2003年11月15日

蜉蝣の迷宮 −femme fataleはどこにいる−

 19世紀末、ウイーンには奇妙な現象が起きていた。「退廃と華奢の芸術」。それは一人の男の描いた 絵画にはじまる。
 男の名はグスタフ・クリムト(Gustav Klimt 1862-1918)。あの絢爛たる金彩と原色の洪水の中に、蠱 惑的な人物像を描き、今もなお絶大なる支持を得る稀代の芸術家である。初期の作品である『ユディット T』を発表したとき、ウイーンは騒然となった。それまでの絵画の常識を逸脱したその手法に批評の嵐が 吹き荒れたのである。たしかに彼ののちの代表作『ベートーヴェン・フリーズ』なども、絵画というより室内 の装飾芸術といった感があるのはいがめない。しかしそれは、彼の前半生に起因するものであった。ま ず彼の生い立ちを語らなければなるまい。
 彼はウイーンの平均的家庭に生まれたが、父が貴金属の彫金師の仕事をしていたことから、家業を継 ぐべく弟のエルンストと共に工藝学校に通った。ここで学んだ絵画の基礎が、「画家」クリムトの出発点に なっているのは確かなことである。もっとも、最初から画家になることを望んだわけではない。卒業後はじ めた仕事は、彫金師でも画家でもなく、建造物の内装であった。それも美術館や宮殿などの建造物が主 で、華美な装飾の中にも繊細さが求められる難しい仕事である。これらをクリムトは弟と共にこなしていっ た。その集大成ともいえるのが、皇妃エリザベートの別荘「ヴェラ・ヘルメス」の内装であった。この頃に は彼独特の絵画様式が確立されており、別荘にその手法が随所にちりばめられたことは言うまでもな い。
 クリムトの絵は、幼い日の父の記憶とインテリアデザイン、そして類まれなデッサン力から生み出されて いる。今日残されたデッサンを見るとその類まれな正確無比の筆致は、生まれながら持ち合わせた能力 としか言いようのないほど最初から完成されていた。
 余計な事ながら、クリムトは一生を独身で通している。だからといって、けして女嫌いではない。むしろ 逆であったがゆえに独身を通したといえよう。愛人は数知れず、その一人一人を絵画の絢爛な世界に塗 りこめていったのである。その代表がエミーリエ・フレーゲであろう。エミーリエは弟エルンストと1891年に 結婚したヘレーネの妹であった(翌年エルンストは死亡)。1904年にサロンを開き、姉妹でファッションデ ザイナーとして活躍していた彼女を、クリムトは何枚かの絵画に描いているし、また彼女のデザインした 服を着た婦人像を描いたりもしている。彼の絵に女性が多いのは単なる女好きといってしまえばそれま でだが、過去の伝統を受け継いだ『正統派の古典絵画』への憧憬もあったのであろう。そして、世紀末の 不安定は彼に「聖女」ではなく、人々を魅了して止まない「妖女」を描かせたのである。その代表が先の 『ユディット』であり、本来の旧約聖書の『ユディット記』(町を救うため酒で酔わせて敵将の寝首を掻く)の 「聖女」ではなく、性交果てた将軍の首を切り落とすなんとも艶めかしい「妖女」のユディットを起想し描い たのである。
 彼の絵の中の女性は皆容姿が美しいだけでなく、どこかアンバランスでいてそこが魅力的でもある。前 述のようにクリムトのデッサンは正確無比であるのに、なぜ狂わせるのか。実はそこに彼の「意図」が見 え隠れするのである。たとえば、ギリシア彫刻の「女神像」のような数学的に均整の取れた、まさに神品 の裸体に性情を欲するだろうか。女性の恍惚であるとか、エロティシズムというのは完全の中にはないの である。「無瑕」は確かに美しく、人々を魅了する。しかしそれは無言の圧力となり、近寄りがたくともすれ ば「神々しさ」から敬遠してしまうものである。ここで言う瑕とは、クリムトが見るものに与える官能の強調 に他ならない。その歪み「=恍惚」は金彩銀彩の眩さと相まって、絵の前のに立つ人々にも無上の喜び、 官能の頂点(オルガスムス=小さな死)を体感させているのである。つまり、クリムトは描くだけでは表現 しきれない「官能」を金を使い具象化することに成功したのだ。femme fataleの具象化。見るものを魅了 し破滅(小さな死)に導く絵画。
 第一次世界大戦前夜のウイーン、退廃と物憂げな文化の爛熟が生み出した異端の孤峰グスタフ・クリ ムト。実際彼はfemme fataleしか描けなかったのかもしれない。


femme fatale【名】=宿命の(fatal)女(femme)。本来はフランス語であるが、現在は英語としても使用 される。femme fatale の定義。femme fataleであるためには、まず誰もが認める美しさ、容姿端麗でなけ ればならない。そして知的であることも必要である。それは知識ではなく教養の知で、頭が良いというよ り、切れ者といったほうが正しい。ただし、それが鼻についてはならない。また、無為に男を貶めなけれ ばならない。「悪女」の自覚のあるものはこの限りではない。今は作為のある悪女も一緒くたにfemme fataleと呼んでしまうが、これには少なからず抵抗がある。日本語に訳したとき「宿命の女」というように、 魅せられた男は抗うべくも無くその女のもつ「宿命」に翻弄されるのである。そして女の死により、奔流も 終焉を迎えるというのも大切な要素である。
…femme fataleを名乗るのも楽ではない(あっ、名乗った時点で自覚ありと考えられるので、「宿命の女」 失格か。)。


 もう一人のグスタフ、フランス読みだからギュスタブとなるが、モロー(Gustave moreaul 1826-1898)も 良くfemme fataleを描いた(といってもモローについてはまた別の機会に)。
 19世紀末のフランスの詩人マラルメの提唱した「反自然主義・反高踏派」の流れは、文学界だけではな く美術の世界にまで波及し、モローのように、描く絵画に直接的には表わさない内容、深層に真の主題を 隠した描き方をした「象徴派」を生んだ。そして彼らが好んで描いたのは、ギリシア神話やキリスト教の寓 話であった。一見懐古趣味的に見えるこの活動も、「絵画の画題の裏にある真の眼目を探ろう」という流 れに沿ってみれば理解出来るし、1テンポ遅れて始まるフロイトやユング、クラフトエヴィングといった心 理学者の分析学へと分流していくことを考えると、大変興味深い。
 その象徴派のなかで、『オイディプスとスフィンクス』、『セイレーン』そして『サロメ』はfemme fataleの三 大画題ともいえるものである。なぜそれらがfemme fataleなのか。まずは『スフィンクス』から彼らなりの解 釈を説明していこう。
 まあ、ご存知とは思うが、このスフィンクスはエジプトのそれではない。ルイ王朝末期に流行った「グロテ スク」の一画題として用いられたことでも知られる「顔は女性、体は有翼の獅子」という怪物で、旅人に謎 を出し、解けなければ食い殺してしまうのだという。放浪の途中であったオイディプスはテバーイ(テーベ) でこのスフィンクスに出くわし、「朝は四足、昼は二本足、夜は三本足の動物は?」という謎をかけられ る。およそ古典的な謎であるが、これにオイディプスは「人間」と答えて難を逃れるのである。これがどうし てfemme fataleを象徴するのか。彼らはこういう。旅人に謎を出し(誘惑する)、解けなければ食い殺す (破滅させる)、というfemme fataleの要素を含んでいるからだと。
 そういう解釈ならば、『セイレーン』はいかにもfemme fataleといった感じがするではないか。歌声で航 海者や水夫を誘惑し、近寄るものをすべて水底に引きずり込む。ホメロスの古代叙事詩『オデッセイア』 の中で、オデッセウス(ユリシーズ)は「魔の海峡」と呼ばれる海域で、セイレーンの三姉妹に遭遇してし まう。彼らはすでにこのことを予見していて、歌声を聴かないよう水夫たちは耳を塞ぎ、引きずり込まれな いようにオデッセウスは帆柱に身を括りつけて、その誘惑から逃れたとされている。このセイレーン、ホメ ロスの記述では頭は人で体は鳥の怪物であるとされてきたが、いつの間にか「人魚」の姿で描かれるよ うになってしまった。確かにそのようが妖艶さは増すが…。
 さておき、この話の類話と考えられる『ローレライ(妖女の岩)』も同様に画題として扱われている。た だ、ライン地方の陰鬱さが付きまとうのか、象徴派も好んで描いたわけではないようだ。
 そしてモローの最も好んだ画題『サロメ』である。細かいことは前項の『斬首の快楽』に書いているので 割愛するが、さて問題。サロメがfemme fataleとして誘惑し破滅に導いたのは誰か。パブテスマのヨハ ネ?いえ、あの人は誘惑されてないから×。そう、義父にして伯父のヘロデ王がその犠牲者。ヘロデア 母娘はいずれも「悪女」であったといわれるが、それまではけして他人を無為に破滅させることは無かっ た。つまり「あいつを始末しよう!」と思って行動していた(タチが悪いが)のであるが、ヨハネのときは王 妃ヘロデアが「ヨハネを何とかしよう!」と思い娘を唆したことから、まったくノーマークのヘロデ王を破滅 させることとなってしまったのだ。サロメの誘惑の矛先はヨハネに向いていたのに、反応を示したのはヘ ロデ王であったのだから、「無為の誘惑者」であったといえよう。上記の定義に当てはめると、その変化 がありありと浮かび上がってくる。のちに語られるfemme fataleに「踊り子」が多い(『カルメン』などは顕 著)のはこのサロメの所為かもしれない。


 中国史上には「悪女」が多く存在する。だが以前にも言ったように、悪女とfemme fataleは違う。あえて 言うなら「傾国」というのが近いかもしれない。「国を傾けるほどの美人」。四千年の歴史から真っ先に上 げたい「傾国」といえば、虞姫であろう。
 虞姫あるいは虞美人(美人は後宮での位、第七夫人だったかな?)は、もとは秦王朝最後の王子嬰の 妃であったとも、会稽で旗揚げした項羽に虞大公が差し出した娘であるとも言われているが、実のところ よく分からない。虞姫の登場は乾坤一擲成って、覇王項羽と高祖劉邦が最終決戦の地、垓下で対峙した 『四面楚歌』のくだりにしか見られないのである。
 名軍師韓信の建策により、垓下の城を取り囲む劉邦軍は項羽の故郷楚の歌を歌い、項羽軍の気勢を 殺いでしまった。すでに民心も離れていた項羽の許には数百の兵士か残っていない。項羽はここで愛妾 虞姫と惜別の盃を交わし、朗々と歌い始めた。

  力抜山兮気蓋世   力は山を抜き 気は山を蓋う
  時不利兮騅不逝   時に利あらず 騅ゆかず
  騅不逝兮可奈何   騅ゆかざるを 奈何せん
  虞兮虞兮奈若何   虞や 虞や  なんじを若何せん

 これにこたえて虞姫は和して唱す。

  漢兵已略地   漢兵已に地を略し
  四方楚歌声   四方楚歌の声
  大王意気盡   大王意気盡き
  賤妾何聊生   賤妾何ぞ生を聊(やす)んぜん

 そして項羽の佩剣で自害して果てたという。
 別段femme fataleらしくないではないか、とお思いでしょ。でもこのあとが、彼女がfemme fataleであった と暗示させる文章。自害して果てた虞美人の滴った血から一本の花が生じたという。これを後世の人は 「虞美人草」と呼んだ。虞美人草は今でいえば「ひなげし」である。ひなげし、つまりケシには幻覚作用が あり、常用すると中毒症状を起こす。これはすでに古代中国でも知られていたことで、可憐な花に似合わ ない毒性と常習性を項羽と虞美人に重ね合わせて語り継いだのではないか。『史記』にも虞姫のことは ほとんど出ていないが、のちの『十八史略』にはこの話が見られる。司馬遷はあえて避けたか、はたまた …。美しいものには毒があるというが、その毒も我が身を守るためと寄りくる人を魅せるための両面を持 つ事を知っておかねばならない。


「不思議だこと」用心深く近づきながら少女は言った。「なんて重い扉なの!」そういって彼女が手を触れ ると、扉は不意にがしゃんと閉まった。
「困ったぞ」と男が叫んだ。「こっちの内側には掛け金も閂もなさそうだ。おやおや、二人ともここに閉じ込 められたんだ。」
「ふたりともですって。いいえ、ひとりだけよ」といって、少女は扉をスーッと通り抜け、姿を消した。
                        『ボルヘス怪奇譚集』より I.A.アイアランド『霊の訪れ』


 薛(正しくは「薛」の下に「子」を書くが、ここでは「薛」を代用する)嬖。「げっぺい」と読む。「薛」は「不吉 な」、「嬖」は「貴人の寵愛を受けるもの」の意で、劉向の著した『列女伝』に見られる言葉である。傾国よ りよりfemme fataleに近い表現である。この『列女伝』の中から二人を紹介しよう。
 一人目は「夏姫」。近頃は宮城谷昌光の『夏姫春秋』でよく知られているが、その以前にも中島敦が『妖 氛録』、海音寺潮五郎が『妖艶伝』を著し、宮城谷の新解釈とは違う古来から語られる「稀代の毒婦」とし て描き出している。
 さてこの夏姫、春秋時代の鄭に公女として生まれた。父は繆公、母は姚子。兄は「食指が動く」の一件 で子公(公子宋)と子家(公子帰生)に殺された霊公である。ときは春秋の五覇と呼ばれた五カ国の王の なかでも一番の実力者、晋の文公(重耳)亡き後、楚の荘王がその勢力を伸ばし晋に取って代わろうとし 始めていた乱世のことである。
 大体この時代の女性には同じことがいえるが、夏姫の本当の名前は分からない。歴史書に記されない のである。ではなぜ夏姫と呼ばれるか。初めて嫁いだ先が陳の大夫、夏御叔であった(でも本当は二度 目の結婚であったとも言われる。その夫は早死にであった。)ためであるともいわれるが、それも定かで はない。とにかく『史記』以前の書物から夏姫と呼ばれていた。
 五覇に囲まれた鄭のような弱小国は、婚姻により外交関係の強化をするしかない。このときの夏姫の 婚姻も例外ではなかったはずである。ところが、その夫・御叔は長子・徴舒が生まれてまもなく早世。夏 姫は(またしても)未亡人になってしまった。男ならここで一度はがっくりとするものなのだが、女は強い。 実は夫の死と相前後して陳の霊公・大夫の孔寧と儀行父の実力者三名と夏姫は密通していたのだ。こ れを憂いたのは同じ陳の大夫を務めていた洩冶であった。
 ある日、霊公が夏姫の肌着をつけて朝堂で戯れていた。これを聞きつけた洩冶はこれを機会と以前か らの夏姫と三人の不倫をやんわりと諫めた。公は非を認めたが、これを漏れ聞いた二人の大夫は何か とうるさい洩冶を殺害してしまった。諫言をする忠臣を亡き者にしてしまうような国であるから先は見えた ようなもので、年を追う毎に衰微をきたし、陳の国政は乱れに乱れた。そして国家の終焉はたった一言 の戯言のために突如として起こった。
 霊公が二大夫をつれ、夏姫の家で酒宴を開いたときのこと、夏姫の唯一の子・徴舒も同席している席 上で、こともあろうに霊公が儀行父にこう言ったのである。
「徴舒はお前に似ているなあ。」
 すかさず儀行父は、
「君にも似てございます。」
と答えた。徴舒も母がこの三人と通じていることは知っていた。しかし、酒の上とはいえ、言っていいこと と悪いことがある。
  −殺してやる!
 霊公が帰邸するとき、徴舒は厠から覗きこれを射殺した。びっくりした孔寧・儀行父両大夫は恐れをな して楚に亡命してしまった。君主も大夫もいない陳は無政府状態に陥った。楚の荘王は機あらば近隣の 陳を攻めようとしていたので、徴舒の乱の鎮圧を理由に陳に侵攻した。反乱軍と大国楚の軍事力とは比 ぶべくも無く、あっという間に平定され、反乱分子徴舒は捕らえ車裂きに処された。荘王は、これを機に 陳を楚に取り込み一つの県(国の中の行政区画)としようと提案するが、家臣の猛反対によりそれを諦 め、霊公の太子・午を立公し表向きは陳を再興させ、実質陳を楚の属国とした。
 夏姫は反乱平定後、楚に移された。反乱軍の頭目の母なのだから、殺されなくともそれなりの刑に処 すところなのであろうが、その美貌に骨抜きになった荘王は罪一等を減じるのみならず、なんと夏姫を後 宮に欲したのだ。この処置に慌てて申公の巫臣(姓は屈、名は巫)が、
「夏氏を誅したのにその一族のものを後宮に入れたとあっては、淫に溺れたと見られます。」
と、これを諫めた。なるほど言われてみればそうなる。人の上に立つ王としての示しをつけるため、しぶし ぶ荘王も諦めた。王が諦めたと聞くと、今度は公子の子反が夏姫を欲した。すると巫臣は、
「このものは不祥の女です。夫を殺し、霊公を弑し、息子は誅されました。二大夫を出奔させ、一国を滅 亡させたのです。」
と、不安を煽りこれをやめさせた。巫臣はけして忠臣ではなかった。どちらかというと「乱世の英傑」といっ た観があり、この言葉も裏を返せば、「夏姫を我が物にしたい」がための屁理屈に他ならなかった。これ ほど皆が夢中になるなら、どれほどの美人であったか分かる。
 荘王は夏姫を家臣の襄老に与えた(ほとんど戦利品並みの扱い!)が、まもなく襄老は戦死、その子 黒要に「相続」される。人のものになり、手が届かないと分かれば分かるほど、諦め切れなくなるもの。巫 臣は姦計を巡らして、「夏姫を我が物にしよう!」とした。まず密かに夏姫に言い寄り自分に好意を持た せ、次に鄭の霊公の跡を継いだ弟の襄公から婚姻の許しを得ると、何かにと理由をつけて二人して楚か ら晋に手に手を取り合って亡命してしまった。
 後で知って、歯軋りして悔しがったのは公子の子反。
「人にはあんなこと言っておいて、てめーが結婚したかっただけじゃねーか。許せねー。」
 同じく巫臣に恨みを抱く公子の子重と共に、巫臣の一族と夏姫の嫁していた黒要の一族をことごとく滅 ぼし、その財産を奪い取ると、「ざまーみろ。」とやっと溜飲を下げた。
 この報はすぐさま巫臣に届けられた。国を離れ帰国も儘ならないなかで、直接に手を下すことは出来な い巫臣は、両公子に書簡を送り宣戦布告した。
「お前等をてんてこ舞いさせて、殺してやる。」
 まず、晋の景公に許しを乞い呉と国交を開くと、楚との友好にひびを入れ、武力強化の援助を惜しま ず、楚に攻め込むよう仕向けた。新興国・呉は領土拡大を目指していたところに思わぬ助力を得て、戦 力を増強すると早々に楚に侵攻をはじめた。子反・子重両公子はまさかの攻撃に気色ばみ連戦連敗、 なお一年に七回の会戦を強いられ、とうとう自決して果ててしまったのだ。
 夏姫に関係するとろくな死に方をしない。しかも夏姫の手に掛かって死ぬのなら本望とも思えなくはない が、彼女がまったく窺い知らないところで「勝手に」死んでしまうのだから、これほど恐ろしいことはない。 まさに「宿命の女」の名にふさわしい人物といえよう。


 ではその次、褒以(女+以 ここでは以を代用)である。「ほうじ」という。夏姫より三百年ほど前に生ま れた「薛嬖」で、その誕生には不思議な言い伝えがある。
 夏王朝滅亡前夜、二匹の龍が天子の庭に降り立ち、
「我らは褒の祖である。」
といい居座った。王が巫者に占わせたところ、この龍の吐いた泡を蔵するようと卦に出た。龍はこれを聞 くと、泡を吐き出して消え失せてしまった。王はこの泡を箱に収め、秘蔵した。箱は王朝が殷・周と移って も歴代の王に受け継がれ、周の脂、の手に渡ったとき誤って箱が開かれてしまい、泡があふれ出してし まった。脂、は、
「女を裸にして騒がせよ。」
と命じた(なんでだ?)。すると泡はイモリに変ずると、後宮に逃げ込み、ここに居合わせた一人の少女は その姿を見ただけで夫も無しに懐妊してしまった。この少女はその後数十年身籠りつづけ、やっと生まれ た子供も、奇妙がられ、疎まれて捨てられてしまった。
 その頃には王も代替わりし、宣王の御世になると奇怪な歌が流行った。
「厭(「厭」の下に「木」)弧(山桑の弓)と箕服(箕で出来た箙)実に周の国を滅ぼさん」
 宣王はこれは何かの不吉な前兆であると後憂を恐れ、これをひさぐ夫婦を捕らえて殺そうとしたが、夫 婦はその前に周の国から逃亡した。国を出るとき、夫婦は偶然捨て子を見つけ、この子を連れて褒の国 に逃げ込んだ。この子こそ、龍の子供にして、夫無き処女の腹に宿った「宿命の女」、褒以であった。
 また時代はくだり、周の幽王の御世。褒はひょんなことから周から討伐されかけたことがあった。このと き、褒は許しを乞うため褒以を献上した。絶世の美女に育った褒以に幽王はメロメロになり入れあげるこ と際限なく、お定まりに本妻である申侯の女を廃し、その子を廃太子してしまうのである。褒以はその生 い立ちからかけして笑わなかった。幽王は楽を奏で、妓を演じさせたが、けして楽しむことは無かった。 幽王はこの美人が微笑んだときにはどれほど美しかろう、と褒以を笑ませることに心血を注ぎ、政務は 疎かになった。
 ある日のこと、首都に烽火があがった。これは兵事の連絡手段であったので、
「王の身に何かあったのでは!」
と諸侯は軍隊を率いて宮殿に馳せ参じた。ところがこれは誤報で、諸侯の気色ばんだ顔を見て、褒以は けらけらと笑ったのである。褒以が笑った!幽王の喜びようといったら無かった。それからというもの、 度々何事もないというのに、烽火を上げては諸侯を集め褒以を笑わせた。この戯れに付き合わされた諸 侯はいい面の皮で、だんだん烽火があがっても「またか」と駆けつけなくなってしまった。
 そして誰一人として烽火に反応しなくなった頃、后から降ろされた女の父申侯は、恨みを晴らすのは今 とばかり、夷狄を巻き込んで幽王のいる都に攻め込んだのだ。幽王は慌てて烽火を上げさせたが、誰一 人としてこれを信用せず、幽王は驪山まで逃げたもののここでつかまり処刑、褒以は虜となるのを良しと せず自殺した。歌の予言どおり、山桑の弓と箕の箙で育った女のために、周王朝は滅亡したのである。


 人一人滅ぼすことがfemme fataleであるなら、一族を滅ぼす女はなんと言うべきであろうか。
 ここに一人、現代のfemme fataleともいうべき女性がいる。彼女の名はジャクリーン・L・ブービエ・ケネ ディー・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis 1929-1994)。1953年9月12日、ジョン・F・ケ ネディーと結婚し、60年にはファーストレディーとなった「アメリカの星」、彼女は古代中国の夏姫にも劣ら ないfemme fataleを演じたのである。
 彼女の身の回りに起きた最大の悲劇とみられる63年11月22日のケネディー暗殺も、それ以前以後に 起こる数々の不幸に比べれば、流れのなかの一つのポイントぐらいにしか感じられないだろう。ジャクリ ーンと結婚してからケネディーの身の回りは激変する。ジョンの父の突然死、愛人と目されていたマリリ ン・モンローの不可解な自殺、ピッグス湾事件にはじまるキューバ危機。研究者に言わせると、もともとケ ネディー家自体があまりよい星回りではなく、ジャクリーンが嫁ぐ前から不幸が続いていたというが、傍目 からみるとジャクリーンが嫁いできたことも「不幸」の一つのような気がしてならない。(いえ、ジャクリーン が悪いといっているのではなく、そこについてまわる「宿命」が悪いんです。) 暗殺以後も、弟ロバートの 暗殺、甥デイビットの中毒死、同じく甥のマイケルの事故死、さらに99年の実子ジョン・Jr.の飛行機事故 でも死などは記憶に新しい。
 それと同時に、68年に再婚した海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシスの一家を襲った悲劇を考え ると並のfemme fataleではない事が分かる。オナシスはなりふり構わない荒稼ぎで巨万の富を得た男で ある。二十歳半ばで、インサイダーの株の売買とタバコの輸入で億の金を稼ぎ、海運業に手を出したと きはギリシャの社交界に潜り込み、政略結婚によって老舗の海運会社を乗っ取った。その金で今度はギ リシャ国営航空を買い取り、またモンテカルロのカジノを牛耳って、陸・海・空の王となった。その男が最 後に求めたもの、それが「愛」であった。
 彼は妻ティナのほかに数人の愛人がいたという。そのなかでも飛び切り有名なのは世界の歌姫マリア・ カラスであろう。オナシスは熱狂的に彼女を追いかけ花束を贈り続けた。それが功を奏したのか、カラス はオナシスの一番の愛人と噂されるまでになっていた。(この頃ティナは精神を患い離婚されている。)で もカラスはあくまでも愛人であり、正妻に迎える人は華やかさだけではなく、(地位にしても名声にしても、 知性にしても)すべてに対して最上の女であることを求めた。この条件に合う女…オナシスはついに「アメ リカの星」に照準を定めた。
 ケネディーが暗殺されたあと、ジャクリーンもしばらくは大人しくしていたが、どうもじっとしてはいられな い性分らしく、以前からちょっかいを出してきていたオナシスに急接近をはじめた。折しも弟ロバート・ケ ネディーが大統領選出馬を決めたときで、
「その再婚は(選挙に)不利になるからやめて欲しい」
と頼んだが、これを聞かずにオナシスと再婚してしまったのだ。そのロバートが暗殺されたのも同じ年の ことであった。
 さてこの結婚により、「アメリカの星」を手に入れたオナシスであったが、同時に「不祥」も手に入れてし まったらしい。オナシスの再婚を知り、愛人カラスは睡眠薬の過服用から中毒を起こし、前妻ティナは商 売敵と再婚、愛娘は駆け落ちをすると踏んだりけったり。さらに浪費癖の激しいジャクリーンには愛情な ど爪の先ほども感じられなかった。そんな73年のこと。父のやり方に始終反発し、独立して小さな航空会 社を経営していた長男のアレクサンダーが、飛行機事故により死亡。息子の死にショックを受けた前妻 ティナはアルコール中毒から突然死。カラスもすでにこの世に無く、オナシスは重度の筋無力症に陥っ た。常勝でここまで登りつめたオナシスにとって、この敗北感は=死の何ものでもなかった。75年、オナ シスはジャクリーンに看取られることも無くさみしくこの世を去った。
 ジャクリーンは誰一人として成し得なかった世界一の地位と富、この二つに添い寝した女となった。オ ナシスの富は総額で1兆円ともいわれ、これを相続できるものは前妻ティナの娘とジャクリーンただ二人 であった。ところがオナシスはオナシス帝国の遺産の大部分を娘に移譲し、ジャクリーンには僅かな財産 を贈ると遺言していたのだ。ジャクリーンは早速法廷に持ち込み、正当な遺産分配を求めた。
 ティナの娘は係争中4度の結婚をし、4度の離婚を経験した。争議と会社の切り盛りに心労が重なり、 金銭目的に言い寄る男に人も信用できず、睡眠薬で安らぎを得ることしか出来なくなっていた彼女の救 いは、4度目の結婚で出来た娘の存在であった。しかし、薬物の乱用は体を蝕み、87年心臓発作により 他界した。
 また、ケネディー一族とオナシス一族を振り回したジャクリーンにも死の影が迫っていた。長い争議の すえ、彼女はがんを患い94年舌に転移した癌で死んだ。65歳。まさに、
「そして誰もいなくなった。」
 僅かに遺された両家の人々は今だジャクリーンの後遺症から立ち直れていない。




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