世尊
「深心の所箸じんしんのしょじゃく について説きましょう。
衆生の心というものは、表面的には迷いがスッカリ消え去ったように見えるのだが、
残念なことに、これまでの習慣が染みついた考えや行動は、僅かに燻くす ぶり残っているものです。
つまり、衆生の心の底には、わずかなー迷いーが残っているのです。
なにかの縁(機会)に出会ったら、また迷いがムクムクと、起き上がってくる可能性があるのです。
衆生の心の底にわずかに残る迷いのことをー習気じっけ ーと、いいます。
例えば、ある衆生が
短気は損気だし、恥ずかしい行為だから、もう二度と自分は、絶対に腹は立てないと決心したとします。
この時は、非常に柔和にゅうわ で謙虚な心の状態なので、自分はもう絶対大丈夫と自信タップリなのです。
だがある時、侮辱ぶじょく を受けて冷静さを失った時に、また、怒りの炎が又メラメラと燃えあがるのです。
もう自分は二度と腹はたてないと決めたのだと、怒りの気持ちを抑える気持ちも、有るには有るのだが、
怒りの炎を完全に消し止めることは、そう容易にはできないものです。
こんなことは、現実的に往々にして、誰にでもあることです。
腹が立ったらーツバをゴクンと飲んで我慢をしろや数を60数えて気を静めろーとか、世間ではよく聞くことです。
これも、ひとつの良い方法ですが、訓練を重ねなければ、なかなか身につきません。
これは、怒りだけでなく欲望なども 同じことです。 「自己中心な考え/箸」
このように、心の奥底にひそむ気持ちを ー深心の所箸じんしんのしょじゃく ー といいます。
本当に解脱げだつ した心とは、深心の所箸が、すっかり消え去った状態の心をいいます。
実は、この深心の所箸・(心の底に隠れた意識)が、身体の健康に大きく作用しているのです。
オイラが、酒・タバコがヤメラレナイのは、心の奥底の深心の所箸が原因なのだ、オイラは悪くないのだ………ボサツマン
世尊
「ボサツマンよ、それは、君の意思の弱さが原因なのです。自分に都合よく解釈してはいけません」
はは〜すいません ……… ボサツマン
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釈尊、怒りは無い ー釈尊、怒らず・腹を立てず・バラモンを諭すー
釈尊が、マガダ国の首都 ラージャガハ・(王舎城)にある ヴェールヴァナ(竹林)に滞在していた時、
そこには、他人の悪口を言いふらす癖くせ がある、バラドヴァージャという名の婆羅門バラモン がいました。
この婆羅門は、自分の友人が釈尊に帰依し出家したことに、大いに怒って怒鳴りこんできました。
釈尊に詰め寄り、口から泡を吹き激しい言葉で、大声で罵倒ばとう しまくった。
釈尊 質問す
「バラモンよ、汝は親しい友人が訪ねて来た時、美味の食事を用意して来客に与えるだろうか?」と。
目を吊り上げて怒りながら、もちろんそうする、当たり前のことだ、と婆羅門は答えた。
すると、釈尊は
「その時、客人がその食事を受けとらなければ、その食事は誰のものになるか?」
「客人がその食事を食べなければ、その食事は自分のものだ、当たり前のことだ」と、バラモンは答えた。
すると釈尊は
「汝なんじ の私への誹謗を、私は受けとらない。ゆえに、汝の誹謗は汝のものである」と諭した。
すると、バラドヴァージャは、 阿羅漢→仏教の聖者。 バラモン→インドのカースト制度、最高位の階級。
「ゴータマよ、お前は阿羅漢あらかん であっても、怒ることもあるやんけ」と、やけくその捨てセリフを吐いた。
釈尊は、阿羅漢 あらかん である
「バラモンよ、我・ゴータマは、阿羅漢の境地を得た者である。
ゆえに我は、心身を制御し怒りは消え正しく生活し、完全な智慧を得て解脱し、靜寂な心をもつ者である。
阿羅漢の境地を得て、煩悩を捨て去った我に、怒りは無いのである。
我は、真理ダンマ を会得している者なのである。 我は今、二つの勝利を得たのである。
バラモンよ、怒るものに怒り返すことは、怒ることより、さらに恥じるべき行為なのだ。
怒る者に対して、正念をもって自分自身の心を静め怒り返さない者は、自他共に利益りやく する医師である。
これを信じない者は真理を知らない愚か者なのである」。
この言葉を聞いた婆羅門のバラドヴァージャは、改心し仏法に帰依しました。
その後、熱心な修行の結果、阿羅漢の境地を得たのです。 オイラも、怒らないようにしよう……ボサツマン
釈尊のすごい言葉
他人の激怒に対し、正念で自分自身の心を静める人は、自分と他人の二人を利益りやく する人である。
自分と他人の双方の医師であり、二つの勝利を得た者である。
つづく 五濁の悪世 ごじょくのあくせ