難南山抄

折々の駄句だく+α
指一本折れば而立の歳の暮

 別に年をとったというわけでもない。実感がないままにここまできてしまった。いざ三十の声を聞くと、何となしに空恐ろしいというか、上手くいえないが、むずがゆいというか…。
 冬の日、分身を写す。
風強しにびたる祖母の針納む

 祖母は九州の出身だった。気が強く、何事も歯を食いしばってでもやり遂げる人だった。
 血というのは上手く繋がらないもので、私にはまったく持って受け継がなかった気質だ。その祖母が亡くなって今年で二十三回忌を迎えた。はっきり云ってしまえば、祖母の記憶など私には欠片もない。しかしこれだけはよく覚えている。昼過ぎ、絎け台の前で悪くなった目を凝らして繕いをする姿を。
 初午の日、久しく開けていなかった針箱から折れ針を稲荷へ納めた。
凛として幼子泣かす雛の貌

 ひな祭り、女系家族だったせいもあり、我が家では
端午の節句より大々的にやっていた。広間に机を重
ね、緋毛氈を敷き、各々の雛を飾った。一つ一つは
こじんまりとしていたが、まとまるとそれなりに豪勢だ
ったように覚えている。
 臆病者の私は、その数十の目に見つめられるとな
んとも居た堪れなくなり、いつもその広間を避けて通
っていた。それも遠い記憶になってしまった。
滝宮や颪塞き止め義仲忌

 木曾三社神社という社がある。義経らに追討され、都を追われた木曾義仲の家臣たちは、木曾へは帰らず信濃を避け、峠を越えて上野に逃げ込んできた。そして赤城山麓の谷間に隠れ里を作り、ひっそりと時代の遷り変わるのを待ったのだ。この社はその落人たちの心のよりどころとして建てられた。
 参道は階段を下へ下へとくだり、沢を越えると社殿に到達する。滾々と涸れることのない湧き水が、社地の其処此処から溢れ、まるで水の中を往くが如く。ゆえに滝宮とも呼ばれる。
 ちょうどこの日は義仲忌、静かに剛の者の死を悼もう。

滝宮は義仲忌なれど何もなし
ふたとせを老いず死なずと椿哉

 昨年の暮れに咲き出した椿が、いまだに咲いてい
る。中国では「椿」は伝説の大樹で、不老不死と深い
つながりがある。日本でも八百比丘尼は行く先々に
椿を植えたという。
 懸命に咲く椿、夏の狂い咲きも不老不死の生命力
の証明なのか。
 写真は何も関係のないもの。暮れ行く日の入り。黄
昏の予感。
土佐水木天使のベルの胸騒ぎ

 トサミズキが咲くと、ほんわりとした暖かさがあたりに漂い始める。春もときめきも黄色い花と共にやってくる。かわいらしいその花に軽やかな響きを聞き、切ない胸の高鳴りを覚える。昔々の記憶。まだ何も知らなかったあの頃へ。
 
異国(とつくに)のいくさや荊のてんとう虫

 てんとう虫は上へ上へと這ってゆく。高みに登りつ
めたとき、けして降ることはなく、飛翔して去って行
く。一名「マリアの使い」。
 はるか中東で日に何人もの人が殺し合いまた殺さ
れてゆく。なかったはずの憎しみを新たに生み出し、
さらに自傷して己がなかにも憎しみの火を灯らせる。
 何のための宗教だ。神はこのことをご存じないの
か。
「太初に言あり 言は神と供にあり」
 なれば神は目を瞑られるのか。この無意味極まり
ない所業を。人を愛せと教えたのは誰だったのだ。
 てんとう虫よ。今すぐにでも飛び立って、この疑問を
神に問いかけてきてくれ。まことに神は「沈黙」される
のか?

 異国に人死ありと人の謂う
      蒼き御空に神も無ければ