆、辟易とさせられて
いる。日本酒の燗の付け方は大雑把にいって「ぬる燗」「熱燗」「煮え燗」とあり、「ひとはだ」をよしとす
る。ところが鏡花の飲む酒は「煮え燗」を通り越し「煮きって」しまうのだ。当時の文壇曰く「泉燗」。これも
細菌恐怖症の所為だといわれる。ゆえにつまみなども「刺身」などはあまりない。あって浅羽の身の透け
るような白身。トロのような油の多いものは中るからと食べません。
鏡花の好み、もうひとつは「銀座木村屋のアンパン」。これは自分で買ってくるほどの大好物で、帰る
早々奥さんに「七輪」を出させ火をおこさせる。ここに袋から箸でつまみ出したアンパンを載せ網焼きに
し、両面をこんがりと焼く。ここまでは奥さんの仕事で、焼けると箸でもって鏡花の前に差し出す。これを
きまって右手の人差し指と親指で挟むと、そのままの格好で周りを侵食していく。そして食べるだけ食べ
ると指でつまんでいた部分をくず入れに放り込むのである。わっ、潔癖の極め付けだな。
「では指についていた細菌をパンと一緒に食べてしまったらどういたしますか。」
鏡花先生、ごもっともです。
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