2003年08月14日

“サ”は詐欺師のサ −“F” for fake-

 ロシアの初代ツァーリ(公認皇帝)イヴァン4世(1530-84 雷帝)の死後、後継者選定は混乱を極めた。 この雷帝には三人の後継候補があった。つまり三人の息子、長子イヴァン、次子フョードル、そして庶子 のドミトリーである。三人もいれば問題はなさそうだが、そうではなかった。
 すでに長子のイヴァンは1581年、雷帝と言い争いから杖で撲殺されていてこの世にはなく、次子フョー ドルは病弱で頼りがない。ドミトリーは庶子ということもあり、すでに帝都モスクワにはなく、近隣のウグリ チに領地を与えられ、母とともに隠棲させられていた。父の狂性を帯びた指導力によりまとまっていたロ シアという大国は、後継のいずれにも掌握できようはずもなかった。
 しかし空位にしておくわけにはいかず、次子が即位しフョードル1世となり、生前雷帝が選定していた5 人の後見を置くことにより、政権の空洞化を避けようとした。このことが更なる混乱を招いてしまう。後見 人はそれぞれの思惑から権力闘争を起こし、最終的には後見頭目のイヴァン・シェイスキーと、フョード ルの義兄にして新興貴族のボリス・ゴドゥノフが主導権を争うこととなった。ときまさにタタールのモスクワ 侵攻に揺れる危機的状況、さらに二大貴族の闘争が加わり内憂外患、病弱なフョードルをなお弱らしめ た。ここを期と見たイヴァン・シャイスキーはこの政情不安はボリス・ゴドゥノフの妹、帝后のイリーナが皇 太子を生まないからであると、宮廷からの追放を目論んだが失敗し、逆にゴドゥノフにより当人はおろか 親族郎党を宮廷から駆逐されてしまう。政敵の失策により、ゴドゥノフは政権を完全掌握したのだ。
 さて、このあと心配なのはフョードルに子のないことである。皇帝にもしものことがあれば、後継にはリュ ーリク家に連なるものを民衆は望むであろう。そうすれば庶子ながら、ドミトリーが帝位に就く。そればか りはゴドゥノフは避けたかった。そんな折、1591年ドミトリーは発作による狂乱から胸を突くという変死を 遂げる。これはいかにも出来た話で、ゴドゥノフが毒殺し、のちにでっち上げた作り話であろうと噂され た。
 1598年、フョードル1世は子供を残さずに病死、リョーリク家は断絶した。貴族たちは合議によりゴドゥノ フを帝位に据えることを決定したが、これを再三断っている。彼にしてみれば、崇拝をうける者になること より、それを利用して政治を好き勝手にすることを望んでいたのだ。それでも即位を望む貴族たちの声 に断りきれず、とうとう帝座に据わることとなった。
 長くなったがこれは前置き。ロシアの頂点に立ったゴドゥノフ1世は推薦されたのにもかかわらず人望 が薄く、旧来の大貴族の反感も買っていたため、各地で叛乱の火種を抱えていた。どうにかこれを押さえ 込もうと、恩赦やロシア正教への便宜といったことで民心を掌握しようとしたが、うまくいかない。ゴドゥノフ は即位したことをよほど悔やんだことであろう。1603年、ゴドゥノフの耳に信じられない報告が舞い込んで 来た。ポーランドでドミトリーを名乗る男が現れ、ポーランド王とコサックの援助を受け部隊を率いてモス クワに侵攻してきたのだ。
 死んだはずのドミトリーは実は生きている、こんな噂は以前からあったが、それはあくまでも噂で誰も存 在を確認したものはなかった。それが突如として現れたのだ。火種は煽られて、一気に燃え上がった。 反ゴドゥノフを掲げる貴族はこぞってドミトリーを支持し反旗を翻した。進軍は枯れ野をゆくかのごとく、あ っという間にロシアを縦断した。1604年7月20日、ドミートリー軍は数度の敗戦を経験したものの、モスク ワに入城しゴドゥノフ家を辺境に追いやった。翌年、ゴドゥノフは返り咲きを夢見ながら憤死、ゴドゥノフの 子フョードルがわずか4歳にして即位を宣言した(フョードル2世)が、まもなく殺害された。
 1605年、民衆の熱狂的な歓迎をうけ、ドミトリー1世は即位を宣言する。これでリョーリク家による帝政 が復活する、と誰もが思った…わけではない。一部には「ドミトリーは本物か?」という者がやっぱりい た。ローマ教皇庁もその中の一人で、ドミトリーのロシア皇帝即位を承認しなかった。それを証明するか のように、即位後になんと三人もの「ドミトリー」を名乗る者が現れた。が、いずれも贋物として「ドミトリー 1世」の名の下に処刑されている(うち一人は処刑前に死亡)。
 こんな疑念を抱えつつ、ドミトリーは政治を取り仕切っていくが、その多くは即位に多大な恩恵を蒙った ポーランド王の言いなりであった。またモスクワに駐留していたポーランド兵の乱暴狼藉には民衆の誰も が耐えがたき屈辱を感じていた。このことにもまして、皇帝が民衆の心の支えであるロシア正教からカソ リックに改宗してしまったことが、失意をもたらしたのだろう。1606年、「ポーランド兵から皇帝を救え」と始 まった暴動が、時を経ることで徐々に変質し、いつの間にか「ポーランドに国を売った皇帝に死を」となっ ていた。これを煽動したのは、のちの皇帝ヴァシーリ・シャイスキーであった。ドミトリーは外で起こってい る騒動にいち早く気づいたが、ときすでに遅く、将兵に取り囲まれて一寸刻みにされてしまう。ひとりの将 校が、馬乗りになり、
「お前の本名は」
と訊いたとき、
「朕は皇帝」
と答えたという。(この男、本当の名をグレゴリー・ボグダノヴィッチ・オトレピエフという。もとは修道士であ ったが、いつごろからか「私はドミトリーだ」と思い始め、とうとう妄想と自己が区別つかなくなってしまった らしい。)
 死体は晒されたのち焼却され、灰は埋葬されることもなく、大砲でポーランドに向けて射ち帰された。
 世に「偽ドミトリー1世」と呼ばれた男の去ったあと、ゴドゥノフに追われた一族の生き残りヴァシーリ・シ ャイスキーが皇帝に即位(ヴァシーリ4世)し、またフョードル1世の子を名乗る者がフョードル2世を宣言 するなど、虚実入り混じった帝位争奪戦のなか、再び「ドミトリー」を名乗る者が現れた。
「死んだドミートリーは替え玉で朕が本物である」と現れた「偽ドミトリー2世」は、北部の都市トゥシノに拠 点を置きポーランド、コサック、リトアニアの協力を取り付けた。ヴァシーリ4世はスウェーデンと手を組み 一度は偽ドミトリー2世を退けるが、ポーランドの猛攻に耐え切れず敗走。ドミトリーがモスクワに再び (?)入城しようとした1610年、タタール人のウルーソフにより、あっけなく暗殺されてしまう。(その数ヵ月 後3世が、また一年後に4世が現れたが、いずれも処刑されている。)
 この混乱は1613年、大貴族ミハイル・ロマノフがツァーリに選定され、ロマノフ王朝が成立するまで続い た。
 歴史上に貴種の名を騙る「偽落胤」は数あれど、こんなに短期間にたくさん出ることはないな(最終的に 七八人出て、全員死亡って…。)。権力欲ってすごい…。


 絵空事。よく言いますよね。「あんなの映画の世界だから」とか、「いかにもアニメだね」とか。でもこの 話は本当の話。
 1910年、イギリス海軍ウェイマス港。一本の電報から話は始まる。
  −アビシニア(エチオピア)の皇帝および皇太子が海軍視察にむかった  外務省
 海軍はそんなことは聞いていないというのでてんやわんやの大騒ぎ。礼服を着込み、軍楽隊を調え、い ちようの国賓歓迎の支度を整えた。だが一番の誤算は、この部隊でエチオピアについて唯一通じていた 将兵が、休暇中であったこと。
 その頃ポートランド駅にはお召し列車が到着、皇帝以下六名がウェイマス港へと向かう。皇帝とその侍 従が二名、アビシニア皇女、通訳のカウフマン、それに英国外務省代表ハーバード・チョオモンドレイ。提 督は皇帝の来訪を心より歓迎し、栄誉礼をもってこれを迎えたあと、軍艦へと案内し食事を差し上げた いと申し出た。ところが、皇帝はこれを断った。通訳のカウフマン氏曰く、
「アビシニアでは異教徒の作った食事は致しません。」
 まあよい、というので、今度は艦長が代わって様々英国海軍についての解説をすると、いちいち頷か れ、
「ブンガ!ブンガ!」
と繰り返しおっしゃる。「ブンガ!ブンガ!」とはなんですかと通訳に訊くと、
「すばらしい。ということです。」
という返事。これには提督も艦長も気をよくして、なお捲くし立てて英国海軍の美点をあげつらえば、今度 は皇女が、
「チャック、アチョイ!」
とおっしゃった。これはと問うと、
「女性は『すばらしい』というとき、『ブンガ!ブンガ!』ではなく『チャック、アチョイ!』と申します。」
と答えた。
 上機嫌の皇帝一行はこの日一泊し、翌日軍艦一隻の購入を約束してまた列車で帰っていった。
…という話です。えっ、なにも面白くない?そりゃ、世界に冠たる英国海軍は面白くなかったでしょうね。 青二才にしてやられたのですから。
 このアビシニア皇帝一行は全員贋物。それもケンブリッジの在籍している学生がほとんどという二十歳 そこそこの青年ばかり。仕掛け人は誰あろう「贋」英国外務省代表ハーバード・チョオモンドレイこと、い たずらの天才ホーレス・ド・ヴィヤー・コール(1883−1936)であった。
 コールはイギリス首相ネビル・チェンバレンの甥に当たり、名門の出であった。以前ケンブリッジ在学中 にも「偽ザンジバル君主」になりすまし、母校を訪れて、晩餐会に招かれるという「前科」があったが、今 回の「偽アビシニア皇帝」はもっと壮大ないたずらを仕掛けたのだ。
 この時皇女役を務めたのはヴァージニア・スティーヴンのちに結婚してウルフと姓を変える「ヴァージニ ア・ウルフ」。世界的女性作家にしてフェミニズムの旗手、のウルフその人である。ちなみに堂々たる通 訳カウフマンを勤めたのは実弟のアドリアン・スティーヴン。処女作『船出』でセンセーショナルなデビュー を飾る5年前のことである。
 このいたずらを成功に導いたのは綿密な下調べがあってのことである。この部隊で唯一の「アビシニア を知る将校」の非番を狙っていること、外務省の打電方法と打ち出す局などを調べ、初期段階での発覚 を防いでいる。調子に乗ってくれば、多少のアラも信じきった相手では気づかない。そして金に飽かせて の贋物作り。皇帝の礼服、典型的外交官の服装、偽勲章、偽お召し列車などで彼は4000ポンドを使い果 たしたといわれている。また彼らの教養もあった。無論誰一人アビシニアの言葉など分からないから、ギ リシャ語とラテン語の混合語で会話し、提督らの目先を眩ました。それが証拠に、軍艦購入を切り出され たとき、提督は「ブンガ!ブンガ!」と叫んだとか。
 イギリス海軍はこれを知って歯がみして悔しがり、ロンドンっ子は諸手を上げて喜んだ。その日からし ばらく、「ブンガ!ブンガ!」が流行した。


 日本にはなかなかここまで痛快かつ壮大なものはないので、美術界震撼の事件をひとつ。
 昭和37(1962)年5月12日、川崎の百貨店さいかい屋で行なわれていた美術展の会場からルノワール 作の『少女』が盗まれた。貸出していた藤山愛一郎はこの盗難に対し、
「もし返還してくれるならば、その絵は国立西洋博物館に寄贈する。」
と公言した。絵画自体は公表されているものなので、転売することは不可能であり、金銭に困った犯行で あるなら犯人には得はない。7月2日、東京都下の路上で発見された一文にもならない『少女』は、藤山氏 の言葉どおり即日美術館に寄贈された。美術館側もこの寄贈を喜んだが、どうもおかしい。「贋作じゃな いのか?」
 ここに一人の男の名前が浮上した。滝川太郎(1903-1980)。藤山は直接「滝川」から買ったわけではな かった。だが遡ってゆくと、出所はこの男からと判明したのである。ではこの「滝川」なる人物は何者か? 戦後まもなく開催され、観客30万人を動員したという「泰西名画展(読売新聞主催)」のときも名のあがっ た「画家兼鑑定家」である。滝川は戦前パリに滞在し、名の知れた画家の作品を金持ちたちに斡旋しし ていた。この時販売された絵画が「泰西名画展」の中に少なからず含まれており、「贋作では」と疑われ ていた。そしてまた一枚、滝川のもとから「贋作」の容疑のかかった絵が一枚出現したのだから穏やかで はない。
 昭和43(1968)年、突如として『芸術新潮』誌上に滝川は「贋作作者」として告発される。これまでの経緯 や被害者の証言などを交えて発表された手記は、当時かなり衝撃であったらしい。それはそうだ。滝川 を出所とする有名作家の西洋絵画数十点はすべて贋物であると、誌上で言い切っていたのであるから。 滝川にはもとより、仲介した画商らは顧客から夜も日もなく糾弾され、戦後最大の贋作事件として連日報 道された。
 そんな時、被害者の一人として滝川評を寄せた美術評論家のもとに大きな小包が届けられた。差出人 は滝川本人。開けてみるとコローの絵であった。「また贋作か」とサインを見ると、
「D'apre`s Corot, Takigawa Taro (コローの複製、滝川太郎)」
と書かれていたという。
 またある人が、滝川にあなたの職業はと聞いたことがあった。曰く、
「鑑定家です。」
と。
 昭和46年、滝川は今までの贋作事件の一部始終を語り、約300点に及ぶ贋作を世に送り出したことを 誇らしげに白状した。この事件の顛末は結局うやむやになってしまいよく分からないが、とにかく滝川太 郎という人物は煮ても焼いても食えないが、実に人を食った人物だったことは間違いない。
(実はこの滝川作品の『少女』は、未だに西洋美術館の奥深くに仕舞われている。そのほか“偽作でな い”滝川の絵は各地の美術館で見ることができる。) 


 どうせ日本美術界を揺るがせた事件を書いたのならもう一つも書いておこう。ご存知の方も多いであろ う「永仁の壺事件」である。この事件の正式名は「瀬戸飴釉永仁銘瓶子贋物事件」(長い!)というが、一 般的には「永仁の壺事件」で通っている。
 事の発端は戦中の昭和18(1943)年のことであった。岐阜県の某村村長が考古学史上一大センセーシ ョンを起こす発表をしたのである。
「永仁年製の瓶子が完全な形で出土した」
 永仁といえば鎌倉後期、西暦1293−98年までの6年間使用された年号であり、古窯であった猿投窯か ら瀬戸や美濃に窯が移動を始めた頃にあたる。出土した陶片に年号が記されてあれば、その窯の成立 時期を特定できる貴重な品となる。しかもそれが完全な形で出てきたとなれば、なおさらではないか。
 これを発見したのは陶芸家加藤唐九郎(1897-1985 ’52 人間国宝)であった(「陶芸」という言葉はこ の人が作った)。自らの陶工の腕を上げるため、古窯(昔の窯)の跡を発掘し研究をしていた唐九郎が、 昭和12年に「松留古窯」と呼ばれる窯跡で発掘したのだという。年代の確定は、周辺の陶片などとの比 較でおこなわれ、確かに同様の土と釉薬の使用が認められた。
 この瓶子の調査は戦後間をおいて改めて行なわれ、珍しい品であるにもかかわらず、文部省はこれを 重要文化財に指定をしなかった。
「どうもこの銘の入れ方には疑問がある。」
 疑えば怪しいところなどいくらも出てくるが、それを否定できるだけの材料はなかった。文部省側もはっ きりと「贋作である」とは言い切れず、「灰色」のまま放置するしかなかったのである。
 そこで登場願ったのは陶芸家にして文化財保護委員(文部省技官)の小山冨士夫(1900-1975)であっ た。小山はこの瓶子を「本物」と鑑定。これを受けて昭和34(1959)年文部省は重い腰を上げ、「永仁の 壺」を重要文化財に指定した。
 ところが一転翌年の35年に「贋作疑惑」が再浮上。発見者の唐九郎は国外逃亡してしまい行方不明。 マスコミはその息子加藤嶺男に群がった。八月、とうとう嶺男はこの瓶子は贋作であることを新聞紙上に 暴露。唐九郎も滞在先のパリから9月23日贋作を告白した(1937年にすでに製作し、埋めて時代を付け ていたらしい!)。
 それだけではない。唐九郎は「松留古窯」まで自作して、陶片を偽作していたのである。無論人間国宝 の指定は取り消し、自らも陶芸関係の協会役員をすべておりた。また図らずも贋作の片棒を担ぐことに なってしまった小山は文部省の職を辞して、野に下り陶芸一筋に生きることとなった。
 この事件で不思議なことに加藤唐九郎の人気はぐんと上がった。なにせ、
「お上をだました男」
なのだ。鎌倉古窯の瓶子が焼ける男、それだけの確かな腕があるのは証明された。人間国宝であること より、だますことで民衆の信用を得た唐九郎は、なにやらそうなることを予想してわざと「永仁の壺事件」 を仕組んだのではないかとうがった見方をしたくなってしまう。そうなると小山はなんとなく巻き添えを喰ら ってしまったことになるが、その後の創作活動を見ると、案外悪い傍杖ではなかったのかとも思える。ま あ、一番の損をしたのは振り回されるだけ振り回された文部省なのかもしれない。


Fraud = (詐欺)
 商売の活力、宗教家の真髄、そして政治権力の土台  
Rogue = (詐欺師)
 間抜けという作物が山ほど取れるところにいつも群れをなしていて、この作物 を常食にしている害虫 の一種
                                        『悪魔の辞典』 A・ピアス著




トップへ
戻る
前へ
次へ