さくら祭り(佐野城山公園) 〔所在地図〕

 JR佐野駅の北側にあって城山城跡がそのまま城山公園になっています。佐野市民が公園といえば「城山公園」を指すくらい市民に親しまれている場所の一つです。
 ここには昔、佐野城がありました。佐野城は藤原秀郷の流れをくむ唐沢山城主・佐野信吉が、慶長7(1602)年に江戸幕府の命を受けて移りましたが、慶長19(1614)年に廃城となりました。城の形式は平山城で、面積は44,395㎡、東西約110m、南北約305mの規模を有します。明治22(1889)年に公園となり、明治34(1901)年から松翠園と呼ばれていましたが、都市公園法の施行と相まって「城山公園」となりました。現在ではサクラやツツジの名所として知られ、四季を通じて市民の憩いの場となっています。

城山公園のサクラ
 城山公園の桜は、毎年4月10日前後に最盛期を迎えます。この時期には露天商も出店し、夜には花見客で賑わいます。
 この日(H17.4.9)の桜は、ちょうど満開でした。訪れたのが午前9時ということもあって露天商の人達が開店の準備を始めていましたが、花見客はまばらでした。
城山記念館
 この城山記念館は、平成5年4月に建て替えられオープンしました。以前の建物は、明治41年の佐野町電話開通を記念し、電話工事の残金を充てて「城山紀念館」として建築されました。初代の建物は「紀念館」という文字が使われていましたが、立て替えに合わせて「記念館」となりました。
 ここでは毎月、佐野市茶華道協会茶道部による恒例の茶会が開かれます。
東屋(四阿)
 池のほとりにある東屋(四阿)です。これは平成6年に建てられました。公園内の数カ所に東屋が建っており、休憩場所を提供しています。
 池の中には数匹の鯉が泳いでいましたが、4年前に見たときより、かなり大きく育っていました。そして池の水を飲みに小鳥たちが訪れます。時にはセキレイやオオルリなど美しい小鳥も姿を見せてくれます。
石碑「松翠園」
 城山公園の歴史は古く、明治22(1888)年9月13日に公園として供用開始され、明治34(1901)年から「松翠園」と呼ばれました。その名残が写真の石碑に残されています。その後、都市公園法が公布され昭和32年4月12日に都市公園として計画決定されました。また、古くは明治時代の太政官告示による公園として指定され、栃木県内で一番古い公園でもあります。
佐野市戦没者霊園
 城山公園の一番奥(最北部)には、日清日露戦争から大東亜戦争までの戦没者を祀った「佐野市戦没者霊園」があります。この霊園は、昭和44(1969)年9月に竣工しました。
 毎年8月15日には、佐野市遺族会主催による追悼式が厳かに行われています。
佐野城(城山公園)の歴史
 佐野城は、別名「春日岡城」とも言われ、その地名は、延歴元(782)年、藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。
 慶長7(1602)年、唐沢山城主佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させるとともに、築城と町割を開始しました。今日見られる佐野の街は、当時の佐野城を中心とした町づくりがその原形となっています。
 それより前、戦国時代の下野(特に南部地域)は、上杉氏と後北条氏の攻防の舞台となりました。そのような状況下で、弱小戦国大名であった佐野氏は、唐沢山城の天険を頼りにして、巧みな外交術によって独立を保とうとしました。しかし後北条氏の圧力には抗し難く、佐野氏は北条氏康の六男氏忠を養子として迎え入れるという形で、その支配下に組み入れられました。
 天正18(1590)年、後北条氏が豊臣秀吉により滅亡させられました。小田原の役に際して、佐野一族の天徳寺了伯は秀吉に従って功績を上げ、唐沢山城を後北条氏から取り戻すことに成功しました。その後、了伯は佐野房綱と名乗り、佐野の名跡を継ぐとともに、秀吉から佐野領3万9千石を安堵されました。
 房綱は文禄元(1592)年、隠居して秀吉の家臣・富田知信の次男・信吉に家督を譲りました。信吉は関ヶ原合戦に際しては徳川方につきましたので所領を安堵されましたが、慶長7(1602)年、徳川家康より唐沢山城を廃して、春日岡(現・佐野市城山公園)に移転するように命じられました。一説には、山城禁止令に唐沢山城が抵触したため、平城である春日城(佐野城・春日岡城)に移転させられたと云われています。
 また一説には、慶長7(1602)年2月に起きた江戸の大火に際して、その様子を唐沢山城から遠望して驚いた信吉は江戸城へ駆けつけました。本来なら徳川家の大事に急ぎ参じた信吉は報償されるのが当たり前と思われますが、逆に予告なしに江戸へ出府したことを責められ、唐沢山城の廃城を命じられました。つまり、 外様大名の佐野氏が江戸の大事を即刻知ることができる山城に居を構えていては、徳川氏にとって不都合であると考えたのかも知れません。
 そして、佐野城は春日岡にあった惣宗寺の跡地に新しい佐野氏の本拠地に相応しい近世城郭として築城を開始しました。築城途中の慶長12(1607)年には城主である佐野信吉も唐沢山城から佐野城に移転して城下町も整備されつつありました。しかし、築城なかばの慶長19(1614)年7月27日、佐野信吉は大久保忠隣の失脚に連座して改易され信濃国松本藩へ配流となりました。そのため佐野城は僅か14年で廃城となってしまいました。