緒言
 これは昔のこと、延暦十三年十月、先年の和気清麻呂の建議により、時の主 上山城帝は長岡京から山背國葛野郡宇太村に遷都なされた。
「此国、山河襟帯し自然に城を成す、これを号して平安京という。」
 この言葉は仙道をよくし、自らもって神仙たらん事を望んだ山城帝にとって南 都を棄て長岡京で具現化できなかった仙都完成を願い、千年皇都の礎をここ に据えることへのゆるぎない自信から発せられたものであり、ここから山城帝 の夢「pax  japana(日本の平和)」は始まる筈であった。
 ところが崩御ののちに即位した長子阿殿(あて)、今の太上帝は、父帝の蠱惑 的な指導力−これも神仙思想に起因するが−それとは程遠く、病弱で鷹揚な 主上では台頭著しい藤家の食い物になることは目に見えていた。事実、長女を 入内させた式家・藤原薬子は狼心を露にした兄・仲成と朝政を専横し、主上を 陰に陽に操ること甚だしく、これを愁うる廷臣たちのなかには、皇太弟の神野 (かみの)へ早期に禅譲させてしまうか、あるいは主上も皇太弟も廃 し山城父 帝の寵児であった伊豫親王を立てようとする実に乱暴な動きもあった。この 日々繰 り返される両者のせめぎ合いに主上はますます疲弊し、昼の御座所に も御影をお出しにならず、薬子の許で政務をお執りになられるという悪循環が 続いた。
 そんな矢先のこと、大同二年十月盡、主上を心から寒からしめる出来事が大 納言藤原朝臣雄友からもたらされた。中務卿伊豫親王の謀反。先刻からの噂 も手伝って親王は即日逮捕され川原寺に移され、母藤原吉子とともに幽閉され た。しかし連日の尋問にも親王は謀反を認めず、また吉子も口を割らなかっ た。数日ののち、母子はこれに抗うように毒をあおり自ら死を選んだ。母子とも 口腔に泡して目を剥き天を呪う、それはそれはひどい死に様だったらしく、詰め ていた衛士の多くがその後心身を病んだ。親王の死により謀反の事実がうや むやになるなか、主上は親王の親族郎党に至るまで、なし崩しに逮捕させ、詮 議もそこそこ にすべての者を処罰した。その数、三十数名。そのなかには驚く かな吉子の兄にして親王の外戚、一族唾棄の密告者・雄友の姿もあった。だが この謀反は、南家追い落としの仕組まれた罠であったともいわれ、親王母子の 服毒死から仲成兄妹の仕業であろうとの憶測を呼んだ。
 主上はこの事件後体調を崩し、皇太弟に位を譲り仲成兄妹らとともに南都へ 遷ったことを発端とし当今と太上の争い、世に「薬子の変」と呼ぶ悲しい政変が 勃った。山城帝にしてみれば、長岡京での失策が自らの「pax  japana」の瓦解 をこれほどまで早く招くとは夢にも思わなかっただろう。ともかく政朝の勢力図 は一変した。そう考えると、先事も後事も神野、つまり当今の主上が巧妙に仕 組んだ藤家切り崩しの罠であったことは知れる。つまりは藤家嫌いの当今の逆 ねじにみなが踊らされたまでのこと、陰で笑ったのは実は当今だったのだ。
 当今は父帝をしのぐ才覚者であることは誰もが認めるところだろう。それは政 の大小係わらず表裏にわたり万端ぬかりがない、それは書にせよ詩にせよ小 器用にこなす多才ぶりにもあらわれている。後の世の評価がどうであれ、親子 二代の稀代の数寄者により「pax japana」「平安」という皮肉な名を冠された一 時代は波乱の幕を開けた。

 時を同じくして一人の漢が産声を上げた。小野峯守の継嗣にして当今の寵 児、篁である。 彼の者は小野氏の血というものを多分に受け継いだらしく、よき ににつけあしきにつけ人士の智も躯も凌駕していた。篁は幼少の頃、父よりも 若くして他界した祖父永見を尊敬し、また慕っていた。伝え聞く祖父の雄姿に恋 慕しては弓馬を友とし、数え七つにして弓箭の妙を悟 り、父の蒼顔を尻目に標 野を奸馬で乗り回しては野禽を猟する日々であった。その一方、碩学の父を持 ちながら学問といえば歯を剥いて嫌悪し、筆なんぞは矢の当たり外れの印をつ けるものと、自らの名を記すことさえおぼつかぬ有様である。
 その篁が十八の時、峯守に連れられ下った陸奥から戻りし折、まあ国司殿が 荒蝦夷を連れてご帰還との噂が天聴に達し、当今が「あたら才在る者が」とつ ぶやかれたとか。これには篁も心揺すられる心地がして、垢汚した衣服を改 め、~祇に礼拝し御仏に香を捧げ、弓箭を櫃に納めると、まこと一からの学問 をはじめた。もとより器は大きい。それが空虚になっていたのであるから、注ぎ 込めば注いだだけ飲み込んでゆく。ただ恐ろしいかな篁は注げど盈ることのな い大器であった。
 都城に戻り三年目の秋といわれる。篁が文章生に補されると、人々は驚きと ともに彼の者にむかい初めて感嘆の声を漏らした。この感嘆は二十一というけ して若くない歳にして学生 になったからでも、荒蝦夷が任官したからでもない。 省試に五問五答し、当時文章博士であった桑原宿禰腹赤が、これを期に乞骸 したといういわくに対しての讃であった。
 しかし一の人と呼ばれる貴人から、市井の人々に至るまで、この後小野篁に 幾たび感嘆を漏らさねばならなくなるか、想像していたものは一人とていないで あろう。幻想と虚構に彩ら れた小野篁を巡る物語はここから始まる。