落書 壱
 当今、と言うより後の代に嵯峨天皇と呼ばれる主上のこと。齢三十有八歳、 橘嘉智子を皇后とし、后、夫人、女御更衣、宮人に至るまでその数三十余名。 とはいえ、みなひとときに後宮に在ったわけではない。ある年齢になると宿下が りをする者もあり、何らかの事情により内裏を去らねばならぬ者もいる。皇后、 后、夫人を除けば随時十名ほどが詰めていたことになる。そのため、皇子皇女 も星の数ほど在った。
 当今の後宮は一つの特徴があり、官位の高い者の女が少なく、およそ五位ど まりの官人の女で占められている。皇后の父橘清友も官は内舎人であった。も とより、神野親王と呼ばれていた頃、天皇に即位しようとは誰も思っていなかっ た所為もある。だが、皇太弟となったのちも、公卿、とくに藤家の者を遠ざけ、 主上となった今、唯一入内している内麻呂の女、 緒夏でさえ三番手の夫人の 地位に甘んじている。藤家の者にとってこれほど歯がゆいこともなかろう。その 上また一人、とある女を入内させることを欲したのは、弘仁十三年秋のことであ る。
 この女は姓を知らず、名も詳らかではない。ただ、養いの親、これも左京の下 吏であるが、 それの云うにはさる貴人の娘で故あってその家に預けられたの だと云う。宮中ではこの者を嵯峨の町と呼んだ。養父と暮らした地の名からと も、主上が霊夢を見たのが嵯峨野の別業であった為とも云われる。そう、霊夢 のことも云わなければなるまい。この女の入内の発端は霊夢であった。
 ある夜、夢を見た。真白き大鹿が菩薩へと変じ、主上に白璧の宝珠を授ける 夢であった。この年の夏、主上は小野妹子の開いた六角堂を訪れ、観世音菩 薩に「よき后を賜わりたい」と願呪したという。これは観世音菩薩の霊験に違い ない、と諸手をあげて喜んだ。そして授かったのが嵯峨の町である。
 この者の入内には大臣以下皆反対をした。特に筆頭の冬嗣は以てのほかと 諫言をもってこれに抗ってみせたが、もとより左様と引き下がる御方ではなく、 また誰一人徹頭徹尾、否の姿勢を貫くほどの気概のある者もおらず、結句霊 夢の妙を押し切った主上のいいようにされてしまった。参内の折に下された位 が、従五位下とは異例の沙汰である。
 霊夢の所為とはいえ、主上の寵愛は甚だしかった。新しき物を時を分かたず 手許に置き愛でたいという心情はわからないでもないが、それにしても度を越し ていたというべきである。これ以来、主上は女御更衣はもとより皇后さえも遠ざ け、日がな嵯峨の町を愛でた。まさに言葉通りに。
 さてここにもう一人、奇縁をもって見出された女がいる。姓を春原、名を弘子と いう。春原といっても皇籍を下った五百枝(いおえ)の女ではない。前民部少輔 春原朝臣常見の女である。先に常見についてお話しよう。
 常見は元の姓を鵜野といい、下級の出自であった。だが、当今の父帝に見出 され姓を賜ってからは、東宮学士、図書頭、伊豫守などを経て、大同二年とうと う「聞くならく劇官」民部少輔に任じられるまでになったのである。地下の家から ここまでの出世は古来稀であった。ところがその年の十月盡、伊豫親王の謀反 が起こった。前の主上は伊豫親王以下一族郎党を厳罰に処し、朝廷から一掃 したのだが、親王の叔母に当たる藤原諸子を妻としていた常見もまた処罰の対 象となった。伊豆までの流謫の間、馬上の常見はじっと空を見ていたという。 明 日には伊豆の配所に入ろうという三島の駅で常見は咽喉を突いて自殺した。こ の事件での至死者は親王親子と常見だけであったという。
 いま弘子は悪所に住まいしている。平安京永寧坊(えいねいぼう)、偉丈夫の 衛士すら二の足を踏む悪所である。もとの春原朝臣常見の母屋(もや)、二分 の一町の敷地に板木塀を 回らし棟門を構え、打見には栄爵の屋敷だが其処 比処の破れから、欝積した情念が小路にまで滲み出してくるようで、人はおろ か行き交う雁もその怨に列を乱し、野犬も情に堪じて歯牙を収めると云われ た。そのため、みな小路を隔ててさえ甍を並べることを避け、昼でもあたりには 人の姿もなく、そのため弘子が住まいしていることすら知るものは少ない。爾来 ここを誰云うとなく悪原殿と呼ぶようになった。
 ではその弘子を見出したのは誰か。それはほかならぬ小野篁であった。

 篁は夢を見ていた。それが夢と解るまでにどれほどの時を要しただろうか。目 を覚まし、辺りを見まわしても蕩々たる闇の中に二人の息使いが響くばかりの、 この屋の内を思い出すまではそれは現とも虚構ともつかなかったに違いない。
  −嫌な夢見が続くな。
 物忌みもせずこの悪所に通うのが原因だろうか、篁は身を起こし、吉備大臣 の歌をつぶやいて夢を違えてみたものの、再び目を瞑ることさえためらわれ た。
 首もとをそっと拭い、太刀を引っ掴んだ。春とはいえ宵をむかえれば屋の内で も冷え込みは厳しく、息を吸うたび鼻腔が凍てつくが、顔の火照りとともに妖夢 も引いていくようで心地よい。篁は端戸をわずかに開け、先から狗の遠吠えが 聞こえてくる東の方を見やった。
「ふん、放免どもめが。」
 吐き捨てる言葉も霜と降った。
「篁様。」
 衣擦れの音が微かに聞こえたかと思うと、弘子の細身が背にしな垂れかかっ てきた。この闇にあって、その肌の白さは見事な稜線を際立たせ、燐のように 自ら炎を生じて掛けた衣の内からでさえも青白く光を放つ。
「様子を見るだけです。どこにも行きはしません。」
 その見開かれた瞳にはうっすらと涙がにじみ、篁の胸元を抱きしめるしなや かな肢に袖を重ねると、弘子の首筋からは男を実にsentimentにする薫りがし た。篁は妖艶でいて未熟さの残るこの香気がたまらなく好きであった。世の人 が、この屋から染み出しているという情念とはこの香気ことで、みなこの薫りに 魅せられることを恐れ、触れることを躊躇っているのではないかとすら思った。 弘子の冷たい指先が篁の頬に触れ、肩口そして背へと伝ってゆく。 篁は力なく 端戸にもたれるようにして座り込み、香気さえも覆い尽くすように後ろ手に引き 上げた衣を裸身にかけた。
「夢に、父を見ました。」
 弘子が少し震えている。
「誰も魂が肝に入らば夢を見ると申すではありませんか。」
「自ら喉を掻き切って。」
「恐れなさいますな。ここに私が居ります。」
「それから言うのでございます。」
「『弘子は無事か。』と。」
 弘子は眼を見開いた。
「どうしてそれを。」
「私も同じ夢を見ました。今もこの手に血飛沫の温もりが残っている…が、あれ は夢。」
「しかし。」
 篁は弘子を抱きすくめて、再び吉備大臣の歌を呟いた。
「あの出来事で、父母を失い、父を頼りとしていた一族からも疎遠にされていた 私を、友人 (ともひと)の伯父様が養ってくださり、ここまで生き長らえてきまし た。その伯父様も昨年亡くなり、今の頼りは篁様ばかり。」
  −友人様か。
 あれほど恐れていたはずの目蓋が重く、思わず知らず瞑目する。
「友人様が奇妙な死に方をしたのを、あなたの父の所為と云う者までいる。近 頃はとかく怨霊、鬼のたぐいを増やしては、僧侶だの呪師(のろんじ)だのの糊 口を養うばかり。怨霊など早々生まれるものではありませぬ。ましてあなたの御 父上が怨霊など、及びもつきません。」
 いっそう強く抱きしめると、
「どうせ後ろめたい者があるのでしょう。」
と呟き、天を仰いで歎息した。

 あれほど狂おしい後朝の別れも、門を潜れば何のこともない昔のこと。篁は 欠伸とともに興ざめして、六尺余の体躯を天へと伸ばした。衛士の焚く火の消 えかかる頃、都城は山城特有の濃ゆい靄におぼろげに霞み、築地の影も一町 先は乳白色の帳に覆われた。
「本日こそは大学寮へ。」
「行かぬ。二条へ戻る。」
「しかし、それでは主上のお心に背くことになりましょう。」
 途端に歩みが早まる。
「私が顔を出すと、面白くない者があれには多い。皆のために行かないのだ。」
「またそのような事を申されて、逃げ様となさいましたな。賢くも主上の仰せによ り拝官いたせし学生の役をそのように軽軽に扱われるとは何たる事。」
「菅根、お前がいると父が居らなんでも同じだな。今夜からは見張りには家令殿 ではなく、福麻呂を付けてくれないか。」
「なんと、今宵もこのような悪所に通われると申されますか。」
 悪所。確かにそうかもしれない。少なくともあの者が住まう限りは。
「なりません。家令としてそればかりは。」
「やかましいの。」
 篁はそう返事しながらも心はここになかった。何者かがそこに、靄を分けてた たずんでいるのを感じ取っていたのである。
「篁様ですな。」
「いかにも。」
 靄の中の声は初老の男と見えた。だが、いまだ姿は影としか見えない。然様 で、と声がしたかと思うと不意に一陣の風が起こり、男が姿を現した。冠から白 髪をのぞかせ、浄衣を着くずして立つその姿が、生死を分かつ北斗が降ったか と思うほどの翁であった。
「よく、御父上に似ていらっしゃいますから、すぐにわかりました。」
「父を知っているので。」
 翁はにこやかにうなずくと、紙包みを取り出した。
「これを、あなた様に。どうか弘子をよろしゅう頼みましたぞ。」
 包みは上等の美野紙であった。開けると中には二品、人形と歌が書きつけら れた料紙が一枚。
  名にしおう二見ヶ浦の荒波は岨(さが)によせては打ち消えにけり
 何の謎をかけたのだ。出来の悪い歌、人形、弘子のこと。
「翁よ、これは。」
 目を上げるとそこにはすでに姿はなく、朝日に切れ切れになった靄ばかりが 残っていた。
「いかがなされました。」
「菅根、ここに居った翁はいずれへ参った。」
「何を寝ぼけたことを、ここには私しか居りませぬ。朝も明けやらぬうちに、まし てや悪原殿に、好き好んで来よう者など。」
「今しがた、翁にこれをもろうたのだが。」
「何でございます。」
「人形だ。」
 思わず差し出した手を引っこめる。
「なんというものを拾われるのです。悪所の次は呪詛人形とは。まったく以って 言葉もありません。」
  −呪詛。誰の目にもそう映るであろう。これは、そんな簡易な物ではない。
「菅根よ、これが読めるか。」
「馬鹿にされますな。枯れても小野の家に仕える家令。文字の読めぬでは…。」
 とっさに菅根は口籠った。もしここで己が呪詛の敵手(あいて)の名を口にす れば言霊となり、その者をさらに縛ることとなる。故なき呪詛をかけることは流 石に躊躇われる。しかし菅根の沈黙は那辺にはなかった。
「む、むぅ。いや、…読めませぬ。これは人の名にございますか。」
「ああ。おそらくな。」
「篁様はお読みになれるのですか。」
 篁も件の翁の如くにこやかにうなずいた。
「菅根。おぬしは無知に感謝せねばならんな。もし読めたなら、」
 懐深くにねじ込むと悪戯っぽく笑っていった。
「御身の首は間違いなく飛んでいた。」
 蒼顔呆然とする菅根を残し、篁の体躯は靄を蹴散らしていった。

「あれに行かれるのは、右大臣殿か。」
 火桶を囲む公卿たちが浮かぬ顔の冬嗣に目をやった。並ぶ顔は、春原五百 枝、良峯安世、藤原緒嗣、そして藤原三守。
「大方、峯守殿の話を聞き届けてもらえなんだのだろう。」
「今日も御簾内に彼の者が居ったか。」
 五百枝がため息混じりにつぶやいた。
「入内して五つ月になる。後宮の者に訊いたが、彼の者の許には日に夜に幾た びと通うが、 他所には御居しがないという。」
「御寵愛厚き慶命(けいみょう)様の許へもか。」
「噂とはいえ、そのことは官人達はおろか市井の者まで知れ渡っている。」
「噂ではない。事実だ。」
「然程の者なのか。彼の者は。」
「顔貌を見たことのあるのはこの中でも貴殿だけじゃ。どうなのじゃ。」
「美しいといえばそうかも知れん。しかし、」
 緒嗣は小首を傾げ、考え込んだ。
「どういうわけか顔が思い出せんのだ。」
 五百枝と安世は顔を見合わせる。
「迎えに行ったのは貴殿じゃろ。一度も顔を合わせなかったのか。」
「そんなことはない。主上の御言葉どおりに探した。顔も確かめ、確かに…どう いう訳じゃろう、思い出せん。」
 緒嗣の記憶の糸。半年前の断簡。嵯峨野は霧の中、一軒の破れ家、初老の 男−高丘早成と名乗った−奥に婆と女が合い向かいに座していた。女は、肌 が白く白雪の如き輝きがあった。顔は…憂いがあった、寂しげであった、そして こちらを向いて…微笑んだ。微笑んだ?いや、そこには冷たさがあった、残忍さ もあった、ちょうど白雪が無慈悲に体から温もりを奪うような、そんな顔。美しい というよりその禁忌にも似た蠱惑的な魅力に惹かれた。
「むう、いずれにせよ、前の主上のこともある。このままでは終わるまいな。」
「安世殿。他人事では困りまする。われらが如何にかせねば。」
 近頃、嵯峨の町は寵愛をいいことに主上とともに御机帳の中に入り、政に口 を挟みだしたのである。そのよい例が先に申した峯守であった。大宰府近くを 往還する窮民を救うための寄宿舎を建てることを願う表を再三出しているのだ が、事毎に彼の者の気分で否決されている。主上もそれが不条理なこととご理 解あってもよいよいと御裁決なさってしまわれた。心中期するところがある一同 は、たかだか小娘に足蹴にされるとは峯守殿もさぞ悔しかろうと、同情は並々 ではない。いまや嵯峨の町憎しは主上憎しへと徐々に移行していた。
「あの時、私が要らぬことをしたゆえ、このようなことになったのだ。」
「緒嗣殿のせいではない。あれは霊夢のとおりに探した結果だ。だとて観世音 菩薩を恨んだところで致し方もなし。」
「そう、あれは必然。のう、三守殿。」
 際前から一語も発しない三守に五百枝が水を向けた。
「三守殿。」
「はぁ、噂。あの噂のことでござろう。」
 三守の口唇から小指が離れた。癖とはいえ、あまりに大人げのない仕草であ る。
「何の噂じゃ。わしらは嵯峨の町のことを申しておる。呆けてどうなされた。」
「知らんかな。奇怪な翁が市中を賑わせておるそうだ。」
  −何を言うかと思えば、安摩殿め。
 五百枝が苦々しそうに舌打ちをした。飄逸とした顔をして感情を表にあらわさ ない、それは安摩の面そのものであった。
「ほう、それはどのような噂ですな。」
 母は違えど兄の醜聞は聞きたくないとみえて、安世が三守の話に乗った。
「実はな、安世殿。このあいだ捕らえられた偸盗の金塔丸の話じゃ。ある夜、金 塔丸が堀川沿いを急いでいると、道の側で翁が鼻の頭まで真っ赤にして酔いつ ぶれていた。市井の者にしては良いなりをしているので、行きがけの駄賃と身ぐ るみ剥がして堀川に叩きこみ、後の面倒を嫌って頭を割って殺してしまった。次 の日、市へ行けば、昨夜の翁は何事もなく箸をひさいでいるではないか。金塔 丸は昨夜は殺し損ねたかと、その夜、翁を再び襲い、今度は一刀のもとに切り 殺した。明くる日、市へ行けば、また翁は何事もなく箸をひさいでいる。男は、昨 夜もしくじったかと、その夜、翁を三度襲い、間違えなき様に首を刎ねて己が家 に持ち返ったが、頭に血が昇ったきり、眼が冴えて寝られたものではない。朝を 迎えて、男は古い筵に首を巻き、翁がいつも店を出す辻へと急いだ。首がここ にあるのだから、生きていようがないのだが、確かめてみるまでは溜飲が下が らない。人ごみの中、男は恐る恐る店を覗いてみれば。」
「翁がおった。」
「翁は莞爾として男を迎えた。慌てて筵を引き裂き、首の翁の髻を引っ掴み、し げしげと眺めると、血にまみれた首が莞爾として男を見つめ返していたと申 す。」
「そのような世迷言を。」
 身の高き者ほど、gossipsを、あるいはoddityを望む風潮がある。五百枝の頭 にはすでに彼の者のことは消えかかっていた。と申すより、それを、この混沌を 消すための一種の清涼剤を欲していたのかもしれない。
「それが、柳の斎箸ばかりをひさぐもので、皆から白箸翁と呼ばれているとか。 不思議な者があるものですな。」
 安摩の面は口角ひとつ下げずに感嘆した。これで彼の者の話も立ち消えて、 火桶の周りにはこの隙を埋めるように専ら市井の埒もない噂が散らされること となった。

 どうにもならない閉塞感が冬嗣を襲っていた。これほど目の前に広く門戸が開 かれているというのに、泥田に足を取られて一歩として進むことが儘ならない歯 がゆさ、名も無き女一人のために何を手をこまねいているのだ。権力を欲しい 儘に出来る白玉はそこに見えているというのに、中指の腹は触れているという のに、そこから一分とて伸ばせない掌のもどかしさ。白玉は藤家積年の望み。
「殿。よろしゅうございますか。」
「何だ。」
「はい。ちょっとした噂を耳にいたしましたので、」
 男は忍び入って、
「殿の御為となりますか。」
と、冬嗣の耳元まで迫った。
「実は昨日のことでございます。小野峯守様の嗣子篁殿が、とある拾い物をい たしました。」
「なにを。」
「人形にて。」
 下がれと左手を振って見せた。
「ただの人形ならお耳にも入れません。そこに書かれていた文字を見て、篁殿 はこう申した そうでございます。『これが読めたら首が飛ぶ。』と。」
「戯れであろう。」
「いえ、これは小野の家令菅根から聞いたことにございます。そこには眞名で三 文字。」
 冬嗣の左眉がわずかに動いたように見えた。
「他の者には。」
「すでに市井には広まりつつあることにて、天聴に達するのも時の問題かと。」
 冬嗣はすばやくこれを頭の天秤にかける。我が方に一分でも傾こうものなら 利のある話だ。篁は学生とはいえ当今の秘蔵の宝。われ一代のことなればどう とでもなろうが、この先三代四代と代を重ねるうちに篁の智慧は邪魔にもなろ う。使えばこれほど万能な者はないが、放っておけばこれほど危険なものはな い。ただ切り捨てるは易いが、ここは一つ当今の御前で軽重を問うてみるか。 ここまで瞳を一巡り、さすが不惑を前に大臣を務めるだけの人物である。
 だが冬嗣は、自ら上奏することはなかった。自然と、誰の口からでもなく天聴 に達することを待った。
 人形には、ご存知の方もおありと存ずるが『無悪善』の三文字が記されていた と伝えられる。読むならば、「悪(さが)無きは善(よ)からましなり」。古来この「さ が」とは嵯峨天皇とされてきたが、いまその位にある天皇を「当今」以外に名を 贈り呼ぶ習わしはない。嵯峨は嵯峨でもこの嵯峨は「嵯峨の町」を指しているの に他ならない。また、これが当時誰も読めなかったというのも嘘であろう。ただ、 天気を伺い読めなかっただけのことで、相当数のものは密やかに哂っていた。 そればかりではない。中には面白がってそこここに墨書する者、札を撒く者とり どりに、解かる者も解からぬ者も熱に冒されたように『無悪善』を都城中に撒き 散らした。巷とは面白いものである。都城の二割の者がこの熱病に罹った途端 にその感染者は日に倍増しとなってゆく。十日足らずで洛の内外男女の別なく 仕事も忘れ児も放り出し、この文字をこけらに書いて踊り狂いながらこれを撒い た。ここまで来れば、いくら九重の守りを十重二十重廻らした内裏の奥の御簾 内にも、この事が達せぬわけもない。
 誰とは分からないが篁に仮託して、誰もが口に出して云えない思いを誰憚ら ず公言してしまったのだから、鬱々とした苦土を一刀の許に切り伏せてしまった 爽快感はある。しかし、事はそれでは収まらない。何せ、主上の寵姫を辱めた のである。八虐の罪となり、篁の認識どおり首が胴から離れる仕儀にはなろう。 では誰が咎を被ることになるのだ。
 同年二月二十日、篁はその日一度きりの昇殿を許されて、主上の御前に引 き出された。 件の人形を懐に。