世尊、弥勒菩薩へ、
「よろしい・たいへんよろしい! 弥勒菩薩よ、大変大事なことを よく聞いてくれました。
私は今、初めて仏の本体を明らかにします。 しっかり、聞くのですよ。
仏の智慧がどんなに大きいものなのか、仏にはどのような神通力じんつうりき があるのか、
その仏が、どれだけ全力を打ちこんで、真実の法(教え)を説いているのか、
その仏の感化力かんかりき とは、いかに偉大であるかなどを 説いて聞かせましょう。
阿逸多あいった (弥勒菩薩)よ、今、地の底から現われ出でたこの諸々の大菩薩衆たちは、
私(世尊)が、仏の悟りを得たのちに、この娑婆世界において 教えを説いて導いた人たちなのです。
彼らは皆、私の教えを良く聞いて、その乱れた心を調 ととの え、悪の心を消滅 しょうめつ させ、
厳しく長い修行を重ねて、仏の道を実行する志を起こした大菩薩たちなのです‥‥‥」。
弥勒菩薩
「世尊は、この大菩薩たちの修行の深さと、徳の高いことを、いろいろと説いてくれました。
しかし、私(弥勒菩薩)も多くの菩薩たちも、まだ不思議な感じが取れないのです。
それは、世尊は得道 とくどう して、悟りを得てから まだ僅かの40数年しか経っていません。
なのにどうして、こんなのも無数の菩薩たちに、仏の智慧を本当に悟らせることができたのでしょうか。
世尊がまだ太子たいし のときに、仏の智慧(悟り)を求めて、お父上の宮殿を「出宮」しゅつぐう されました。
そして、伽耶城 がやじょう の近くの森の道場に坐して、仏の悟りを得られました。
その後、今日までの年数は、わずか40数年なのです。
この短い期間のあいだに、世尊は こんなにも多くの菩薩の方々に どのような説法をして、
どのようにして 仏の智慧をお悟らせになることが できたのでしょうか? ここが、大きな疑問点なのです。
いくら世尊の力が偉大でも・又、仏の功徳を以って行なったとしても、なんとも、理解しにくいことなのです。
なにせ、この大菩薩衆の数は 数えきれないほどの多くの菩薩衆です。
しかも、久遠 くおん の昔から数多くの諸仏に仕え 長い間の修行を続けて 善根を積み重ねて
ついには、迷いを遠離おんり して、菩薩の道を成就された方々のように、思われます。
彼ら・菩薩衆は、無量の長い間の修行を重ねた結果 菩薩の境地を得た立派な方々に違いありません。
私たちには、この時間空間の格差が、スンナリと理解でき得ないのです。
例えば、ここに、黒髪の若者と、白髪の老人の二人がいたとして、
若者が ーこの老人は私の子供ですーと、老人が ーこの青年は私の親ですーと言っても、世間の誰も信じません。
世尊の仰っていることは これと同様の話しなのです。
世尊が得道 とくどう されてから、まだ40数年なのです。
この40数年で大菩薩衆を ー無上の悟りー に導いたと、先程、世尊は、おおせになりました。
しかし、こちらの大菩薩衆は、無量百千万億劫 むりょうひゃくせんまんのくこう もの長い間、
修行して仏の道を学び、そしてついに、仏の道の悟りを開いた人たちに違いありません。
無量百千万億劫の修行を経て ー人の道の宝ー を得られた菩薩の方々に違いありません。
相手の機根に応じて適切な教えを説く 世尊の対機説法たいきせっぽう を、私たちは、ずっと聞いてきました。
世尊の説法の言葉はすべて 真実であることも、よく存じあげ、心から信じております。
又、法を学び修行を重ねるならば必ず、必ず、仏の道に導かれることも、
そして、法華経の教えは、深く尊い教えであることも、よく理解できております。
それでも、この法座にて教えを聞く初心の人々にとっても、また、未来世の在家の衆生にとっても、
世尊の滅後にて、今、世尊が仰った今の言葉を聞いたならば、おおきな矛盾を感じることでしょう。
無量百千万億劫という長い大菩薩衆の修行と、世尊の得道後の説法期間の矛盾に不信感を抱き、
仏の教え(法)から離れていく衆生も、なかにはでてくるのかも知れません。
又、さらには、法を自ら捨てるとか、法を破るという罪業 ざいごう・をつくる人も出てくるでしょう。
そのような、後世において、仏の道を信じる人々に罪を犯させるようなことは、絶対にできません。
そんなことは 絶対にあってはなりません。 世尊、どうぞ、詳しく教えてください。
私たちは、この疑問を今ここで、スッカリ解決して、スッキリして仏の道を進んでいきたいのです。
この疑問が解決したばらば、未来世の善男子・善女人たちも、まっすぐ仏道に励むことでしょう。
世尊、どうぞ、われわれを憐れんで、ご説明くださいませ」。
世尊、
「弥勒菩薩よ、あなたの熱心さには感動しました。このことは、次の如来寿量品第16で詳しく説明しましょう。
次の如来寿量品第16では、仏の本体を明らかに説きましょう。
ハイ 分かりました よろしくお願いします ……… ボサツマン
では最後に、いまだ説いたことのないことを 偈げ で説きます。しっかり聞きなさい。
ー世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如しー (俗世間の生活のまま 美しく清らかに生きる)。
この偈げ が、妙法蓮崋経の命名の由来となっているのです」。
「如来寿量品第16」へつづく