ラランドの白い花
Chapter4
(1)
どうして、彼はこれほど自分の心を逆なでするのだろう…… 違う、逆なでじゃなくて、かき乱すと言ったほうがいいかもしれない。彼の姿を見るたびに、心の凪が乱される。
どうして……どうしてなの? 私は一体どうしたっていうの?
ナギサが、進に対して複雑な思いを抱くようになったのは、それからまもなくのことであった。
新しい上司古代進は、ナギサの嫌いなタイプの男だった。逆に言えば普通の女性なら、無条件で熱を上げるタイプなのだ。
隣に連れて歩けば誰もが羨ましがるようなハンサムで男らしい容姿、まだ32歳と言う若さで副司令に任命されたという防衛軍の精鋭、女心をくすぐる眩しい笑顔と優しい言葉…… どれを取っても、女たちにとっては好ましい材料だった。
それだけの条件が揃えば、妻子があるということも、昨今の女性たちには障害にならないらしい。
そういう女性達の節操のなさも含めて、ナギサにはどれも許せなかった。
そんな男はきっと、女を着せ替え人形のように、とっかえひっかえするに違いない。その中で大人しくて美しい女を、妻として飾りにすえて、自分はまた勝手に他の女性と遊ぶのだ。
そう、例えば――母を騙して去って行った、会ったことのない私の父親と同じように……
ところが、彼の場合はどこか違っていた。ナギサが知る限り、意外なことに彼は女性に対してなんの興味も抱いていないように見えた。
女性職員たちの噂話も、だんだんトーンダウンしていった。基地内ではいつでもにこやかに対応してくれる彼も、どんなにモーションをかけても全くなびいて来ないらしい。
食堂での職員の会話や、司令室内での執務官達との話から、それは窺(うかが)い知れた。
聞いたところによると、こうである。
ある女性職員が、彼の気を引こうと潤んだ瞳で見つめたら、目にごみが入ったのかと心配された。前でよろめいて倒れて見せれば、貧血だ鉄分不足だと医務室に連れて行かれた。
などなど、この手の笑い話がいくつも聞こえてきた。
この男少しばかり鈍感らしいということになって、ならば今度はストレートにデートに誘うものもいたらしい。
総務部の女性の話だ。その女性は、少しばかり色気のあるどちらかと言うと男好きのするタイプ。ナギサは嫌いな相手だった。
その彼女が、映画を見に行こうと誘ったらしい。だが、映画は苦手で見ている途中に眠ってしまうからと、あっさり断られ、逆に暇なら緑化運動のボランティアに参加しないかと誘われたらしい。
それでも彼女は、自分に気があるに違いないと、ボランティアに参加したのだ。だが彼は、誘った相手のことなどすっかり忘れて、せっせと植物達の世話にいそしむばかりだった。
このボランティア参加事件?は、ナギサも目にした。ぶつぶつ文句言いながら帰った彼女は、二度とこの運動に参加することはないだろう。
これに関しては、ナギサは思いっきり溜飲の下がる思いだった。
(2)
ラランドグリーンサークル――このボランティア組織の活動に、進は毎回きちんと参加してきた。軽い興味から参加する気になったのかと思っていたナギサにとっては、これも驚きの事実だった。
緑化運動のボランティア活動をしている時の進は、本当に嬉しそうで幸せそうなのだ。これはナギサも権藤も呆れるほどだった。彼は、熱心で一生懸命で、手間や労力を全く厭わない。
この作業が楽しくて仕方がないという進の姿は、誰の目にも宇宙の一基地の副司令を勤める超一流の宇宙戦士とは思えなかった。
彼はまた付き合いもなかなかよく、仲間達の評判もよかった。作業が終わると、夜は大抵飲み会になる。もちろん、進は参加する。慌てて帰るべき家庭がないのだから、当然なのかもしれないが、宴の場では副司令という肩書きは取り去って、皆と同じレベルで話し笑いあうのだ。
さらに植物や生物の知識は、既存メンバーを完全に凌いでいた。飲み会では、メンバー達に、様々な生命の不思議話を面白おかしく聞かせた。
彼は、ほんのひと月ばかりで、緑化ボランティアのメンバー達の中心的存在になっていた。
彼って……どうしてあんなに人を惹き付けるんだろう? 女性に対して媚びるような言葉も仕草も一切しない。けれども、誰にでも分け隔てなく笑顔を向ける。
それは、ナギサに対してもそうだった。どれだけナギサが冷たくあしらおうとも、最近では肩をすくめて笑うだけ、不快な顔一つしなくなった。
しかし、ナギサの進への感情がすぐに好転したわけでもなかった。どうしても、彼のすることなすことが気になり、彼の自分への言葉に妙にイライラしてしまうのだ。だから、言わなくてもいい嫌味を言ってしまう。
まるで、自分の中の何かが、どうしても彼を認めたくないかのように思える。自分でもどうしてなのか、わからなかった。
(3)
そんなある日のこと、仕事を終えたナギサは帰り仕度をしていた。癪にさわる?例の副司令は、一足先に帰ってしまった。
静かな辺境の基地では、残業しなければならないほどの仕事はほとんどない。大抵の職員は、定時になると早々に帰宅の途につく。副司令も例外ではなく、ほぼ毎日、定時になると席を立っていた。
(いったい、毎日帰って何をしてるのかしら?)
余計なおせっかいだとは思うのだが、気になるのだ。ラランド星基地では、当然のごとく単身赴任の男性は大勢いる。かといって、彼らが全て女性にもてるわけでもなく、大抵は誘い合って飲みに行くか、唯一の歓楽街にあるちょっとした遊興施設で遊ぶくらいだ。そうでなければだらだらとサービス残業でもしているのが関の山だ。
娯楽施設の少ない基地だけに、することといえば知れているのだ。
だが、彼の場合、女性の噂も立たないし、毎日街に繰り出しているという話も聞かない。といって、用もないのに居残っていることもなかった。
何度か、司令室の男性陣に誘われて飲みには行ったらしい。行けばよく飲むし、会話にも機嫌よく付き合うという。
そして、酔って気分が良くなると、よく家族の事を話題にするのだそうだ。
中津達の話によると、子供は3人で、悪戯盛りの二人の男の子とかわいい盛りの末っ子娘がいるらしい。写真を出してきて嬉しそうに話す姿は、普通のお父さんだと彼らは笑っていた。
「奥さんも噂通り、綺麗な人だったよなぁ」と、彼らは話した。写真をせがむと、進は妻と子供が4人で写っている写真を見せた。そこに写っていた彼の妻は、楽しそうに子供達とじゃれあっていて、普段着の化粧っ気のない姿だったが、輝くほど美しかったという。
「子供らと一緒なのは、近所のお姉ちゃんか何かと思ったよな。そしたら、女房だって言うんだもんなぁ。へええって、ずいぶん若い嫁さん貰ったのかと思ったら、同い年だって言うだろう? どう考えても、三人の子持ちには見えなかったよな」とも言っていた。
そして、「こんなかわいい奥さんがいるんじゃ、そん所そこらの女に目がいかないはずだよ。よく置いて来れたよなぁ」と、彼らも当初の予想が外れたことを認めた。
愛する妻と子供達……素敵な家族を持った彼は、なんの心配もなく幸せなのだとナギサは思った。身寄りのない自分と比べてみて、心の中で羨ましさとともに妬ましいという負の感情が沸き上がるのを、ナギサは抑えきれなかった。
しかし、そんな愛する家族を置いて単身赴任してきた彼が、このラランドで何をして過ごしているのだろうかと、余計な心配もしたくなるのだ。
(やだわ、ほんとに余計な心配よね。私に関係のないことだわ)
ナギサは、気を取りなおすと、ロッカーから自分のショルダーバックを取り出した。
(4)
その日、ナギサは久しぶりに射撃訓練ジムに出かけるつもりにしていた。彼女自身は、防衛軍では事務官として採用されたため、射撃や護身などの訓練は、入隊時に最低限しか受けていない。
しかし、こういう組織にいる以上、どんな場面に遭遇するかわからない。そう思って、自らの意志で射撃などのトレーニングを欠かさないようにしていた。
ここのところ、新しい副司令が来てから、その対応に精神的に疲れてしまって、しばらくご無沙汰だったのだ。
ナギサは、基地内の最も奥まったところにある様々な訓練施設がある棟にやってきて、その中の一つの部屋に入った。射撃訓練ジムだ。
シュパーン!! ジムに入ると、鋭い音が聞こえてくる。入ってすぐの場所が、いつもナギサが訓練に使っている静止している標的を撃つ最もオーソドックスな練習場である。
ナギサが中を見渡すと、いつも人気(ひとけ)のない奥の方に、人だかりができていた。
(何なのかしら? 誰か奥で訓練してるのかしら?)
ナギサは、カウンターで身分証を提出し、練習のゲート番号を貰いながら、その職員に尋ねた。
「ねぇ、みんな何を見ているの?」
「あぁ、副司令ですよ。ナギサさんとこの…… 上司でしょう?」
「副……司令……?」
ナギサは驚いて、聞き返した。すると、職員が説明を始めた。
「はい、古代副司令です。副司令は、着任してからほとんど毎日、仕事帰りにここに来られてますよ。射撃練習を30分ほどやってから、スポーツジムの方に回られるようですね。
あの射撃システムのプログラムも、ここの基地にあったのじゃ物足りないって、2日目からは、ご自分でシステムを持ってきて使ってるんですよ。それがまた難しいシステムで、僕も覗いて見てみましたが、いや、ほんとすごいですよ!」
「そう……」
興奮したように話す職員の言葉に、ナギサは、わざと気のない返事をして、自分に指定されたゲートに向かった。
ゲートに入ると、そこに設置されている訓練用ガンを手に持って構えた。じっと標的を見つめる。しかし頭の中には、今の話が渦巻いていた。
(仕事帰りに毎日ここへ来てた? うそ……!? それにあの奥のジムは、戦闘の最前線に立つ宇宙戦士専用で、相当腕の達つ人でないと辛いって聞いたことがあるわ。私達事務官には、ほとんど関係のないジムらしいって…… それなのに、そのシステムすらも物足りないですって!? 一体、彼って何者?)
ナギサのような若い世代にとって、ヤマトの活躍というのは、子供の頃の夢物語のようなものだった。いや、大人でも一般の市民にとってはそうだったのかもしれない。
ヤマトが、ガミラスを打ち破りコスモクリーナーDを持ち帰ってきて以来、地球の危機が訪れる度に、ヤマトが発進して必ず地球を守ってくれた。
子供心に、ヤマトが出れば、何とかしてくれるものだと信じ切っていた。いわば、ヤマトは人知を超えた不死身の艦(ふね)だと思っていたのだ。
その不死身の艦に、実は大勢の普通の人間が乗り組み、戦い、傷つき、そしてその多くの人々が死んでいったことなどは、彼女達にとっては、只の物語の中の出来事にしか思えなかったのかもしれない。
だから、古代進がヤマトの乗組員だと聞いても、それがどれほどすごい人物で、大変な目にあったのかとか、どれほど優秀な宇宙戦士だったのかという考えには、すぐには及ばなかった。
彼が地球の命運を背負いヤマトを動かすために、どれほど自分を厳しく鍛え精進していたかなどということは、全く想像もつかなかった。
(いいえ、きっと彼のパフォーマンスなのよ。ちょっと格好のいいところを見せれば、みんなが感心すると思って…… そのうち、珍しくなくなった頃にはやめちゃうのよ)
ナギサは、あくまでも彼を認めたくなかった。なぜかわからないが、そうしたかったのだ。
そんな雑念の中で標的を狙うものだから、ナギサの今日の射撃は散々なものだった。元々、目標の標的から微妙にずれてしまう癖が直せなくて困っている上に、こんな雑念を抱いていては、うまく撃てるはずがなかった。
(もうっ! これもあの人のせいだわ!)
ナギサは、悪態をつきながら、さらにガンの引き金を引き続けた。
(5)
それからしばらく撃っても、なかなか思うように標的に当たらない。頭の中がだんだん混乱してきて、ナギサはもう止めようと思った。
(今日は、だめっ! もう嫌になってきちゃった!)
情けない気分で、ガンを降ろそうとした時、後ろから声が掛かった。
「もっと顎を引かないとダメだ!」
低く鋭い声だった。ナギサはすぐにそれがあの副司令の声だと、すぐにわかった。同時に肩をぐいっとひっぱられた。
「なっ……」
「なにをするんですか!失礼な!」そう言うつもりで、振り返ったナギサは、後ろに立つ彼の鋭い視線にあっという間に射竦められ、声を飲み込んでしまった。
その瞳は、ナギサが今まで見た中で、最も鋭い眼光を放っていた。そして彼は、動けなくなっているナギサに静かに指示を出した。
「前を見てみろ!」
その低い声は、決して激しい口調ではなかった。静寂な森の湖面のように静かな通る声だった。しかしまた、それは有無を言わさぬ強さをもっていた。
ナギサは、その視線と声に完全に圧され、体が自然とその指示に従ってしまう。再び、進に背を向けて標的のほうを向いた。
後ろから、再び声が聞こえた。
「構えろ」
言われるとおりに、ナギサはゆっくりと両腕を肩と水平になるまで上げ、標的に向かって銃を構えた。
すると、後ろからすっと手が伸びてきた。一方の手が肩に乗り、その状態で、もう一方の手で背中をぐいっと押され、無理やりに背筋を伸ばさせられた。さらに、所作を説明しながら、肩の上の手が動いた。
「右肩が上がり過ぎだ」 右の肩がぐっと押される。
「顎をひけ!まっすぐ的を見ろ!」 今度は両手で後ろから頭を捕まれ、微妙に後ろに引っ張られる。
「肩の力は抜け」 軽く両肩をぽんと叩かれた。
ナギサの体に緊張が走る。だがそれは、心地よい高揚感だ。
男嫌いで通しているナギサだ。いつもなら男に触れられるだけで寒気がするはずなのに、緊張のためなのかよくわからないが、その震えがまったく来ない。
後ろからの手になされるがまま、体が少しずつ動いていく。緊張しているにもかかわらず、体のこわばりが徐々に解けて行くようなそんな感じがした。
「よしっ、腹に力を入れろ」
後ろの声が静かに言う。そして……
「撃て!」
シュパーン! 指示通りに発射されたガンから出たレーザーは、標的のほぼ中心を射抜いた。しかし、まだ声が続いた。
「そのまま、撃ってみろ。右肩が上がり気味になるから気をつけろ。顎を引いて腹に力を入れて、肩の力は抜くんだ。よし撃て!」
ナギサは、まるで操り人形のように、言われるがままに撃ち続けた。そして、その数発は、ナギサが今まで撃ってきた中で最も良いラインを描いて発射され、狙った場所を撃ち抜いていた。
指示自体は、なんの変哲もない言葉である。教官達がよく口にするような注意事項なのだ。なのに、それがなぜか体の中にしみていくようにナギサの体を動かした。
数々の戦いを切りぬけてきた歴戦の戦士は、最高の教官になり得るのだ。
「よしっ! その調子だ、よくなってきたぞ!」
後ろの声のトーンが上がって、やっとナギサは再び振り返る余裕ができた。
くるっと振り返って見ると、そこには、さっきの鋭い視線の男は消えて、あのボランティア活動をしている時の人懐こい笑顔の男がいた。
「なかなか筋がいいじゃないか。その調子で頑張れよ」
「副司令……」
ぽつんと一言そう答えたナギサの肩を、進はポンと叩いて背を向けた。
「あの……ありがとうございます」
やっとの思いでそう告げたナギサの声を――それは本当に小さな声だった――ちゃんと聞き取った進は、もう一度振り返ってにっこりと笑った。
その笑顔がまぶしくて、ナギサはどうしていいかわからず、思わず俯いてしまった。
まだ何か言わなくてはならない気がして、すぐに顔をあげたが、しかしその時既に、他の職員達が進を囲んでいた。
口々に、私にもアドバイスをください、と声をかける男女数人に対して、進はニコリと微笑んで頷いていた。
今高揚していた気持ちが、スーッと冷めていくのがわかった。なにを期待していたというのか……?
(あの人は誰にでも、あんな風に教えたりするのよ……別に……私だけじゃなくて……)
ナギサは、安心したような、だがなぜか寂しいような複雑な気持ちになった。
ふうっと小さくため息をつくと、再び標的を狙い始めた。撃とうとすると、さっきの進の声が耳元に蘇ってきた。
――右肩を下げろ。腹に力を入れて、肩の力は抜け。
その日のナギサの射撃成績は、練習をはじめて以来最高の出来だった。
ボランティアをしている時のあの少年のような無邪気な笑顔を見せる男。そして、今日の鋭い眼差しの男。指導者としての的確な指示が出せる男。そのすべてが古代進であった。
彼は、決して事勿れ主義の上っ面だけのいい、女たらしではないのだ。
ナギサは、古代進という男が、自分が想像していた姿とは大きくかけ離れていることを、この時心底思い知ったのである。
しかし、それからも職場でのナギサの態度にほとんど変化はなかった。進に笑顔をむけることも、いまだほとんどない。
ただ、進が見るところ、以前は剥き出しになっていた敵意のようなものがなくなったような気がする。少しは自分に対する態度が好転しているのだろうか、というのが、進の希望的観測であった。
(6)
それからまもなくのことだった。その日も、司令室に朝一番に出勤したナギサは、部屋の簡単な掃除をしていた。
司令室への出勤は、いつもナギサが一番で、次にやって来るのは副司令の進だ。彼も始業の30分以上前には必ず姿を現す。そして、イワノフを初め、他の者たちは定刻近くにやってくるのだ。
進との二人きりの時間は、いつもナギサを窮屈な思いにしたが、早く来るなとも言えず、せっせと仕事をすることで気を紛らしていた。
ところがその日は、いつも進が来る時間を過ぎても、彼は現れなかった。来ないとまたそれが気になる。
どうしたのだろう? ナギサがそう思った時、ものすごい勢いで駆け込んで来る人物があった。やはり古代進だった。息を切らしながら、部屋に飛び込んできた彼は、ナギサの顔を見るや否や、大声で叫んで駆け寄ってきた。
「あっ! ナギサ君!! いたいた!! もう見たか!?あれ!」
「はっ? あれってなんですか?」
「あれっ?なんだ、やっぱりまだ知らないのか? じゃあ、すぐ見に行こう、ほらっ!」
進はナギサの右腕をぎゅっと強く握った。力強い手で握られて、ナギサはびっくりした。
「な、なにするんですか!! 止めてください!!」
ナギサが色めきたって手を振りほどこうとしても、進はにこにこしたまま、ナギサを引っ張ったまま司令室を飛び出した。
廊下に出ると、遠くに人が歩いているのが見えた。誰かに見られる、と思うと、ナギサは再びその手を振りほどこうと立ち止まった。そして全身の力をこめて、ふんばった。
「嫌だって言ってるでしょう!!」
さすがの進も、そこでようやく立ち止まった。ぎっと睨むナギサに、自分が何も説明していなかったことに気付いた。
「あ、ああ…… すまない。あっ、だから、それより、咲いたんだよ!花が……」
進の興奮が収まらない。じれったそうにばたばたしている。ナギサの方は、突然のことで何がなんだかわからないのだ。
「えっ? 花?」
「ラランドディアレの花だよ!」
なかなか膨らまなかった例のラランドティアレのつぼみは、数日前からやっと膨らみ始めていた。ナギサ達は、もう何日もしないうちに花が開くだろうと、楽しみにしていたのだ。それが咲いたと言うのだ。
ナギサもそれを知ると、喜びと驚きでいっぱいになった。顔いっぱいに興奮の笑顔が浮かんできた。
「えっ!!」
「ほら、だから早くっ!」
進はそれを少しでも伝えたかったらしい。言葉よりも行動が先になってしまうのは、彼のいつもの悪い癖だ。今度はナギサの手を掴んだ。
ナギサは、はっとして、進に握られた手を慌てて引っ込めた。進も自分が彼女の手を握ったことに気付いて、「す、すまない」と一言返して、先に歩き始めた。
「それならそうと、先に言ってくださればいいのに……」
進の後ろを歩き始めたナギサが、心の動揺を隠すように非難すると、進は振り返って微笑んだ。
「ああ、ごめんごめん。なんか興奮しちまって…… 早く知らせないとって思ってさ」
ドキリ…… その進の笑顔が、ナギサの心を大きく揺さぶった。
何度も彼の笑顔は見ているのに、こんな風に心を動かされたのは、初めてだった。
彼の笑顔は、いつも静かで穏やかだった。しかし、ナギサはほんの少し前まで、その笑顔の下にきっと男の下心が隠れていると思い込んでいた。だから、自分に向けてくる魅力的な大人の笑顔も、かえって腹立たしかったのだ。
ところが、今日の彼の笑顔は、あまりにも自然で屈託のない少年のようなまっすぐな笑顔なのだ。植物達を見る時のあの笑顔だ。心からいとおしむようなそんな笑顔……
それが自分に向けられたものだということが、とても嬉しかった。
(嬉しい? な、何考えてるの、私ったら……)
ナギサは、血液がかぁっと顔に集まるのを感じた。
「は、早く行きましょう」
今度はナギサが先になって走り始めた。進に今の自分の顔を見られたくなかった。
だって、たぶん今の私は赤い顔をしているに違いないから。
(7)
エアポート近くの渡り廊下まで着いた時、二人の足が止まった。窓からその花をつけた木が見えてきた。
遠くからも、緑の葉の間に白いものが僅かに見えていたが、近くに来てはっきりとそれは花だと判った。
8枚の花びらを広げた可憐な小さな花は、緑の葉の間でたった一つだけ白く輝いている。
「ああ…… ティアレ…… き……れい……」
ナギサは、思わずつぶやいていた。それとともに、彼女の頬をつうーっと一筋の涙が伝った。
生まれた島の象徴のような花、そして何度か見たことがあるラランドの野生のあの花と同じものだ。
自分達が植えて育ててから3年近い日々が経って、やっと開いたたった一つの花がとても愛しくて、故郷の島が懐かしくて、思わず涙が出てしまった。あの花は、ナギサにとっては母の思い出にも重なる。
そんなナギサの姿を、進も隣で嬉しそうに見ていた。ナギサの横顔を見ながら、着任以来の彼女の態度を思い出していた。
最初は本当に苦労した。何をするにつけても、つんつんしたりむっとしたり、一体俺が何をした!と叫びたくなることもあった。
しかし、権藤からナギサの生い立ちを聞いて以来、彼女の気持ちが少しわかるような気がしてきた。
自分と母を裏切った(のかもしれない)父親への複雑な思いを、彼女はまだ持て余し、扱いかねているのだ。そして、年頃になった娘に、愛の真実を語って聞かせるべき母親は、もういない。誰も頼る人もいない。
そんな彼女は、父親と同じ男性を攻撃することで、必死になって自分を守ろうとしていたのかもしれない。
彼女の男性への強い態度と拒否反応は、逆に心の中の寂しさや悲しみを隠すための虚勢なのかもしれない……と。
進は、昔の自分を彼女の中に見たような気がした。かつて、父と母を失った悲しみの行き場所がわからなくて、ガミラスへの怒りにすり替え、どんなに辛い訓練にも根をあげず、周りの皆から恐れられるほどの戦闘の鬼となっていた自分と同じ悲しみを、彼女にも感じていた。
ナギサへの思いは、同情なのか、哀憐なのか、それとも……同じ境遇に立ったものだけが感じる共通の思いなのか?
進にもまだ良くはわからなかった。
ただ、それは幸せな家庭に育ち、今も変わらず両親に愛され続けている妻の雪に対しては、いまだかつて抱いたことがない気持ちだということだけは、確かだった。
そして進は今、ラランドティアレの花を見ながら涙ぐむ姿に、彼女の本来の姿を見たような気がした。
本当は、誰かに寄り添ってみたい、誰かを求めてみたい…… 進が雪の深い愛で人として救われたように、彼女もまたそれを求めているのかもしれない。
進の目に、たった一つ凛として咲く花は、たった一人で必死で生きてきたナギサの姿と重なった。
「まるで……君のような……花だね……」
進がそっと囁いた。ナギサが顔を上げて進を見上げた。その切なげな寂しい眼差しを見ていると、思わず、はかない花を慈しむように、抱きしめてあげたいという衝動が、進の胸の中に湧き上がってきた。
二人が見つめ合っていたのは、ほんの数秒だった。
騒々しくなってきた周りに、ナギサの方が先に我に返った。業務始業時間が近づいているのだ。
「あ……もうこんな時間!」
言われてみて、進も慌てて時計に目をやると、業務開始時間まであと5分もなかった。
「おっ、まずい。よしっ、また走るか?」
「だめです!! 大勢いるところで廊下を走ったりしたら困ります!!」
ナギサが両手を腰に当てて、いつもの厳しい視線で進を睨んだ。もうさっきのはかなげな姿はどこにもなかった。
「あ……すまない」
ばつが悪そうに頭をかく進に、ナギサはくすりと微笑んだ。
「でも……少しだけ早足で、でないと遅刻してしまいますから!」
「了解!」
(8)
急いで司令室に戻り、通常の任務につく。朝の仕事が終わり、昼休みに入った時、進がナギサを呼んだ。
「ナギサ君ちょっと……」
「はい?」
ナギサが、片付けようとしていた書類のファイルを抱えたまま、進の机の前にやってきた。
「権藤は、今日から1週間いないんだったな?」
「ええ、今日からサバイバル訓練で……来週まで戻ってきませんが」
権藤は、空間騎兵隊の実地訓練のために、基地から数キロ離れた演習場に出かけていた。今日から1週間の予定で、訓練が始まっていたのだ。
ラランドティアレの花のつぼみが膨らんできたのは、彼も気付いており、咲く前に出かけることを悔やんでいた。この1週間の間に咲くだろうというのは、彼も予測していたのだろう。しかし、もう一日早く咲けばよかったのに、と思うナギサだった。
「そうか、じゃあ。あの花が咲いたお祝は、先にやってしまってもいいよな」
緑化ボランティアの間でも、花が咲いたら、開花祝に酒宴でも開こうと言う話が、誰からともなく出ていた。権藤もそのつもりで、咲いたらすぐにやろうとナギサ達にも言っていた。
「あっ、ああ…… そう、ですね。みんな楽しみにしてましたから」
「じゃあ、明日にでもいつもの店でやろうか? それとも、やっぱりあいつがいないとだめかい?」
「……いえ、みんな待ってましたものね。花が咲いた事を知らせるのと一緒に連絡してみます」
「ああ、頼むよ。権藤が帰ってきたらまた別にやりなおしてもいいし」
「はい」
と言うことで決まった飲み会。明日のことを思うとなんとなくウキウキしてくる気持ちを、進に感づかれないよう、ナギサは、進の席の前から足早に立ち去った。
(どうして、こんなにうれしいのかしら? いつものメンバーのいつもの飲み会なのに…… 権ちゃんはいないっていうのに……)
進と一緒だから……とは、決して認めたくないナギサだった。
(9)
その日仕事を終えた進は、部屋に戻ると通信機の電源を入れた。地球への連絡は、本当は明日のはずだったが、みんなとの飲み会になって遅くなると、子供達に会い損ねるからだ。それに、今日のあの花のことも、雪に早く聞かせたかった。
トゥルルル〜という聞きなれた呼び出し音が数回なったが、相手が出る気配がない。
(あれ? 出かけてるのかなぁ? 俺の連絡は明日だと思ってるからなぁ)
と少し残念な気分になった時、やっと相手がコールを受けた。ほっとした進の前の画面が明るくなった。
「はい……古代です! あっ、ホントだ! お父さんだぁ!!」
画面に出てきたのは、長男の守だった。受信時に発信元が表示されるようになっているから、進の電話だとわかっていたのだろう。父の顔を見ると指を指して嬉しそうに大笑いしている。
「よおっ、守か。元気そうだな。お母さんはどうした?」
画面には、雪の姿は見えなかった。
「ん? 今ねぇ、お父さんから電話だわ!って叫んで、あっちの部屋に逃げてったよ」
「はぁ?」
守がそう説明するが、雪がなぜ自分の電話から逃げたのか、意味がわからなくて、首を傾げた時、画面に小さな人影が二つ入ってきた。
「お父さん!」 「パァパ!!」
明るい声とともに、航と愛の二人も画面の中に飛び込んで来た。そのまま進の胸に飛びつきそうな勢いに、進の心がじーんとなった。
ここまで画面を越えて飛び込んできてくれたらどんなにいいだろう。そして、あのかわいい子達を抱きしめられたらと思うと、切なくなるのだ。だが、そこはぐっと我慢して、笑顔で子供達に話しかけた。
「二人とも元気そうだなぁ。どうだ? 保育所は楽しいか?」
「うん、楽しい!」と航が言うと、「愛も楽しい!」と愛も答える。
が、愛はその後少し寂しそうな顔をして「でも、パパがいないから寂しいの……」と言った。
愛は、守の前にちょこんと座って、画面の中の父親をじっと見つめた。進には、この視線が非常に辛い。
愛は甘えるのが上手だ(と進は思っている)。3歳にして、男に媚びることを知っているかのように、潤んだ瞳で父を見つめるのだ。
もしかしたら、雪に「寂しい」と言われるより辛いのではないかと、進は思っている。もちろん、このことは、妻には絶対に内緒なのだが……
「もうちょっとしたら、帰るからな。ママの言うことをよく聞いて賢く待ってるんだぞ」
まだまだ先だと思いながらも、子供達にはそんな風に答えるやさしい父だった。そんな父の優しい声に、愛もニコリと笑った。
「うん…… 帰ってくる時、お土産いっぱいある?」
「ああ、もちろんだ。3人にいっぱい持って帰るぞ!」
「やったぁっ!!」
3人が万歳をする。愛もお土産と聞くとさっきの切ない瞳が消えて、嬉しそうにニコニコするのは、ご愛嬌というところだろうか。小さな子供とは、実に単純である。
(10)
とその時、後ろから雪がやっと現れた。フェミニンな花柄のパジャマを着ている。とかした髪がまだ濡れているところを見ると、風呂上がりなのだろう。画面の向こうで微笑む妻は、やっぱりかわいくて愛しかった。少し不安げな顔をしている。
「どうしたの?あなた。連絡日は明日じゃなかったの?」
「ああ、そうなんだけど、明日は飲み会になりそうなんだ。それで今日にしたんだ」
進の連絡してきた理由がわかると、雪はにっこり笑った。
「そうだったの。で、子供達の顔が見たくて今日にしたってわけね?」
「その通り。あれ?そう言えば、さっき俺からの電話だって言いながら逃げてったって、守が言ってたけど。なんだよそれ?」
雪がびっくりしたように進を見つめてから、恥ずかしそうに微笑んだ。
「えっ!? あ、ああ……あれね……うふ、ちょっと」
「なんだよ」
「いいの、ちょっとなの、ちょっと!」
雪は笑ってごまかして答えようとしなかった。すると、それまで横で夫婦の会話を聞いていた子供達の一人、お兄ちゃんの守が口を挟んだ。雪のその時の状況を身振り手振りを入れて説明し始めた。
「あのね、お母さんね、よれよれのスエットパジャマ着てたんだよ、ほら、お父さんが着てたやつ…… それにさっきお風呂から上がったばかりで、髪の毛も濡れてくしゃくしゃで」
それを聞くなり、雪の顔が真っ赤になって守を軽く睨んだ。
「こ、こらっ、守!! ばらさないでよっ!」
雪は、風呂上がりのだらしない格好を進に見せたくなかったらしい。だから、画像が出る前に逃げてしまったのだ。
「あはっ…… それでわざわざ着替えてきたのか?」
「んっもうっ! お喋りなんだからぁ、守…… だって、子供達のほかには誰もいなかったし……」
言い訳をする雪の姿が、かわいらしい。しかし、一緒に暮らしている時に、そんな洗いざらしの髪の毛など何度も見ている。別に隠すこともないのだ。
「はっはっは…… 別にいいのに、そのままで。今更期待もしてないよ」
何の気なしに言った言葉に、雪が聞きとがめた。
「なによ!! 期待もしてないって、どう言う意味!?」
「あ、いや、まあ、そのパジャマ、かわいいよ、うん。花柄でいいなぁ、はは……」
「もう、遅いわっ!」
雪はぷいっと顔をそむけた。恥ずかしがったり、笑ったり、怒ったり…… 相変わらず表情豊かな妻を見ていると、いつの間にか心が温かくなっていく進だった。
「やぁい、お父さん、お母さんに叱られたぁ!」などと、横ではやし立てるマセた子供達の声も、進の心をさらに浮き立たせた。
(11)
進は妻と子供達の攻撃をかわしつつ、体制不利を切り返そうと、話題を変えることにした。
「ま、いいじゃないか、それより、なぁ雪。今日な、ラランドティアレの花が咲いたんだぞ!」
「ラランドティアレ? あ、ああ、前言ってたそっちでボランティアの人たちが植林した木の花? 咲いたの! ほんと、よかったわねぇ」
雪は以前の進の話を思い出して、ニコリと笑った。進の顔が自慢げに見える。
「ああ、かわいらしい花だったよ。本当に、ティアレの花に似てるんだ」
「そう、ティアレの花……かぁ…… 懐かしいわね」
ティアレと聞くと思い出すのが、あの旅行である。雪はうっとりするような表情になって、昔を思い出した。
「うん、タヒチではあっちこっちで咲いてたよなぁ」
「ええ…… 素敵だったわ…… ああ、もう一度行ってみたいわ」
画面の向こうの夫に、ちらっと流し目を送る。進はそんな雪に少しドキリとする。が、すぐにニヤリと笑った。
「行ってどうするんだい? あの時と同じことするのか?」
今度は、雪のほうがドキリとする番だった。『あの時と同じこと』と言われて、思い出すのは、あのハネムーンの熱い夜のこと。正確には、「夜」と言う表現には語弊がある。二人で過ごしたあの日々が、頭の中に鮮明に蘇ってくると、顔がかぁっと熱くなった。
「えっ? もうっ、やだっ! 子供達の前で何を言い出すのよぉ!」
「はっはっは、俺は、何も言い出してないぞ。君が勝手に想像したんだろう? で、何をするつもりだったんだい?」
進は思わず大笑いだ。見事雪は、誘導尋問に引っかかってくれたのだ。これが笑わずにいられようか。
そして、引っかかった本人の方は、真っ赤な顔を隠すように、両手で頬を抑えて進を睨んだ。
「あっんっ、もうっ!!」
子供達は、不思議そうな顔で、両親のやり取りを聞いていた。守くらいになると、両親がじゃれあっていることはわかったが、さすがに話の裏にある意味までは、まだ理解できなかったようだ。
今度は、航がうらやましそうに尋ねた。
「ねぇ、タヒチってお父さんとお母さんが二人で行ったんだよね?」
「そうだよ、もう随分前だけどな、航も写真見たことあるだろう」
航は「うん」と頷いた。二人の新婚旅行の写真は、子供達も何度も見ている。これを見るたびに、子供達は羨ましがるのだ。そして今日も、口々にそれを訴えた。
「ずるいなぁ、僕も行きたかったのに!」 「僕もっ!」 「愛もっ!!」
「あははは…… それはどうしても無理だなぁ。あの頃は、お前達はまだ影も形もなかったからなぁ」
そして、いつもこう言われておしまいなのだ。これを言われると、子供達に返す言葉はない。3人が揃ってふくれっつらだ。
「ぶうっ!」
「うふふふ…… 残念でした! でもそのうち、パパがきっと連れて行ってくれるわ、ね、パァパ!」
ママは、ふてくされる子供達を慰めるように、優しい視線を送ってから、そのまま画面の向こうにおねだり光線を送る。
「うっ…… ま、そのうちにな。ははは……」
「笑ってごまかしてる!」 「ずる〜〜い!」
(12)
ひとしきり笑った後で、雪はほぉっとため息をついた。
「でも、ほんとうに……皆さんが丹精こめて植えた木に花が咲いてよかったわねぇ。きっとみんな大喜びなんでしょうね」
「うん、そうだな……」
しみじみと話す雪の言葉で、進の脳裏に、今朝見た小さな白い花が浮かんできた。それと同時に、その花に感動して涙を流していたナギサの美しい横顔も蘇ってくる。心が今朝のあの時にトリップする。
(あの娘(こ)懐かしかったんだろうなぁ、お母さんの思い出でもあるんだろうか?)
進が彼女の心に思いを馳せていると、突然雪が思い出したように尋ねた。
「ね、ところであの嫌われちゃったって言ってた女の子の方、どうなったの?」
「えっ?」
進はビクリとした。今、自分が、彼女の美しい横顔を、頭の中で鮮やかに蘇えらせていたことを、まるで見すかしたかのような質問に驚いた。顔がこわばってしまったかもしれないと慌てた。
「あっ、これっ! そんなところで走りまわらないの!!」
幸か不幸か、雪の視線は、ちょうど横で暴れ出した子供達に向いていたらしく、そんな進の心の動揺には、全く気が付かなかったようだ。こちらを向き直って、もう一度尋ねた。
「ほら、秘書の女の子、あなた困ってたじゃない?」
「あ、ああ…… あれ……ね。あの、いや、ああ、最近大分マシになってきたよ。うん、大丈夫だよ。その……ああ、なんとかやってる、うん」
「あら、そう? それはよかったわね」
あまりにもタイミングのよい質問に、進は、平然と普通に答えようと思いながらも、どうしてもしどろもどろになりそうになったが、雪は特に気にすることなくさらりと受け流した。
ホッとした進は、これ以上突っ込まれるとボロが出そうで、そうならないうちに通信を切ることにした。
進は、ぽろりと漏らした言葉尻で、雪によく突っ込まれる。彼は妻には、隠し事ができないのだ。
今朝のことは、聞かれて困ることがあったわけではないのに、どう言うわけか、聞かれたくないような気持ちがするのだ。
あの時の彼女に対して感じた共感のようなものを、雪にどう説明していいかわからなかったし、たぶん、説明しても、雪には理解できないだろうと思った。
「ああ、ありがと。あ、それじゃあ、そろそろ切るぞ。長くなるからな」
「ええ、じゃあまた来週ね」
「パパ、ばいば〜〜い!」 「またねぇ!」 「ばいばい!」
雪も子供たちも、進の心の動揺に感づくことなく笑顔で通信を切った。画面が暗くなると、進は大きなため息を吐いた。
(はぁ〜、俺もなんなんだよなぁ、別に慌てることもないのに…… 雪のヤツ、なんか変に思わなかっただろうか?
ま、いいか。雪は普通の顔してたんだし、俺も別にやましいわけでもないんだから……)
進は、もう一度ほぉっとため息をつくと、シャワーを浴びるためにバスルームに入っていった。
だが、本人もまだ気付いてはいなかったが、古代進の心のどこかに、ナギサという女性が、何らかの形で住み始めたことも事実であった。
Chapter4 終了
(背景:Atelier paprika)