如来寿量品 (17)
 経文:是故如来 以方便説 比丘當知 諸仏出世 難可値遇 所以者何 諸薄徳人』   ★16ここの経文
 「是の故に 如来にょらい 方便を以て説く 比丘びく まさ に知るべし 諸仏の出世には 値遇ちぐう すべきこと難し。
  所以
ゆえ いか   諸々の薄徳はくとく の衆生 無量百千萬億劫 むりょうひゃくせんまんおくこう 過ぎて
  或
あるい 仏を見る者あり あるい 仏を見ざる者あり。
  此の事を以てのゆえに
是の言ことば をなす。 諸々の比丘 如来は見ること得べきこと難がた しと。
  衆生等たちかく の如き言葉を聞いては 必ず まさに難想の想いを生じ 心に恋慕れんぼ を懐いだ
  仏を
渇仰かつごう  便すなわ  善根ぜんこん  ゆべしことなり」

  世尊

 如来方便ほうべん を用いてこの世に現われるのに 衆生が出会うことは 非常に難かしいこと……
  ということを 衆生はしっかりと
捉えなければなりません。 なぜ 難かしいのか?を 説明しましょう。
  
徳の薄い衆生の場合 無量百千萬億劫の非常に長い年月を経て 仏と会うが結ばれる衆生も有るが
  また
仏に会うというが結ばれないままの衆生もいるのです。
  
仏を見ることは難かしい 世尊が説いた理由は こういう意味なのです」。

  ボサツマン
 挙手して質問
 「世尊は
如来は 宇宙に広く遍満へんまん していて 常に衆生を済度さいど していると 仰ったでしょう
  なのに
仏に出会える衆生と 出会えない衆生とがいるというのは 矛盾むじゅん したお話しでございます。
  仏は
常に 衆生を済度しているのだから 徳の薄い衆生でも仏に出会うことが 簡単なはずでしょう」。
 世尊
 「
ボサツマンよ 仏を憶念おくねん すれば 我を憶念す その答えです。
 
仏を見ざる者とは 仏が目に見えていない者 という意味ではなく 徳の薄い者のことです。
  つまり 仏に会って教えを聞きたいという願いを
心にもっていない者という意味なのです。
 
宇宙の真理なのですから 人間の五官の眼で見えるとか 見えないとかではありません。
  宇宙遍満の本仏を
ご仏像のような形と想像することじたいが まと はずれなのです。
  仏がこの世に現れる
という意味は 人間の目の前に登場して 姿を見せることでは ありません。
  仏がこの世に現れるという意味は 衆生が心の中に「
仏を自覚する」ということなのです。
  いくら仏の教えを
いっぱい聞いても 真正面の心で仏に向かなければ 仏は見えてきません。
  ですから
衆生自身 自らの心で発心して 仏の教えを求めることが 大切なのです。
 
衆生が仏を恋いあこがれて慕う心の状態のことを 仏を恋慕渇仰 れんぼかつごう するといいいます。
 仏はまもなく滅度します 一通り法を説くと しばらくこの世から姿を消すのです……と 衆生が聞くと
  いくら薄徳の衆生でも この世で仏に会うことは非常に難かしいと ハット気がつくのです。
  今まで
ぼんやりしてた衆生の心に 高電圧の電気が流れるような事 いえるでしょう。
  衆生の心に
キットした気合いが入魂されて 仏を慕う気持ちが膨らみ 急に仏を求めだすものです。
 
衆生の心が”仏を自覚した”瞬間 このとき 衆生の心に善根が植えつけられたのです」。     つづく