明治の文明開化の波は日本の文化風習をことごとく排斥し、西洋至上主義のお題目と東洋劣等の意
識を今日、潜在的に持つようになるまで徹底的に浸透させた。これは性においても同じことで、男色、今
で言えば「ホモ」という安直な言葉で集約されてしまう行為も「前近代的な下劣行為」として蔑視するに至っ
た。それまでの日本では実に開放的な、とはいえ性行為であるから秘するところは秘して男色を認めて
いたといえる。それが証拠にこの手の行為になんと呼び名の多いことか!(言語学において、その民族
が使う言語の中にあるひとつの物を指す呼び名が、多ければ多いほど生活に密着していることを表す。
牧羊を生活の中心に置く民族は「羊」を表す言葉が必然と多くなる。「子供の」とか「妊娠した」といった冠
を関さずに単語で呼ぶのである。日本で言えば「羊の肉」というが、英語では「マトン」とか「ラム」とか呼び
分ける、この類のことである。)
では、どのように呼んだのか?まず男色、衆道・若道・陰間・おかま、この辺りは行為自体も指す言葉。
大陸由来でいけば、断袖・竜陽君、なんぞもある。男娼・色子・子供・若衆はその行為者を指す言葉。大
禿はかなり成立が古いと思われる。この手の言葉は黄表紙や赤本など江戸期の文学を仔細に見ればこ
の数倍は出てくる。そしてこの一語一語が違った行為または人物を表しているのだから驚きであると同
時に、風俗文化として市民権を得ていたと認めないわけにはいかない。
「ホモ」を安直といったが、正しくは「ホモセクシャル」であり、異性愛者の「ヘテロセクシャル」と対義をなす
言葉を省略した言葉である。(「ホモ」とは同一・均等のことで、子供の頃「変な名前」と思ったことが一度
はあるであろう「ホモ牛乳」は「ホモジナイズ牛乳」といい、「脂肪球を均一化した」という意味である。)この
言葉は昭和三十年代以降の呼び方であり、この頃から現代に至るまでに同性愛を指す言葉が再び増加
し始めた。きっかけはおそらく『さぶ』や『薔薇族』といった同性愛を扱った雑誌の刊行によるところが大き
いと思われる。
これに先鞭をつけたのが昭和四十三年創刊の雑誌『血と薔薇』である。かのサド裁判で有罪となった
澁澤龍彦の責任編集により五号まで(澁澤は三号までで編集を放棄)出版された雑誌で、『エロティシズ
ムと残酷の綜合研究誌』の名のもと三島由紀夫、稲垣足穂、塚本邦雄、高橋睦郎、種村季弘、松山俊
太郎ら執筆人に加え横尾忠則、金子国義、池田満寿夫、篠山紀信、さらに土方巽、唐十郎といった一級
の文化人を並べた豪華なものであった。同性愛を「薔薇」と言いはじめたのもおそらくはこの雑誌辺りか
ら起想したのではないだろうか。
言葉は正しく使わなければならない。全体を覆うもの、これが「ホモ・ホモセクシャル」である。この中に
細分化された世界が無数に存在する。
(間違っていたら訂正を願いたいが)「ゲイ」は女装をしない。ゲイの中でも肉体美を特に重視する人を
「さぶ」という。女装をするのはおかまである。ただしすべてのおかまが女装するわけではない。おかまは
男性であることを否定しない。性器切断をし、女として男性に愛されたいと願うのがニューハーフである。
だからといってニューハーフがすべて「性同一性障害」と考えるのは早計である。
しかし、これらの呼称をつけて分類することも蔑視の一端を担っているといえる。差別は「蔑視」とは違
う。一般的に使われている場合はそれを多く含んでいるが、本来は「分類するための記号化」が差別な
のであり、それ自体に悪意はないはずなのだ。だが今は「差蔑」になってしまっているのではないか?
現在、このいわゆる同性間の性行為自体を否定する国は、アラブ諸国(イスラム教で「ソドミー」という罪
になり、犯すといまだに斬首となる。詳しくは「斬首の快楽再び」の項目で。)とアジアの一部に存在してい
るが、黙認しているというところが大勢である。欧州ではこれを公認している国さえあるというのに、日本
では至上であったはずの西洋に追従出来ず二の足を踏んでいる。やはり世間体を重んずる国民性が足
枷となっているとしか言いようがない。
「世の中に使える者はレズとオカマしかいないのよ!!ノーマルなんてボーっとしてるし、覚えた教養も生か
せないし、最低限の自分のセンスさえ守れない能無しなのよ!!文化の上で世の中を支配しているのはオ
カマとレズだってどーしてわからないの?」(岡野玲子 『両国花錦闘士』)
前漢の哀帝は二十歳で即位した青年皇帝であった。若さに任せ釈迦力に政治を執り行っていたが、こ
ういう手合いには悪い虫が甘い汁を求め寄り集まってくる。案の定、哀帝はいい様にあしらわれ、傀儡化
していった。そんな皇帝が一人の美少年を愛するようになった。名を董賢という。愛は盲目というが、あま
りにも愛していたためこの者をなんと大司馬という宰相以上の要職につけ、自らの墓(生前から造る「寿
陵」というもの)の脇に董賢のための墓まで築かせた。
ある日、哀帝と董賢が共に午睡の床についていた。哀帝が目覚めると董賢はいまだ夢の中、皇帝の
衣の袖を枕に寝入っていた。哀帝は起こしてはかわいそうと思い、この袖を刀で切り落としたという。これ
が「断袖」の始まりである。
この哀帝は紀元前一年に亡くなった。在位六年。このとき董賢は殉死したという。
哀帝の死後七年で前漢は王莽の手により滅亡する。
日本の男色文化は戦国末期から江戸初頭に爛熟期を迎える。この時代に衆道および若道が武士団
のひとつの風俗として定着化したことと、乱世の終わりが「首ひとつで城持ちに成り上がる」という夢物語
が消え果てやり場のないエネルギーが若者層に満ち満ちていたことが、原因であると見られる。若者は
「傾く」ことでこのエネルギーを発散させ、戦国を思うことしか出来なかったのである。この異装の者たち
は「かぶき者」と呼ばれ、当時の風俗の最先端であった。派手な小袖、引きずるような長太刀を手挟み、
華奢を競い喧嘩に明け暮れる。
また彼らは性的にも奔放さをみせる。当時、出雲阿国が「歌舞伎」を始めたことが知られているが、こ
の歌舞伎は性的な目的を持った、いわゆる「顔見世」の意味合いがあり、気に入った踊り手を見物客が
あとで呼び出すのである。ゆえに幕府(江戸開府と歌舞伎の誕生は時を同じくしている)はこの女歌舞伎
を禁止した。そこで誕生したのが「若衆歌舞伎」であり、システムは以前とまったく変わらず、ただ若道に
変わっただけであった。かぶき者は時に売る側になりあるいは買う側となった。だがこれも風紀を乱すと
して禁令が発布された。そこで生まれたのが「野郎歌舞伎」。現在の歌舞伎である。(しかし、ここまで変
化をした歌舞伎もやはり当初は「男色」の名残が残っていたらしい。今は知りません。)
「・・・五十四歳まで。たはむれし女、三千七百四十二人。少人のもてあそび。七百二十五人、手日記に
しる。井筒によりて。うないこより。已來、腎水を。かえほして。さても命は。ある物か」(井原西鶴 『好色
一代男』)
色道に二道あり。
ドラッグクィーンは「異装の者」、ジェンダー社会のあだ花である。
ドラッグとは「drug(薬)」ではなく「drag(引きずる)」の意味で、長く裾を引きずる姿からきているという。
女であること、男であること、これを超越している彼ら(彼女らか?)にとって、ジェンダーなどというものは
鼻でふんてなもの。このdragのなかにジェンダー支持者は「邪魔者」という二重の意味を持たせて皮肉っ
ているようである。(まるで江戸のかぶき者。かぶくとは「逸脱する」という意味と「狂った」という意味を含
ませている)
折口信夫は男色の気があったといわれる。教え子の藤井春美を自宅に住まわせ、養子にむかえては
いるが事実として三島由紀夫ほどの明確さがない。どちらかといえば「女嫌いであった」というのが正しそ
うである。生涯独身というのはともかくとして、折口はけして女の入った風呂には入らなかったというし、自
宅には女性用の厠をあつらえ普段使いの厠には絶対入らせなかった。また母を極度に嫌った。折口に
よれば、「本当の母は大好きなのだが、今の母だと言っている者は嫌いだ」という。つまり、真の母は別
にいて折口を育てた母は母を騙る者だというのだ。この思い込みが女性嫌いの発端であり、男色である
という幻想(に近いもの)を生み出していると思われる。
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