無量義経 十功徳品第3 じゅうくどくぼん 
   この品は信仰者に与わる功徳について説いていて無量義経流通分るつうぶん とよばれる。
   流通分るつうぶん とは
教えの功徳を証し弟子に附属ふしょく 経典の流布るふ を勧める文章。
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  世尊
 「ではこの品では信仰者に与わる仏の功徳くどく について説きましょう。
  仏が説く真理の教えというものは
世の中の人の為にどのように役立つのか?
  仏の教えを信じ
理解し
実行しを普あまね 流布るふする衆生に与わる功徳とはどんなものなのか?
  これらについて
説いていきますので仏の功徳くどく というものを
正しく理解しましょう。
  仏の法を実践する衆生の人生には
仏の功徳くどく である現世利益 げんぜりやく が与わります。
  現世利益の顕
あらわ れ方はその衆生その衆生で早遅/大小の違いの差があります。
  これは
衆生の信仰の程度や各々の過去世の因縁が違うからです。
  仏が説く功徳くどく は、曖昧あいまい な功徳ではありません。
  死んだあとに天国へ逝ける
功徳だとか絶対に地獄に行かない極楽限定行の功徳だとか、
  そんな
死んでみなけりゃ解からないようなそんなものではありません。
  衆生は誰でも皆死にたくありません。 皆楽ばかりで苦労の無い楽しい人生を送りたいのです。
  いつまでも元気で長生きして
この世を謳歌おうか したいのです。
  でも
残念なことに苦労の無い人生なんてほとんど無いのが現実です。
  だから
死後の来世(あの世)でも地獄で苦労するなんてことは考えるだけでもゾットするのです。
  皆
現世でも幸せに暮らして来世でも極楽浄土で暮らすことを望んでいます。
          世尊、オイラも現世利益を得たいですそれにはどうすると良いのでしょうか ‥‥‥ ボサツマン
 ボサツマンよ正直でよろしい。質問することは理解しようとする気持ちの表われです。
   
リチャード/ベルマン良い質問は正しい答えより重要であると言葉を残しています。

 ボサツマン

  
仏の教えをやみくもに信心しんじん さえすれば仏の功徳が与わるという考えは間違った考えなのです。
  仏に救いを求め
信じるだけで良いということではありません。
  すべての諸仏は
 宇宙の真理と真理に従った生き方を説いているのです。 故に
  仏の教えを信仰する衆生は
諸仏の教えを学び真理に従った生き方をすることー 大事なのです。
   
衆生が真理に従った生き方をすることで衆生の人生に功徳が現れて救われるのです。
  
真理を本当に信じる心真理に従った生き方と成るこれが仏の救いの方程式なのです。
  
もう衆生の皆さんは気がついたことでしょう。
  仏の功徳である
現世利益とは真理に従って生きる衆生に与わるご褒美ご利益ということを。
  現世利益が生じるのは宇宙の真理の法則のうち因縁果いんえんか の法則依るものです。
   私がこの現世 げんせい仏の悟りを得たという事実も宇宙の真理の法則に依るのです。
  
過去世
かこせ で私が積んだ
無数善業の
いん 
現世にて修行というえん に出会ったことで
  か である仏の悟りを得ることができました。
これも因縁果いんえんか の法則によることです。

  では次に
阿弥陀仏について説きましょう
  諸仏は
真理に従った生き方とその生き方をすることで生じる衆生の現世利益を説いていますが、
  その中でも阿弥陀仏あみだぶつ の仏ほとけ だけは、来世利益らいせりやく を説いています。
  現世にて南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ と唱える衆生は勿論のこと
  たとえ
生涯悪行の限りを尽くした極悪人であっても臨終に際し南無阿弥陀仏と唱えるならば
  阿弥陀仏の責任において
来世は必ず極楽浄土に住まわせるという教えです。
  
阿弥陀仏を御本尊とする日本の浄土真宗じょうどしんしゅう という宗派の開祖である親鸞聖人しんらんしょうにん も、
  人は皆
 来世(あの世)極楽浄土に生じると教えています。              親鸞聖人の言葉

  この宗派を信仰する
檀家だんか の人々を門徒もんと  呼びます。
 
浄土門じょうどもん の教えを学ぶ生徒の意味でこの宗派は門徒物知らずとよばれています。
 この
門徒物知らずという言葉は門徒物いらずという言葉から派生したのです。
 親鸞聖人の時代の信仰の対象者は
生活の豊かな人々だけでした。
 毎日の暮らしに追われ貧しい民衆は
お布施やお供え物を出したくても何も無いゼロの生活だったのです。
 お布施や
お供え物を出せない貧乏な民衆は信仰したくても入信出来ませんでした。
 当時の民衆たちは、朝から晩まで農作業に励み、疲れ果て寝るだけの毎日です。

 
教えを聞くとかお経を唱えるとかの時間などは皆無かいむです。勿論文字の読み書きは習っていません。

 
そんな時代に親鸞聖人これらの衆生こそ救われねばならない1念発起されたのです。
 
これらの貧しい民衆に親鸞聖人は
 お布施や供物など何もいらない
ただ一念/南無阿弥陀仏/と唱えよ必ず救われると説きました。
 南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に帰依しますという意味です。
 いつでも
どこででも ーナムアミダブツと唱えなさい阿弥陀如来は、必ず救ってくれるのです。
 畑仕事の途中
道を歩く時夜寝る時朝起きた時ただ一念/南無阿弥陀仏/と唱えよ。
 こう言って
親鸞聖人は唱えつづけたのです。
 お布施ができない人も
畑で採れた作物さえも寄付できない人もこれなら簡単にできたのです。
 
ナムアミダブツ意味などどうでもいいのです。ただ一念/南無阿弥陀仏/と唱えるだけ。
 
唱えれば救われるという念おもい だけで民衆は朝でも晩でも、声を張りあげ唱えました。
 物いらずナムアミダブツと唱えるだけで救われる
民にはとっても簡単でありがたい念仏でした。
 
ナムアミダブツがやがてナンマンダブナンマンダブ世の民たちに広がっていきました。

 浄土真宗では
他力本願たりきほんがん と云われ阿弥陀仏にすがり南無阿弥陀仏ナムアミダブツ と唱えれば
 阿弥陀仏が救ってくださるのだ
という考えの人が多いようです。
 でもこれでは
救ってくれればいいし救ってくれなくてもしかたがないというユルイ気持ちなのです。
 この
ユルイ気持ち阿弥陀仏という仏ほとけ を、小さく見ている考えです。
 むろん
阿弥陀仏はこれでも救うのですが救いにも”大なり小なり速い遅い”があるのです。
 では
100% 阿弥陀仏に救って貰うにはどうすれば 良いのでしょうか。
 それには
阿弥陀仏の本願 あみだぶつのほんがん 知ることです。

  阿弥陀仏の本願
 阿弥陀仏が
ほとけ に成る以前は法藏菩薩ほうぞうぼさつ という名でした。
 長い間
深い修行を積み重ね数限りない無数の仏に仕え教えを学び修行を続けておりました。
 やがて
今即ほとけ に成れる境地に到達していた法藏菩薩でしたが、
 自分は
すべての衆生を救うまでは仏にはならないと強く心に誓っておりました。
 その法藏菩薩はついに
 
 衆生ありてたとい一生悪を造るとも命終の時に臨みて十念相続して わが名字を称せんならば
   その衆生等を皆、
極楽浄土に生ぜさせるなりー という本願ほんがん を立て阿弥陀仏として成仏されたのです。
  一生涯の極悪人であっても
現世のうちに1回でも南無阿弥陀仏と唱えたならば、
  阿弥陀仏の力で即
善だけの実相世界極楽浄土に生じさせるという本願を立てたのです。
  実相世界
(仏の世界)あるのは善のみだけです悪はありません。
  故に
1回でも南無阿弥陀仏と唱えた衆生が阿弥陀仏の力で極楽浄土に着いたその瞬間に
  さっきまで
あると思っていた現世の悪は消滅してしまい極楽浄土では善だけが存在するのです。
  その衆生は救われたのです。

  他力本願という言葉は
後世の人間が勝手につけたもので阿弥陀仏は説いていません。
  阿弥陀仏が救う衆生は
あくまでも自力で南無阿弥陀仏と称える衆生だけなのです。
  つまり
自分の声で救いを求めることにおいて他の宗派と同じなのです。

  では
ナムアミダブツと唱えるとなぜ救われるのでしょうか?
 
 A ーナムアミダブツと唱えると必ず阿弥陀仏が自分の声を聞いてくれるので救ってくれる。
  
B ーナムアミダブツの念仏が阿弥陀仏の御心みこころ に通じるから阿弥陀仏が救いに来る。
  実は、
ABも正しくはありません。
  念仏や祈りで
仏の御心を動かそうと思う、その心が間違っているのです。
  仏に
ぺこぺこ平身低頭へいしんていとう さえしていればいつかは救ってくれるという下粋げすい な考えは
  
を有限な存在と考え仏を小さく見ているのです。これは仏を見下くだ した大変失礼な考えなのです。
  仏の実相(本物の相真理宇宙に満ち満ちています
  仏は
人間とは違います。 その日の気分しだいということはありません。
  誰を救おうかな
あいつにしようこいつにしよういまいち気分がのらないな、今日はヤメテおこう
   
この次気が向いたら救おうなどと気分次第で救ったり救わないなどこんなことはありません。
  真理であり
であります。宇宙に遍満する絶対の存在なのです。はき違えてはなりません。

  宇宙に遍満する絶対の存在宇宙の普遍の真理(法)とはズバリ人間は仏であるということです。
  ですから
ナムアミダブツと唱える衆生の内在に阿弥陀仏というほとけ 
が存在するのです。
  自分の内在の
阿弥陀仏という仏に 衆生は気がついていないだけなのです。
  
ナムアミダブツと唱える自分がズバリ阿弥陀仏あみだぶつ であると気がついたその時が、
  衆生自身の内在の魂がに成った時です。阿弥陀仏とその人間が一体に成った時がその時です。
  仏と一体に成った衆生は
もう仏の説く真理に従った人生を生きていけるのです。
  浄土真宗では阿弥陀仏と自分の心が一体になった衆生は
浄土で暮らす
と教えています。
  
現世利益
功徳の最高位は現世が浄土に成ることです。             「仏説阿弥陀経
  
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  実相の世界(浄土)とは無苦むく の世界つまり楽だけの世界です。
  悩みの種だったすべての苦が滅した時が衆生の現世が
浄土に変わった時なのです。
  太陽の日が昇ると
今まで暗くて怖かった夜が終わり子望の明るい朝が来た
これと同じなのです。
  衆生の心が浄土に変わったから
生活環境のすべてが好転して楽の世界が生じたのです。
  苦であった病気が忽然
こつぜん として消え健康になったとか経済苦が消え余裕の生活に変わったとか、
  人間関係が急に円滑に成ったとかなど
あらゆるが消滅して
 ばかりの現世になるのです。

  このように
仏の教えは 衆生の心を浄土に変えるのです
  心が浄土に変わった衆生には
仏の救いである現世利益が与わるのです
。これは真実なのです。
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  真理の教えを説いているのは
釈迦牟尼仏 しゃかむにぶつ だけでありません。
  宇宙に遍満する一切の諸仏も皆
真理の教えを説いているのです。 これは真実です。
 衆生は自分勝手な解釈であの仏さまはご利益ごりやく が有るとか無いとか言いますが
  この仏でなければダメだとか
この仏さまがオススメということはありません。
  衆生が
阿弥陀仏を信仰することも観世音菩薩を信仰することも全く同じことなのです。
  阿弥陀仏を拝むのも
観世音菩薩を拝むのも皆同じ宇宙の仏真理拝んでいるのです。  
  拝む対象が皆同じ宇宙の仏
真理が故衆生の人生が皆真理に従った生き方となるのです。
  真理に従った生き方をすると、自分の内在の仏が現われてくるのです。
  つまり
人間は仏なのだから 内在の仏が現われることで 功徳を得るのです。
  衆生の皆さん
仏の功徳を得るには真理に従った生き方を実践することです。
 
 ボサツマン私がこれから説く法華経を学び修行を積み実践し
真理に従った生き方を身に付け
   素晴らしい人生にするのですよ」。
              ‥‥‥
 ハイ よろしくお願いします ‥‥‥ ボサツマン
    つづく