難南山抄

双調櫻艸紙 −花よ夜須良へ夜須良へ花よ−
願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ   西行法師

 西行法師はその望みどおり二月十四日亡くなった。桜が咲くとみな心が騒ぐ。それとは裏腹に、釈迦が沙羅双樹のもとで入滅したときのように、穏やかに、静寂の中で逝った。「花は桜樹、人は武士」という。西行も佐藤義清と名乗り、宮仕えをした身。これからという未練をすっぱりと切り捨てる潔さにも、櫻の散り際の美しさがダブる。

   午睡よりさむれば今日の西行忌  普蘭

櫻花散らばちらなむ散らずとてふるさと人の来ても見なくに   惟喬親王

『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』。『切られ与三』の別名より、春日八郎の『お富さん』で知られた歌舞伎である。第一場で伊豆屋の若旦那与三郎は、着ていた羽織が脱げ落ちたことさえ気づかないほどに情婦お富に見惚れる。「羽織落とし」。美しいものに見とれると自らの成りなど、どうでもよくなってしまうのだ。櫻は人を狂わせる。

   散り櫻与三の羽織を埋めをり  普蘭

櫻色に衣はふかく染めてきむ
   花の散りなむのちのかたみに

             紀有朋

 下を流れる川は渡良瀬川。あの足尾鉱毒に毒された「死の川」であったのも今は昔。今を盛りと咲きほこる花。水面にたゆたう花弁は、先人達の苦しみを少しでも和らげてくれるだろうか。

花なりと、花なりと振るる御霊かな。 普蘭

いざ櫻我も散りなむひとさかり
   ありなば人にうきめ見えなむ

            承均法師

 古城の櫻。武田に攻められ、上杉に落とされ、北条には叩かれ、そのうえ「坂東太郎」利根川に天守ごと飲み込まれた「関東の華」、厩橋城。
城の馬場跡で揚がる鯨波の声が、酒宴の余技とは平和なことで。

櫻吹雪の鯨波に急かされていく   普蘭

花見れば心さへにぞうつりける色にはいでじ人もこそしれ   凡河内躬恒

 教会に櫻、なんともミスマッチのような気がするが、傾きかけた日の光に照り映えてとても神々しい。櫻を神の宿る場所という人がいる。死体が埋まっているところだという人もある。「櫻は聖俗を併せ呑む『マグダラのマリア』のようですね」といったら笑われてしまった。清楚でいて妖艶、なんとも櫻は不思議だ。

    マグダラのマリアの足を、散華で濯ぐ。   普蘭