法師功徳品 (2) 菩薩の四無畏 しむい
世尊
「菩薩・衆生よ 無所畏むしょい の心を以て、この法華経を説くことは大事なり‥‥を覚えましょう。
無所畏むしょい の心とは、何ものにも畏おそ るることが無い心です。
無所畏の心で 自信をもって堂々たる態度にて 信じる法華経を説くことが大切なのです。
では 無所畏の心を得て保つにはどうしたら良いのか?
それは 総持不忘 尽知法薬 善能問答 能断物疑の菩薩の四無畏を受持じゅじ することです。
1 総持不忘 そうじふもう
総べてを持たも ちて忘れず 法を説くこと無畏むい なり‥‥。
仏から学んだ教えをすべて、正しく記憶していれば 誰に法を説いても 畏れはありません。
仏の教えをしっかりと自分の頭に記憶しておくには、朝・夕・経典の読誦どくじゅ を繰り返して行うことです。
2 尽知法薬 じんちほうやく
尽ことごと く 法薬ほうやく を知り 及び 衆生の根こん と欲と性しょう と心とを知り 法を説くこと無畏むい なり‥‥。
法薬とは、文字どおり法の薬のことで、衆生ひとりひとりの機根きこん 欲望、性質、心の違いを見究め
それぞれに適応した教えを説くならば、誰に法を説いても 畏れはありません。
法薬(教えの処方)を知り尽くすことで、なにも心配なく 誰にでも法を説くことができるのです。
とくに菩薩の境地を得た衆生は、仏の教えをよく聞き覚えるだけでなく、教えを自分のものとし、
自由自在な方便力ほうべんりき を用い 教えを説く能力を身に得ているので、よく法を説くことができるのです。
3 善能問答 ぜんのうもんどう とは 人々を仏法に導くこういう説法のこと。
善よ く 能よ く問答して、法を説くこと無畏むい なり‥‥。
問答もんどう とは、反対意見や質問者などに、誠意をもった返答や自分の意見を答えることです。
どんな質問にも、どんな反対意見にも、誰にでも、彼らが納得できるように答えてやれる衆生は
畏れることなく、法を説くことができるのです。
説法者は、法を説く準備を、綿密に行わなければなりません。
説法者は、質問者に対し その相手が理解しやすい明快な解答を 常に用意していることが必要です。
準備不足の説法や 場当たり的な説法や 自己勝手や自己満足な説法は、毛頭もうとう いけません。
また 反対意見には、理路整然りろせいぜん と話し論破ろんぱ し、相手を心から納得させる力が必要です。
それには まづしっかりと準備を行い、熱意と公平な態度の説法であれば、猛烈に反対した人でも
仏の法の力がはたらき、説法を聞く人に必ず初随喜しょずいき が生まれてくるものです。 「初随喜」
小手先のゴマカシやコジツケ 一切必要ありません。仏の教えを正しく説くだけでいいのです。
だが 自分が正しく理解している教えでも 相手に解りやすく説くには、相応の努力が必要なのです。
そこには 相手を重んじる心が必要なのです。
相手の考えの間違いを正すだけでなく、相手が完全に理解できるまで 説く情熱が必要なのです。
これは、時間もエネルギーも、相当かかることなので、生半可な気持ちでは無理なことです。
心に常に 仏法への信しん と情熱じょうねつ を保ちつづけている衆生だけが できることなのです。
この仏法への信と情熱が、法を広め説く衆生の活力の源みなもと なのです。
仏法への信と情熱とは、仏法の布教が社会の人々の幸せになるという、強い信念そのものなのです。
善よ く 能よ く問答してとは このような説得能力せっとくのうりょく を意味しています。
法華経は、非常に深遠しんえん な広大無辺の教え故に 解釈の途中で、疑問を生じる衆生も多いでしょう。
さらに 聞く人が様々なので、当然その解釈も 様々なものになってしまいます。
仏は 教えを説くとき、聞く人の様々な機根に応じ その人が理解できるようにと考えて説いています。
そこで 教えを説く衆生にも 法を聞く衆生のいろいろな疑いを断つ力が 要求されます。
4 能断物疑 のうだんもつぎ とは いろいろな疑いを断つ という意味。
能よ く 物議もつぎ を断じて 法を説くこと無畏なり‥‥。
物議もつぎ は、いろいろな疑いという意味に解釈するので 物議もつぎ を断じて はいろいろな疑いを断じること。
ただ頭だけの考えで、ああも解釈できる、こうも解釈できるというのは、能断物疑ではありません。
衆生には難しいことでも 厳しい修行にうち勝ち自信を得た大菩薩衆には、何も難かしくはありません。
とくに 仏の真意を理解し・仏の大慈悲の境地まで達した大菩薩ならば、
微妙に込み入った、あらゆる難問・疑問に関しても 仏の真意を明言めいげん することができるでしょう。
難易度が高い能断物疑の説法は、厳しい修行を経た大菩薩に成ってこそ、はじめて出来ることです。
衆生に法を説く菩薩道の修行者は、この四無畏を、常に胸に刻んでいなければなりません」。
(3)へつづく 清浄な耳の功徳