世尊
 「舎利弗しゃりほつ 我も亦また かく の如し衆生の中の尊なり世間の父なり、一切衆生皆我が子なり。
  
深く世楽せらく に箸じゃく し慧心えしん なし。
  三界は
やす きことなし なお 火宅かたく の如し。衆苦しゅうく 充満してはなはだ 怖畏ふい すべし。
  常に
死の憂患うげん あり。火かく の如ごと 熾然しねん として止まず。
  如来はすでに
三界の火宅を離れ、寂然じゃくねん として閑居げんこ 林野に安処あんしょ せり。
  今この三界は 皆是れ我が有なり、その中の衆生は 悉く是れ吾が子なり。
  
しか も今この処は諸々の患難げんなん 多し唯我1人のみよく救護くご を為す。
  意味:
  舎利弗よ
世尊はこの長者と同じ立場なのです。
  悟りを得た衆生の中の一番上
/世間の父です。 一切の衆生は皆、可愛い我が子なのです。
  我が子供たちは 世間の快楽に
執着しゅうちゃく していてものごとの本当の姿を悟る智慧はありません。
  そこで
世尊可愛い我が子を救いたい願いをもって仏の教えを説いています。
 まことに、この世は 凡夫の衆生にとっては すこしも安らかなところでは ありません。
  まるで、火事になった家のようなものです。 いろいろな苦に満ちていて恐ろしさで怯
おび えています。
  衆生の諸々な苦
つまり年をとる苦しみ病の苦しみ死の苦しみ諸々の心配事煩い事わずらいごと などが
  火のように燃え盛っていて、苦しみは止むことはありません。
 世尊は、無始むし の過去からすでに、この迷いの世界を離れて存在しているのです。
 世の中の煩い事
わずらいごと 影響を受けない境地に住みずっと心落ち着いている存在なのです。
  しかし
私は、この三界さんがい のことは、片時も忘れたことはありません。      「三界唯心の所現
 なぜならば、この三界さんがい は皆、私のものだからです。 
  我が子供である衆生が住むこの三界
(この世)には 諸々の苦しみ悩みが満ち満ちています。
  私は、苦に満ちたこの三界の世界に飛び込んでいき、我が子を救わねばなりません。
  しかも、
三界の苦から衆生全員を救うことができるのは、この私世尊たった1人だけなのです。
 今私は、この宇宙世界は全部私のものです、万物は自分の子です、すべての衆生を救えるのは、ただ私1人だけ
  大自信に満ち溢れた言葉で仏の大慈悲心を言いました。

  この私1人とは、実在の人間の釈尊のことでは、ありません。 
とはすべてのほとけ のことです。
  仏とは
”真理を悟ったもの”なので全宇宙が真理を悟ったものであると、いう意味になります。
 仏とは時間と空間を超越した宇宙、無眼に広がる宇宙のことなのです。
  無眼に広がる宇宙とは
人間の内面にある仏性ぶっしょう そのものです。
  つまり、衆生の心が
仏と同じ宇宙の心理を悟り、宇宙の生命と一体になるという意味なのです。
  衆生の心が宙の生命と一体になると、衆生の人生が自由自在になるのです。
  つまり
仏と一体になると衆生の人生は、完全な自由を得るのです。 これを、仏の悟りといいます。
  仏と一体になるということは、所有権の意味の所有物ということでは、ありません。
  自分が
すっぽりと宇宙全体に溶け込んで宇宙と自分の心がひとつになる、という意味です。
 自分中心の小さなの心を捨て去った無我むがの心の境地をいっているのです。
  無我の心になった衆生だけが本物の自分を認識
できるので宇宙に生かされるのです。
 
自我の心が無我の心に変わり宇宙はわがものになり真理の道に辿りつくのです。

 
 衆生の心が宇宙と一体になると、人生に自由自在な道が開かれるのです。
  心が宇宙に溶け込むと、何ものに捉われない本当の自分が、内面から顕われてきます。
  すると
行いのすべてが人を生かし社会を生かす行為となるのです。 この境地が仏の境地なのです。
  衆生の皆さんは、そこまでの境地には、1足飛びに行くことはなかなか難しいのです。
  だから、仏や菩薩の行動を真似たり
方便の修行をしてだんだんと本物に近づいていくことです。
  お経を読んだり
説法を聞くことは自我を捨てて宇宙に溶け込むための修行のひとつなのです。
 その根本は和の心です。
  例え、1日に少しの時間でも、こういう修行をつづけていくことが、仏の境地に近づく道なのです。
  この道を努力して励んでいくと
いつかは必ず仏に成ることができるのです。
  とうてい自分は
仏にはなれないという卑屈ひくつ な心は 今すぐ捨てることです。
  その卑屈な心を捨てるべき理由は、次の信解品第4で、詳しく説きましょう。
 又、衆生が法華経を説くときは、仏の御心に合った正しい説き方をしなければなりません。
  又、次のような心をもった人間には 法華経を説いてはいけません、という
14謗法ぼうほう と、
  この教えに背くものが受ける
仏罰ぶつばつ 報い
について、次に説きましょう」。
   つづく          
   14謗法と仏罰