佐野が生んだ偉人=藤原秀郷

藤原秀郷の錦絵

藤原秀郷の錦絵

 藤原秀郷は、藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の子孫と伝えられている。秀郷は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田秀郷ともいわれている。
 秀郷の在世当時(平安朝の中頃)は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権を握っていたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の土豪などが欲しいままに勢力を広げていた。
 時に秀郷は延長5年(927)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来のこの地に参られ唐沢山に城を築いて善政を施していた。

 たまたまこの頃、桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の平国香を殺し、次第に勢力を増し、天慶2年(939)頃から関東8か国(上総・常陸・上野・下野・武蔵・相模・伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に護送して関東地方の大部分を支配してしまい、自ら新皇と称し、朝廷の命令を聞こうとせず背いていた。将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷が藤原忠文に征夷大将軍の職を与え将門征伐に出発させた。
 その軍が到着する前に秀郷は平貞盛と力を合わせて、将門の軍を下総国幸島において攻め滅ぼした。時に天慶3年2月14日、世にこれを天慶の乱という。秀郷はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられた。

 その後、子孫が代々城主となり、約700年間、佐野修理大夫信吉の代まで続き、徳川幕府の初期に現在の城山公園の地に城を移し春日城と呼ばれた。この春日城がまだ完成しない慶長18年(1613)、大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなった。
 23年後、時の三代将軍徳川家光から赦免の恩赦に浴し、信吉の二人の子供は旗本として佐野家を再興することができた。

 慶応3年(1867)、廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族・旧臣・相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷の遺徳をしのび、明治16年9月25日本丸跡に神社を創建して同年10月25日に秀郷の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として崇敬されている。