落書 弐
 また白い朝が来た。叡山から漂いくるこの霞を小野霞と呼ぶ。人はこれを昔、 神と争いこの地に封じられた大蛇の恨みを含んだ吐息だという。またある人は 罪なくして死した皇子がいにしえの近江の宮を今も霞の内に封印しているのだ とも言った。
「若。」
 菅根は半泣きに篁に取りすがった。
「何をしておる。私は引かれ者ではないのだ。主上に召されただけなのだよ。」
「しかし、それは名ばかり。」
「家令殿、この手を放してはくれぬか。遅れたとあってはそちらで首が飛ぶ。」
「では、せめて、この松ヶ枝を結んでからお出かけくだされ。」
 いにしえの引かれ者と同じことをさせるつもりか。篁は絡みつく靄を袖で打ち 払うように、菅根を振り切ろうとした。
「若様。菅根様のお心をお汲みくださいませ。」
 従者の福麻呂は立ちはだかり、眼前に松ヶ枝を差し戴いた。
「これでよいか。」
「真幸くあらば。」
「むう。」
 門扉は篁を送りだすと、厄を払うように音もなく閉じた。表にはどこから聞きつ けたのか人だかりが出来て、昨日までの踊り狂っていたことなど棚に上げ、皆 指弾した。
「若様。」
「気にするでない。私はもう慣れている。」
 とはいえ、千指差すところの喩えもある。気鬱な篁を、幸いにも流れる靄が衆 目から覆い隠してくれた。
「篁殿。」
 靄の中から声がする。
「翁か。」
「いかにも。」
 立沸の靄のなかから顔ばかりを覗かせた。
「翁の御蔭でこれから焔王に会いに行くことになった。」
「それはまた、めずらかな所へ参られますな。しかし、御身はすぐに許状に印可 を下され、還されましょう。」
「なぜに。」
 問いには莞爾とするばかりで、
「焔王宮に参られるなら、さしずめ、わしは三途の川の脱衣婆か。なれば篁殿 からなにやら剥ぎ取らねばなるまい。わしに何か下されぬか。」
「今度は物乞いか。」
「以前差し上げた人形の代と思うて下され。そう、ひとつ夢を戴きたい。」
「夢。」
「はい。前の戸部郎の夢。」
 篁は目をむいた。
「元はわしの持ち物、あなたに差し上げるつもりはございませんでした。還して いただきたいのだが、いかがかな。」
「やってもよいが、夢などどう渡せばよいのだ。」
「『翁にくれてやる。』とでもおっしゃってくだされば、それでようございます。」
「では、翁に夢をやろう。」
「ありがたく。」
 空の両手を恭しく押し頂いた。
「ところで、この夢を見るべき者とは誰だ。」
「さてさて。まぁいずれ知れましょう。私はこれにて。」
と、靄のなかに笑みだけを残して消えていった。
「若様。」
 福麻呂の声にびっくりして振り返ると、
「何をされているのです。さあ、参りましょう。遅れます。」
と即された。
  −夢…か。
 すでに靄も晴れ、篁の踵は内裏へと向かった。

「これへ、控えておれ。」
 篁の姿に大臣以下八座に至る者達はざわめいた。
「峯守殿によう似ておるのう。」
「それにしても粗野な顔じゃ。」
「まるで猿猴を連れてきたようじゃの。」
「なれば野猴じゃ。ほほほ。」
 その一語として篁の耳には届かなかった。主上を前にするだけでこれほどに 身が堅くなるものなのか。あの荒蝦夷を向こうにまわし、野山を駆けていた篁に とって、儘ならないこの強ばりは初めて感じる恐怖のなにものでもなかった。
「篁、篁よ。」
 肩をむんずとつかまれて初めて呼ばれていた事に気が付いた。
「主上からの御下問である。速やかに返答申せ。」
 冬嗣に追い立てられても、返すべき答えがない。
 すかさず三守が、
「あの人形のことよ。人形は持って参ったのであろう。」
 黄衣の懐から、人形を取り出す手が小刻みに震え、平身低頭して青ざめた唇 はわななくばかりで一分として動かない。
「これは拾ったのだな。」
 渇ききった喉がバリバリと音を立てて蠕動する。
「もう一度たずねる。これは拾ったのだな。」
「はっ。」
 ここにきて、篁はこの場が舞台であることをやっと悟った。
  −座興なのだ。
 すべては主上一人のための舞台、大臣も八座もすべて俳優(わざおぎ)なの だ。本人がにわかを演じている。そこで戸惑う私を弄ぼうというのだ。震えてい た口唇がいまは塩気を感じるほどにたぎっている。
 御簾内から一目で女の腕とわがる真白き華奢な手が伸びて受け取った。
  −あれが嵯峨の町か。
 主上を善いようにあしらう腕、それさえ多くの者は始めて見る彼の者の姿であ った。
「これは、いかに読むのか。」
 主上の問いに一同の目は篁を刺した。拾っただけなのだ、知らないといってし まえばそれまでのこと、篁を咎めようもない。だが、
「読めとの仰せなれば読みもいたしましょうが、この場では憚られることにござ います。」
 自らの破滅を、否、小野一族の破滅を招きかねない言葉であるのに、自分で も驚くほどすらりと言葉が出た。
「主上の御前であるためか。」
 鹿を狩るときのように、冬嗣は篁の逃げ場を言葉の勢子で塞ぎ狩り立ててゆ く。返事の代わりに篁は瞑目した。
「よい。申せ。」
 主上は留めの矢を放った。これで篁に退路ない。
「なれば申し上げます。『さがなきはよからましなり』と訓じまする。」
 少なからず喜色を湛えてこれを読んだ者達の、慙愧の念から発せられる歎息 がそこここから漏れた。
「篁。無礼者め。」
 ざらり、と御簾が揺れると、主上の坐ます座(くら)から烈風が吹き出したので ある。公卿たちは驚愕し、居ずまいを崩さぬ者はなかった。怒髪天を衝かんば かりの嵯峨の町は篁の頬に一撃を食わせ、なおも打擲に及ぼうとしていた。
  −なるほど、これが岨(さが)か。
 篁は嵯峨の袖をはしと受け止め、
「これは嵯峨の町様でございましたか。私は主上の命に従ったまでのこと。あな た様が主上を籠絡しておるなどとは申して、いや、これは巷談でございます が。」
と、莞爾として申した。
「それとも、打擲なされる節がございますかな。」
 今の一撃で篁にはいつもの生気が戻ってきた。だが、この場の時の氏神、安 摩の面はその内で頭を抱える。
「学生たるもの古を学び、時勢を習い、書籍に遊び、世間を論じるものにござい ます。この程度のものを読めたと申して大逆に問われては身がいくらあっても 足りませぬ。巷談とは世の鏡にございます。善きも悪しきもすべてをありのまま に映しまする。天気にも曇らず、歪みもしない明鏡にございます。」
「黙れ、まだ我を愚弄するか。」
「待て、嵯峨よ。」
 袖を振り払い、再び打擲しようとしたのを主上がとめた。
「篁よ。確かにわぬしの云う通りかも知れぬ。しかし、だからとて此度の騒ぎに、 わぬしが一切関わりないという確たる証拠とはなるまい。即不問とは云えぬ。こ こに居るもの皆が読めなかったこの文、彼程のものと申すなら、その方の知恵 がいか程のものか、ちと試すことといたそう。嵯峨よ、あれを持って参れ。」
 怒りがまだ治まらない嵯峨の町は睨みつけたままするすると後へとさがり、奥 から取り出した函を御簾の内に差し入れた。主上の手の音が緩慢に漏れ聞こ える静謐な空間を、明らかに嵯峨の町が威圧している。
「さあ、これを。」
 差し出された料紙には水茎の跡も清清しく、詩文が書かれていた。
「さて、これは朕の詠じし詩文ぞ。さあ削訂せよ。」
 詩才並ぶ者なしと評判の当今の詩である。ここに並ぶ者も、卵は産めずとも 善し悪しは分かるのと同じに、詩は詠めずとも出来不出来は皆理解が出来た。 皆、詩賦の妙を感じ取り嘆息を漏らし且つ及ぶべくもないであろう篁の才を哀 れんだ。紙は巡り、最後に篁の眼前に示された。

  閇閣唯聞朝暮皷 登楼遙望往来船

 篁は一瞥して、
  −お人の悪い。
と、ぼそりと呟いた。
 御製に朱筆を入れる、それも博士でも直講でもない、一介の学生にそれをせ よというのはあまりに酷である。そしてそこに示された詩は、御製などではな い。
「よき御製にて、手を加えるところはございませぬ。」
「篁、それでは。」
 思わず冬嗣が口を挟んだ。
「然れども、」
 居住いを正した猿猴の口角がわずかに上がる。
「私ならば、『遙』を『空』といたします。」
 まさしく当意即妙であった。死を免れる悪あがきかと思っていた冬嗣も、詩句 を繰り返すうちに主上の詩句より数段の違いを生じていることに舌を巻いた。た った一字の違いでかほどに違うのか。
「然様か。」
 弱弱しく呟いた主上の手から文集が滑り落ちた。

「お帰りになられたか。」
 菅根は松ヶ枝のおかげだと、一人はしゃいだ。
「心配をかけたな。」
「いえ、先に御使者が参られまして、主上から固織(かとり)絹三匹を賜りまし た。」
「私の命も軽いものだな。」
「それと御使者は主上から『篁八斗』と御言葉があったとも申しておりました。こ のうえ米が八斗下賜されるのですか。」
 篁は思わず噴き出した。
「急に笑うとは失礼な。」
「菅根、お前は長命の相だ。『七歩の才』を知らんのか。『世に才一石有り、植 八斗を有す、我一斗、残りを世人分かつ。』とな。」
「何のことで。」
「つまり重六を出してしまったのさ。」
 菅根はますます不可解な顔をした。
「なんでもない。さて、もう一つの片付け方でも考えるとするか。」
 篁はそのまま欄を駆け登った。

 この年の春三月、主上は皇太弟の大伴親王に禅譲することを決められ、御 自身は嵯峨の別業に御遷りになることとなる。別業は僧院とし、新たに嵯峨院 を興されここに隠棲なさったのだが、人々は前の主上とともに嵯峨の町が同行 したことに十余年前のデジャヴュを感じずにはいられなかった。
 篁の許へ、その嵯峨の主上から書簡が届けられたのは、盛夏五月のことで あった。
「よう参ったな。」
 宵の口、嵯峨野は風の音しかない。
 いつもは御簾内にあって、顔さえ知らなかったがこの日の主上はただ畳の上 に座しているだけであった。
「そちの噂を耳にした。なんでも悪原に通っておるとか。」
 篁は平伏したまま顔も上げない。嵯峨の主上はあの一件以来、いっそう篁に 執心であった。
「悪所ゆえ、そちが魅入られているのではないかと思った。想い人でもおるのか とも思うたが、好き好んで悪所に住まうものもおるまい。巷では下司な歌が詠ま れておる。」
「『葦原の蟹の腕上げ(かいなげ)泡沫の夢に恋しき人を想はん』。まことにもっ て、恥じ入りまする。」
「では歌の通りだと。」
「さて、そのようなことのため、私を召されたのでございますか。」
 眉を顰める。
「むう、実はな、あの日以来夢を見るのだ。誰あろう前の戸部郎の夢だ。」
  −翁め、やはりそういうことか。
 繋がった長い長い糸を手繰りながら篁は切り出した。
「さてそのことでございます。私も縁ある者から聞き及んでおりましたので、心配 しておりました。ぜひとも、主上と嵯峨の町様にお逢い戴きたい者がおります。 その者も今宵は同道してございますが、お逢いいただけますか。」
 主上は話が見えないとみえて、嵯峨もか、と念を押し、怪訝な顔をした。
「ぜひとも。」
 嵯峨の町は相変わらず篁の顔に嫌悪の情を露にして、肩をわななかせ両の 掌を固く結んだ。これでも主上の御前であるから抑制しているのだといわんば かりである。篁の上に座し、目の鞘をはずさない。
「さて、では始めまする。彼の者をこれへ。」
 主上は妙味深げに表を覗き込んだ。
「なんと。」
 衣擦れの音ともに現れたのは弘子であった。主上は瞬き一つ出来ず、声を失 った。嵯峨の町が二人、顔も姿も寸分たがわぬ者が、主上を前に左右に端座 したのだ。
「そしてもう一人。翁。」
 指弾とともに前栽ががさりと揺れると、浄衣の翁が現れた。
「友人朝臣…か。いや、友人は相模で卒したはず。これは幻術か。」
「いえ、現実でございます。主上。これはすべて主上の作り出したまごうことなき 現の世。」
 篁は翁を簀子に上げて、ゆるゆると語りだした。
「大同二年のことは忘れますまい。伊予親王の謀反。親王一人の罪に巻き添え になったものは数知れません。友人様も、そのお一人。そのとき民部少輔を勤 められていた春原常見様も、血族を以って流謫となりました。下吏の出と蔑ま れながらも実直に勤めていた常見様は、窺い知らぬ罪の口惜しさから配所で自 ら命を絶たれたのです。母上の諸子様は生きるすべなく病を得て間もなく亡くな りました。その遺児が、この二人。いや正しくは一人と申したほうがよいでしょ う。母方の伯父である友人様が引き取られ、なに不自由なく育てられた弘子 が、ある日を境に口を利かなくなったのです。」
 嵯峨の町は脱兎の如く逃げ出した。翁はこれを見逃さず、
「…オン・バザラドシャコク」
と誦すと、右足を取られ嵯峨の町はその場に昏倒する。はっとして弘子が抱き 起こした。
「友人、何をした。」
「ただの足止め、死には致しません。」
篁はなおも続ける。
「友人様がひた隠しにした事実を、吹聴するものがありました。父の死は主上 の所為と。主上の為されようで父が命を絶ったこと、まして、伊豫親王の無実を 知れば輪をかけて父の死は悲壮なものと映りまする。父を慕う心と主上を憎む 心。来る日も来る日も弘子は悩みました。そしてとうとう結論を出したのです。」
「身を二つに裂く。」
 我が身が我が身を抱く、慈しむように堅くした身を衣で覆った。
「父を慕う弘子が陽ならば、主上を憎む嵯峨の町は陰。わしは慌てた。まず春 原殿の母屋を買い取り、ここに弘子を住まわせ、もう一人の弘子はわしの兼従 でもあった嵯峨野の高丘早成に預けた。それが誤算であった。主上は日嗣の 皇子の頃から嵯峨野に遊猟に出ていた。嵯峨野の弘子はその姿を見て抑えて いたものを増長させてしまったのだ。それからだ。わしが左道に傾倒していった のは。なんとしてでもこの弘子を元の一人に戻さねばならない。この命尽きる前 に。命がけであった。だが、誰一人治し方を知らなかった。そんな時、相模守の 任が下った。都を離れるのは危険な賭けだ。二人にもし何かがあっても遠地に あっては助けられない。断腸の思いであった。任地に赴きふた月、身の余命を 知った。このような遠方では死ぬわけにはいかない。この頃には弘子のことし か眼中になかった。わしは意を決して屍解仙することとしたのだ。」
「屍解仙。」
 仙人と聞き、主上の目には父帝の姿がちらついた。朕が招いた悲劇。世を乱 さぬためにはわずかな犠牲はやむをえなかったのだ。かほどのことは微細なこ とではないか。伊豫のことも兄のことも、本朝のためであったのだ。そうだ、今 度の退位だとて世を思えばこそ。そうは思ったが、父帝の哀れむような眼差し に言葉には出来なかった。
「都に戻ってみれば事態は急転していた。嵯峨野の弘子は入内をし、悪原の弘 子は篁に見出されていた。悪原はともかく嵯峨野の、嵯峨の町はどうにかせね ばなるまいと『無悪善』の一件を起こしたのだ。」
「ところが、嵯峨の町はそれすら計算に入れておりました。自ら薬子になろうとし たのです。その身を捨てても、主上にこの上ない憂き目を味わせる事で父の恨 みを晴らそうとしたのです。」
 主上にはもう一言たりと発する力もなかった。嵯峨の町の色香に溺れ、兄と 同じ末路を辿ろうとは思いもよらなかったことである。
「今宵とて、篁のたっての願いゆえここに参ったが、弘子同士を逢わせる事は 本意ではなかった。身を分けたものが再び顔を合わせるとその者は消え失せ ると聞いておったからのう。それにもまして、」
 上目遣いに、
「主上にお逢いしとうはなかった。」
 呪にかけられた嵯峨の町は苦しげに呻いていたが、弘子の腕の中で翁の話 に聞き入ることで穏かさを取戻していった。こうしているうちに弘子も嵯峨の町も 影が薄くなりだしている。

   音にきく二見が浦のあだ波は岨に寄せては打ち消えにけり

「どうやら時がないらしい。翁よ、筒封じは出来ますか。」
「そのくらいなら。」
「相手が、もう一人の弘子でも。」
「助かるために必要とあれば、やろう。」
 腰に提げた小袋から一余に切った篠竹を取り出そうとすると、
「封じるのは、これに。」
と、親指ばかりの山鳥の卵を差し出した。
「嵯峨の町よ。確かに主上には恨みはあろう。だからといってそちを薬子にする ことは出来ん。そちは主上を退位させ、この嵯峨野に押しこめたのだ。それで よいではないか。」
 嵯峨の町はまだ恨みが晴れないとみえて、頷くことはしなかった。その代わり に篁を見る目が変っていた。
「これから元の体に戻る。封じられるのは辛かろうが、そちを一番に慈しんでく ださった友人様が最善とお思いなされてなさることだ。努努怨むまいぞ。」
 そういうと翁に卵を渡した。
 翁が筒封じの呪を誦していく。その声に和すかのように、何事か聞こえてき た。

  春ノ原ハ芳菲タルニ駻(かんば)驕驕トス  惜ラク紅錦ノ地花蕭索ス

「…すまぬ。」
 主上の呻くような声に一同ははっとした。韻律も揃わない詩賦にまだ迷いが 感じられた。自らの若気の至りを駻に喩え、常見の死を悼んでいるのだ。篁は わずかに主上の素顔を垣間見た気がした。大を生かし少を殺してきたのは守 るべきもののため、非情にならねばならなかった主上の苦悩がそこにはあっ た。
 弘子の腕の中で、見る見る嵯峨の町の真白き肌は透けてゆく。思わず知らず 掌があう。瞑目する。束ねた髪がはらりと解け、衣が肌蹴ていった。雲散霧消と いうが、肌は小片に裂け、粉々に砕け、分子となり、素粒子までに細分化され る。腕が消え、掌が消え、指が消える。穏やかな顔も頬が失せ、鼻が失せ、耳 が失せ、瞳が失せた。
「父…上。」
 小さい呟きを残し口が失せた。
   −主上の言上げで、嵯峨の町は二度と現れまい。
 翁は卵を拾い上げると呪符で封をした。
「さて、これをどう致す。」
「こうするので。」
というと、腕に残された衣に顔を埋めた弘子の口に中に放り込んだ。呆気にと られる弘子に、
「苦しかろうが、噛んではならん。飲み下せ。」
と、口を閉じさせた。
 弘子は懸命に卵を飲み下そうとした。喉元が膨らみ、下ってゆくのが目に見え て分かった。ちょうど、胃の腑に納まったと見えたとき、弘子を包んでいた青白 い炎がすっと消えた。
「今は違和を感じるでしょうが、おそらく二三日で元の体に戻りましょう。」
「このような法、聞いたことがない。いつ思いついたのだ。」
 篁は莞爾として、弘子を翁に渡した。
「翁よ。私から取り上げた夢はいかがなさるので。」
「主上のおそばには良い獏がおらんようだがな、なに、夢などは嵯峨の町ととも に失せてしまおう。」
 翁は手をひらひらさせて笑った。弘子のほうも、何事もなかったように主上に 暇を乞う。
「篁よ。せめてもの償いに、弘子を我が許に。」
「またも嵯峨の町を生み出させるおつもりか。」
 篁の一瞥には主上も一言なく、翁に添われその場を去ってゆく嵯峨の町の幻 影を追った。
「主上、今宵よりは夢を見ることもありますまい。また、噂の真相はこのようなこ とでございます。歌の通り、足下は腕上げをしたまでのこと。」
 主上は目の前に起こった出来事に、答えることも出来ないほど自失していた。

 その後弘子は何度となく嵯峨の主上に召されたが、当然のことながら拒み続 けた。天長元年春、弘子は女児を産み落とした。美しい女であったが、なぜか 鳥の如く開のない不具な子であった。この子が嵯峨の町の生まれ変わりなのか は伺い知らないことである。