世尊は、つづいて、偈ー詩の形式ーで説く
「大衆の皆が良く理解できるように、今一度、仏の智慧について説きましょう。
無数の仏に仕えて教えを受け、長い修行の末に、ようやく、会得えとく できるのが仏の智慧です。
仏の悟りの境地を得ようと固く誓い、精根せいこん 込めて修行に打ち込んで努力している衆生や、
あるいは、我は大智慧者なりと自負し、他人も認める衆生であっても、会得できない智慧です。
又、辟支仏びゃくしぶつ (体験で悟りを得た人)や、声聞しょうもん (学習で悟りを得た人)の境地を獲た衆生でも
菩薩乗ぼさつじょう (大衆を救い自分も救われる教え)の境地を獲た衆生でも、会得できない程深い智慧なのです。
とても深く無量・無辺な仏の智慧は、俄にわ かな学習程度では、会得できないのです。
私も諸仏も、衆生の考えが及ばない程・長い修行を重ねた結果、真理を究め尽くすことができたのです。
すべての諸仏は皆、修行の末に会得した真理(宇宙の法則)を根本に、教えを説いているのです。
諸仏は、衆生がその真理を理解しやすい様に、まづ、方便や譬えを用いて教えを説くのです。
諸仏が多様な方便を用いて説くので、聞く側の衆生にとっては、
教えにはそれぞれ違いがある様に聞こえるのです。 そして、衆生の解釈に違いが生まれるのです。
なるほど、衆生の解釈の違いが各宗派の違いなんですね、……ボサツマン
このように、無量無辺な仏の智慧は、易々に得ることはできません。
当然、真理の教えを聞いただけでは、無量無辺な仏の智慧を、得ることはできません。
しかし、真理の教えを聞いて即、仏の智慧を得られなくても、ガッカリすることはありません。
なぜなら、真理の教えの方便力は、すべての衆生の迷い・苦を解き放つ偉大な力をもっているからです」。
この説法を聞いた大衆たちは、頭が混乱しました。
なぜに世尊は、何回もくり返し諄くど 諄くど と ー仏の智慧・仏の方便力ーを褒め称え説くのだろう?
これまでの教えは ーこの世は諸行無常 しょぎょうむじょう (万物は常に移り変わる) なので平常心を忘れるなーでした。
だから、平常心を養う修行を、大衆は日々行なってきました。
それなのに、今になって、自分がそうとう深く修行しても 仏の智慧は得られないなんて‥‥‥ ガク。
皆、頭の中が真っ白になり、何が何だか分からなくなり、身体の力がスッカリ 抜けてしまいました。
ひょっとしたら、世尊の正体は傲慢な人かもしれないし、仏の智慧を誇示こじ し威張りたいだけの人かも?
あるいは、自分たちは試されているのかも、まさか?……でも、大衆たちは、世尊の言葉に困惑しています。
そんな大衆の心を察知した、智慧第一の舎利弗しゃりほつ は、世尊にお願いしました。
「世尊、今、なぜゆえにー仏の智慧・仏の方便力ーばかりを、くり返しくり返し説き、褒め称えるのでしょうか?
今迄は、このような説法はありませんでした。 私も始めてなので驚いています。
私たち菩薩は、仏の智慧が無量・無辺であることを、充分理解できておりますが、
大衆たちは理解できず困惑しています。世尊、なにとぞ、わかりやすくご説明してください」と。
世尊、冷たく答えました。
「いや・やめましょう。今説いたなら、人間・天上界・すべての者も皆驚き、修行をする勇気を失うでしよう」。
だが、舎利弗しゃりほつ は真理を追求する熱意と姿勢で
「この法座の大衆は皆、世尊を信じ仏の教えを実行していきたいのです。是非々ぜひぜひ お説きください」。
世尊
「いやいや、やはり、やめておいたほうが無難でしょう。
とくに、悟りを得ていないのに、自分は悟りを得たと勘違いしている増上慢ぞうじょうまん の人々が聞くと
必ずや、疑いの心が起きて、いまさら実行できるものかと 鼻で笑ってしまうでしょう」。
キッパリ断った世尊は、じっと、舎利弗の目を見つめます、舎利弗も負けじとばかり見つめ返します。
真剣な眼差しの世尊と舎利弗、ひとときの時間が流れていきました。 ……いいね〜師弟の真剣な眼差し……
やがて世尊は、満足な笑顔で
「舎利弗よ、あなたの仏の道への情熱には感動しました。では、解かりやすく説きましょう。
心を澄ましてシッカリ聞き良く考え、自分のものにするのですよ」と、仰いました。
この時 「比丘/比丘尼.優婆塞/優婆夷」びく びくに うばそく うばい 五千人が、会場から立ち去って行きました。
いったい・どうしたのでしょうか? 何が起きたのでしょう、五千人の人々が皆、法座を去っていきました。
世尊のモッタイブッタ態度に、怒って帰ったのかも‥‥‥? ……なにがどうなったのでしょうか……
つづく