観普賢菩薩行法経 (10)
 世尊
 「
なぜ 仏がこの世で 衆生のために法を説くのかという仏の真実の心が ストンと解かり得ていない衆生たちは
 
ふたたび 自らを叱咤激励 しったげきれい 大乗の教えを繰り返し読誦し 実行すると 大きな功徳である
  霊鷲山 りょうじゅせん にて 宇宙の真理を 多くの大衆に説いている釈迦牟尼仏のお姿を 見奉ることでしょう。
 その時
衆生は 仏はなぜ 衆生のために法を説くのかということが 少し理解できたような気持ちになるのです。
 だが まだ しっかり理解できていません。 少し理解できた程度なのです。
 この時
 衆生は 次のように
 
自分は ほとんど悟ることができたと思っているのだが 何か もう一息もう一歩足りないような気がする
 
やはり 自分は 信心しんじん が まだ不足しているのだ 懺悔しなければなりません。
 この懺悔をすると 仏を恋慕渇仰れんぼかつごう する衆生の気持ちが 益々高まります。
 この時 この衆生は
どうしても仏の真意しんい に直入したいと願う心が 強く高まっているのです。
その時 その衆生は霊鷲山りょうじゅせん の方角に向い合掌して
 
如来は 常に私どものお側にいらっしゃいます。 このことは 私は確信しております
  どうぞ 私たちを憐れみ
おぼ し召して ハッキリと お姿を拝ませて頂きたく存じます 念じるのです。
 すでに 釈迦牟尼仏を見奉ることができた衆生が さらに 身を現じたまえという願いは
  仏の真実の
み心を もっと はっきり 深く知り得たいという衆生の菩提心ぼだいしん から出たものです。

  その衆生が 心に霊鷲山を念じると 仏が法華経を説く美しい法座の様子が 眼前げんぜん に開ひろがります。
  その美しい光景の法座では 釈迦牟尼仏が衆生に
多くの教えを説いています。
  
教え   釈迦牟尼仏の眉間みけん から出た光が 多くの分身の諸仏を照らすのが見えた… という意味は
       
釈迦牟尼仏の教えに帰依きえ して 釈迦牟尼仏の説く真理を悟れば
         すべての諸仏の心と教えに通じ あらゆる教えの真の意味が理解できる…という教えです。
  教え    分身の諸仏は 皆 妙法蓮華経と 同じ教えを説いている… という意味は
        
すべての教えは 皆 妙法蓮華経に統一されていることを 証明している…教えです。
  教え
   百億無量の大菩薩衆 だいぼさつしゅ の行ぎょう は 皆 普賢菩薩と同じである… という意味は
       
菩薩の尊さは 何よりも実行力であり その筆頭が普賢菩薩である… という教えです。
  教え   分身の諸仏の眉間
の光が 釈迦牟尼仏の頂きに流入りゅうにゅう すると
          分身仏の全身から発する金色の光の中に 化仏けぶつ のお姿が 無数見えた …という意味は
        
仏の教えが次々と際限なく広まり 伝播でんぱ していく… という教えです。
        
真理の光は すべての世界に及び 真理の光に照らされた万物は たちまち真理の光を発するのです。
        懺悔の行を行い 迷いや罪を拭ぬぐ い去った衆生の心は 真理の光に反映して光輝きだすのです。
        つまり 衆生の仏性が光輝いた のです。                    「普賢菩薩の四つの行

 心に
霊鷲山を念じた衆生に対して
普賢菩薩は眉間から光を発して 衆生の心に真理の光を注ぎます。
 すると
真理の光が射しこんだ衆生の心は
 
ああ ありがたい 自分は過去世にて無数の諸仏に仕えて 教えを受けた因縁で 現世の今 仏を見奉ることができた
 
懺悔反省の念が湧き起こります。 その瞬間 自分の過去世の姿が 眼前げんぜん に展開されるのです。
 すると
今までの自分の暗い世界が急に明るくなり 自分も多くの人々を感化したいという願いが生じます。
  
 この時 この衆生は 忽然こつぜん 大悟たいご した自分を感じ 歓喜の震えがとまりません。
 
忽然と大悟した自分を自覚したら 修行も懺悔の行も これで終了かというと とんでもありません。
 この衆生が悟った境地は
まだ 仏の悟りの境地ではありません。 仏の悟りの境地は まだまだ 遠いです。
 本物の修行である
自分の仏性を磨く修行 まだまだ続くのです。
     
               オイラの修行も まだまだ続くのですね うれぴい〜‥‥‥ボサツマン ちょっと見栄張っちゃた
 ここまで到達した衆生が
三昧の修行を本腰を入れて続けると その最中に限らず
 日常の生活の中でさえも
瑠璃の地の蓮崋聚の如く るりのぢのれんげじゅのごとく つまり
 仏の教えが世に広まり
大乗経典の教えを受持する衆生たちが 限りなく増えていく有様ありさま
 普賢菩薩の分身の多数の菩薩衆が
大衆たちに教えを説いている様子が 手にとるように見えるのです。
 次は
さらに上の修行について説きましょう」。     うわ〜 修行って キビシイな!……ボサツマン  (11)へ