ラランドの白い花

Chapter5

 (1)

 ラランドティアレの花が咲いてから一週間が過ぎた。あの花が咲いた日から、ナギサの進に対する態度が、目に見えて変わってきた。とげとげしい冷たさがほとんど影を潜め、人並みな愛想も浮かべるようになっていた。そんな彼女の変化には、司令室内の職員達も気付き始めていた。

 「なぁ、最近古代副司令とナギサちゃんの雰囲気変わったよな」

 「ああ、ナギサちゃん、やけに素直になった気がするなぁ。初めはあんなに嫌ってたのにな」

 「もしかして、ナギサちゃん惚れた? ってことは、あの権藤って男はどうなんだろうね」

 「さあなぁ。けどなぁ、権藤とナギサちゃんなら美女と野獣だし、副司令は一応妻子持ちだしなぁ」

 「でも、ひょっとするとひょっとする……かもな」

 二人は顔を見合わせて、仕事の打ち合わせをする進とナギサを見て、ニヤリと笑った。

 彼らの噂の中にいたもう一人の男、権藤も、その日訓練を終え基地に戻ってきた。そこで進とナギサは、権藤を交え3人でもう一度祝宴をすることにした。
 いつものごとく定時終了直後、司令室にやってきた権藤は、変わらぬ豪胆さで進たちに笑顔を見せた。
 そして3人は連れ立って、司令室を後にした。

 (2)

 「ひやぁぁ〜 やっぱり、基地に戻ると肩の重石が取れたようだぜぇ。は〜!!」

 いつもの店に行くために歩きながら、権藤が口を大きく開けて深呼吸した。それを見てナギサが笑う。

 「権ちゃんったら、うふふ…… 訓練ってそんなに大変なのね?」

 「まあな。万が一の時に備えて、訓練ってのは大事だからなぁ、ねぇ、古代さん」

 「うん、その通りだ」

 進が大きく頷いた。実戦から遠ざかっているとはいえ、万一の時に役に立つのは、繰り返した訓練の成果である。それは進は身を持って知っている。

 「でも、どんな訓練をしているのか、ちょっと興味あるわね」

 「はっはっは…… そんじょそこらのヤツならすぐにネを上げちまうさ」

 「そうだなぁ。空間騎兵隊の訓練は、体張ってやるだけに、一番厳しいかもしれんな。俺もしばらく野戦の訓練はしてないから、ついていけるかどうか」

 艦隊勤務、それも艦長職を続けていた進には、陸上戦の訓練のカリキュラムは全く組まれていない。かれこれ10年近くそんな訓練は受けていないのだ。
 たまにはそんな訓練でも受けてみたいと思う進だった。だが、そんな進の発言を、権藤は単なる謙遜と受け取ったようだ。

 「まさかぁ、古代さんほどの人なら、ここいらの訓練なんて朝飯前に決まってるって。でも、ナギサちゃんほど根性があれば空間騎兵隊でもやってけるかもなぁ。一丁志願してみるかい?」

 ニヤリと笑ってナギサを見た。半分冗談が混じっているのだが、ナギサは顔を赤くして抗議した。

 「なっ、なによ!! 根性って!? 私がなんだかすごく恐い女みたいじゃないの!」

 真っ赤になって怒るナギサの姿が可笑しくて、進は思わず大笑いだ。

 「はっはっは……」

 「副司令もそんなに笑わないでください!」

 「はは…… ごめんごめん。けど……プッ、わかる気がして」

 「もうっ!」

 ナギサは、進が笑い転げるのを、ムッとした顔で睨みはするが、その目は全く怒っていない。お互い冗談で言っていることを、十分理解しているらしい。
 そんなふたりのやりとりに、最も驚いたのは、権藤だった。ナギサは、笑う進を非難した。だが、その口調には、以前のようなとげとげしさがなくなっている。そして、進の方も、自然にそれを受けとめているのだ。

 「……?」

 「あら? どうしたの?権ちゃん」

 「あ、いや…… 別に……」

 驚いたような顔で、二人を見る権藤に、ナギサが尋ね返したが、権藤はなにも答えなかった。

 (3)

 3人は揃っていつもの居酒屋に足を運んだ。そして、いつものように飲み物とつまみを注文する。つまみと言っても、夕食代わりでもあり、また食欲旺盛な3人だから、たっぷりのボリュームのものがテーブルいっぱいに並び、壮観なものだ。会話も弾んだ。

 そして、腹の中もそろそろいっぱいになった頃、ナギサがある提案をした。

 「ね、帰りに、もう一度ラランドティアレ見に行きましょうよ! 最初は一つだった花が、今はもう6個くらい咲いてるんだから!! ねっ!」

 嬉しそうにせがむナギサを見て、権藤は苦笑する。

 「わかってるよ。俺だって帰ってすぐ見に行ってきたんだから。けど、また見てえな。古代さんどうです?」

 「いいよ、帰りに寄ろう」

 と話が決まったその時、権藤の携帯電話にコールがあった。

 「はい、権藤です。えっ!?なにっ!関川が……うん、うん。わかった。すぐ行ってみる」

 権藤の顔が突然険しくなった。さっきまでのおどけた表情は消え、厳しい空間騎兵隊隊長の顔になる。進も顔を引き締めて、尋ねた。

 「どうしたんだ?」

 「あ、いえ。たいしたことじゃないんですけど、関川が自主訓練中にちょっとした怪我をしたらしくて病院に運ばれたらしいんっすよ。一応俺の部下なもんで…… 今からちょっと様子を見に行ってきます」

 「そうか。もしなにかあったら連絡してくれ!」

 進が頷くと、権藤は必要以上の金をテーブルに置くと、すぐに立ち上がった。

 「はいっ! すみません。じゃあ、ナギサちゃん、悪いが今日はこれでなっ! 古代さん、あと頼んます!!」

 そう言い残して、権藤は慌てて居酒屋を後にした。そして残された二人は…… とりあえずは、残った料理を片付けて、それから進が尋ねた。

 「さて……どうする? 帰るかい?」

 「そうですね。お腹もいっぱいになったし……」

 「さっきの話だけど、帰りにちょっと花だけ見ていくかい?」

 こう尋ねられて、ナギサは一瞬答えに躊躇した。最近自分の気持ちが、進に傾いていることに気付いた。だから、理性は、もうこれ以上進と二人きりにならないほうがいいと訴えているのだが、感情の方が、勝手にそれをあっという間に押し流してしまった。

 「……はい」

 ナギサの心は、進と花を見に行くことを選択した。そして二人は、基地内のラランドティアレの見える廊下に向かって歩き出した。

 (4)

 二人は廊下に着いてから、しばらく黙って花を見ていた。平時の基地の退勤時間は割合と早い。まだ7時を過ぎたばかりだと言うのに、廊下にはほとんど人通りがなかった。
 ナギサは、じっと花を見ていると、体がふわりと浮いてくるような感覚に襲われた。久しぶりにビールが美味しくて、少し飲み過ぎたのかもしれない、と思う。酔っている……そんな気がした。そしてその酔いに任せて、ナギサは突然思いついたことを口に出した。

 「直接花の匂いを嗅いでみたいわ……」

 「えっ?」

 驚いて目を真ん丸くして隣を見た進に、ナギサはニコリと笑った。

 「ちょっと、外に行ってみましょう!」

 「いや、しかし……この星では屋外でそのままって言うわけには……」

 「ちょっとくらいなら大丈夫です! 副司令が行かれないのなら、私だけで行きますから。じゃあっ!」

 酔った勢いなのか、ナギサはすっかりその気である。くるりと振りかえると、歩き出した。

 「お、おいっ! ナギサ君!!」

 進は、ドアに消えたナギサの後を慌てて追った。ナギサは、後ろの進のことを無視したまま、廊下の端にある連絡ドアを経由して外に出た。進もそれに続かざるを得なかった。

 (5)

 外に出てみると、やはり空気の希薄さに、進は息苦しさを覚えた。心臓の鼓動も動きを増したようにも感じる。

 「う…… やっぱり少し息苦しいな。早めに戻った方がいいぞ」

 「わかってます。私何度か体験してますから、大丈夫です」

 ナギサは、心配げな進にあっさりとそう言い切ると、また歩を早めてラランドティアレの木の方へ歩き出した。そして、花をつけた木に近づいて、白いその花にそっと顔を近づけた。目を閉じ、すうっと大きく息を吸い込むようにして、ラランドティアレの花の香りを嗅ぐ。

 「ああ、いい……匂い……」

 うっとりとするナギサを見て、進も同じようにまねをした。その花の香りは、それほど濃厚なものではなかった。あっさりとしたほのかな甘い香りが、進の鼻腔をくすぐる。つつましやかな花の姿に、まさにうってつけの香りだった。

 「うん……いい香りだ」

 進の答えに、ナギサが振り返って微笑んだ。

 「この花を見ていると、タヒチのティアレを思い出すんです。本当に驚くくらいそっくりで…… 香りも似てる。不思議ですね、こんな遠くの星で同じような花が咲くなんて」

 「そうだなぁ。もう随分昔のことで忘れたけど、そんな気もするよ。ティアレには、君にとって深い思い出があるんだね?」

 進の言葉に、ナギサがふっと寂しそうな顔をした。しばらく視線を落としていたが、もう一度ティアレの花を見ながら答えた。

 「…………母が……好きな花だったから」

 「お母さん……か。優しい人だったんだろうな、君のお母さんも」

 「とっても優しい人でした。大好きだったママ。それなのに…… ああっ、あの時日本に行かなければ……」

 突然ナギサの声が激しい口調に変わった。母親が死んだという時のことでも思い出したのか、花を見る顔が歪んだ。その急激な変化に、進は彼女に何が起こっているのかわからなかった。

 「えっ?」

 「お父さんなんか探さなくて良かったのに!!」

 ナギサは、再び激しい口調で吐き捨てるように叫んだ。

 「ナギサ……君?」

 「そうすれば、死ななくてもすんだのに!! お父さんなんかっ!!」

 ナギサは力任せに叫んだ。その瞳からは、涙もこぼれ始めている。酔ったせいで、感情の起伏が激しくなっていたのかもしれない。あまりにもの激昂ぶりに、進は慌ててナギサをなだめようとした。

 「お、おいっ!ナギサ君!そんなに興奮するな。ここは酸素が少ない……ナ、ナギサ君!!」

 (6)

 進が注意したのも間に合わず、興奮しすぎたナギサはその場で、ふらりと倒れそうになった。一瞬酸欠状態になって意識を失ったのだ。
 進はとっさに、ナギサの体を抱きとめると、抱いたまますぐに基地内に駆け戻った。

 廊下に入ると、進はすぐに腰を落として、ナギサの上半身を両手で軽く揺らした。

 「大丈夫か!? ナギサ君!!」

 その言葉に、ナギサは、ふうっと大きな息を吐き、一瞬目を開いた。意識は取り戻したようだ。

 「う、ううっ……」

 ナギサは、小さくうめくと苦しそうに顔をしかめ、無意識に喉もとに手をやる。体がまだ酸素を求めているのだろう。進は慌てて、首に巻かれたスカーフを取り除いた。スカーフを取ると、艶やかな褐色の肌が胸元へのカーブを描いているのが見える。その胸が一つ、大きく上下した。

 「ふうっ……」

 大きく深呼吸をするたびに、ナギサの胸が数回大きく動いた。呼吸はしっかりとしているようだ。進は首筋に手をやって頚動脈を計る。これも乱れはなかった。大丈夫らしいと思った進は、もう一度大きな声で声をかけた。

 「ナギサ君!」

 その声に、ナギサはしかめたまま閉じていた瞳を開いた。我に返ったらしい。

 「あ……」

 「大丈夫か? ナギサ君」

 目の前に自分を心配そうに見下ろす進の姿に、ナギサは今何が起こったのかよくわからなかった。

 「は、はい…… 私……?」

 「酸欠になりかけて一瞬気を失ったんだよ。はあ、びっくりしたぞ。やっぱり外にメットなしで出るんじゃなかったよ。しかし、大丈夫そうでよかったよ」

 「す、すみません。あっ!」

 ナギサは、自分が進の胸に抱かれていることに気が付いた。状況がわかると、急に恥ずかしさが込み上げてくる。ナギサは頬を赤く染めて進から顔を逸らした。

 「あ、あの……降ろしてください! もう大丈夫ですから」

 「えっ? あ、ああ……そこのソファまで行こう」

 (7)

 ナギサが我に返ると、進の方も、はたと今の状態を認識した。さっきは必死だったために気付かなかったが、抱いている手に、ナギサの柔らかな感触が急に感じられ、あのラランドティアレの花と同じような、ほの甘い香りが、ふわりと進を包んだ。
 進は、自分がその香りに酔いそうになるのを振り切るように首を左右に小さく振ると、ソファにナギサを座らせ、自分もその隣にドカリと座った。

 「ふうっ…… さっきはびっくりしたぞ」

 言い訳をしながらナギサを見た進の視線が、何気なく大きく開いた胸元に向いてしまった。それに気付いたナギサが大急ぎで、胸元を隠すように、上着のえりを片手で一つに引き寄せた。
 その動作に、進の方が逆にびっくりしてしまった。

 「わっ、す、すまない! あ、いや、これ……あまり苦しそうにしてたもんだから」

 進はさっき取ったスカーフを握り締めたままの右手を、ナギサの前に差し出した。ナギサは赤くなった顔を背けるようにしながら、それを受け取った。

 「も、もう……大丈夫ですから」

 ナギサは、立ち上がると、さっと進から離れて壁の方を向いて、スカーフを巻きなおしてから、再び振り返った。

 「苦しくないかい?」

 「はい……大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした」

 気まずい顔で頭を下げるナギサだったが、具合が悪くはないようで、進は一安心した。

 「医務室にチェックしてもらいに行こう」

 「いえ、大丈夫です。帰って休みます」

 「しかし、心配だから、ちょっと寄って見てもらって行こう。いいね! その後、部屋まで送って行くよ」

 さすがのナギサも、助けられた今は、断固として宣言する進の言葉に従わざるを得なかった。

 「はい、わかりました」

 (8)

 医務室での診察の結果、幸い異常は見つからず、やはり酸素の少ないところで興奮したせいで、一過性のものだろうと診断された。
 進は医師に礼を言い、部屋を出ると、約束通りナギサを送っていくことにした。

 ナギサの部屋の方向へ二人は無言で歩いた。ナギサがそっと隣を伺うと、進は前を向いたまま、いつもの表情で歩いている。が、ナギサの視線に気付いたのか、「ん?」と言って顔を傾げた。
 ナギサが小さく「なんでもないです」とフルフルと首を振ると、進はまたそのまま前を向いた。何も考えずに歩いているようだが、進の歩みは、いつもの調子より随分ゆっくりだった。
 倒れたナギサが無理しないように、ゆっくり歩けるようあわせてくれているのだ。全く押しつけがましくない、さりげない優しさに、ナギサの心が揺れた。

 さっき倒れた時のことを思い出す。一瞬意識を失った後、すぐに気がついたはずなのだが、その時には既に進の腕の中にいた。温かくて力強い感触が背中と腕を通して、体の中に染み込んできたのをまだはっきりと覚えている。それは、不思議なほど心地よかった。

 ナギサは考えていた。男性の腕の中に抱かれたことなど、いつからなかっただろうか。覚えている限り、ナギサにとっての抱き締めてくれる男性と言うのは、母方の祖父だけだった。年老いて皺がたっぷりと刻み込まれたその腕と胸は温かかったが、力強さはなかった。優しかったが、かつてあったであろうたくましさはもうなかった。

 学生時代、ナギサに愛を告白してきた男子学生もいたし、勤めるようになってからも、男性からのラブコールは何度も受けた。しかし、ナギサは首を縦に振ったことがない。だから、望んで男性から抱き締められたことはないのだ。
 もちろん今日のように、偶然男性の体に触れたり、胸に抱かれるような形になったことはあった。しかし、それはとても心地よいと言う言葉には程遠いもので、ただ嫌悪感が先に立つものだった。

 (こんな感じ……初めて……かもしれない)

 (9)

 数10センチの間隔をあけて隣を歩く男から、空気を通して伝わってくる熱さのようなものが、ナギサの体を火照らせる。
 ナギサは、体中で血が駆け巡り、体全体が熱を帯びたようになって、もう一度進の顔を見た。

 「どうした、ナギサ君? 顔が赤いな。熱でもあるんじゃないのか? 大丈夫か?」

 火照ったナギサの顔を見て、進が心配そうに眉を潜めた。

 「えっ!? あ、いえ……大丈夫です。少し暑いのかしら……」

 ナギサは、作り笑顔でさりげなく答える。

 「そう? 僕はそうでもないけど」

 ナギサの顔を見て、ほっとしたように屈託なく笑うその笑顔は、再びナギサの心を乱した。そんな表情を進に見られたくなくて、ナギサはさっと顔を背けて歩くことに集中した。

 (いやだ、私ったら、一体どうしたっていうの!? まるで恋をしたティーンエイジャーみたいな……!? えっ?まさか……恋だなんて!違うわ、違うに決まってる!)

 ナギサにとって男性というのは、父のことを知って以来、憎しみと軽蔑の対象であった。男なんて頼りにしないで生きていこう。自分で分別がつけられるようになったとき、そう決めてここまできたはずだったのだ。
 それがよりにもよって、初めはあんなに嫌っていた相手に、恋愛感情など抱くはずがないではないか。それにその相手には、妻も子もいるのだ。彼は全く自分の恋愛の(するつもりはなかったが、もしするとしても)対象外の存在なのだと。

 そう、これは違うのだ。特別な事件があったから、ただそれで興奮しているだけなんだ。ナギサは、自分に対してそう言い聞かせていた。

 (10)

 その思いをはっきりと自覚しようと、ナギサは進に話しかけた。それは、しばらく無言で歩き続けていた進にとって、唐突な質問であった。

 「副司令の奥様って綺麗な方なんですってね?」

 「えっ!? ど、どうしたんだよ、急に」

 突然妻の話題が出てきて、進は目をぱちくりさせた。

 「いえ、この前中津さん達が噂してたから。綺麗な奥様とかわいい子供さん達だって、写真を見せてもらったって言ってましたから」

 「あ、ああ…… 以前一緒に飲んだ時に見せたっけなぁ」

 恥ずかしそうに笑う進を見て、ナギサはにこっとした。

 「うふふ……照れてらっしゃるんですね」

 「ばか言うなっ! 上司をからかうなよ」

 怒ったような口のきき方をするが、進の顔の笑顔は消えていない。妻や子を誉められて悪い気はしない。

 「私にも、写真を見せてくれませんか?」

 「い、いいって。それよりほら、もう君の部屋だぞ」

 二人は、ナギサの部屋の前まで来て、そこに立ち止まった。
 進はラランド星基地に来る時持ってきた家族の写真を、いつも身分証明書に入れて持ち歩いている。以前中津達に見せた時は、酔っていたせいもあって、素直に出して見せたが、素面(しらふ)でそれも若い女性の前で見せるのは、気恥ずかしさも手伝って、ためらわれた。

 「だめなんですか?私には」

 「いや、そう言うわけじゃあ……」

 切ない目で悲しそうにされると、進も弱い。あきらめて、仕方なく写真を取り出して、ナギサに手渡した。

 「仕方ないなぁ。これ見たら部屋に入れよ」

 「はい……」

 (11)

 進から写真を受け取ると、ナギサは嬉しそうにその写真に見入った。写真には、庭で水遊びをする子供達と一人の女性が写っていた。4人とも嬉しそうに笑っている。女性は、化粧っ気のない顔なのに、輝くほど美しく見える。

 「かわいいっ! この男の子達、副司令にそっくりですね。それに、女の子は天使みたい!!」

 まずは子供達を見て、ナギサが微笑んだ。

 「そうかい? この子は一番上で守って言うんだ。それから弟の航。末っ子が愛って言うんだよ」

 説明する進の瞳が、子供達への愛しさできらきらと輝いていた。それは、ナギサにもすぐにわかるほどだった。

 「とってもかわいがってらっしゃるんですね。それで…………この方が…… 奥様?」

 ナギサが顔をあげて進を見る。すると進はさっきと打って変わって、もじもじと恥ずかしそうな顔に変わった。照れくさいのだ。

 「あ、ああ…… 水かぶって子供とふざけてるから幼く見えるけど、おれと同い年だから、もう十分おばさんだよ」

 照れ隠しにそんな風にけなしてみたりする。それが口先だけのことであることは、ナギサにもよくわかった。本当は、進は妻を大切に思い、とても愛しているのだということが……

 「そんなことないですよ。ほんと、中津さんが言われた通り、綺麗な方ですね」

 「ん……ありがとう。あいつも喜ぶよ。ほんとはな、彼女は俺にはもったいないほどのいい女房なんだ」

 恥ずかしそうに、進はそう言った。彼の精一杯の妻への誉め言葉である。その微笑が、進の妻への愛情をさらに強く感じさせた。

 「優しい奥様とかわいい子供さん達に囲まれて、副司令はお幸せですね。でもどうしてここに連れてこられなかったんですか?」

 幸せな家族像に、ナギサは進が妬ましいくらい羨ましかった。自分が掴んだこともなく、将来も掴むこともないと思っている家族の暮らしである。

 「うん…… 女房の仕事の関係と、一番上の子がもう小学校に行っている関係でね。一応、任期は一年だって言うから、その方がいいと思ったんだよ。けど、そろそろ寂しくなってきたのは事実だな。これは女房には内緒だが、特に、娘の愛に会いたくてなぁ」

 進が苦笑する。本当は連れてきたかったのねと、ナギサは思った。家族の幸せを常に思う進の姿が、ナギサには眩しかった。

 「可愛くてしょうがないんですね、愛ちゃんのこと」

 「ん……どの子もみんな可愛いけれど、女の子ってのはまた格別なんだよな。娘を持って、目の中に入れても痛くないっていう言葉の意味を、初めて実感したよ」

 おどけながら笑って話す進の姿は、まさにやさしい父親の顔である。

 「やだっ! 副司令って、親バカなんですね」

 くすくすとナギサが笑う。からかわれたような気がして、進がちょっとばかりムッとして言い返した。

 「そうかもしれないけど、誰だってそんなもんだぞ。君だってお父さんはきっとそんな風に……あっ」

 そこまで言ってから、進ははっとした。父親を知らないらしいというナギサの境遇のことを忘れていたのだ。そして同時にナギサの顔もこわばった。

 「私は……父なんて……」

 「あ、すまない。だけど、君のお父さんだって、きっとどこかで君のことを思って……」

 突然の態度の変化に驚きながらも、進はナギサの心を解きほぐそうとしたが、ナギサはもう聞く耳を持たなかった。何度目だろうか、ナギサは父親の話をするたびに、ひどく取り乱すのだ。

 「そんなはずあるわけないでしょう!! あんな人! 母をあんなに悲しませた人なんて!! 今日はありがとうございました。おやすみなさい!!」

 「ちょっと待てよ!!」

 進は、部屋に入ろうとするナギサの腕を強く掴んだ。

 (12)

 「なっ!」

 振りかえってきっと睨むナギサを見ながら、進はこのままではいけないと思った。父親という身近な存在のことを口にするたびに、こんな反応を示すことは、決してよいことではない。彼女の中の苦しみや悲しみを、なんとかして取り除くことができないのか、と思うのだ。

 「お父さんは一体君にどんな仕打ちをしたっていうんだ!? それが原因で、君は男というものをそれほど忌み嫌うのか? 傷ついた君の心を癒してくれる人はいなかったのか!」

 進は、ナギサの勢いに負けないほどの激しい口調で半ば叫ぶように言った。と、ナギサの瞳に再び涙がじわじわと浮き上がってきた。

 「…………奥様がいて、子供さんがいて……幸せな家族のいる人に、私の気持ちなんてわかるはずないわ! ほっといてください!!」

 進を振り切ろうと、掴まれた腕を強く振りほどこうとしながら、ナギサは叫んだ。しかし、進はその手を離さなかった。

 「わかるさ! 俺だって、11歳の時ガミラスの遊星爆弾で両親を亡くしたんだ。その後の数年間は、ただガミラスを憎むことだけで生きてきた。だから、その死の原因を憎みたい君の気持ちは、よくわかる気がする! けどなっ!」

 「副司令も……11歳で……」

 はっとして、ナギサは進を見た。睨んでいた瞳も、少し落ち着きを取り戻したようだ。ナギサの反応が静かになったことで、進も口調を穏やかにして、ゆっくりと話し始めた。

 「憎むことだけでは、人は生きていけないぞ。俺は、女房に会って初めてそのことに気付いた。人を愛し、愛されること。それを知って、俺はやっとその呪縛から逃れることができたような気がする」

 「…………」

 「もしよかったら、話してみないか? 君のその悲しみや苦しみを。俺が何かしてやれるとは思えないが、同じ頃に親を亡くした。その悲しみはわかるよ。それに、話してみれば少しは心も晴れるんじゃないのか? 人は一人では生きていけない。たまには誰かに頼ってみるのもいいもんだぞ」

 「副司令……」

 ナギサが涙目で進を見つめた。その顔は、進の言葉を受け入れたことを表しているようだった。

 「古代……でいいよ」

 進が僅かに微笑んだ。それに答えて、ナギサも口元を緩めて頷いた。

 「わかりました。あの、お茶でも入れますから、どうぞ入ってください」

 後ろを振り返って自分の部屋のドアを指して、進を促した。が、進としては、一人暮しの若い独身女性の部屋に入ることは、さすがにためらわれた。

 「あっ、いや…… それは……」

 「うふふ…… 奥様を心から愛してらっしゃる副……古代さんが、何かするとは思っていません。そうでしょう? それに、こんなところでお話もできませんから…… 聞いてくださるんでしょう?私の話を」

 口篭もった進の意図がわかったように、ナギサは微笑んでそう告げた。確かに話を聞かせろといったのは、自分である。それにドアの外で立ち話する内容でもなかった。
 進は、大きく息を吐くと、こくりと頷いた。

 「……わかったよ」

 (13)

 わかったとは言ったものの、やはり進には緊張があった。ナギサの後に続いて、部屋に入ると、そこからどうしていいかわからず、玄関先で立ち止まってしまった。
 部屋の中をおずおずと見まわす。小さなキッチンと広いリビングのこじんまりとした1Kの部屋は、副司令である進にあてがわれた部屋よりずっと狭かったが、綺麗に整頓されていた。
 あるのは、小さなソファセットとテーブル、そして奥にベッドと仕事用のデスク。そのどれも整然とならんでいる。そこにも、ナギサの几帳面な性格が出ているのだろう。

 進が立ち尽くしているのを見て、ナギサがテーブルの前にあるソファを示した。

 「どうぞ、座っていてください。今、お茶入れますから。あっ、コーヒーがいいですか? それとも紅茶?」

 「あ、ああ……紅茶を」

 「はい……」

 一人暮しの女性の部屋など、雪の部屋以外入った事がない。なんとなく居心地の悪い気がしながらも、進は進められたソファに座った。

 ほどなくナギサが、盆に二客のティーカップを載せて戻ってきた。進にまず差し出してから、自分の前にもそれを置き、進の正面に座った。進はまずは、自分と彼女の気持ちを解きほぐすつもりで、部屋を誉めた。

 「綺麗に整頓されてるな。君らしい部屋だ」

 「……ありがとうございます。何もない部屋ですけど……」

 ナギサは素直に嬉しそうな顔をして礼を言った。最近のナギサはとても素直になったな、と進は思う。父親のことを話題にしない限りは……であるが。

 「俺は好きだな。シンプルなのが一番いい」

 「じゃあ、古代さんのお宅もそんな感じなんですか?」

 「ん? まあ、妻と二人のときはそうだったかな。今はもうめちゃくちゃだよ。なにせ3人のギャングがいるんだ。妻が片付けた後から、また散らかしてくれるからなぁ。しばらくはダメだってあきらめたよ」

 子供達は、散らかすのが仕事のように、あっちこっちにおもちゃや人形などを広げまくるのだ。それを叱りながら、片付けてまわっていた雪の姿が目に浮かんだ。

 「ふふふ…… そうでしょうね。でも楽しそう」

 ナギサがそんな光景を想像するように目を細めた。

 「子供は好きなのかい?」

 「ええ、大好きです。一時は保母になろうかって思ったくらい」

 「そうか、じゃあ、君もいつか結婚して家庭を持てばいいじゃないか。君なら相手には不足しないさ」

 社交辞令でなく、心から進はそう思った。しっかりしたいい奥さんになるだろう、と思う。だが、ナギサは、寂しそうに黙って首を横に振った。

 (14)

 沈黙が流れた。進は出された紅茶を、一口、口に含んで飲み込んでから、やっと搾り出すように言葉を発した。

 「どうして……なんだ?」

 「男の人を信じることができなくて……」

 ナギサがうつむいて、小さな声で言った。また涙が瞳に沸き上がってくる。

 「お父さん……のことが原因なのかい?」

 ナギサは、進の質問にコクンと頷いた。

 「……ええ。母は……父に騙されて捨てられたんです。きっと帰ってくるっていうその言葉を信じて……」

 やはりそうだったのか…… 進は心の中で舌打ちをした。別に珍しい話ではないのだが、子供まで儲けた仲であるだけに、その罪は重いと思う。だが、なんと言って慰めたら良いのか、すぐには言葉が浮かばない。
 進が黙ったままでいると、ナギサはまた口を開いて話し始めた。

 「父と母が出会ったのは、母が23歳の時でした。あの頃はまだガミラスからの遊星爆弾が飛来して来る前で、日本の会社がタヒチにホテルを建設することになったんです。それでその責任者として私の父が来たそうです。
 代々島の祭祀をつかさどる家系だった私の家は、島を代表して、父たちの世話をしたそうです。もちろん、母も色々と父たちの仕事の手助けをしたようです。
 父は母より10歳ほど年上で、その建設会社の若きエリートだったらしくて、ちょうど、今の古代さんくらいですよね?」

 ナギサにそう言われてドキリとする。そう言われてみるとちょうど自分とナギサの年の頃なのだ。しかし、ナギサはそのことには、それ以上触れることなく、再び話を続けた。

 「エリートらしくなくて、気さくでとても親切な父に、母はすぐに恋をしました。そして、父も島の娘らしくない聡明な母を愛したそうです。二人の関係は、島の中でも有名だったらしいです。このまま二人は結婚するんじゃないか、そんな噂も立ち始めていたんです。
 でもホテルも完成する間近になって、突然あのガミラスの遊星爆弾が飛来してきて、父たちはホテル建設どころではなくなったようで、突然の日本への帰還命令が出たんです。
 慌てて帰国の手配をした父は、最後に母に会いに来ました。その時、もうお腹には私がいて、母は父にそのことを告げたそうです。父はとても驚いたそうですが、喜んでくれたと母は言っていました」

 「それじゃあどうして?」

 どうして君のお母さんを裏切ったりしたのか?と聞きたかった。もちろん、ナギサにもそれはよくわかっていた。

 「でも……父は、あることを告白したんです。それは……父には日本に残してきた奥様がいらっしゃると言うことを。初めて聞いた事実に、母は驚いて父を責めたそうですが、父は言い出せなくてすまなかったと言うばかりで……
 ただ…… その奥様のことはなんとかするから、無事に子供を産んで欲しい、そして、自分のことも片がついたら必ず迎えに来るからと、そう言い残して日本に帰って行ったそうです」

 「それから……戻ってこなかったんだね?お父さんは」

 「ええ、その後、母は父と会えませんでした。父は母を騙していたんです! きっと、島にいる間だけ楽しめればいい、ただそう思って、母を!!」

 再びナギサの感情が爆発した。これが父親のことを話すたびに彼女が取り乱す原因なんだと、進は思った。そしてもう少し、彼女の感情に任せて、聞いてみようと思う。だから無言で、じっと彼女の顔を見つめた。
 すると、ナギサは少し落ちつきを取り戻したようで、また話を始めた。

 「でも、母は最後まで信じていました。父はきっと自分と私を迎えに来てくれるって、バカみたいに…… 周りのみんなは、あきらめろって何度も言ったそうですけど、絶対に首を縦に振らなかったそうです。私がいてもいいから、嫁に欲しいと言ってくださる方もいたらしいんですが……
 父が…… その男が!! 母の人生を台無しにしたんです!! それなのに、自分は何も知らずに、日本で奥様と子供達に囲まれてのうのうと暮らしているに違いありません! それなのに……母は……」

 再び感極まったように、ナギサは、目に一杯に涙を溢れさせながら、テーブルに両手をバンとついた。涙がぽたぽたとテーブルに流れ落ちる。

 (15)

 再び、しばらくの沈黙が流れる。ナギサの感情の起伏を見ていた進は、ナギサがゆっくりと顔をあげて、涙をふくのを見てから、また尋ねた。

 「それで、お母さんが亡くなったのは、白色彗星の攻撃の時だとか?」

 進の想像通り、ナギサは落ち着きを取り戻していた。質問にこくりと頷いた。

 「あの時、母は父を探しに日本に行っていたんです。父の会社名と父の名だけを頼りに、一人で探しに……」

 「お父さんを……」

 と、ナギサの感情が再び動き始める。そのキーワードは「父親」なのだ。今度はテーブルに載せた両手をぐっと握り締めて、悔しそうにうつむいた。

 「私がせがんだんです。一度でいいから、お父さんに会ってみたいって……ずっとずっと、何度もせがんでいたんです。
 そうしたら、母が日本へ行ってみるって。母ももう10年以上も音沙汰のない父のことが気になっていたんだと思います。いくら信じてるって言っても、やっぱり……
 でも母が日本に立った直後、突然あの攻撃を受けて…… 私があんなこと言わなければ、母は死なずにすんだと思うと…… あんな男を愛さなければ、母は……幸せになっていたかもしれないのに……!!」

 再三にわたって、その苦しみを吐露することで、ナギサは、今までの呪縛から少しずつ解き放たれ始めていた。再び進が父親のことを聞いたとき、初めて静かな口調で父のことを話した。

 「それで結局お父さんのことは、わからないままなのかい?」

 「はい…… でももういいんです。もう……あんな人のことは考えたくないから……」

 その時のナギサの瞳には、もう涙はなかった。それは、ナギサが10年以上にわたる心の闇に、初めてほんの少し光を入れた瞬間だった。

 (16)

 その後、ナギサの父だという人物の会社名や名前―武島建設の瀬戸省吾というらしい―を聞いたが、当然ながら進の記憶にある人物ではなかった。
 その他には、瀬戸という男が湘南出身で、ナギサの母に、日本の湘南の海もいい浜だとよく言っていたという。その浜辺を意味する言葉として、ナギサという言葉も、瀬戸から聞いていて、それを産まれてきた娘の名前としたらしい。
 ナギサは、父親が自分にしてくれたことは、その日本風の名前をくれたことだけだと悲しそうに笑った。
 そして……

 「ありがとうございました。なんだか、少し気が晴れたような気がします。それに……権藤さんや古代さんを見ていると、最近少しだけ男性に対する気持ちを思い直してもいいかなって気になってきました。すぐにはそうなれるかどうかわかりませんけど、いつか……私も、誰か人を愛せるかもしれないって」

 ナギサは、今日一番の晴れ晴れとした顔をしていた。懸命に話を聞いてくれた進に、感謝したい気持ちになる。この人は、あの人とは違う。母を口先だけで惑わしたあの人とは違うと、はっきりと思った。もう、ナギサの中の進への嫌悪感は全て消え、好もしい気持ちだけが心を温めた。

 「そうか! それはよかった…… 権藤もいい男だぞ! お似合いじゃないか?」

 「えっ? 権ちゃんはお友達ですっ!!」

 ナギサは、ちょっと拗ねたような顔で進を睨んだ。権藤をそんな気持ちで見たことはなかった。というより今まで誰に対してもそんな思いを抱いたことがないのだ。そう……誰にも……
 しかし、今目の前にいる男性への思いは、いったいなんなんだろう。ナギサは再びその思いに捕らわれた。誰にも感じたことのない、それは……?

 そんなナギサの心に気付くはずのない進は、素直に感謝の意を告げるナギサをからかうように笑った。

 「ははは……そうか? けど、君がそんなに素直になると、なんだか君らしくないような気がするな」

 「まあっ! ひどいっ!! わかりました! また明日から、精一杯冷たくしてあげますから!!」

 ナギサがまたいつもの厳しい視線で睨むと、進が苦笑した。

 「おいおい、せっかく角が消えたかと思ったらもうそれかい? やめてくれよ」

 「ふふふ……冗談ですよ。でも、あくまで仕事では厳しくしますからね!」

 「ははは……わかったよ。お手柔らかに頼むよ。さあ、そろそろ帰るとするかな。今日はゆっくり休んで体調を整えろよ」

 「はい……わかりました! 副司令!!」

 可笑しそうに笑いながら、わざとらしく敬礼するナギサを、進は席を立ちながらたしなめた。

 「こらっ、茶化しやがって! じゃあ、お茶をご馳走様。おやすみ」

 「おやすみなさい」

 帰っていく進を見送ってから、ナギサは今日の自分の行動を自分でも驚いていた。

 (私がこんなに大胆だったなんて…… こんな話他人にするのは初めて。でも……あの人になら話してもいいような気がした。きっと私の気持ちをわかってくれるってそんな気がした。それは確かに正解だったわ。
 だけど……あの人はただの私の上司。上司として、そして子供の頃両親を亡くしたという同じ経験があることで同情してくれただけ…… そして私もただ……そんな彼に親近感をちょっとだけ抱いただけ。そう、それだけなのよ)

 (17)

 部屋に戻ってベッドに横になってから、進はナギサのことを考えていた。

 (彼女の過去には、そんなことがあったのか…… やはりネックは彼女の父親のことなんだなぁ。母親が騙されて捨てられたと聞けば、そんな風になるのかもしれないな。
 だが、本当にそうだったんだろうか? もしそれが何らかの事故で、父親が連絡の手段を失って、今でも彼女達を探しているということも考えられなくはない。そうなれば、話は変わる。
 どちらにしても、彼女は事実を正確に認識した方がいいんじゃないだろうか…… その上で、自分の人生を考え直してみたほうがいいのかもしれない。今日やっと動き出した前向きな気持ちをもっと進めてもらうために。雪にでも調べてもらおうか……)

 そんなことを考えていると、進は、どうして自分がそれほど彼女のことが気になるのだろうかと、ふと思った。

 (彼女にいきなり嫌われてしまったからなのだろうか? それとも、子供の頃両親を亡くすという自分と同じ体験をしたからだろうか? そして、やり切れない怒りを抱き続けてきたという彼女に、昔の自分を見たからなんだろうか……
 それとも……?)

 突然、彼女が倒れた時のシーンが進の脳裏に浮かび上がってきた。
 倒れそうになる彼女を抱き上げ基地内に入り、そして苦しそうにしているスカーフを取る。
 そんなシーンが頭の中でリプレイされる。そして……艶やかな胸元が膨らみを微かに匂わせながら上下し、彼女の甘い香りが進を包んだ時の様子が、進の頭を駆け巡った。
 雪の真っ白な陶器のような肌とは違って、こんがりと焼けたパンのような褐色の肌は、若さにつやつやと輝いていた。

 と、進は、そんな妄想をしている自分に、はっと驚いた。

 (なっ、何を考えてるんだ!俺はっ!!)

 慌ててそんな光景を浮かべた自分の心を打ち消すように、進はガバリと起き上がって、首を左右に大きく振った。そして一つ大きな深呼吸をする。

 (ふうっ……参ったな。俺も男だっていう事なのか…… 彼女は俺を信用して部屋まで入れてくれたんだ。俺は決して邪(よこしま)な気持ちで彼女の部屋に入ったわけじゃない)

 自己嫌悪に陥りそうになった進の頭に、今度は雪の姿が浮かんできた。その顔は自分の後ろめたさを示すように、睨み顔だった。

 (わっ、わっ! ゆ、雪っ…… 俺は何もしてないぞ。そんなに怒るなよ! 俺だって男なんだから、女性のそんなシーンにだな、その、そういうこともあるんだよ。けど、実行するのとは訳が違うからな!)

 進はいるはずのない雪の幻に向かって、必死に言い訳をしていた。

 (18)

 そんな時と言うのは、なぜがタイミングよく悪い?事が起こるものである。突然進の部屋のTV電話のコールが鳴り出した。

 「おっと、今ごろ誰だ?」

 進がTV電話のそばに寄って、発信者をチェックするとそれは、まさに地球の我が家からのものだった。

 「げっ、雪!? まさか、今の俺のが聞こえてたとか…… いや、そんなことあるはずないよなぁ」

 そんなことを口走りながら、進は恐る恐る受信ボタンを押した。すると、画面に大きく妻の姿が映し出された。

 「進さん! いたのね、よかった!」

 画面の向こうの妻の顔は、さっきの進の想像の姿とは違い、いつもと変わらぬ笑顔だった。その顔に安心しながらも、進は動揺を隠せなかった。

 「ど、どうしたんだよ、急に…… そっちから電話してくることなんか今までなかったじゃないか」

 進が非難するような口調で言うので、雪は眉をしかめて、画面の向こうをきょろきょろと見た。

 「あら? 悪かったの? 誰かお客さんでも?」

 「ち、違うよ! 誰もいない。別に悪くはないさ……別に…… あ、いや、嬉しいよ、うん」

 言い訳がましいその口調に、雪はますます怪しげな顔をした。

 「なあに?その返事。なんだか怪しい態度ねぇ」

 「あのなぁ。何でもないって言ってるだろう! それよりどうしたんだ?そっちで何かあったのか?」

 「ええ、いえ……別に何もないわよ。でもたまには子供達抜きで話したいなって思って……うふっ」

 進が向けた話に、雪は乗ってきた。「客」―どんな客だと雪は思っていたのか知らないが―もいないことがわかったからなのかもしれない。雪の口調が、さっきと打って変わって色気のあるものになった。

 (19)

 そんな雪の様子に、進もやっと落ち着きを取り戻した。彼女は寂しくて電話してきたらしい。

 「寂しくなったんだろう?雪」

 と、雪が嬉しそうな恥ずかしそうな笑みを浮かべた。その姿に、進の胸がドキリとなる。古女房などと人に言っておきながら、進はまだまだ彼女に惚れているのだ。雪はさらに甘い声で甘えるように囁いた。

 「だって子供達がいたら、ずっとあなたを取られちゃうんですもの…… 私だってたまにはゆっくり話もしたいわ。ねぇ、あなた」

 「ふふん、随分色っぽいなぁ。ふうん、あっ!もしかして、溜まってるんだろう?雪」

 雪が寂しがっているということに気付けば、今度は進のほうが優位になった。

 「ば、ばかっ! やだ、もうっ! 何を言い出すのよ!」

 「そこでやってみろよ。俺、見ていてやるぞ。なんならテレホン……」

 まさか本気で言っているのではないとは思いつつも、それ以上は言わせられないと、雪が真っ赤な顔で怒った。

 「んっもうっ! あのねぇ、これは衛星回線なのよ!特に極秘通信でもないし、どこで誰に傍受されるかわからないでしょう!」

 「ああ、確かにそうだな。やばいやばい。はっはっは……」

 可笑しそうに笑う夫の顔が、冗談を本気にしてるといかにも言いたげだった。

 「もうっ! ……でも会いたいわ、ねぇ。画面越しじゃなくって」

 「ん、そうだなぁ。もう二ヶ月になるんだよなぁ」

 進の宇宙勤務は、大抵長くても二ヶ月以内で一旦地球に戻ってくるサイクルを繰り返していた。それだけに、ちょうど今ごろが寂しくなり始める時期なのだ。
 だが、雪はその二ヶ月という言葉で、別のことを思い出した。

 「あっそうだわ! 二ヶ月で思い出したけど、南部さん、もうすぐまたそちらに行くんですって。何か持っていくものありませんか、ってこの前連絡くださったのよ。だから、いろんな写真やビデオ、それに手紙も預けたから、貰ってね。子供達のもたくさんあるわよ。うふふ、進さんは愛のが一番楽しみかしらね」

 「ああ、そうだな。子供達のビデオか。第七艦隊の寄港計画書が届いていたな。また来るんだなって思っていたところだったんだ。そうか、それは楽しみだ」

 進はニコリと笑った。そしてさらに……

 「で、その中に雪の×××なビデオも入ってるのかい?」

 「もうっ!! どうしてそこから離れられないのかしら! そんなものはありません!!」

 雪の拗ねる姿が見たくて言った言葉は、そのねらい通りになった。雪は、プイッとそっぽを向いて頬を膨らませた。

 「ははは、それは残念だ……」

 (20)

 笑いながらその姿を見ていると、それがさっき帰る間際に見せたナギサの顔に重なった。あの時、ナギサのそんな様子を好もしく思ったのは、雪に似ていたからだったのか、と今になって思いついた。
 そう言えば、あの強気な性格も雪に似てるかもしれないな、などと思う。
 そして同時に、彼女の例の父親のことを雪に頼んでみようかと思っていたことを、思い出した。

 「あ、そうだ、雪……」

 「なぁに?」

 雪は、小首を傾げて進の話の続きを待った。その顔を見ていると、今度は急に言い出しにくくなった。
 なにも後ろめたいことがあるわけではないのだが、なんとなく若い女性のことを話題にするのは、今の雪の心を乱すだけではないかと思い始めたのだ。

 (やっぱり、雪に頼むのはやめよう。変に勘ぐられても困る)

 「あっ、いや、なんでもない。うん、いや、いいよ」

 だが、それがかえって、雪に不信感を抱かせた。最初の慌てようといい、何かあるのだろうか?と小さな不安が浮かぶ。

 「どうしたの? 変な人。今日の進さんなんだか変だわ」

 「そうか? ……ああ、ちょっと飲んできたから、酔ってるのかもしれないな。とにかく南部の到着を楽しみに待ってるよ。それじゃあ、もう眠いから切るぞ」

 「あんっ! もうっ。じゃあ最後に約束のあれ言って!」

 「なんだ?約束のって?」

 「だからぁ、ア・イ・シ・テ・ルって……」

 「ったく、しょうがないなぁ。愛してるよ、雪。おやすみ……」

 「んふっ、わたしも…… チュツ」

 結局、雪の望み通り愛の告白をしてくれた夫に、雪の小さな不安はあっという間に消え去ってしまった。嬉しそうに微笑んで、投げキッスを送ってから、雪は通信を切った。

 受話器を切った進は、画面が消えたことを確認して、大きく息をはいた。

 (ふうっ…… 雪にナギサ君のことを頼もうと思ったけど、さっきの今だからな。うまく言えなかったら、やぶへびだしなぁ。
 さて、どうするか? しばらく時を置いて頼んでみるか、それとも相原にでも連絡を取ってみるか? ん?そうだ!南部……あいつ、こっちに来るんだったな。あいつなら情報網も色々持ってるし、いいかもしれないな。よし、そうしよう、うん!)

 進はようやく解決法を思いつき、晴れ晴れとした気分になった。そして、誰もいない画面に向かって、叫んでいた。

 「雪っ! 俺はなにもやましいことなんて、してないぞ!」

 ベッドに戻り、ベッドサイドに置いてある雪と子供達の写真におやすみを言った。

 「愛してる、雪、そして子供達…… 俺の大切な家族……」

 この愛する家族との暮らしが再び始まる日を、進は今から心待ちにしているのだ。
 そう、古代進の愛する人は、永遠に妻の雪一人なのだから…… そのはずなのだから。

Chapter5終了

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(背景:Atelier paprika)