あなたをユ・ウ・ワ・ク
印刷を終えた雪が振り返ると、進はテーブルに広げてあった真田との会議資料を整理していた。後ろから声をかける。
「はい、できたわ」
進が振り返ると、雪が数枚の紙を手にしていた。またもやさっきの劣情が湧き上がって、顔が火照ってきそうだった。進はそんな自分を戒めながら、妻の差し出した書類を受け取った。
「あ、ありがとう…… 後はこれを10部コピーすればおしまいだな」
「やりましょうか?」
雪がそれを手渡しながら尋ねると、進は軽く首を振った。
「いや、いいよ。俺がやる。ちょっと待っててくれ。すぐ終わるから」
「わかったわ」
雪はあっさりと了解したが、そのまま手は下ろさずに、進の頬にそっと手を伸ばした。進の体がびくりと硬くなった。だがすぐに、彼は我にかえる。
「こ、こらっ、ここは仕事場だぞ」
進は雪を軽く睨んで頬に添えられた手を自分の手でつかむと、ゆっくりと引き離した。
二人きりだといってもここは職場である。たとえその手の柔らかさが進の股間に大いに刺激を与えたとしても、その手から香るかぐわしい匂いにふらりときそうになったとしても、そして、さっきの胸元の秘密が限りなく知りたいと思ったとしても……ここで妻を押し倒すことはできない。
「うふふ……」
手をのけられたことも睨まれたことも、雪は大して気にする様子もなく、ただ甘い声で笑った。
――全く、人の気も知らないで、こんな場所で誘惑しやがって…… 後で覚えてろよ!
進はそう思いながらも、心がウキウキしているのを感じていた。だが、進は妻のこれらの仕草が、今夜の誘惑のほんのプロローグに過ぎないことを、まだ知らない。
進はコピー機に紙をセットして10と入力してスタートを押してから振り返ると、雪は背を向けていた。
雪は何をするでもなく、進の机の上の本をながめている。その後姿に進は尋ねた。
「なぁ、雪、これからどこへ行きたいんだ?」
進の声に雪が振り返った。
さっきの格好や様子からすれば、すぐにでも抱いて欲しいと思っているに違いないと、進は判断していた。だから、どこも行かずに家に帰りたいわ、という返事を期待したのだが……
「朝の予定通りよ、ちょっとお買い物がしたいの。それからどこかで軽く飲みながら……食事でどうかしら?」
小首をかしげる妻の姿は、さっきの妖しい笑みとは違って清楚でかわいらしい。少々期待はずれではあったが、買い物や食事に付き合うくらいの女房サービスは、進とて嫌とはいえない。
「あ、ああ、いいよ。で、買い物って?」
「ええ、ちょっと……」
雪はなぜかはっきりとは言わず曖昧に答えた。が、そのキラキラと輝く瞳からは、何かやけに意味深ないたずらっぽさを感じさせた。
――何考えてんだ、雪は……? 甘えてみたり誘ってるような格好をしてみたり。それにさっきの胸元は?
もちろん雪が考えていることは、夫を思いっきり誘惑して翻弄すること…… しかし、もちろん進はそんなことを知る由もなかった。
――彼の仕事も終わったし、作戦開始ね…… ああ、なんだか心臓が飛び出しそうなほどドキドキしてる。でもそれ以上に、期待してるみたい…… 私って意外といけない女なのかも……?
そんなことを考えると、雪はだんだんと自分の行動に自信が出てきた。
雪はゆっくりと進に近づいていった。目の前に妻が来ると、自然進の視線はさっき気になった胸元へ移った。
雪の顔と胸元を行き来しながら、進は
「今日は……ずいぶん胸元開いてるんだな。ちゃんとスカーフ着けないと見えるぞ」
「あら、そ〜お?」
そう答えると、雪はわざと胸元が見えるように、少し前かがみになって見せた。
――や、やっぱり……!?
進が絶句する。
「あら、どうしたの? うふふ…… なんだかちょっとこの部屋熱いわね」
そういうと、雪はわざと胸元の一番上のボタンをはずして、合わせられた服を少し外に開いて、それからまたすぐに閉じた。
「なっ!?」
そこで進の言葉が止まってしまった。次の言葉がでない。正確に言えば出ないのではなくて、出せないのだ。それほどショッキングな光景であった。
つまり、さっき広げられた襟の内側には、彼がよく知っている二つの美しい膨らみを覆うものは何も見えなかった。ただ美しい肌色と薄紅の頂だけが、進の目に焼きついている。
「どうしたの。あなた? そんな顔をして……」
ほんのりと顔を紅潮させているが、僅かに笑みを浮かべているような雪の表情はそれほど変わっていない。
しかし、進の衝撃は相当に大きなものだった。
「だ、だ、だっ……」
だって、君の胸が見えた…… そう言い出したかったのだが、進の口はどうしても動こうとはしない。
その上、やっかいなことに、今見たものが進の脳への大いなる刺激となった。その反応は、もちろん彼の体のある部分に顕著に現れていた。
――うっ、いかんっ、ここじゃまずい!
目を逸らして天井を見ながら、数回大きく深呼吸をする夫を見て、雪は嬉しくなった。
――進さんたら驚いてるわ。でも怒らないわ。ってことは、やっぱり嫌いじゃないのよね、こういうの、彼?
そう思うと、雪はさらに大胆な気持ちになっていった。うふふと妖艶な笑い声を上げると再び夫に背を向け、背中越しにわざとらしく言い訳をいう。
「今日、ちょっと暑かったから、薄着してきたの……」
「う、薄着って……!?」
――何にも着ないことを薄着なんていわないぞ!
と、大声で叫びたい気分の進ではあったが、意外にもこんな不謹慎な?格好をしているらしい妻に対して、腹立たしい気持ちは沸いてこない。
逆に、心のどこかで何かを期待しているようなワクワクする気分になってさえくるのだ。
だがもちろん進とて、今自分のいる場所を忘れてはいなかった。
――これって誘ってる? 誘ってるんだよな? なら、買い物なんかしないで真っ直ぐ家に帰った方がいいに決まってる! 家に帰って早く雪をこの手で……
さっき一瞬目にしたことが、間違いでなかったことをしっかりと自覚した進の頭の中は、すでに自分に強く抱きしめられ恍惚となる愛する妻の裸身で一杯になっていた。
妻が何を思ってそんな格好をしてきたかはわからない。けれど、古代進はいたって健康な男である。この間の妻の自慰を見て燃え上がったように、愛する妻の誘惑は決して嫌いではない。
特に、普段は清楚な雰囲気を見せる彼女が、自分の前だけで妖艶に変わる姿は、えもいわれぬ喜びを彼に与えてくれた。
しかしそれでも、今の状況は彼にとっては衝撃だった。だがその衝撃はまだこれからの彼女の誘惑のほんの序章でしかない。
雪は、夫の反応振りが予想以上にいいことに気を良くして、次の行動に向かう。
進が雪に向かって一歩歩き出そうとした時、雪は背を向けたまま、さっきまで座っていた椅子にゆっくりと腰を下ろした。それから椅子をくるりとまわすと、ちょうど夫の正面に向いた。
――雪は何をするつもりなんだ……?
さっきの行為に度肝を抜かれた進は、雪の次なる行動をじっと待っていた。
雪の視線は進の顔をじっと見つめている。それから、また誘うように甘い笑顔を送ってきた。
それからゆっくりと片足を浮かせると、もう片方の足の上に乗せた。膝上丈のスカートはそれに合わせて浮き上がり、彼女の美しい太ももの線をあらわに見せていた。いや、それ以上の奥まで、夫の視線が届くことも承知の上で……
――ああ、熱い…… 体中が脈打ってるのがわかるようだわ……
雪が心の中で興奮を抑えられない以上に、それを見ていた進の衝撃ははるかに大きかった。
――!!!!???
進のまなこがこれ以上開かれないほど大きく開かれ、口は大きくぽかんと開けたまま、言葉は出てこない。そしてそのまなこは、ゆっくりと雪の顔に戻って、何か問うような眼差しを送ってきた。
雪はさらに妖艶な笑みを浮かべながら、今度は組んでいた脚をゆっくりと、ほんとうにゆっくりと下ろした。おそらく、再び夫の目には、雪の脚の間のその奥までさっき以上に見えたはずだ。
「ゆっ、ゆっ……」
進は、言葉にならない言葉を発して、後ろに1、2歩後ずさりすると、コピー機に勢いよくぶつかった。がたがたと大きな音がなった。
その動揺振りが、雪にはおかしくも嬉しい。慌てながらも彼の視線が自分に向けられたままであることも嬉しかった。体中が暑く火照る。
進は後ろでコピーが終わった合図のブザーが鳴ると、それを機会に、後ろを振り返り、慌てて出来上がった資料をまとめて袋に入れた。進の頭の中には、今の雪の行動のことで一杯になっている。
――ちょっと待てよ! 今の雪のあれは…… 絶対に何もつけてなかった!! さっきの胸元だって…… ってことはあのワンピースの下は何も……着てないっ!?
体中がカーッと熱くなっていく。ワンピースの下にあるその姿が目の前に浮かんでは消え、頭の中を駆け巡った。一瞬、このままあの服を剥ぎ取っても押し倒してしまいたい衝動に駆られる。
それを必死に押さえて、進は資料を自分のデスクの1番上の引き出しに閉まって鍵を閉めると、大きな深呼吸を一つした。
――もうだめだ! 早く家に帰ろう!
進は、雪の方を振り返ると、やっとまともな言葉を一つ発することができた。
「か、帰ろう……!」
「ええ……」
進の言葉に、雪は素直に頷いた。進が何も言わないことに、雪は少し戸惑いを感じる。だが、その視線が泳いでいることも見て取れた。
――進さん、怒ってる?ってことはないわよね? 焦ってる……のほうが正しいかしら? うふっ、なら、作戦成功よね。じゃあ続き頑張らないと!
雪の答えに頷き返した進は、ハンガーにかけてあった上着を手にした。すると雪は、進の後ろまで近寄ってきて、避難するように眉をしかめた。
「あら、今日は帰りは着替えてって言ったじゃなぁい?」
「えっ!? いや、しかし……」
進が雪の姿をまじまじと見つめる。確かに、今朝から雪には、帰りには一緒に買い物をして食事をしたいから、帰りは私服にしてと言われていた。
だが、進としては、間違いなく事情が変わっていた。妻はごく普通のワンピースを着ているものの、その中に何もまとっていないのだ。間違いなく自分を誘惑するために、それはつまりとっとと家に帰ろうというサインではないかと判断した。
「すぐに家に戻るんだろう。その格好じゃ……」
だが雪にそんなつもりはない。それに夫の慌てぶりを見ていると、どんどん大胆な気持ちになっていった。
――なんだかとっても楽しくなってきちゃったわ。彼ったら私の格好見て、すごく焦ってるし、ドギマギしちゃってかわいい〜! 主導権を握るのってこういうことなのかしら? 楽しいわ〜
「その格好って?」
雪は全く平然とした顔で答える。外見は別にごく普通なのは事実であるわけだし。
「ぐっ…… だから、その……」
君の服の下は裸だろう?と、言いたかったが、言おうとすると、体中の血液がわきあがりそうだった。既に股間は硬くなりつつある。これ以上何か言えば自分の言葉に自分で反応してしまいそうなのだ。
「あら、今日は買い物をして食事をするんじゃなかったの?」
「だがな……」
――そんな格好で街を歩かれたら、俺はどうなるかわかったもんじゃない!
進の心はそう叫んでいた。だが……
「真っ直ぐ帰りたいのなら一人で帰ってちょうだい。私は一人でも街に行きますから!」
「えっ、だ、だめだ〜〜〜っ!! そ、それだけは絶対にだめだ!!!」
この格好の妻に、自分が一緒にいないで街を歩かせるなどとは、絶対に考えられない。
たとえ外見はごく普通の格好に見えたとしても、今の彼女はなんともいえぬ色気を漂わせている。それに元々美人の彼女だ、一人で歩いていて、どこかの誰かに言い寄られでもしたら!? 進はそう考えただけで、身震いした。
もちろん、雪も彼が自分を一人で街になど出せないことくらい、百も承知だ。
「うふふ、なら着替えて一緒に行きましょ」
「うっ…… わ、わかった。けどなぁ、買い物は早めに済ませて、食事はテイクアウトのを買って帰ったほうが……」
「どぉしよ〜かなぁ〜 でもほら、とにかく着替えて、でないと先に……」
雪はくるりと背を向けると、出口に向かって歩き出した。
「ま、待て〜! 今着替えるからっ!!」
雪の脚がぴたりと止まり、振り返ってニッコリと微笑んだ。
「じゃあ、早くしてね!」
雪の脅し勝ちだ。余裕の笑みを浮かべる妻の視線を気にしつつ、進は大急ぎで私服に着替えた。
ワイシャツとスラックスに、上着を手に持っている。その手にした上着は、もちろん自分の股間を隠すためにだ。興奮して起立しているそれは、もう簡単には大人しくなりそうもない。
その格好に、雪はぞくぞくするほどの快感に浸っていた。
――進さんったら、ずいぶん動揺してるのね。でも楽しい! 私もとってもドキドキしてるけど、でも進さんの驚き振りを見てると、なんだかとっても楽しい!!
雪の心に、更なるいたずら心が湧き上がったのは言うまでもない。
「よ、よし、いいぞ」
「じゃあ、行きましょ!」
雪は嬉しそうに進の腕に自分の腕を絡ませた。進がびくりと体を固まらせた。それから努力して厳しい顔をして見せた。
「おい、雪。スカーフしとけよ。ここはまだ職場なんだからな」
「うふふ、はいはい……」
雪は組んでいた手を解くと、バックの中にしまっていたスカーフを取り出して、くるくると上手に巻きつけた。それに少し満足したように、進がほっと息をついて、こほんと小さな咳払いをした。
「それと本部内で腕組むな…… 恥ずかしいだろ」
「はぁい!」
雪は満面の笑みを浮かべてそう答えると、先に歩き出した夫の後ろについて部屋を後にした。
(背景:Four seasons)