2005年02月20日

侏儒考 −赤松満祐と云ふ者−

 徳川家をあからさまに批判できなかった江戸時代の歌舞伎作者たちは、題材を当時起こった事件に取 材しながら、舞台設定を室町の頃の出来事に移すことにより、幕府の追及を逃れながらも強烈な皮肉を 加えていた。そのなかで、足利家転覆を狙い暗躍する「アンチヒーロー」が多く排出されたが、筆頭といえ ば赤松満祐であろう。この世にあっては将軍を脅かし、死しては悪漢達に秘儀を授けて幕府転覆の糸を 引く。まったくもって老獪な人物という印象である。が、実際の赤松満祐はどうであったのか。
 赤松満祐は弘和元(南朝年号 北朝の永徳元年 西暦1381)年に播磨国守護赤松義則の子として生 まれた。容姿はきわめて醜悪で、背が異常に小さく、将軍義教からは「三尺入道」と渾名された。そのせ いもあったのか、応永三十四(1427)年の父の死を以ってやっと播磨・備前・美作の領国を相続したが、 一族の赤松持貞がこれを不服とし、将軍足利義持に願い出た。もとより将軍の衆道の念友とし、寵愛甚 だしかった持貞の訴えであるから、義持も二つ返事で三国のうち播磨領を召し上げ御料国とし、持貞を 代官として派遣することとした。この寝耳に水の御沙汰に満祐は激昂し、都の自邸に火をつけ、その足 で播磨国坂本城に篭城、柳営と一戦交える形を見せた。明らかなる反意に義持は諸大名に討伐を命じ るも、少なからず満祐に同情的な大名は動かず、時の管領畠山満家は義持をなだめ満祐への寛大な処 置を願い出た。折もおり、持貞が将軍の愛妾と密通していたことが発覚。持貞の自害により召し上げの 話もご破算となり、満祐が詫びを入れ剃髪(性具と称す)することで事件は収拾を見た。
 翌、三十五年(のち改元し正長元年)、義持急逝に伴い将軍の座を巡り義持の弟四人が籤引きをし、 義教が次期公方と決する。このとき満祐は侍所領人として召される。同年、領国の播磨で一揆が勃発、 自ら下向し鎮圧をしている。この頃を境に幕府との確執が強くなりはじめ、永享二十(1440)年嫡男教康 に地位も所領も託し、政治の一線から身を引いた。その頃、満祐の弟に当たる義雅の領地が義教によ って没収され、その一部が庶流の赤松貞村に与えられたのである。これを契機に嘉吉元(1441)年六月 二十四日、自邸にて教康に将軍を弑させると、自領白旗城に篭城。幕府と一戦を構えたが、寡衆敵せず 同年九月十日、満祐は切腹、一族も死を選び落城した。享年六十歳。


 赤松家といえば、村上源氏の流れを組み柳営にあっては四職の一角を占める名家であった。それは、 満祐の曽祖父則村(円心)と父義則の働きによるところが大きい。後醍醐天皇の鎌倉討伐の天声に逸 早く決起した則村は足利高氏とともに倒幕の急先鋒として活躍したが、家柄の優劣も然ることながら播 磨の一地頭という地位の低さも相まって尊氏や新田義貞らに劣らぬ働きであったにもかかわらず、論功 を軽んぜられたことに反発して南朝方を離脱。のちに同様の理由から叛旗を翻した尊氏の右腕として、 室町幕府樹立に尽力した。齢五十をとうに過ぎていた則村は、開府初期の不安定な状況を的確に判断 し、ともすれば転覆を狙おうとする大名たちをよく鎮めた。また義則は三代将軍義満を後ろ盾に、政所所 司の要職を務め、明徳の乱等の鎮圧にも活躍している。
 室町幕府は赤松家ばかりではなく、三管領(細川・畠山・斯波)四職(京極・山名・赤松・一色)と呼ばれる 複数の有力守護大名が入れ替わり立ち代り、摂政することにより支えられてきた。室町前期から中期に あたり頻々と起こる大名たちの内乱は、主導権争いから起こるやむをえない小競り合いで、それが早期 に幕府(というより将軍家)弱体化を招いたといえるのだが、この赤松満祐の熾した「嘉吉の乱」はどうも様 子が違っている。思うにこれは計算づくの内紛だったのではないだろうか。


 中国には「帝王革命」という思想がある。十干十二支の組み合わせで生じる六十の干支、そのなかの 辛酉の年は天変地異の年とされ、1260年に一度、この年に国家的大変革が起こるとされた。これを帝王 革命の中でも「辛酉革命」という。
 推古帝の御世九(601)年、この年は辛酉の年であった。そのうえ1260年に一度の「帝王革命」の年に 当たっていた。これに合わせて国家体形が変化させられている。つまり、以前までの「オオキミ」から「天 皇」への移行、憲法制定、冠位の制度化などがそれである。
 ではこの年から逆算して1260年前、紀元前659年に何が起こっていたかといえば、神武が即位してい る。つまり辛酉の年「帝王革命」をもってこの国はスタートしたことになっているのだ。それゆえ歴史書は 辻褄あわせをするため、なんとも長生きの天皇をでっち上げなければならなくなった。
 では推古帝の次の辛酉革命はというと文久元(1861)年、前年井伊直弼が殺害され、この年を境に明 治維新への幕は切って落とされていると考えると、国家変革の年なのだとかんじる。
 ゆえに辛酉の年は1260年に一度くる「帝王革命」でなくとも不吉な年と見られ、改元をして厄災を避ける ことを常とした。過去、辛酉の年に改元を行なわなかったのは四回あり、永禄四(1561)年、元和七 (1621)年、大正十(1921)年、昭和五十六(1981)年である。


 永享二十一(1441)年は辛酉の年であった。正月、前年の結城合戦が年末になり終息に向かっていた ものの、関東には公方がなく不安定な状況には変わりなかった。幕府にとっては不吉な年の巡りあわせ に、これ以上の災いを避けると朝廷に奉申させ、嘉吉元年と改元の沙汰が下った。一番単純な革命の 回避法に頼ったのだ。
 このときすでに満祐は嫡子教康に家督を譲り、政務からは手を引いていた。が、前年に起こった義雅 (満祐の弟)の領地召し上げ問題がいまだ尾を引き、決着のつかぬままの棚上げは、頭痛の種となって いた。召し上げは青天の霹靂で、何の落ち度もない義雅が土地を奪われる理不尽に満祐は歯がみして 悔しがった。それに輪を掛けて地団駄踏ませたのは、将軍家のものとなった領地の一部が、よりによっ て赤松庶流の赤松貞村に譲られたことにあった。この貞村、将軍義教と衆道の仲にあり、また娘を義教 の側室にしていたこともあり(ということは親子で義教と関係?ありえないよ…)、寵臣として権勢を誇って いた。応永のあの事件が満祐の頭によぎったことは間違いないだろう。赤松本流の排斥は目に見えて分 かっていた。
「先手を打たねば。」
 嘉吉元年六月二十四日、教康は父に代わり、結城合戦の祝勝(同年四月二十五日結城城陥落、足利 持氏自刃により終結)と共に、落成した新居で子鴨が生まれたのでお越し願いたいと義教を誘い出した。 満祐の誘いなら警戒したであろうが、教康の申し出であったこととお気に入りの能楽師音阿彌が舞うと聞 き、のこのこと出張ってきたのである。同席者は管領の細川持之をはじめ、山名中務大輔(熈貴)、大内 修理大夫(持世)、京極(佐々木)加賀入道(高数)、畠山左馬助(持永)、一色五郎(教親)、斯波義廉など 諸大名、三条中納言(實雅)など公家に混じり、赤松貞村も相伴していた。いずれも要職にある人物であ り、さながら幕府がそのまま赤松邸に遷ったかにもみえた。そして酒宴が始まった。
 このときに『建内記』では

「其席猿楽三番。盃酌五獻時分。」

となっているが、『看聞御記』には

「一獻。両三獻。申樂初時分」

となっている。まあ、義教がしたたか飲んで、三番見たのか一番だけだったのか、能を観ていた訳だ。こ のときの能の演題が『(盧+鳥 う)ノ羽』(『嘉吉記』)であったという。突如として轟音が鳴り響いた。何ご とぞ、との問いに三条中納言は、

「雷鳴歟(『看聞御記』)」

と答えたが、第内の騒憂は収まらない。どうやら厩から奔馬が躍り出たらしいとの知らせに、

「此馬ソトヘ出スベカラズ。門ヲサセ(『嘉吉記』)」

と叫ぶと、赤松家の家臣がわらわらと駆け出し、いたるところの門を閉じてしまう。不穏な雰囲気を察知し た大名たちであったがすでに遅く、背後の障子が開くと数名の打ち手が現れ、あやまたず義教に討ちか り、首を挙げて弑した。酒を過ごしていたとはいえ、武家の棟梁にあるまじき死に様である。これに対し、 三条中納言は教康が献上した太刀を引っつかみ、応戦。耳と股をしたたかに斬られ、その場に昏倒す る。また山名大輔、京極入道も防戦するが、切り伏せられ即死。大内大夫も細川下野守(持春 管領持 之のいとこ)も重傷を負う(両者とも、この怪我が元でのち死亡)。走衆(はしりしゅう 将軍に随行する徒 歩の供衆)の市三郎・遠山次郎も闘死(このとき走衆は六名が同行)。管領、畠山左馬助、一色五郎、斯 波義廉そして赤松貞村は築地を乗り越え逃走、命永らえた。
 当日、狂を発したとして、療養を理由に富田入道の屋敷に篭っていた満祐は、義教討ち取りの報を聞く と、すぐさま赤松屋敷にとって返す。ここでしばらく様子をうかがい、諸大名の出方を見極めようとした。し かし誰一人として動かない。皆この企みが、赤松一家、それも満祐一族のみで起されているとは夢にも 思わず、いずれが将軍家につき、いずれが赤松一派かを大名同士が探り合っていたのだ。とりあえず、 有無をも言わず赤松潰しに打って出そうな大名は先刻の屋敷内の乱闘で片付いていたので、満祐は自 邸に火を放ち、悠々と播磨まで退くことが出来たのである。
 まあ、このあとは義教の嫡子義勝が将軍となり、満祐追捕を命じ二ヶ月の戦闘ののち満祐の自害で幕 を閉じるといったお定まりのパターンなので省略する。


 この事件で興味を惹かれる点は二三ある。その一つが、舞われた『(盧+鳥)ノ羽』である。いまこの作 品は『鵜飼』といわれているが、その内容は以下の通りである。

 安房の清澄に住まう師弟の僧が甲斐国を目指して旅をしていると、石和で日の暮れを迎えてしまう。仕 方なしに在所の者に一夜の宿を頼むと、禁令があり泊めることは出来ないが、川岸の御堂ならよいと教 えられる。ただしそこには、川からなにやら光るものが岸に上がるの怪が起こるという。果たして、その夜 も現れた光とは、よくよく見れば闇の中、松明を振りながら岸に上がろうとする老いた鵜匠であった。老 人は、生活のため、楽しみ事のため殺生を重ねた報いから、夜毎苦しんでいることを僧に告白する。そ れを聞くに及んで、以前この老人に殺生を已めるよう諫言したことを、僧ははたと思い出す。その因果 か、殺生禁断の石和川で鵜を打った事が露われて、簀巻きにされ淵に投ぜられたと、自らがもうこの世 に無いと述べる。
 師弟は罪障懺悔に業力である鵜を使って見せるようにと頼む。鵜匠は、鵜に鮎を追わせるかたちを見 せるが、その面白さにまた因果も忘れ、鵜を打ち続ける。そのうち夜も白々明けようという頃、亡者は冥 途へと帰ってゆく。
 僧達は鵜匠の供養として、河原の石に一石一字法華経を書き付け川に投げ入れた。するとどうであろ う、地獄の鬼が現れ、鵜匠は生前の殺生の罪により、無間地獄に落とすべきであるが、僧に一夜の宿を 貸した善行を酌んで、極楽へ送る事にしたと述べる。さらに法華経の功徳と、回国僧の利益により、この 鵜匠は救われたのだとも述べる。

 なぜこの曲なのか?これは意識的なチョイスなのだろうか?だとすれば殺害のバックにこれを舞わせ たのか?
 能のなかでこの僧の名乗りはない。だが「安房清澄」と「甲斐国」、そして「法華経」というところから「日 蓮」であると知れる。しかし、満祐の想定した僧は日蓮ではなく、三宝院満済にほかならず、亡霊と化す 鵜飼は義教その人なのであろう。
 三宝院満済(1378-1435)は今小路師冬の子として生まれ、足利義満の猶子となった真言宗の僧であ る。醍醐寺の隆源の門弟となり、義満の力を背景に応永二(1395)年には三宝院門跡と醍醐寺座主を兼 任、同十六年に大僧正、正長元年(1428)には准三宮(准后ともいう)の権限を与えられた。義満義持二代 に仕え、信任を得ると、義教の将軍擁立に暗躍。就任後は「黒衣の宰相」と呼ばれ、幕府の中枢を押さ えた。奔馬のような義教を御せた人物は満済のほかになく、また義教も満済の言葉には従うことが多か った。
 とはいえ、将軍義教の暴虐、特に公卿への圧制が熾烈であった。たとえば、永享二(1430)年十一月九 日、義教の直衣始の儀の折、伺候していた菅(東坊城)益長が、脂燭に火をともしながら「一咲(笑)」し た。自らが笑われたと思った義教は激昂し、益長の所領を召し上げたこと。
 同五(1433)年、前摂政一条兼良邸にて闘鶏が行なわれた。見物人が多く、路地まではみ出していた が、運悪くここを義教の行列がゆきかかり、前にも行けない有様に、以後闘鶏は禁止との沙汰、および 一条卿に譴責の処分が下ったこと。
 もっとひどくなると、日野(裏松)義資は義教がまだ青蓮院門跡にあった頃、些細なことながら院を軽ん じたことがあった。これを恨みに思っていた義教は将軍就任後、義資の所領近江日野牧と三河和田庄を 有無をも言わさず没収した。そればかりか、側室として迎えられた義資の妹重子が永享六年二月、待望 の長男千也茶丸(のちの義勝)を生んだときでさえ、(叔父である)義資の元に祝いに行った者を事々に 処罰し、義資を周りから締め上げていった。同年六月、邸に忍び込んだ賊に襲われ義資は亡くなるが、 これとても義教が内々に葬るために討ち方を放ったのだと専らの噂であった。
 このとき参議の高倉永藤は憚らず「裏松討たるる事公方の御沙汰にて」と公言したため、死罪にされ かけている(罪を減じ、硫黄島に流刑)。
 また、満祐に対しての仕打ちは先に述べた所領没収ばかりではなく、生来背の低かった満祐を「三尺 坊」と綽名し、犬をけしかけ笑いものにするといった悪意に満ちたものであった。
 他にも梅の枝を折ったといっては腹切らせてみたり、食事が不味いといっては料理人を殺してみたり、 噂話をしただけの茶商人の首を刎ねたりと、挙げるだけでも気がめいってくる。
 存命中でさえこの有様であったのに、満済が亡くなったとなれば押さえることなど到底不可能である。ま さに「万人恐怖(『看聞日記』)」の時代であったわけだ。


 自らの気分で殺生をおこなった者の末路、それが『鵜飼』の亡霊である。満済ばかりではない、宿老と 呼ばれた山名時熈なども諫言をし、歴代の管領も苦言を呈したが、結局はその粗暴な行いは止まず、 次の標的と目されていた満祐に「簀巻きにされ」死の淵に放り込まれたのである。そのうえ亡霊となった 義教には救ってくれる日蓮(=満済)はいない。永遠に彷徨を続けるほかないのである。
 貞成親王の言葉を借りれば、

「自業自得の果て、無力の事か。将軍此の如き犬死は、古来その例を聞かざることなり(『看聞日記』)」

 死の目前、走馬灯の如く今までの出来事が巡るというが、満祐はその象徴的な能を義教お気に入りの 音阿彌に舞わせることで、将軍殺しのレクイエムとしたのであろう。


 突然話が変わる。赤松満祐を語るうえで、作家明石散人は「異端の為政者」を殺したという共通点から 「明智光秀」を幻視しているが、筆者の(幻想の)なかでは、ギリシア神話の「ヘパイストス」、つまり鍛冶の 神と重なり合い、緻密な計算からフレイザーのいう「王殺し」の大役を果たすために生まれた道化である と考えている。この考えの発端は、今般亡くなられた種村季弘の絶筆『畸形の神 あるいは魔術的跛者』 であった。
 この本の中で、エドガー・アラン・ポーの小説『ちんば蛙 あるいは繋がれた八匹のオランウータン』は ギリシャ神話の鍛冶の神ヘパイストスの説話を踏まえて書かれたものだと論じられている。小説の主人 公たる道化師は足が悪く背の低い男であったので、宮廷内では「ちんば蛙」と渾名されていた。この道化 は、王の命に従い身の屈辱を耐え忍んでいたが、その矛先が同じ道化の(密かに思いを寄せる)女性に 向けられたときに逆上し、一計を以って王以下重臣を人々の目の前で焼き殺してしまう。題名の『繋がれ た八匹のオランウータン』とは、鎖をもって宙釣りにされた哀れなる王たちのことであった。
 ギリシア神話のなかのヘパイストスは、ゼウスとヘラの子であるが、その容貌の醜さから疎まれて母の 手ずから海中に放り出される。レムノス島に漂着したヘパイストスはそこで9年間養育され、洞窟に隠れ 住んで金工として装身具を作っていた。その出来のよさから、ヘラは自らの玉座を作るよう命じるのだ が、生まれたときの仕打ちが忘れられないヘパイストスは玉座にある仕掛けをする。届けられた玉座は 実にすばらしい出来で、気に入ったヘラは早速に腰を降ろした。突如として「見えず切れない鎖網」で金 縛りになり、一歩足りと動けなくなってしまうのである。これにはオリンポスの神々もほとほと困り、軍神ア レスを送りへパイストスを捕らえようとするが、失敗。だが、次に送られたバッカスが、酒に酔わせるとい うだまし討ちで捕らえてくる。ヘパイストスに多少なりと同情を寄せる神々により、罪は不問、そのうえアフ ロディーテを妻として与えることで、ヘラはやっと解き放たれた。(このあとアフロディーテはアレスと不倫、 ヘパイストスにより性交中に「見えず切れない鎖網」で捕らえられ、神々の前にさらし者になる。)
 ヘパイストスはびっこであり侏人であった。醜悪であったため疎まれ、「三尺坊」と綽名される満祐は、 ヘパイストスや「ちんば蛙」(蛙舞=ヒキ舞=侏舞に繋がるので、偶然ではあるが面白い綽名だ。)同様 酔態を晒し、笑いものになる。しかしそれを耐え忍んでいることも三者には共通することであろう。そして 最後、上位者(ヘラ、王、将軍)を縛り(あるいはそのまま殺してしまい)その恨みを晴らしている。要点を 拾うと、どうも似通って見えるのは気のせいだろうか。

 王殺しは停滞する状況打破、世界共通の行為である。室町幕府はその当初から形骸化が約束された システムにより出来ていた。将軍の下に権力の集中しないことが、まず長持ちしない一因で、それは緩 めすぎで制御できない手綱のようなものである。また、鎌倉幕府の失敗たる「執権」一家への一極集中を 避けるために置いた三管領家も、内紛の火種を増やしただけであった。それゆえ四代以下の将軍から はお飾りばかりで、誰かに寄り添わなければ一人立ちさえ儘ならない名誉職に成り下がっていたのだ。
 それに義教は気づいていた風がなくはない。ゆえに暴虐とも見える引き締めによって今一度将軍として の復権を画策していたのではないか。朝臣の処罰は「尊皇」のあらわれと見ることもでき、将軍として政 治の一元化、朝廷と幕府の合併をも模索していたのかもしれない。ところがそれを知ってか知らずか、満 祐は「私怨」を掲げ将軍を殺してしまうのである。「私怨」は誰にでもあった。満祐ばかりではなく、諸大名 が多かれ少なかれ抱いていた「ぼんやりとした不安感」が将軍に対するものであったのは確かである。た だ誰もが「(処分されるなら)赤松が先」と思っていたし、満祐は常にその不安に戦々恐々としていなけれ ばならなかったのだから、必然といえば必然か。
「私怨」で殺したあとのことを満祐も考えていた。このままでは義教の子供が将軍になることは分かりきっ ており、何の変わりもない。だが、自ら頭に立つ気もない。そこで、将軍家の復権を目指して足利尊氏の 弟、直冬の孫を押し立てて播磨で独立を叫ぶ(まあ、将軍殺しの大義名分が欲しかっただけだろうけ ど)。 


 赤松満祐について調べてきたが、どうもよく分からない。短絡的な犯行をあとからおっつけ仕事で繕っ ただけとも見えるし、深読みすればいくらでもできる。浅いか、深いか。鼎の軽重を量りかねる。
 もうすでにここまで書いて持て余し気味。




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