2003年10月05日

月と虎  −山田寅次郎抄−

 ヨーロッパとアジアの交錯する国、トルコ共和国。この国で一番有名な日本人とは誰か。小泉純一郎、 中田英寿?いいえ。答えは「山田寅次郎」。何せ、トルコの国定教科書に載るほどの人物なのである。今 年、2003年は「トルコ年」と定められているので、寅次郎がそこここに顔を出している。それでも日本でよ く知る人はあまりいない。では、この山田寅次郎、どんな人物なのか。
 山田虎次郎は慶応二(1866)年八月二十三日、上野國沼田藩上屋敷で産声をあげた。父は藩の江戸 家老中村雄左衛門(のちに莞爾)、母は島(島子とも)とのあいだに生まれた次男であった。二歳のとき、 明治維新を迎え、官軍に追われて国許に帰るが、このとき父莞爾は抵抗の構えを見せる藩内を収拾、 無血開城することに尽力している。この沼田で五年間幼少期を過ごし、七歳のとき勉学のため単身上京 する。このときの上京の仕方がのちの寅次郎の豪放さをよくあらわしている。
 沼田という土地は山間部で耕地は非常に少ない。ゆえに藩政を支えているのは専ら林業であった。し かし需要の高い江戸表まで運ぶのに、木材を山間の路を荷車で運ぶような効率の悪いことはしない。山 から切り出した木材を筏に組んで、まだ川幅数十メートルしかない利根川の急流を下るのが常であっ た。この方法は確かに大量に運べるが、危険も多く、毎年死傷者も大変多くでた。なんと、寅次郎はこの 筏に乗せてもらい上京したというのだ。
 上京後の寅次郎は主に外国語を学んだ。英、独、中、仏と実に四ヶ国語。そのいずれにも一定の理解 を示したというから驚きである。十五歳のとき、千利休の侘び茶を継承する茶道宗偏流七世宗家山田宗 寿の養子になるが、この頃から多くの文化人との交流が始まる。尾崎紅葉、福地櫻痴、幸田露伴とそう そうたる面々である。その多くは自分の感ずるままに書かれた新聞投稿により得た交友であったと思わ れる。寅次郎は片手に語学という国際的感覚を持ち、もう一方にこの国の根源たる文化への理解を持ち 合わせていた。この絶妙なバランス感覚から生み出される文章に、当時の文化人は感嘆の声を上げず にはいられなかったのだろう(十代後半に寅次郎は福地の創刊した「東京日日新聞社」に入社してい る。)。
 そして運命の年、明治二十三(1890)年を迎える。話は少し寅次郎から離れて、日本とトルコの外交に ついて触れておこう。
 明治四(1871)年の福地源一郎(櫻痴)のオスマン=トルコ訪問より、欧州列強に不平等条約を押し付 けられていた者同士、平等通商条約締結を目指し水面下での交渉を続けていた両国は、明治八(1875) 年いったんの交渉打ち切りを宣言した。だがそれはイコール国交断絶ではなく、列強の顔色うかがいの 先延ばしに過ぎず、両国の友好関係は続けられていた。明治二十(1887)年小松宮彰仁親王がアブドゥ ル・ハミト2世を訪問、その返礼使として、明治二十二(1889)年オスマン・パシャ海軍少将を団長とする 総勢600名にのぼる使節団が派遣された。派遣艦は「エルトゥールル号」。トルコの英雄の名を冠したこ の艦船は、対ロシア艦隊用の旗艦であったが、造船からすでに三十年を経て、老朽化が進んでいて、こ の航海の多難なことは目に見えていた。まずスエズ運河で砂洲に乗り上げ二ヶ月足止めを喰らい、アデ ン、ムンバイ、コロンボを経由してシンガポールで四ヶ月の船体修理、サイゴン、香港、長崎、神戸を経 て横浜港に到着したのは、翌二十三年六月七日のこと、出港から実に11ヶ月を越えていた。国賓として 迎えられた一行は、明治天皇との謁見を果たし、三ヶ月に及ぶ歓待を受けた。「瀕死の重病人」といわれ たオスマントルコが、無理をしてまで使節団を送ったのには、この東海の小国と国交を結ぶことが起死回 生の起爆剤になり、列強に対抗する力をつける唯一の方法と考えていたためともいわれる。ともかく、一 行は九月十四日用事を済ませ、本国の帰国命令を理由にあわただしく帰路についた。日本側は艦船の 老朽と日本特有の不安定な気候を理由に滞在を伸ばすことを進言したが、資金不足や横浜に蔓延して いたコレラ感染を恐れ、トルコ側は意見を入れようとはしなかった。
 エルトゥールル号は太平洋を一路南下、機関の損傷は予想以上にひどく6ノット(時速11キロ)しか出 ず、出港二日目にしてようやく熊野灘に到達した。ここで日本側が心配していた台風が艦を直撃した。折 しもこの海域は大島の樫野埼の沖で「船甲羅」といわれる難所、岩場に機関をぶつけ、航行不能になっ たエルトゥールル号は午後四時(推定)樫野埼灯台の南数十メートルの岩場に座礁した。救助を求める 乗組員に気づいた島民が救助に向かったが、すでに夜の九時を過ぎており、海難から五時間が経過し たあとであった。乗員600余名中生存者69名。貧しい漁村であったが、生存者には医療を施し、衣服とな けなしの食料を、死者には手厚い葬礼を行なった。(四年前の十九年に起きた「ノルマントン号事件」が ふっと頭をよぎる。英国汽船「ノルマントン号」が座礁、沈没しようというときに、英国乗員はすべて救命ボ ートに乗り込み助かったのにもかかわらず、日本人乗客とインド人乗員は一人も助からなかったという事 件である。)
 そののち生存者は神戸の病院に移送され、回復後、日本海軍の「比叡」と「金剛」により二十四年一月 二日にコンスタンチノーブル(現イスタンブール)に帰還した。
 さて、この海難事故を聞いた寅次郎は、いたたまれず早速「義捐金」を募ることを発案。社を挙げての 一大キャンペーンを張る一方、自らも義捐金集めに奔走した。その甲斐あり、一年間に5000円(現行価 値で1億円程度)を集金。外務省を通じてトルコへ送ろうとした。ところがここで外相青木周蔵から意外な 申し出を受けることとなる。
「自分でトルコへ届けてみてはどうだろうか。」
 快く申し出を請け、フランスへ軍艦買い付けに行く海軍士官たちの外航に便乗、トルコへと向かった。 エジプトのカイロで下船し、コンスタンチノープルへ単身乗り込んだ寅次郎は、早速アブドゥル・ハミド2世 に謁見。このとき義捐金と共に、中村家伝来の明珍の甲冑と陣太刀を献上した(この甲冑と陣太刀はい まだにトプカプ宮殿に展示されている)。
 トルコ側の歓待は大変なものであったと著書『新月 山田寅次郎』の中でも書かれている。そして、事態 はまたあらぬ方向に向かっていくことになる。
「この国の青年に日本語を教えて欲しい。」
 寅次郎は面食らったことだろう。いきなりトルコに来て日本語教員になろうとは思いもよらないことであ る。だが、寅次郎の前に日本語教員として働いている人がいたのである。時事通信社の記者、野田正太 郎である。ちょうど一年前のエルトゥールル号生存者の帰還と共に同行取材をしていたのだが、病を理 由に帰国してしまっていた。その後任を寅次郎に依頼したのだ。このときから、寅次郎の十二年に及ぶト ルコ生活が始まった。最初に教えたのは陸・海軍の士官たちである。日本語に留まらず、日本というもの を根本から教えた。そのなかにはトルコ共和国の生みの親、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。
 また、東洋美術の分類、日本の工芸品の取り寄せなどを行なっていた。まだ日土の国交は樹立しては おらず、交易には何かと面倒な手続きを踏まなければならなかった。そこで、寅次郎は「中村商店」を開 業。日土の貿易の仲介をすることで、手続きを簡便にすることに成功した。これが縁で34歳のとき大阪 の貿易商の娘タミと結婚している。寅次郎の人生は順風満帆であった。
 明治三十七(1904)年日露戦争勃発。世界はなんと無謀な戦争を始めたかと(裏では日本を焚き付け ながらも)冷ややかな目で見ていた。ところが、大国ロシアに再三苦渋を嘗めさせられていたトルコは共 通の敵を持つ日本をひそかに応援していたのだ。日本は海軍力に勝るロシアを向こうにまわしよく戦って いたが、黒海に配備されていた最強といわれる「バルチック艦隊」の動静が気に掛かっていた。この艦隊 の動きが読めれば勝機は見出せる、だがそれは早期発見の前提がついてのことだった。いつ黒海を発 するか。寅次郎は政府の依頼で、ボスポラス海峡をずっと見張っていた。艦隊が動くとき、絶対ここを通 過するからである。トルコはこの目立ちすぎる諜報活動をあえて黙認した。日露戦争の勝敗を決定的に したといわれる「日本海海戦」の勝利は、寅次郎の負うところが少なからずあったのだ。
 寅次郎の好奇心は留まることを知らない。貿易により得た資金を基に今度はライスペーパーの製造に 着手する。紙巻タバコの紙である。「東洋製紙」は明治四十年創立、王子製紙と合併するまで、日本のラ イスペーパーの過半数を生産していた。さらに寅次郎はトルコ滞在中にイスラム教に改宗、アブドル・ハ リル(和名 新月)と名乗っており、第一次大戦によって帰国を余儀なくされてからもこの信仰は生涯変わ る事が無かった。
 大正十二(1923)年57歳のとき、トルコはケマル・アタチ ュルクの指導の下「トルコ共和国」として再出発、やっと 日本とも正式に国交を樹立した。寅次郎の渡航からすで に32年の歳月が流れていた。また、日本に滞在していた 寅次郎は、ようやく宗偏流八代目山田宗有として宗家を 襲名した。しかし、茶の宗匠としても破格で、トルコ伝統 の模様のついた食器を茶碗に見立てたり、トルコ帽型の 茶釜を考案して吹かせるなど思いはいつもトルコへと向 いていたようだ。
 二年後、以前に作った「中村商会」を前身とする「日土 貿易協会」を、翌年には「日土協会」を相次いで創立、ト ルコとの友好をあくまでも民間レベルで続けていった。
 昭和三十二(1957)年二月十三日大阪の自宅で永眠。 辞世は、

  ボスポラス東亜の景も今は夢

 受け継がれる武士の熱血と明治男のダンディズム、上 州特有の要らぬ義侠心をこき混ぜにしたのが山田寅次 郎という人物であり、日本では到底収まりきらず、はみ 出してしまったがゆえに名前すら忘れ去られてしまった 不出世の快男児、名より実を取った彼をこのように公言 することは、かえってふさわしくないのかもしれない。
明治三十七(1904)年イスタンブールで撮影された山
田寅次郎(模写)。このとき38歳。





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