2003年02月01日

空ろなその目はなにを見る

 中国は春秋から戦国の時代へ。晋の国では六卿が競い、その筆頭と目されていたのが智伯であった。 六卿の一人趙襄子は智伯に滅ぼされる前にと、隣国の韓・魏を巻き込み乾坤一擲のクーデターを起こ し、とうとう智伯を死に追いやった。一族郎党はことごとく捕らえられ、厳罰の処せられた。国士として智 伯に仕えていた予譲もその一人であったが、隙を見て山中に逃れ、
「士は己を知る者のために死し、女は己を喜ぶ者のために容づくる」
と、主の仇・趙襄子を討つ決意をした。
 その頃、襄子はこの事変後の論功と処理に追われていたが、その合間に智伯の遺骸から頭蓋骨を取 り出すと、これで杯を作らせた。いわゆる「髑髏盃」である。(敵将の髑髏で盃を作るのは北方異民族の 大月氏などの風習である。)
 予譲は名を変え、襄子の屋敷に潜り込むため左官に身をやつし、討つ機会をうかがった。待つこと数 日、ちょうど厠の壁塗りのとき襄子が小用に立った。予譲の匕首が襄子に投げつけられる、が当たらず その場で捕えられてしまう。狙ったものが予譲と知れると襄子は、
「主家に後継ぎなく再興叶わぬのに、智伯が仇を討とうというのは称うる義の人である。」
と釈放した。
 しかし予譲は諦めない。顔を漆でかぶれさせ、鉱毒を飲み声を変え、家人にも知れないほど身を変じ た。そして今度は乞食になり、橋の下で襄子の隙をうかがった。好機は訪れた。車に乗った襄子が橋に 向かってやってきたのだ。だが、襄子は胸騒ぎを覚え橋のたもとに車を止めさせる。襄子暗殺をまたして も失敗した予譲は車前に飛び出し、またしても捕えられてしまう。
 襄子は訊ねた。
「お前は先に仕えた范氏も中行氏も智伯に滅ぼされた。しかし敵を討つどころか金を差し出し智伯に仕 えた。今度はわしが智伯を殺した。なぜ智伯の時ばかりは執念深く復讐しようとするのか。」と。
 予譲は答えた。
「中行氏も仲氏も私を下働きとして扱いました。故に下働きの礼を尽したのです。智伯は国士をもって私 を遇してくれました。よって私も国士としてこれに報いるのです」と。
襄子は感嘆した。
「予譲よ。一度ならず二度までもこの命を狙ったのだ。許すわけには参らぬが、最期に望みがあれば聞 き届けよう。」
「敵に一太刀とて浴びせられなくば、主に顔向けが出来ません。君の衣服を頂戴したい。」
 襄子は、上着を予譲に与えた。予譲の剣は三たびこれに斬りつけると、
「これで主に顔向けが出来る。」
といって喉を掻き切って自害した。
『戦国策』ではこの物語の最後をこう締めくくっている。
「衣尽く出血す。」と。


 織田信長は小谷城攻略が成ると、敵将朝倉義景・浅井久政・長政親子の三名の首級を前に罵詈雑言 を浴びせ、それでも飽き足らず、肉を剥ぎ髑髏とすると箔濃(はくだみ 薄く漆をかけ、金箔を張る)にし て、三つの盃を作った。この話はよく知られているが、どうやら後世の作り話らしい。
『信長公記』によれば、三人の髑髏を箔濃にしたのは間違いないらしいが、これをまえに酒宴を開いただ けで盃のさの字もない。ではなぜ髑髏にしたのか?これを作家藤巻一保氏は箔濃にしたのは、盃を作る ためではなく、真言立川流の秘法ダキニ法を行うためではないかと推測している。なんだかんだいってた だの憂さ晴らしであったと思うのだが…。
 ともかくこの話は暴君信長には嵌り過ぎていて、「真実」としておいたほうがいいかもしれない。


 ついでにもう一人、江戸の俳人高野蘭亭のことについて触れよう。この人は十七にして全盲となった が、荻生徂徠に見出されてからは詩を学び、書を能くし俳諧に長けた文人である。また上戸としても知ら れ、酒器を集め自慢するのを楽しみとしていた。父も名のある才人で、蘭亭の収集癖は父の血であっ た。
 盲になるとある感覚が鋭くなるそうである。塙保己一が博覧強記の頭脳を持ったように、蘭亭も記憶力 が異常によかったという。彼の記憶の山の中に、まだ自分も手に入れていない「髑髏盃」という不思議な 響きをもつ酒器があった。どうしても手に入れたい。しかし誰の髑髏でもよいわけではない。作るなら名 のある武将の髑髏がよいと、極楽寺にあるといわれる南朝方の武将大館次郎宗氏(新田義貞の一族) の墓を暴いて、髑髏を盗み出すことにした。
 仔細な調査から宗氏の髑髏を掘り出すと、これを箔濃にして見事盃とした。天下の奇盃を手に入れご 満悦の蘭亭であったが、その一年後奇病に罹り死んでしまう。(澁澤龍彦 『髑髏盃』)


 海賊の旗、「黒地に髑髏と骨のぶっ違い」。これを初めて使用したといわれるのは1700年、フランスの 海賊エマニュエル・ウィンがセント・ジャゴ島沖でイギリス海軍と交戦した時である。本来、海賊船も自ら の本拠地の旗(国旗や市旗)を掲げたのだが、これと並べて一色に染められた旗を靡かせていたらし い。赤なら「徹底抗戦」を、黒なら「抵抗しなければ命はとらない」など。つまり、あの黒地は「抵抗するな よ、したらこうなる(髑髏=死)ぞ。」という意味があったのである。
 ではぶっ違いになっている骨はと言うと、キリスト教の十字架を模倣したものだといわれている。教徒を 運ぶ船を装ったとも言われるがよくは分からない。
 この髑髏旗はJolly Rogerと呼ばれる。「愉快な仲間」とでも訳せばよいだろうか。何で愉快なのかという と、フランス語の血を示す「jolie rouge(嫌らしい赤)」が転訛したらしい。この赤は例の赤い旗のことをさし ている。その後Jolly Rogerに変わったのだ。ディズニーの『ピーターパン』のなかにも「楽しみ多い僕らの 海賊稼業」と歌われている。
 だが、海賊といえばこれと思われているこの旗も、バーソロミュー・ロバーツらが1700年から1723年 のあいだだけしか使用しなかったそうである。


 泰西絵画のなかには、しばしば髑髏が描かれる。キリスト教の寓意をもって見れば、髑髏は直接的に は死を、そこから起想されるはかなさ・もろさの象徴でもある。聖フランチェスコの肖像画には彼のエンブ レムである髑髏が描かれていることが多い。年老いた姿と髑髏は生のはかなさと死への恐怖とを表して いるのだ。同様にマグダラのマリアの肖像にも髑髏が描かれていることがある(元娼婦とされた彼女は、 改宗者の守護聖人にしてシチリアの守護者とされる。)。無論マリアのエンブレムであるため描かれてい るという理由もある。しかしそればかりではなく、この組み合わせ「若い娘と髑髏」の組み合わせは中世 以降盛んに宣言される「memento mori (メメント・モリ 死を忘る勿れ)」にほかならない。
 これは万国共通のテーマなので日本でも容易に同一テーマを探すことが出来る。たとえば『小町九相 図』。若い娘が死して屍を野に晒し、白骨となり土に帰るまでを九つの絵で見せるもので、説教などでよく 使われる。あるいは一向宗中興の祖蓮如の言葉「されば朝に紅顔ありて、夕べには白骨となれる身な り」などもそのものではないか。
 ひとつ有名な話を出そう。室町の禅僧一休宗純和尚の話である。正月の元旦。みな新年に浮かれわ いわいと騒いで回っている。そこへ一休和尚が竹竿の先に髑髏を括りつけ、「御用心。御用心。」と門々 を廻った。これに腹を立てた町人が、
「めでたい正月になんと縁起でもない事をするのだ。」
と、一休和尚に食って掛かった。これに答えて、
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
と詠んだとか。(いづ方の宗教も分かりやすい象徴として髑髏を使用したのだ。そういえばキリストの処刑 地ゴルゴダの丘は「髑髏の丘」の意味だっけ。京都の埋葬地「六波羅」も「髑髏原」の転訛らしいし、なん か即物的…)


 1924年、中米英領ホンジュラス(当時)のペリーズ遺跡で、ミッチェルホッジス(Mitchell hegis 1882- 1959)という冒険家(自称)が奇怪なものを発見した。古代マヤ王国で制作されたとされる水晶製の髑髏 である。高さ25センチ、重さ約5.4キロ、俗に山水晶と呼ばれるもので出来ていて、発掘状況から約3600 年前のものと断定された。
 この山水晶、とにかく硬い。モース硬度計で硬度7をしめすほど硬いらしい。なのにその肌は実に滑ら かで、傷ひとつない。古代マヤには回転させて切削する道具はなかったとされる。となればすべてを細か い砂で磨り上げるほかないのである。無論すべてが手作業である。もしそうした加工を行ったのなら、毎 日続けて約150年以上かかるとも言われている。そんな馬鹿な話はない。ではこれはどうやって加工され た物なのだろうか?
 こういった歴史的に存在が不可能な事物のことをオーパーツ(Oupart=Out of Place Artifactsの略)と いう。この水晶髑髏もオーパーツなのか?実を言えばこの髑髏「発見」は大嘘である可能性が高い。こ の髑髏発見には一人の女性が絡んでいる。ホッジスの養女アンナ(1910−  )である。1924年の発掘で この髑髏を発見したのは養父に同行していたアンナであるとされ、その日が17歳の誕生日であったと本 人が語っている。ところが、当のホッジスはこの髑髏発掘については晩年に一度話したきりで、1959年に 亡くなるまで多くを語らなかった。今日、この髑髏の発掘秘話として流布しているのは、そのほとんどがア ンナの語ったものなのである。それもホッジスが亡くなってから、途端に話が独り歩きを始め、マスコミは アンナの語る手柄話を面白がって書きたてた。ところがもうすでにこの話は破綻している。1924年に、 1910年生まれのアンナは17歳にはなれない。
 また、この髑髏は、ホッジスが骨董商から買い取ったという話があるのだ。それも「発見」の年からかな り後のことである。この髑髏は発見した24年には公表されず、その存在が知られるようになったのは23 年も経った1947年、写真発表によってであった。だがそれ以前、1943年にサザビーズの売り立てに「天 然の山水晶をくりぬいて作られた髑髏」が出たことがあった。これがホッジスの「発見した髑髏」のサイズ はまったく同一であったというのだ。同じものが二つ存在したのではない。つまり、1924年にホッジスは髑 髏を発見していなかったのだ。この水晶髑髏を手に入れたのは1943〜47年にかけてのことで、古代マヤ のものであるというのもでっち上げだったのだ。(某ゴッドハンドの似非考古学者のように地べたに埋め たのではない。はなっから中米に行ってなかったのだ!)
 だが待てよ、こう考えるとホッジスがうそをつこうとしたのではなく、アンナのうそにつき合わされたという のが正しそうである。うそを一度つくと際限なくつき続けなければ成らなくなる。はじめはちょっとした功名 心からついたうそだったかもしれないが、ここまでくるとアンナにはどうにも出来なくなってしまったのだろ う。
 ここまできて、水晶髑髏を贋物といわないでほしい。確かに発掘は疑わしい。だが、1943年まで伝世品 として人の手を渡ってきているのである。鉱物の性格上年代測定は難しいらしいが、奇妙な事由(下方か ら光を当てると両眼が光るなど)解けない謎もまだ多い。そういう意味でもこれは立派なオーパーツなの である。




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