ラランドの白い花

Chapter10

 (1)

 (もう、変なこと考えるのはよそう……)

 そう決めて、雪は結局その件に付いては何も言わなかった。そして久しぶりの二人きりの朝食をごく普通に終えた。
 その後、出かける前にちょっかいをかけてくる夫のせいで、雪の機嫌は良くなったが、出勤は定時ぎりぎりとなってしまった。

 二人が司令室に着くと、中津ら司令室の職員はもちろん、秋田も先に出勤していた。

 「おはよう!」 「おはようございます」

 二人が挨拶しながら部屋に入ってくると、皆が振り返り朝の挨拶を返してきた。ナギサと秋田は昨夜の食事の礼も付け加える。

 並んで出勤してきた二人を見て―それもなかなか清々しい顔をしている(注:特に副司令が!)―さっそくランバートがそれに言及した。

 「副司令、今日は珍しく遅かったですね!」

 「ん? あ、ああ……ちょっとこっちが準備に時間がかかってな」

 進は困った顔で、ちらりと隣の妻を見た。妻の方は、「えっ?」という顔をして、人のせいにしないで!と言いたげに夫を睨み返す。
 視線で会話する二人を、秋田も中津もニヤニヤしながら見た。

 「おいおい、ランバート! そんな質問は野暮ってもんだぜ?」

 「あははは…… やっぱりそうかなぁ?」

 とランバートも笑いながら頷くと、調子に乗った中津がさらに突っ込んで尋ねた。

 「で、副司令。昨日は何時まで?」

 「ばっかやろうっ!」

 進が中津を睨むと―目は笑っていたが―男どもが一斉に「わっははは……」と笑った。
 その笑いの中、ナギサだけがすっとその輪から離れて背を向けた。その姿が雪の目に留まった。
 それは未婚女性らしい潔癖性の現われとも思えるが、雪にはなぜかそれだけでないような気がした。

 とその時、始業を知らせるベルが鳴った。

 「さぁ、仕事始めるぞ! ゆっ、あ……森さん、今日もよろしくお願いします」

 「はい、了解しました」

 なんとなく言いにくそうな進の言葉に、雪はわざと慇懃無礼に頭を下げた。

 「わざとらし〜ですよぉ〜〜!」

 とまた茶々を入れる中津に苦笑しながら、進は雪に軽く手を上げて、副司令席にどかりと座った。
 それを合図に、ナギサは雪のそばに戻ってきた。

 「それじゃあ、面接会場になっている会議室の方にご案内します」

 普段と変わらぬ様子のナギサが、二人を促した。

 (2)

 その日の調査面接作業も順調に進んだ。元々問題の少ない基地とは聞いていた通り、設備面はとても充実していた。
 それは、最も新しく建設されたということもあるが、定期便も通わない基地のため、職員の精神面での充実を図るという名目で、地球近郊の基地よりも設備にこまやかな配慮がされているからだろう。
 その点で、基地の職員達からも、今の環境にほぼ満足しているとの回答を得ることができた。

 雪達は、その日も予定通りに定時で仕事を終えた。司令室に戻ったそして雪は、昨日の約束通り、中津やランバート達と食事に出かけることになった。
 ナギサと秋田は一緒ではなかった。「若者は別の場所へ行きませんか?」と半ば強引気味に誘う秋田に、ナギサは周りの予想に反してあっさりと了承し、二人は別行動することになった。
 ナギサには昨夜のように仲睦まじい二人を目の前で見たくないという、彼女なりの思いがあるのだ。

 進が心配そうな顔で、雪に耳打ちする。進は秋田のことが今もどうも気に食わないらしい。妻と二人で出張していると言うだけで、とにかく嫌なようだ。

 「あいつ大丈夫なのか?」 「だから秋田君は大丈夫だって!」

 周りに聞こえない声でひそひそと話してから、雪は進にも聞かせるように秋田に声をかけた。

 「大事なお嬢さんなんだから、あまり遅くまで付き合せないでね」

 「了解!!」

 雪のかける声に秋田が軽快に答えて、二人は先に部屋を出た。それを見ながら、ランバートがつぶやいた。

 「ナギサちゃん、若い男の誘い素直に受けるなんて珍しいよな。あいつのこと気に入ったのかなぁ?」

 「いいんじゃない? 最近のナギサちゃん、ちょっと変わったしさ。彼氏の一人や二人欲しいんじゃないの?なにせ、独身で年頃の男性なんてここじゃ数少ないからなぁ」

 「ははは、そう言や、司令室も妻子持ちばっかりだしなぁ。ねぇ、副司令!」

 「ん? あ、ああ……」

 まだ気がかりなのか、二人の出ていったドアを見ながら憮然としながら進は生返事をした。
 そんな夫を見ていると、雪はちょっぴり腹立たしくなる。

 「ナギサさんがいないと寂しい?」

 「何ばかなこと言ってるんだよ! さ、俺達も行くぞ!」

 上着をばっと羽織って、妻を睨みながら歩き出す夫に、雪はくすりと笑った。それを見て、中津とランバートが顔を見合わせて肩をすくめた。

 (副司令、間違いなく尻に敷かれてるよな?)

 二人の目と目がそう語っていた。

 (3)

 中津達との会食も賑やかに盛り上がって終わり、帰り際にまた二人にからかわれた。
 途中で雪はコンビニに寄り、明日の朝食の材料を少し買った。進の方は、これからまた飲むつもりなのか、ワインやつまみを物色した。
 そして二人は、仲良く寄り添って家路に着いた。

 部屋に戻った二人は揃って風呂に入り、部屋着に着替えた。
 ちなみに風呂は、今夜はゆっくり一人で入るわと宣言した雪だったが、我慢できない夫は、途中で勝手に入ってきてしまった。
 その後の展開については、各自のご想像にお任せしよう。

 シャワーを終えてソファーで座る雪の隣に、進がさっき買ったワインとつまみ、それからグラスを2個持ってやってきて、どかりと座った。
 雪は火照った顔で、隣に座った夫をちらりと横目で睨んだ。

 「もう…… やっぱり私一人で入れば良かったわ」

 拗ねたような甘えた声で夫を非難すると、進の方は意外そうに眉を動かした。

 「はぁ? よく言うよ。シャワーの音がなかったら隣まで聞こえちまいそうな声出してたのは、どこの誰でしたっけ?」

 進は、ワインをグラスに注ぐと、妻の耳元でそう囁き、唇でうなじを丁寧に愛撫した。雪はくすぐったそうに肩をすくめてから、今にも笑い出しそうな声を出した。

 「くふっ……ん〜 知りませんわっ!」

 (4)

 妻を抱きしめながら、このままここで妻を押し倒そうか、と考えていた進だが、ふと視線の先に子供達の写真が目に入った。

 「あ、そうだ。子供達の新しいビデオ持って来てくれたんだろう?見ようぜ」

 昨夜は二人の作業(何のだ!?)が忙しくてビデオを見る時間もなかった。かわいい子供達の姿を今日こそ見なければ、と進は思う。

 (この続きは、その後でゆっくりとでも間に合うな……)

 進が雪を腕の中から解放すると、雪も思い出したように手をパチンと叩いた。

 「あ、そうそう! あなたへ子供達からのメッセージも入ってるのよ。それにこの間の保育園と小学校の運動会も映ってるわ」

 「へぇ〜 そりゃあ、楽しみだな。よしっ!」

 ということで、さっそく子供達のビデオ上映会が始まった。

 最初のビデオは家庭での普段の様子を映したものだった。その途中で3人が三様に父へのメッセージを口にする。元気にしていること、学校や保育園でのこと、どれも他愛もない内容だが、進にとってはどれも胸が熱くなるものばかりだ。
 週に一回話しているはずなのに、やはり画面だけでは頼りなくて、子供達を抱きしめたくてたまらなくなる。特に愛の愛くるしい仕草はパパ泣かせだ。

 「やぁだ。パパったら泣いてるの?」

 雪は下から見上げるように、ウルウルしている夫の顔を覗き込んだ。

 「ばか言え!」

 進は否定しながらも、鼻をすすり上げ、雪を強引に自分のほうに引き寄せると力いっぱい抱きしめた。ここにいるのは、ちょっぴりホームシックに陥っている優しいパパなのだ。

 雪はそんな進にとても安心した。進は、子供を愛し、家庭をとても大切に思ってくれている。そしてもちろん、妻にもいつもと変わらぬ愛情を抱いてくれていることも、今この身をもって感じられた。

 (こっちに来てから余計な心配のし過ぎなのよね…… もうやめよう。進さんのことだけ考えていよう……)

 (5)

 ビデオはまだ続いた。今度は運動会の映像だ。さすがにA級宇宙戦士たる進と雪の子供達である。3人ともスポーツも万能だ。

 小学校の運動会。守は運動神経は群を抜いていた。走っても飛んでも、とにかくダントツトップだ。リレーでも、遅れを取った第3走者からバトンを受け取ると、3人をごぼう抜きしてトップでゴールし、クラスのみんなが飛びあがって喜んでいた。
 そのビデオを見ている父と母は、やけに鼻が高い気がする。やっぱり親バカである。

 保育園の運動会。航はそろそろしっかりと走れるようになって、走り方も様になってきている。
 そして、愛はちょこちょこ走る。3歳児にもなれば、ゴールを目指すと言うことは理解しているようで、皆と一緒に一生懸命走っていた。

 その中で、愛の競技で親子で出る競技があった。子供を乗せたタイヤを引っ張ったり、一緒に網をくぐったリ……そして最後は子供を抱き上げて親達がゴールインするというものだ。
 愛の順番はまだだが、他の幼児達の競技を見ていると、ほとんどが父親が一緒に走っている。なかなか力のいる競技内容で、父親の方が適しているらしい。

 「なあ雪、これ、愛は誰と走ったんだ? 君とか?」

 「ふふ……もうすぐ出てくるけど、これ誰が出るかで大騒ぎしたのよ」

 「は?」

 進は不思議そうに首を傾げるが、雪は笑っているだけで何も言わない。
 そのうちに愛の番がやってきた。そこで愛と手を繋いでいたのは、やはりと言うかなんと言うか……南部だった。

 「な、南部!」

 そう叫んだ進は、少しばかりムッとした顔でビデオを凝視した。本当ならば自分が愛の手を取って抱いて走るはずだったと思うと、南部がうらやましくも恨めしい。
 もちろん南部と愛は、見事なチームプレイ?で一等を取り、そして程なくビデオ上映会は終わった。

 「ふんっ、まったく南部の奴は……」

 進がソファーに深く座りなおすと、口をとんがらせた。

 「うふふ、いいじゃない。一等取ってくれたんだし……
 最初は私が出るつもりだったのよ。でも他の子達がお父さんが出るって言うのを聞いたら、愛もお父さんと出たい!って言いだしてね。まさかあなたを呼ぶわけにもいかないし、ふふふ……
 で、始めはおじいちゃんに頼んで出てもらうつもりだったのよ。でもちょうど腰を痛めちゃってね。あ、それはもう治ったし、たいしたことなかったんだけど……
 で、当日来たお友達のお父さん達の誰かに頼もうってことになって…… 最初は愛に選ばせようって言ってたんだけど、みんな俺が俺がってアピールするものだから愛も困っちゃってね、ふふふ……
 だから最後はみんなでジャンケン大会! 島さんでしょう、相原さんに太田さん、徳川さんに加藤さん、真田さん、それに南部さん」

 雪が楽しそうに話す。ヤマトの仲間達も皆子供達を同じ保育園に預けている関係で、大勢の仲間達が集まっていたらしい。

 「で、南部が勝ったってわけ」

 進がまだ不機嫌そうな顔で妻を睨むので、雪は余計に可笑しくなって、さらに火に油を注ぐようなことを言う。

 「そっ! 南部さんったら喜んじゃって、愛を抱き上げてホッペにキスまでしちゃうし……」

 「な、なんだと! あいつめぇ〜〜〜! 今度会ったらただじゃおかないからなあ〜〜!!」

 進はすっくと立ちあがると、腕をブンブン振りまわす格好をした。今度南部と会ったときのことを想像すると、雪は可笑しくて可笑しくて仕方がなかった。

 「ふふふ……もうあなたったらっ」

 離れ離れに暮らしていても、家族はいつもひとつなんだなって思える瞬間。雪が朝感じた心配は霧散していた。

 (6)

 「じゃあ、ビデオ上映会はおしまいねっ!」

 雪は運動会のディスクを取り出して、他のディスクの入っているラックに入れた。ラックには雪が送った覚えのあるパステルカラーのディスクが数本並んでいる。が、その中に見たことのない黒いディスクが2枚あるのに気付いた。

 「あら? これはなんのディスク?」

 何気なく手にとって尋ねた雪を見て、進は突然慌て出した。

 「あ、ああ……し、仕事の……ディスクなんだよ。うん」

 その慌て振りは尋常でない。こういう時の進はまず隠し事ができないのだ。雪が疑わしそうに、真正面から夫の顔に自分の顔を近づけた。

 「ほんとぉ?」

 「ほ、ほんとだよ」

 仰け反りながらやっとそう答えたが、雪はもちろん納得していない。くるっと振り返ると、涼しい顔でこう言ったのだ。

 「じゃあ見てみましょ」

 「いっ!? ちょ、ちょっと待て〜〜〜!!」

 進が制止するのを無視して、雪はさっさとそのディスクをデッキに挿入した。しばらくして出てきた画像は……!!
 とって付けたようなわざとらしい演技の後に、当然のごとくキングサイズのベッドに二人の男女がいた。

 「やっぱり……んっ、もうあなたったらぁ!」

 「いや、その…… だから、あの……南部がな、勝手に置いていったんだよ。暇つぶしにってさ。あの……怒ってるのか?」

 ぎっと睨んでいる妻にばつの悪そうな夫は、平身低頭だ。まさか雪が来るとは思っていなかった。だからディスクを隠すことなどこれっぽちも頭になかったのだ。それに昨夜は忙しかったし……

 と、雪の顔が急に笑顔に変わった。そして情けない顔の夫を見てプッと吹き出した。

 (だって……)と雪は思う。(浮気されたりするよりも、一人でこんなビデオ見ててくれたほうがよっぽど安心だわ)

 「ふふ……べ〜つにぃ。怪しいビデオや写真なんて、あなたが一人暮ししてた頃からあるの知ってたし」

 「えっ!? ど、どうして?」

 「ベッドの下……」

 雪はさらっと言ってのけた。一人暮しの進の部屋を片付けに行った時に、ベッドの下からいろんな物を発見したのだ。

 「うげっ…… 知ってたのか……」

 進は額からたら〜と冷や汗がでそうな気分だった。
 確かにあの頃は、雪に手を出せない欲求のはけ口をそんなビデオに向けていたこともあった。それを、雪が掃除に来てくれている事を知ってて、無造作にベッドの下に放り込んでいたのは自分なのだ。

 「一緒に暮らすようになってからは家には置いてなかったみたいだけど……」

 「はぁ〜」

 済ました顔でにっこり笑う妻を見て、お見それしやしたと進は肩を落とした。
 だが今の進は昔とはちょっと違う。妻の様子をすばやく探ることを覚えた。上目がちに妻の顔を見ると、確かに彼女が怒っていないことがよくわかった。
 そして妻の後ろでは、消すのを忘れたままの、なかなか興味をそそる映像が映っている……

 長年夫婦をやっていると、こういう場面を有効に使うことも、進は覚えたのだ。
 進の瞳が、キラリと光った。

 「けど……たまには二人で見るのもいいかもな」

 「えっ?」

 タイミングよく画面から女性の色っぽい声が聞こえてきた。
 雪は驚いて振り返ってその映像を見た。艶かしいシーンが展開している。思わず目がそれを凝視してしまう。雪はごくりとつばを飲み込んだ。

 もちろん夫たるもの、それを見逃すはずはなかった。雪を後ろから羽交い締めにするように抱きしめると、あっという間に、妻を画面の中の女性と同じように自分の下に組み敷いた。

 「ふふ〜ん…… なあ、同じことしたら、本当にあんな風に声が出るか試してみないか?……」

 「あんっ……」

 しばらくして、映像が終わって画面が真っ暗になった。しかしその部屋では、悩ましげな声と息遣いがいつまでも聞こえていた。

 (7)

 そんな幸せな夜が明け、3日目の朝が開けた。2日連続の寝不足で少々眠気がとれない。二人は大あくびをしながら、濃い目のコーヒーをいれて飲んだ。
 それでも充実した夜を過ごしたのは間違いなく、雪は心から幸せな気分で、ナギサのこともすっかり忘ていた。

 そんな雪の幸せな気分を一転させることになったのは、その日の昼休みのことだった。

 雪達の最終日の作業も滞りなく進み、午前中の予定も順調にこなし、早めの昼休みを迎えることができた。
 それもこれも、ナギサの細やかな手配振りのお陰だと、雪は心から感心していた。

 (本当に済から済まで気配りのできる人だわ。こんなに面接作業がスムーズに進むのは久しぶり。本当にうちの部に欲しいくらいだわ……)

 進とのことさえなければ、雪のナギサへの評価はとても高かった。

 「森さん、食事行きませんか?」

 「そうね。あ、ナギサさんは?」

 「いえ、私はお弁当作ってきてますので」

 「そう、じゃあ、また後で」

 3日間とも同じ会話が繰り返され、ナギサは一人司令室の方へ歩いていった。その姿を見送りながら、雪は秋田に呟いた。

 「今時毎日お弁当をちゃんと持ってくるなんて、珍しいわね」

 「そうですね。彼女料理も好きみたいですよ。昨日ちょっと話したんですけど、彼女和食にも興味あるんだそうですよ。半分日本人の血が流れているんだから当然だろけど、大抵の物は作れるって言ってました」

 「そう……」

 秋田の言葉に、消え去っていた微妙な引っ掛かりを感じる雪であった。

 (8)

 雪と秋田が食堂に行くと、まだ昼休みが始まったばかりのせいか割合空いていた。
 カフェテリア形式で、欲しいメニューをセルフサービスで取り、その下にあるカードリーダーに自分のIDカードをさし込むだけで、食事代は給料からの天引きになるというシステムになっている。これは防衛軍内の全基地共通のシステムで、雪達も手馴れた様子で食事を選んでいった。

 その時、後ろから司令室の中津が食事にやってきた。「お疲れ様」と声をかけあってから、彼も雪の後ろに並んでメニューを選んでいった。
 食事をとって、三人でテーブルに座った。持ってきた料理を見つめながら、中津がふと呟いた。

 「ああ、たまには昼間もあっさりとしたもん食いたいなぁ」

 その言葉に、雪は思わず反応してしまった。そう言えば……

 「ね、ここの昼食メニューには和食もあるんでしょう? この3日の間には見かけなかったんだけど。例えば、きんぴらごぼうとか……」

 「きんぴら? そりゃあないですよ!」

 中津が大きく首を振って否定した。

 「えっ!? でも……」

 (だって彼は、食堂のおばちゃんに余ったのを貰ったって……)

 雪は突然暗雲の立ち込める思いで、心の中で呟いた。だがもちろん中津にはそんなことは解るはずもなく、いいことに気付いたとばかり、雪に訴えた。

 「そういや、森さんに要望してもいいでしょうかね?」

 「なにかしら?」

 雪は自分の心の動揺を隠しながら中津に目を向けた。

 「はい、基地の施設に文句はないって言いましたけど、今思い付きました。実はここの食堂、ずっと洋食しか出さないんですよ。シェフが全員ヨーロッパ出身だから仕方ないんでしょうけど、俺達日本人としてはたまには和食を食べたいって思うんですよ。なんでもかんでもって言うわけじゃないですが、もう少しバラエティに富んだのになればいいなと思って……」

 「そうね……」

 そう答えながら、雪の頭の中は、例のきんぴらごぼうを作ったのが誰なのかということで一杯になった。

 (食堂には作れる人がいない……?としたら、誰が? まさか!?)

 「まあ俺なんかは、家に帰れば女房が作ってくれるんでいいですけど、副司令も和食を恋しがってらっしゃいましたよ。
 そうそう、一度うちにお招きしたことあるんですけど、すごく喜んでたくさん食べてくださって……」

 「そうなの…… お世話になってありがとうございます。じゃあ、この前もきんぴらごぼう作ってくださったり?」

 もしや中津の妻の差し入れではないのかと、すがるような思いで尋ねた雪に返って来たのは、悪い方の答えだった。

 「へ? いえ、女房がご馳走したのは一回だけで、その後何か作って差し上げたことはないですよ。女房も副司令の食べっぷりにはすっかり気を良くしてね。また来てくださいっては言ってあるんですけど、今んところは、あれから来られてないですよ。で、きんぴらごぼうってのは?」

 「あ、ううん、あの人が好きなのよ。じゃあ、食堂では和食は一切でないのね?」

 「はい、和食も中華もでませんね。そのあたり、もう少しバリエーションを広げてもらえると嬉しいんですけどね。一応要望としてお願いできませんか?」

 「ええ、わかりました。今度シェフの交代があるときには、そのことを念頭に置いてもらうように報告書に付け加えておくわ」

 雪は心の動揺を抑えて中津の申し出に答えた。

 「ありがとうございます!!」

 中津は嬉しそうに笑って、食事を始めた。秋田もそして雪も食事を始めた……が、雪は食事の味もよく解らない気分だった。

 (でも……じゃあ、誰があのきんぴらを……?)

 食堂で和食を提供できる人がいないと聞いた瞬間、さっきの秋田の言葉が雪の脳裏に甦った。

 『和食は大抵の物は作れるって言ってましたよ』
 
 (それじゃあやっぱり、あれを作ったのはナギサさんなの!?)

 その後部屋に戻ってナギサと再び合流した雪達は、午後の作業も順調に進めた。
 しかし、雪の視線は、何度もナギサの方に向いてしまった。

 その視線を受けるたびに、ナギサは困ったように、「森さん、何か?」と尋ね、雪は「ううん、なんでもないわ」とその都度ごまかした。
 午後になって急に自分のほうばかり気にしているように見える雪が、ナギサにも不安を与えた。

 一旦沸き上がった疑惑は、雪にもどうしても押さえきれなかった。そして、すっきりしない気持ちを抱いたまま、3日間の作業は完了した。

 (9)

 夕方司令室に戻ってきた三人は、イワノフ司令の部屋に行き、作業の完了と協力に感謝の言葉を告げた。

 「調査の方無事に完了しました。ご協力本当にありがとうございました」

 雪と秋田が深々と頭を下げると、イワノフはいつもの笑顔で答えた。

 「こちらこそ、チェックの方お手柔らかに頼みたいですな」

 「それは大丈夫ですわ。元々問題点のない基地とうかがっておりましたし、特に問題視するような点は浮かんでいません。詳しい報告は後日こちらから送付致しますが、司令のご心配されるようなことはないと思いますので」

 「そうですか。それなら安心しました。ナギサ君もご苦労だったね」

 「いえ……」

 じっと黙って聞いていたナギサも、少しはにかんだように微笑んだ。

 これでやっと解放される…… ナギサのいつわりない気持ちだった。雪といっしょに行動することは、どうしても辛い。目の前の雪が素晴らしい女性だとわかればわかるほど、ナギサの心は痛むのだった。

 (私に入る余地のないことはわかってる……でも、今は……せめて彼がここにいる間だけは……見つめていたい)

 雪がここに一緒にいれば、進の顔を見ることさえ、はばかられるような気がするのだ。

 「本当にナギサさんにはお世話になりました。手際が良くて間違いもなく、そのお陰でとてもスムーズに作業が進みましたわ」

 雪はイワノフに微笑んでから、ナギサの方を見た。そして任務を終えてほっとしているようなナギサの表情を見ていると、急に奇妙な嫉妬心が沸いてきた。

 「ナギサさんを我が部にスカウトして、このまま地球に連れて帰りたいくらいですわ」

 もちろん冗談である。が、同時に雪の本音でもあった。このまま彼女を自分と一緒に地球に連れ帰ってしまえば、とりあえずは心配をしなくてすむ。少なくとも自分の目の届く範囲におけるのだから。

 「ははは、それはいい。どうかね、ナギサ君、森君と一緒に地球へ戻るかね? 君にとっても栄転だぞ」

 「い、いえ……そんな……私は…… あの……困ります!」

 ナギサは突然の話を、大慌てで拒否した。ナギサはここの仕事が気にいっている。そして何よりも……彼がいるから、今は地球に帰りたくなかった。

 「はっはっは、冗談だよ。ここで勝手に防衛軍の人事を決めるわけにはいかないからね」

 イワノフが大きな声で笑い、雪や秋田もニコニコ笑っている。自分がからかわれたのだと気付いて、ナギサはほっと胸を撫で下ろした。

 「驚かさないでください、司令」

 「でも、ナギサさんの仕事振りを評価したのは本当よ。その気があるのなら、いつでも連絡してちょうだいね」

 雪は優しくそう付け加えた。心の中は複雑である。いろんな思いや問いが浮かんでくるが、それはあくまでもプライベートなことだ。雪はそれで任務に関してのナギサの評価を下げるつもりだけはなかった。

 「ありがとうございます。森さん。私もとてもいい勉強になりました」

 ナギサの言葉にも嘘はなかった。進の妻である森雪と言う女性が、自分が最も理想とする女性像そのものの人であったことは、彼女自身はっきりと認めているのだ。

 (もう会うこともないかもしれないけれど…… もっと違う立場でこの人と会いたかった)

 ナギサと雪は互いにそんな思いを抱きつつ、別れの挨拶をした。

 「それでは私達はこれで失礼させていただきます」

 「わかりました。森さんは週末をこちらで過ごされるんでしたな?」

 「はい、休暇を3日ほどいただきましたので…… 秋田は明日の朝の輸送船団に便乗させてもらって一足先に帰りますが」

 「うむ。短い間だが、たっぷりご主人に甘えて帰るといい」

 「まあ……」

 ぽっと頬を染めて雪が微笑んだ。同時にナギサはそっと顔をそむけ、先にドアの方へ歩き出した。

 (10)

 その日の夜は、明日帰る秋田の送別会と称して、イワノフを除いた司令室全員で宴会となった。宴自体はどうということもなく、それなりに盛り上がり会話も弾み、無事に終わった。
 ただ、雪だけは昼間のことが気になってしまって、ナギサをチラチラと見てしまうのだった。

 ここで問題なのは、実はナギサの気持ちではなかった。
 彼女が進に何らかの思慕の情を抱いているのは、間違いないと思う。
 ナギサの進を見る目は、明らかに恋する女性のものだ。彼女自身はそれを隠そうとしているが、恋の経験が浅いためか不器用なのかはわからないが、よく観察すればすぐに気付いてしまう。
 秋田も初日から感付いているようだし、基地内でそんな噂がチラチラと耳に入ってきた。

 逆に、それを進が気付いている様子はない。もしかしたら、気付いていて知らない振りをしているのかもしれないが、とにかくそれを意識してナギサを避けるようなそぶりは見せていない。
 逆に、進のナギサへの視線は、とても優しかった。それは、二人の関係を疑うほどでもないとはいえ、雪の心の凪を微妙に揺らすに十分なものだった。

 つまり問題は、そのナギサの思いを、進が受け止めているのではないかということだ。

 雪と付き合い始めてからも、進に思いを寄せる女性は何人もいた。それを進は困ったことと捕らえても、その気持ちに答えようとしたことはなかった。
 例のきんぴらの問題でもそうである。もしそれがナギサからのものだったとして、進が断らずに受け取ったということ、そしてそのことを妻に正直に言わなかったことが、雪には最も気になることだった。

 何度もナギサに目をやる雪に気付いたのか、秋田がひそひそと小さな声で話しかけてきた。

 「森さん、どうしたんですか? 今日はお酒進みませんね?」

 「え? まあね。毎晩毎晩はちょっとね……」

 「そうでしたっけ?」

 秋田がにやっと笑う。雪が酒が弱いとは思ってないのだ。

 「何を言いたいの!」

 「ははは、いえ…… っていうか、それより気になることがあるから、なんじゃないですか?」

 と、言いながら、秋田もちらりとナギサのほうを見た。

 「なんのことかしら?」

 ドキリとしつつも雪は嘯(うそぶ)いた。と、秋田も苦笑する。

 「いいですけどね。でも、彼女はとてもいい娘(こ)だと思いますよ。あんまり心配ならちゃんと話をしてみたらどうですか? 話が通じない相手じゃないと思いますけどね」

 「…………」

 答えに窮する。そんなことは解っている。ナギサと言う女性を雪も高く評価している。それだからこそ不安も大きいのだ。

 すると、今度は反対側に座っていた進が、雪の沈んだ様子を気にして声をかけてきた。

 「どうした?雪」

 進は、雪と話していた秋田を一瞥すると、今度は妻の様子を気遣うようにそっと視線を和らげた。

 「ん? ちょっと、疲れたのかもしれないわ」

 雪は言葉を濁した。自分の思いを、進にすぐ話す気にもなれなかったし、第一こんな場所で話す事ではない。

 「そうか、見知らぬ基地での調査で気も使ったし疲れたんだな。早めに帰るか?」

 夫の優しい言葉にほっと安心する。できれば静かなところでゆっくりとしたかった。

 「ええ、そうね…… でも、いいのかしら?」

 「ああ、いいよ。それじゃあ行こう」

 進は雪を支えながら、すぐに立ちあがった。妻が疲れているから先に帰ると宣言した進を、中津達は囃し立てながらも、気持ちよく解放してくれた。

 「じゃあ、秋田君、部長への報告の方、お願いね」

 「わかりました。ゆっくりご主人に甘えてくださいね!」

 「ふふ……ありがと。それじゃあ皆様、お先に失礼します」

 妻を優しく労わりながら帰る進の後姿に、秋田は安心を、中津やランバートは羨望を、そしてナギサは悲しい嫉妬を感じていた。

 (11)

 部屋に帰りつくと、雪はふうっと大きなため息をついてソファーに座りこんだ。進が台所で水を汲んできて差し出した。

 「ほら、飲めよ。大丈夫か? 飲みすぎたわけでもないだろう?」

 進の差し出したコップを受け取って一口飲むと、雪は力なく微笑んだ。

 「あ、ありがと。ええ、そういうんじゃないの。大丈夫だから」

 答えのわりに元気のないのが、進には気にかかる。心配そうに見つめながら、横に座って妻の肩を抱き寄せた。

 「そうか…… じゃあ風呂でも入れよ。今日は邪魔しないからさ」

 そして雪の頬に、軽く口付ける。くすぐったくて気持ちいい。雪は嬉しそうにくくっと喉を鳴らしてから、いたずらっぽく瞳を輝かせた。

 「ふふ…… あら、残念だわ」

 「えっ!? いいのか?」

 「だ〜〜〜めっ! 今日はゆっくり入らせて」

 「了解!!」

 進は、すっくと立ちあがる雪を座ったまま見送り、冗談を言えるくらいなら大丈夫だな、と思った。

 雪は一人入れるだけの小さな湯船にお湯を張って、裸の体をゆっくりと沈めた。目を閉じる。静かにふうーと息を吐きながら、手足を伸ばしてリラックスしようとした。
 だが体はリラックスしても、心にかかった霧はまだすっきりとは晴れない。

 (あのきんぴらはやっぱり彼女の作ったものだったのかしら? たまたまあれだけ? それともいつも……何度も作ってもらってたの?)

 この部屋の台所で、料理をしていそいそと進の前に並べるナギサとその料理を笑顔で食べる進の姿が目に浮かんでくる。

 (やだっ!)

 雪はぶるっと顔を振るわせると、両手でお湯をすくって何度もばしゃばしゃと顔を洗った。

 「もう、考えないっ!」

 と、声に出して言ってみたものの、しばらくすると再びその思いに取りつかれる。

 (あと3日…… 3日経ったら、私はまた地球へ帰らなければならない。進さんはあと半年はここで暮らす。そしてあの女(ひと)も……一緒)

 気にしすぎだとは思う。進は自分のほうを向いてくれている。彼の愛情を疑うつもりはない。だが、自分が帰ったあとの二人のことが、やはり気になってしまう。
 心の中の堂々巡りは、いつまでも終わらなかった。

 (12)

 雪が風呂から上がると入れ違いに進が風呂に入った。そして雪は一人先にベッドに入った。

 しばらくして進も寝室にやってきた。雪は目を閉じて寝たふりをしたが、進はもう一方の空いているベッドではなく、雪のいるベッドにそっと入ってきた。

 「雪……」

 進が小さな声で囁いた。雪はそのまま目を閉じていようかとも思ったが、夫と過ごせる短い時間を無駄にすることができなくて、そっと目を開けた。

 「まだ起きてたのか?」

 「ん…… それほど眠いわけじゃないのよ」

 「体、だるいのか?」

 「ううん、そうでもない。大丈夫よ。お風呂でゆっくりできたし……」

 「そっか……」

 短くそう答えた進は、そっとその手を妻の胸に伸ばした。雪の体がビクンと反応する。先ほどからの様々な思いが、夫に抱かれることを一瞬躊躇させる。

 「疲れてるから嫌か?」

 進が心配そうな顔で雪の顔を覗き込んだ。悲しそうな困ったような、彼のそんな表情に、雪はとても弱い。すがるように自分を見つめる夫が、たまらなく恋しかった。愛しかった。抱きしめて……欲しかった。

 「ううん……嫌じゃないわ」

 「じゃあ、いいのか?」

 まだ手を伸ばそうとはせず、もう一度確認するように尋ねた。雪は上から見下ろす夫の首筋に両手を絡ませた。

 「…………抱いて……」

 その言葉を合図に、夫の愛撫は優しくゆっくりと始まった。
 それは昨日一昨日の溜まっていた物を吐き出すような激しい愛撫ではなく、慈しむように優しく、あくまでも雪のために動く。そして雪はいつしか心地よい南の海の中に漕ぎ出していくような感覚に襲われた。
 そして、身も心も夫以外のものをまったく意識できないほどの快感の渦の中に巻き込まれていった。

 (愛してる……あなた……進さん…… ずっとずっと…… だから私のそばにいて……どこにも……行かないで……)

 夫を強く抱きしめながら頂点に達した雪の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、夫からこれほどまでに愛されることの喜びのためなのか、それとも、どこかで感じる一抹の不安のためなのか…… 雪自身にもよく解らなかった。

Chapter10終了

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(背景:Atelier paprika)