唐沢山神社初詣 〔所在地図〕 平成13(2001)年の初詣は、唐沢山神社へ行きました。元旦は関東の空っ風が吹き荒れ、とても寒い一日となったので家でゆっくり過ごし、2日が風の全く無い穏やかな日となったので、家族で出かけました。この神社には平将門の乱を平定した藤原秀郷が祀られています。
そして、この唐沢山は、春の色・夏の色・秋の色・冬の色と四季を通して表情を変え私たちを楽しませてくれます。
唐澤山神社 由緒
神社格:別格官幣社(旧制度の社格の一。官幣小社と同じ待遇を受けた神社で、国家に功績のあった人を祀る) 神社名:唐澤山神社(からさわやまじんじゃ) 祭 神:藤原秀郷 鎮座地:栃木県佐野市富士町1409番地 由緒書: 唐澤山は今より一千年の昔「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷の居城址で標高240mながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。 唐澤山神社の御祭神・藤原秀郷は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるうようになりました。時に秀郷は延長5(927)年に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に赴任し唐澤山に城を築いて善政を施していました。 たまたまこの頃桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶2(939年)年頃から関東八ヵ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に送り返して関東地方の大部分を支配し、自ら親皇と名乗り朝廷の命令を無視していました。 将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷は、藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させました。その軍が到着する前に秀郷は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻め滅ぼしてしまいました。時に天慶3(940)年2月14日、世にこれを天慶の乱と言います。秀郷はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。 その後代々子孫が城主となり、約700年間、佐野修理大夫信吉の代まで続き、徳川幕府の初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。この春日城がまだ完成しない慶長18(1613)年、大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが23年後、時の3代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の2人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。 慶応3(1867)年、廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治16年9月25日本丸跡に神社を創建して同年10月25日に秀郷公の御霊を奉斎し、明治23(1890)年には別格官幣社となり、以後永くこの地方の守護神として尊崇されています。 |