2000年5月16日
「食道全摘」「胃亜全摘」
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食道をすべて取り、胃を伸ばし食道の替わりに食道のように細く作る。
首の周囲半分・胸から背にかけて・胃のある部位の3箇所にメスが入った。
朝9:30に手術室に入るという事で、母・妹・叔母・従妹・夫・私は朝早くに病院に行った。
部屋で父はいつものようにパジャマを着てベッドに座っていた。 一瞬「えっ?」と思ってしまった。
私の想像では手術着に着替えて注射を打たれて横になってるとばかり思っていたから。
父は「手術室から生きて出てこれなかったら、あとは頼むね」と淡々と言った。
父自身も死亡率の高い手術である事は知っていたので、私たちはとっさの冗談も出なかった。
もちろん、泣くことも。
ナースが父を迎えに来て、皆と一緒に歩いて手術室へと向かった。
ストレッチャーに乗せられて意識もうろうとした状態で手術室へ向かうとばかり思っていた私たちは何とも重苦しい気持ちだった。
いよいよ手術室に入った瞬間、父は「バイバーイ」と手を振った。
ドアが閉まると同時に妹・従妹・私はこらえていたものがこみ上げ、すすり泣いた。
手術は7時間位と聞かされていたので、皆で待合室で待ったが、手術中の死というリスクが高いのを知っている為ナースが通る度にドキッとし、開腹して手の付けようがないならすぐに終わるということも脳裏にあった為、3時間くらいは落ち着かなかった。。
夕方4:30頃「終わりました。執刀医から説明があります」との事で皆で説明を聞きに行った。
もちろん切除した「食道全部・胃の一部」を見せてもらった。 食道はまるで「牛すじ肉」のようだった。
放射線治療をしている為に食道と他の臓器が癒着していて時間がかかった事、
そしてそれを引き剥がすために思ったより出血し輸血した事、目で見た限りでは転移はなさそうだという説明だった。
しかし、病理検査の結果が出ないと断言は出来ないとの事だった。
その後、父はICUに移され、二人づつ5分間という条件付きで面会した。
父はたくさんのチューブがつけられていたが、こちらの問いかけは聞こえている様子で母の
「お父さん、頑張ったね」という声かけに答えるかのように父の頬に涙がすーっと流れた。
急変はなさそうだから・・という事で皆は先に帰り、私と夫だけ夜9:00頃まで残った。
病院にいてもどうする事もできないし、何かあったら連絡するからと言われ後ろ髪を引かれつつ帰った。
長い長い一日だった。
ガン手術後
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日付のはっきりしてない部分は順に書き込んでいます
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翌日(2日目) 2000年5月17日
ICUの面会時刻は決まっている為、朝1番の8時の面会は私1人で行った。
医療器具に囲まれた痛々しい父を見ても「生きている」だけで嬉しかった。
2回目の面会は午前10時。実家に皆を迎えに行く為にいったん病院を後にした。
実家への車庫入れは慣れたものだったのに、初めて壁にぶつけた。
相当疲れてるな・・と実感。
2回目の面会は兵庫から来てくれていた叔母と従妹が20分も話した。
父はしっかり喋ったらしいが後で聞くとぜんぜん覚えてないと言っていた。
それにしては、かなり込み入った話をしてたが・・
★ 3日目 2000年5月18日
ICUからナースステーション近くのHCUに移った。
随分と医療器具は減った。もう会話は普通にできた。
心配していた術後の痛みは、背中からチューブで痛み止めが投薬されているせいか「ぜんぜん痛くない」との事。
★ 5日目 2000年5月20日
この日は土曜日で朝から私が付き添っていた。
父の病室に入った時にナースが血圧を測っていたが、何度も何度も測り直しているのを見て嫌な予感がした。
「低いんですか?」と聞いても「少し・・」と言う。少しじゃない・・と思った私は病室の外でナースを待ち伏せし問いただした。
そして「先生は?」と聞くと、どうやら休みだったらしいが連絡をとった様子。
父の元へ戻り、しばらくして父が「起き上がる」と言うので背中を支えて起こそうとした途端、父の目は遠くを見据え瞳がグレーになっているのに気付き「お父さん!」と呼んでも返事もせず、おかしい・・と思ったと同時に父の身体はガクガクと震え斜め後ろに倒れてしまった。
私は支えているのが精一杯だったが「だれかぁーー」と叫び、ナースが飛んできた。
結局、急激な血圧低下のせいで意識がなくなったらしいが、この事態は予測できたのではないか?と私は後から来た医師に詰め寄った。 事なきを得たが、父の処置をしている数分の間に母と夫に電話をしていたので慌てて駆けつけてきた。
夫は180キロの猛スピードで高速を走ったと後で言っていた。 少々の事故はいい・・と思ったとの事。
この日の父を見ていて私は父の死に目に会いたくない・・と思ってしまった。
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父は大手術をしたとは思えないほどの回復ぶりで点滴をつけたまま歩行訓練をし、
お手洗いも自分で行っていたが、いつも「どうも息が苦しい」と休憩しながら行かなければいけない状態。
術後、私は毎日病院に行っていたが「明日は心臓外科・循環器科の医師を来させますから・・」
と主治医が説明しているところに遭遇した。 その間も父はとても苦しそうにしているのを見て
「過換気症候群」を経験している私は「先生、この症状は過換気症候群ではないんでしょうか?」と言った途端、
一緒にいた研修医は医局へ走って行った。
そして主治医と何やらコソコソと話した後「お嬢さんのおっしゃる通りです。
明日、神経科医を来させます」と言って帰っていった。
父は数日間「過換気症候群」で苦しんでいたのである。
なぜにこんな事が見抜けないのか・・安定剤を処方された父の状態が良くなったのは当り前の事であった。
市内中核病院の元々の主治医(放射線科医)には随時報告をしていたが「過換気症候群で済んで良かった。
あれだけの大手術を受けた後は気が狂ったようになる人もいるから」と励まして頂いた。
そして、わざわざお見舞いに来てくださった。
後日、私は研修医をつかまえ「勉強不足すぎるんじゃないの?」と怒りをあらわにした。
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母から電話が入った。
主治医から病理検査の結果を聞いたと・・
わずかな胸水の中にもガン細胞があり、すでに転移が始まっているだろうから「余命半年」
「1〜2ヶ月後には胸水が溜まって呼吸が苦しくなるだろうから、すぐに入院ということになるでしょう。
その際には胸水が溜まらなくなる様な治療をしますが、とても苦痛を伴う治療となりますので本人に告知します。
次回入院されたら最後だと思って下さい。」・・・・・
父は「このままだと余命1年」と言われ、思い切って大手術に挑んだというのに何という事か。
私はとてもじゃないが、父の顔を直視できないと思い数日間は病院に行けなかった。
私が行かないと不審に思うので、仕事が忙しい‥という事にして。
★
その間にも父は順調な回復ぶりで、「一生、流動食かも・・」と心配していた食事もほとんど普通食。
私は主治医の元へ行き、今の父に余命宣告しないで欲しいとお願いしたが、宣告しないと治療ができない・・との事。
それでも私は引き下がることは出来ず「もし、今の父に告知してあの窓から飛び降りたらどうするんですか?
父が過換気症状群を起こす程、神経過敏になっているのはご存知でしょう?
本当に必要な時が来たら私達がちゃんと言いますから、今は言わないで下さい」と懇願した。
主治医は「お嬢さんがお父さんの性格は一番ご存知なんですよね。 わかりました。」と言って下さった。
しかし、父には3人の医師がついていた為、念には念をと、私と夫は日を改めてお願いに行った。
父の病室からは駐車場が見える為、わざわざ違う駐車場にとめて・・
という程、私達は神経を遣った。 そして、私たち家族は父の手術ではお世話になった病院ではあるが
、精神的なフォローを出来るのは元々の主治医しかいないと判断し、元の病院に戻したい旨も伝え了承を得た。
もちろん、その前に元の病院にもお願いをしておいた。
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それは、あまりにも唐突に・・
私の長女と2人で見舞いに行った帰りに廊下で主治医に出会った。
主治医は「ちょっとお話が・・」と言われた。
私はとっさに長女に階段に隠れるように指示して父が近くに居ない事を確認して医局に入った。
なんと医局の奥に医師が2人揃って「先日お母さんにお伝えした検査結果ですが・・
再検査したらガン細胞はみつかりませんでした。
摘出したリンパからも胸水からもみつかりませんでした。
・・したがって先日の結果、余命は全て否定という事になります。」
本来なら非常に嬉しい報告なのだが私の頭の中は「?????」のまま医局を後にした。
「あー良かった」という思いと、だんだん込み上げてくる医師への怒りと不信感は拭い去れなかった。
この怒りは日に日に増した。 再検査をした理由は、医師も「おかしいと思ったから」との事だった。
ならば家族に報告するのはそれからでも良かったのではないか。
人の命のゴールを宣告しておいて「間違ってました・・」それは、あんまりじゃありませんか?
この病院では、日本でも高名な医師に執刀して頂き父の手術自体は大成功だった。
そして元気にして頂いた。
しかし、この時点で私たち家族の元の主治医の所への転院の選択は間違いなかった・・
と確信せざるをえないものとなった。
★ 退院 2000年6月12日
あれだけの大手術をしたにもかかわらず、思ったよりも早く退院できた。
今後は元の病院で経過観察という事になった。
執刀医は「たまには顔を見せに来てくださいよ」と言って下さった。
自宅に帰った父の伸びた髪の毛を私の夫と次女が玄関先にて散髪し、皆で退院祝いの食事をした。
父は廻りがハラハラする程の食欲で「あ〜、また同じものが食べられるんだ」と実感した。
一番嬉しかったのは父本人だったろう。
父は生きてこの家に帰れないかもしれない・・という覚悟で手術に挑んだのではないかと思う。