1864 | (元治 元年) | 2月19日、下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)の農家、須藤惣兵衛と美奈の三男・桂三郎として生まれる。 父の惣兵衛は農業の傍ら"晏斎"の雅号で絵筆に親しみ武者絵等を描く。長兄の勝三は"桂雲"と号し、南画系の山水画を描く。 |
1878 | (明治11年) | 亀田桜園から国漢の学を学びつつ、父惣兵衛や兄桂雲から絵の指導を受ける。 この頃から"琢舟"の雅号が用いられたと思われる。 |
1881 | (明治14年) | 慶應義塾を目指す同窓3人と謀り家出し東京へ出る。 桂三郎を除く3人は直ぐに家人によって連れ戻されるが、桂三郎は数ヶ月東京に留まって画家を訪ね歩く。 生家から父の病の報を受け帰郷する。 |
1883 | (明治16年) | 兵役を免れるために父親が配慮し、生家近くで廃家となっていた小堀家を養子として相続する。この頃から雅号を"雨舟"と改める。 |
1884 | (明治17年) | 上野の第2回内国絵画共進会に出品しこれを機に本格的な絵画修行のため上京し、故実家として知られる川崎千虎の門に入る。 |
1889 | (明治22年) | 東京美術協会青年絵画共進会に出品し、一等褒状を受ける。 この頃から雅号を"鞆音"と改める。 |
1892 | (明治25年) | 岡倉天心や橋本雅邦らを中心に日本青年絵画協会の設立に参加する |
1895 | (明治28年) | 第4回内国勧業博覧会で「宇治橋合戦図」が妙技三等賞を受ける |
1897 | (明治30年) | 東京美術学校助教授となる |
1898 | (明治31年) | 鞆音門下の安田靫彦、磯田長秋らが紫紅会を設立。 東京美術学校騒動により校長・岡倉天心が解任されるとこの処置に反対する教授・助教授34名が辞職声明書を提出し、鞆音も同校を去る。 岡倉天心や橋本雅邦を中心に日本美術院を開設され、鞆音は26名の正員に加えられる。 |
1908 | (明治41年) | 東京美術学校教授になり、文展審査員になる |
1912 | (明治45年) | 鞆音門下の有志が集まって「鞆」の字から「鞆丙会」を組織し、以後展覧会を開催し鞆音自身も出品する。 |
1917 | (大正 6年) | 宮内庁より帝室技芸員に任命される |
1919 | (大正 8年) | 文部省美術審査委員会に代わり、勅令によって帝国美術院が創立され、森鴎外を院長に、鞆音、川合玉堂、富岡鉄斎らが会員に任命される。 |
1923 | (大正12年) | 故郷の人丸神社開帳に際し「柿本人麻呂図」を描く |
1930 | (昭和 5年) | 勲三等瑞宝章を受ける。有職故実を研究すると共に、大和絵風の新しい歴史画分野を開拓する。弟子に安田靫彦らがいる |
1931 | (昭和 6年) | 10月1日、死去。享年68才。同月、正四位勲三等が授与される |