2003年07月08日

仕舞った、投げた、死んだ。  −偽・雲根誌−

 栃木県那須郡那須町にある殺生石をご存知であろうか。松尾芭蕉が『奥の細道』の中で、
  石の香や夏草あかく露あつし
と詠んだこの旧蹟は、長い長い物語の終着点なのである。
 昔中国が殷と呼ばれていた時代、王の紂は智に力に優れたが、傲慢不遜であった。この王の下に諸 侯の蘇護という者からひとりの女が献じられた。名を妲己という。実はこの妲己、すでに本人はこの世に なく、白面金毛九尾の狐が殺したうえ妲己に化けたものであった。そうとは知らず紂王は色香に溺れ、妲 己の残忍な願いを次々に聞き入れてしまう。皇后・寵姫・忠臣・臣民をも殺害し、国土を血に染めたので ある。そして有名な周の武王に誅せられるに至るのであるが、妲己は未然にこれを感じとり本性を現し、 逃亡して今度は印度に華陽夫人となって現れるのである。マダガ国の斑足王のもとに現れた夫人は、紂 王のときのように百国の王を殺させ仏僧を殺害し悪行の限りを尽くすが、正体がばれてとうとう辺境の日 本に流れ着く。
 鳥羽天皇が落飾されて法皇となられ、院にさがられていたころのこと。安倍泰成が院に『怪しき光あり』 と上奏するところから日本での悲劇は始まる。陰陽師にも分からないものを、『ぬえ』のせいと断言したも のがいた。院に仕える女御、玉藻の前である。そう、この玉藻の前こそ三国伝来の九尾の狐が化けた 「美人」であった。「玉藻の前はあやかしではないか」と疑いはじめた泰成を、玉藻の前は讒言して牢に繋 いで亡き者にしようとするが、それが災いし泰成に本性を見破れれてしまい、追っ手を逃れ那須が原に 逃げ込んだ。朝廷は三浦介と上総介に命じこれを征伐、九尾の狐を恨み言をつらつら述べて大石と化し た。それ以来、この近くによるだけで人も鳥獣もばたばたと倒れ死んでしまうため、近隣のものは「殺生 石」と呼んで恐れて近寄ろうともしなかった。これを会津示現寺の源翁和尚が封じ、槌でもって粉々に砕 いてしまったのでようやくこの妖狐の怪奇は鎮まった。
 現在この殺生石は史跡となり、和尚の砕いた石はいまも残っている。この和尚が使った槌はその法名 を貰い、「げんのう(玄翁とも書く)」と呼ばれ金づちの別名として残っている。


 日本で最初にお札の肖像画に描かれた女性は誰でしょう。答えは神功皇后。なぜ採用されたかといえ ば、征韓論の延長からなんですね。この神功皇后、『日本書紀』に出てくる神話と現実のはざまにいる 「母性とシャーマンの寄せ集め」みたいな人物なんです。この神功皇后の行ったといわれているのが「三 韓征伐」、つまり韓国遠征なわけです。「日本書紀」ができた頃も、このお札が出来た頃も、日本は韓国 にちょっかいを出していた時代ですから、神功皇后に負うところが多いにあったのでしょう。
 この皇后、この三韓征伐のとき臨月をむかえていました(なら行くなよ!)。そこで皇后は石を腰に巻い た裳の間に挟むと、「新羅より帰るまで生まれるな」と呪をします。そして征韓成って、筑紫に帰り着くや 否や応神天皇を産み落とします。この石を世に「鎮懐石(あるいは月延石・児饗〈こふ〉)」と呼び、九州各 地の神社に点在しています。
 でもこれって不思議ですよ。夫の仲哀天皇は早世(っていうより皇后が殺しちゃってますね、これは)し て、応神天皇が生まれるまでに間があるので、これを何とかつなげようという意図が見られます。まさか 天皇を「不倫の子」ですとはいえませんからね。
 話戻します。この鎮懐石、今もこれに近い風習が残っている地域があります。たとえば岩田帯の間に 「(トンネルや山から)落ちてきた石」を挟むとか、神社から貰ってきた石を挟んで、無事生まれたら返すと か。いま石を挟むのは石の硬さ、いわゆる石凝姫と此花佐久也姫の話(長寿と短命)のような意味と、 「通る」「落ちる」といった安産の意味があるのですが、本来的には「温石(おんじゃく)」の機能があったの ではないでしょうか。温石はいわゆるカイロで、おなかを冷やさないように入れたのだと思われます(実際 温石は弥生時代の遺跡からも発掘されています。)。


 兵士たちは空を見上げて口々に叫んだ。
「ゴリアテだ。」…
 これを聞いて宮崎アニメを思い出した方。かなり冒されています。
 ゴリアテとは『旧約聖書 サムエル記』に出てくるペリシテ人の大男の名である。紀元前1025年ごろ、ペ リシテの軍隊はイスラエルに侵攻、エフェス・ダミムで両軍が対峙して今にも戦闘が開始されるときであっ た。戦力に勝るペリシテ軍は最前線にティタン族の末裔ではないかと思うほどの大男、ゴリアテを立た せ、イスラエル軍を威圧していた。これに対し進み出てきたのは年端もいかない少年であった。そのなり は羊飼いの杖に軽装、腰には小石を入れた皮袋を下げ、投石紐を結び付けていた。ペリシテ軍はどっと 笑い声を上げた。重装備のゴリアテも半ば呆れ顔に嘲笑し、一様は少年に向かい身構えた。少年も袋に 手を突っ込み小石を取り出すと、ゴリアテとの間合いを詰め、射程内に駆け寄った。一撃であった。ティタ ンの末裔は眉間に礫を食らうと、そのまま前のめりにどうと倒れた。
 このことに呆気に取られたペリシテ軍は戦う以前に戦意を殺がれ大敗を喫した。この少年はのちにイ スラエルの王となるダビデその人である。


「花のようなる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退きたり鹿児島へ」
 大阪夏の陣に敗れた豊臣方は参謀であった真田幸村に連れられ、鹿児島の島津に身を寄せた、こん な風に民謡では歌われているそうだ。真田がどれほど慕われていたかがよく分かる。
 真田信繁(幸村)は夏の陣の5月7日、家康本陣を侵しながらもいま一合及ばず、非業の死を遂げる。 長男大助は秀頼を最期まで警護して自刃。十五歳の命を散らした。これで徳川の怨敵、信繁の血が途 絶えたかというとそうではなかった。
 女の子が五人、それと大助の下に次男で大八という男の子一人がいた。徳川にしてみれば危険極まり ないこの大八、早く捕らえて後憂を絶ちたいところ。だがこの大八、なんと八歳にして急逝してしまったの だ。
 時は元和六(1620)年5月5日、京都の河原で行なわれていた印地打ちを観覧中の出来事であった。 対岸から打たれた礫が逸れ、あろうことか大八の顔に当たった。慌てた家中が助け起したがよほど当た り所が悪かったと見えて絶命。父の恨みを晴らすどころか礫で自分が死んでしまったのだ。
 ところが話はこれでは終わらない。その二十年後の寛永十七(1640)年、仙台伊達藩にある男の家系 調査が命じられた。男の名は真田四朗兵衛守信。死んだはずの真田大八その人である。幕府は戦後三 十年が経とうというに未だに落人探しをおこなっていたのだ。それまでは藩祖伊達政宗が存命であり、下 手に手出しできなかったが、その四年前の寛永十三年に薨したことから今回の探索となったらしい。
 仙台藩は「この者は真田信尹(信繁のおじ 徳川方に属し、番方を勤めた)の孫である」と答えた。だ が、この返答にも不信を拭えない幕府の目をくらますため、養い先の片倉姓を名乗らせることでいちよう の決着を見た。
 さてこれまでは表向きの流れ。裏を読んでいくとそのあやが見えてくる。
 大阪夏の陣のとき、信繁闘死の前日のこと、世に「道明寺の戦い」と呼ばれるこのいくさ最大の激突が あった。豊臣方の主力は後藤基次軍、徳川方の主力は伊達政宗軍であった。この時真田信繁軍は濃霧 のため後藤軍に追いつけず、戦線に加わることが出来なかった。後藤基次は戦死、伊達軍の先鋒片倉 小十郎重長は追撃の途中で真田軍にばったり出くわした。激しい戦闘の中、真田の猛攻を片倉重長は わずかな手勢で防ぎとめた。その夜のこと。片倉重長のもとに信繁三女の阿梅が届けられた。この真意 はよく分かっていない。なぜ一人だけであったのか、憶測として、よき敵であったので、明日をも知れぬ 我が身の代わりに養ってくれるよう送ったとか、以前屋敷が隣りあわせでよく知っていたためとか言われ ているが、どうもしっくりこない。ともかくこの娘一人を送ったことにより、戦後片倉家は真田の遺児や遺 臣たちを保護することに努めている。阿梅のほか三人の娘、二男大八は片倉家に養われ、千石を分領 させる厚遇を得ている。阿梅が片倉重長の室となると、さらに遇され、真田四朗兵衛守信を名乗り仙台 藩士となっていた。そんな折の幕府からの詰問であった。
 このあと、守信は死ぬまで真田に復姓は叶わなかったが、その子の代になり藩侯から「構いなし」の沙 汰を受け、真田姓に復したという。


 真田大八の死亡の原因となった印地打ちとはどんなものか。簡単に言ってしまえば石を投げ合ってお こなう一種の模擬戦争である。ゆえに地方によっては石合戦とも言う。この行事は古くは平安後期には おこなわれていたらしく、嘉承元(1106)年に前年から京中で飛礫(つぶて=印地打ち)が流行、あまりに 死傷者が多かったので、禁止令が出たほどだ。戦国期には多くおこなわれ、とくに東海地方では盛ん で、これの技量に優れたものを集めた「印地(衆)」が組織されたほどである。
 この行事の派生はどうやら韓国からのようだ。日本に伝わり、印地は非人の手わざとして発達してい る。「非人」というが、これらの人の多くは山に住む人々で、鬼や天狗として畏怖された「サンカ」も含まれ ていたと思われる。つまり「天狗の石飛礫」は怪奇現象としてばかりでなく、ある意図を持っておこなわれ ていた「警告・威嚇動作」なのだ。
 この行事は五月五日におこなわれる。のちには年がら年中おこなうようになるが、なぜ五月五日か。同 じようなものに「菖蒲打ち」という行事もある。子供たちが菖蒲の葉で作った刀で合戦をおこなう行事であ る。上巳(三月三日)に対し端午は男の子の祭りであり、この日作物の豊作を占ったことも重なり、「模擬 線をおこない勝った地は豊作になる」といった神事的意味があったものと思われる。しかしこの過激さゆ え、江戸中期にはほとんどなくなってしまった。


 いつだったか、テレビで面白い寺の話をしていた。その寺は山の中腹にあり、本堂の裏は切り立った 岩肌も露な崖になっていた。住職がそこまで来ると、「これです」と指差した。よく見ると、風化して滑らか になった岩肌から、なにやら丸いものが出っ張っている。
 何でもこの寺では不思議なことに、住職が死ぬとこの丸い出っ張った石がゴロリと落ちるのだという。そ して新しい住職になると新たに石が出っ張ってくるのだそうだ。崖が石を生むのである。その住職の徳が 高いと大きく薄いと小さくなり、歴代の住職の卵塔にはこの石を使うのが慣わしになっているという。
 最後にインタビュアーが「この石は結構大きいですね」というと、まだ若い住職は照れくさそうに「へへ へ。」と笑っていた。




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