ぱすてるチャイム
Pastel Chime

アナザーシーズン
Another-Season
〜もうひとつの恋の季節〜







第]章 神剣乱舞






ふたつの道の物語




 遠い昔、遥か彼方の古の時代―――
 世界は光と影に分けられていました。
 神々が守護する暖かな世界と。
 魔王が君臨する冷たい世界と。



 闇に閉ざされた大陸には、大きな魔王が住んでいました。
 世界の半分は魔王のものでした。
 だけれど、魔王は世界の総てが欲しかったのです。
 魔王は神々の守護する世界に、戦いを挑みました。



 遠い昔、彼方の王国―――
 そこには大きな王国がありました。
 光に満ちた大陸に、ひとつの王国がありました。
 その王国には人間が住んでいました。
 その王国にはエルフが住んでいました。
 その王国にはホビットが住んでいました。
 その王国にはドワーフが住んでいました。
 そして、心優しい神がその王国を治めていました。
 その王国はけして豊かとはいえませんでしたが、皆が仲良く平和に暮らしていました。



 魔王は神々に戦いを挑みました。
 その戦いは何百年も続きました。
 長い、永遠とも思われる戦いの間に、魔王は幾度も倒されました。



「戦いが続いています」
 王宮で国を治める神の一族の、白い姫が悲しみます。
「戦いは止めなければなりません」
「否」
 王宮で国を治める神の一族の、白い騎士が神剣を握ります。
「戦いは続いています。戦いは負けてはなりません」
「戦いは総てを滅ぼします」
「戦わなければ、総てが滅びます」



 魔王は幾度も倒されましたが、その度に黄泉返りました。
 魔王の魂は不滅であり、身体が存在している限り、再びこの世界に戻れるのでした。



 王国にも魔王の軍勢が侵攻してきました。
「今こそ剣を持ち、私は戦わなければ」
「戦う事はなりません。戦えば貴方は闇に堕るでしょう」
「なればこそ、私は戦わなければ」



 倒された魔王は、再び身体を得て、この世界に戻ります。
 魔王の身体。
 それは即ち神々の身体。
 もっとも根源に近く、もっとも強力な堕落した神が魔王なのです。



「ああ、貴方は闇に囚われてしまった」
「はい」
「ああ、貴方は貴方ではなくなってしまった」
「はい」
「ああ、貴方は魔王となってしまった」
「姫が魔王となられるより、これは正しい選択です」
「これが貴方の望みだったのですか?」
「これが私の戦いです」
 黒い騎士は姫に神剣を手渡しました。
「まもなく私は敗れます。姫は姫の戦いを」
「貴方を封印します。此処ではない場所、此処ではない時の中に」



 魔王の代わりに残されたものは四つ。
 白い騎士の想い。
 白い騎士の神剣。
 白い騎士の名前。
 そして、白い騎士への姫の想い。
『私は誓いましょう。魔王を滅ぼす術を生み出す事を』
『私は誓いましょう。この山をも砕く神剣に』
『私は誓いましょう。式堂の一族の名に』
『私は誓いましょう。二度と、貴方のような悲しい思いをする人を作らない事を』





〜 民明書房 『世界の童話集』 より抜粋 〜







「…猛き天空の武神に申し上げる! 汝が剣は破魔の剣なり…我が剣は『天空の剣』なり!」
 巨大な魔道兵の、巨大な剣を掻い潜ったロイドが、更に一歩踏み出した。
 純白の法力に輝く紋章の剣を、斬馬剣士の胴体に撃ち込む。
 吹き飛ぶように真っ二つに千切れたゴーレムの背後から、口を開いた泣竜の大群が現れる。
「………い、く、よ?」
 入れ替わるようにして杖を振るうコレットが、詠唱を締め括って全力で魔力を放出する。
「食らって燃えちゃえ! 『ナパーム』ぅ!!」
 真っ赤な焔が、ダンジョンの通路を埋め尽くす。
 だが、岩肌が焼けるような熱量に晒されても、モンスターの進軍は止まらない。
 それどころか、ふたつに千切れた斬馬剣士ですらも再生しかけている。
「駄目………キリがないよぉ」
「これも、復活間近な魔王の、瘴気の所為か」
 カイトは眩暈がしそうなほどの暗い瘴気に、頷いて唇を噛み締めた。
 ロイドの推測に、間違いはないだろう。
 カイトはズキズキと痛むこめかみを押さえた指の間から、悪夢のワンシーンのような光景を見据えた。
 通路の奥から、蜘蛛の糸のように、太く幾筋も張り巡らされた『澱色』の糸。
 カイトは譲られたばかりだというのに手に酷く馴染む刀を、鞘から引き抜いた。
 モンスターに『接続』されている流れを、引き千切るように薙ぎ払う。
「きゃあ!」
 刃の軌跡から破壊が、激流となって迸った。
 ゴゴン、と鈍く響いた振動と爆発が、通路に押し寄せていたモンスターを塵に還す。
「あ、あんたね〜…」
 『轟凪』の余波に尻餅をついたコレットが、カイトを怒鳴った。
「危険な術を、ぽんぽん使わないでよね!」
「悪ィ、加減した、つもりだったんだ」
「手加減かい? これで。君は恐ろしい程の剣術を身に付けたんだな」
「そんなんじゃ、無い」
 ロイドは謙遜と受け取ったようだが、多分、本当に違うんだと思う。
 浅い階層に生息する、ごく普通のモンスターを相手に『轟凪』を使用しても、そよ風程度の衝撃波が発生するだけだろう。
 ダンジョンの隔壁に刻み込まれた轟凪の爪痕は、生々しく黒く穢れていた。
 要するに、これはこういった技だ。
 魔王か、それに匹敵する相手に対する時のみ、効力を発揮するのだろう。
 カイトは何となく納得して、富嶽を鞘に収めた。
「まあ、いいさ。立ち止まってる暇なんてないんだし」
「そうだな。僕達に残された時間は少ない」
 銀の懐中時計を引っ張り出したロイドに、カイトはトボケ顔で首を傾げた。
 確か、時間封印の開始時刻は明日の正午。
 12時間以上の猶予がある。
「まったく、君って奴は………」
 ロイドは眉間を押さえて唸った。
「魔王復活の気配が増大しているという事で、封印時刻が繰り上げられたんだ。校内放送で通達があっただろう? 日付が変わる瞬間。このダンジョンには回避不可能の封印が施される」
「12時きっかりかよ」
「僕も魔法にはあまり詳しくは無いが、『時間』に関わる魔法だけに、制約があるんだろう」
 だが、カイトは実際の所、時間封印に対する焦燥はあまり無かったりした。
 自分達の暮らしている時代に愛着が無いわけではなかったが、100年後の世界に飛び込もうとも、自分の生きていく時間に代わりは無いのだから。
 それはある意味、『旅』ともいえるのではないだろうか。
 だが、どんな時代のどんな世界だろうと、自分の生きている時間にミュウが居ないのなら、それは凄く嫌だ。
 二度と逢えないのなら、それは永遠の別れと同じだ。
 そういう、コトだろう。
 俺がホントに怖いのは、そういうコトなんだ。
 カイトは仲間たちのことを考え、決心を新たにした。
「………まぁ、100年も経てば、流石のコレットも大人の女になってると思うが」
 無意識に呟いた瞬間。
 脳髄反射的に防御姿勢をとるが、殺人突っ込みも、破壊魔法も飛んでは来なかった。
 振り向いたカイトの視線の先で、小さな影が杖に縋るように蹲っていた。
「コレット…!」
「あ、あは………笑っちゃうような顔しないでよね。ばカイト」
「お前、まさか本当に身体が」
 ダンジョンの薄暗い明かりの下でも、顔色の悪さが見て取れる。
「ちゃうってば。ちょっと疲れただけ」
「どうしたんだ? 怪我ならば薬を」
「ホントに違うの。これは、多分………怪我とか病気とかじゃ、ないんだ」
 勢い良く立ち上がってみせるコレットだったが、膝に力が入っていない。
 膝をついたコレットに、カイトは慌てて手を伸ばした。
「触らないで!!」
「…ッ」
 差し出された手を拒絶し、唇を噛んで立ち上がる。
「駄目。絶対、アタシに触んないで」
「ば、馬鹿野郎、意地張ってる場合じゃないだろ!」
「違う、よ。今………カイトに」
 コレットは両足で立つと、無理やりに笑顔を浮かべる。
「今、カイトに助けられたら………頼っちゃったら、アタシ…ミュウの前に立てなくなる」
「コ、レット」
「だから、サ。………も、ちょっとだけ、意地張らせて」
「だけど、ッ…」
 踏み出しかけたカイトの肩を、ロイドが掴んで留めた。
「覚悟と理由があると言うことだ。君にも、僕にも、彼女にも」
「………ッ、コケたら置いてくぞ」
「あは、こっちの台詞だモン」
 カイトは歯を食いしばって足を進めた。
「ロイド。タイムリミットは?」
「ちょうど、残り二時間だ」
 そう、ロイドの言う通りだ。
 皆にそれぞれ、覚悟と理由がある。
 だから、今は進むしかない。





 ゆっくり、コマ送りのように進む感覚の中で、地の底に墜落するように侵攻していった。
 カイトとロイドのふたりは恐らく、舞弦の学生として最強の戦士と言えただろう。
 無限のように湧き出る強力なモンスター達を。
 斬り。
 撃ち。
 砕き。
 潰し。
 裂き。
 吹き飛ばし。
 立ち塞がるモノを等しく、駆逐していく。
「ッ…ツオあ!!」
 ゴツン、と富嶽がダンジョンの隔壁に突き刺さる。
 胸部を貫通された斬馬剣士が、一瞬遅れて塵のように霧散して、消滅した。
 カイトは挫けそうになる膝に力を込め、壁から切っ先を引っこ抜く。
「また、障壁か。何枚目だ………?」
 最深層のダンジョンの構造は単純だった。
 複雑に曲がりくねってはいたが分岐路はなく、ただ一本道。
 そして、幾重にも立ち塞がる隔壁と、扉を守護するガーディアン。
「いい加減、飽きてきた」
「馬鹿、言ってんじゃ…ないわよ」
 戦闘に参加できないほど衰弱したコレットだが、肩で息をしながら軽口を叩く。
 胸の傷痕を押さえていたロイドが、剣に寄りかかるようにして溜息を吐いた。
「とはいえ、そろそろ洒落ではすまなくなってきたな」
「なぁに…もう、バテバテなの? 伊達男の面目丸潰れだね? ロイド」
 きょとん、とした顔で見返され、コレットは何となく身構える。
「…な、何よ?」
「イヤ、君に名前を呼ばれたのは、初めてじゃなかったな。少しは、僕を認めてくれたのかい?」
「はぁ………何言ってんのよ。それから、アタシは『君』じゃなくて、コレット、よ」
「承知した、コレット」
 カイトは扉の構造を調べながら、何となく気づかれないように笑った。
 たとえ最初に間違っていたとしても、それを正す事は可能なんだと思う。
 それは酷く痛みを伴うし、恥ずかしい思いをするけど。
 こんなに簡単で、こんなに難しい。
「………んとに、馬鹿だよな。俺は」
 同じような馬鹿を繰り返して、尻拭いに走り回ってる。
 こんなコトを、多分一生繰り返すんだろう、俺って奴は。
 だけど、ちゃんとケジメだけはつけなきゃな。
「カイト?」
「ああ、開けるぞ。準備は良いか?」
「OK…だけど、またガーディアンとか居るんじゃないの?」
「―――いや。ここが終点だ」
 ゆっくりと開いていく扉の向こうから響く声に、カイト達は弾かれたように身構えた。
 蝶番が軋む音は、地の底から響くように甲高く。
 闇色に染まった空気が流れ込んでくる。
 そこは、大きなホールになっていた。
 吹き抜けのように高い天井。
 解読不能の呪紋が描かれた障壁。
 そして、一際巨大で、重厚な扉。
 その前に立ち塞がるのは、闇色をしたふたつの人影。
「やはり、貴様たちが黒幕という事か!」
 ロイドは両手に紋章の剣を構え、式堂兄妹を睨んだ。
 黒い、レトロ調の制服に身を包んだ姿が、時代から切り離されたような静謐な佇まいに見せた。
「あ、あんた達………前に、逢った」
「…はい。コレットさん」
「ッ…コレット、なんて、気安く呼ばないでよ! あんた達がァ!」
 ロッドを振りかざして駆け出そうとするコレットを塞ぐように、カイトが一歩前へ踏み出す。
 ―――良く、解らない。
 自分がどんな顔をしているのか。
 だけど、思ってたより、動揺も困惑も。
 そして、悲しみも怒りもなかった。
 ただ………。
「久しぶり、だね。甲斐那さん、刹那さん………」
「ああ、久しぶりだな。カイト」
 まるで、街角で顔を合わせた旧友同士のような挨拶に、お互いに何となく苦笑した。
「どこまでが、偶然だったんだい?」
「それは………私達にも解らない。しいて言うならば、最初から必然だったという事か」
「俺は、必然なんて信じない」
 俺にとって運命や必然なんて言葉は、ミュウやコレットが好きな少女漫画の占いと一緒だ。
 結局、どんなに影響を受けても、最後の一線を選び取るのは、自分だと信じる。
 総てが予定調和だとしたら。
 初めからストーリーの決まっている劇を演じているのなら。
 俺が俺として、ここに存在している意味はない。
「そうだな。所詮は、言い訳だ」
「通して、くれよ………。その先に大事な用があるんだ」
「…カイト?」
「俺、ふたりと戦いたくない。黙って引いてくれないか?」
「カイト! 何を甘い事を言っているんだ。コイツ等は魔王を復活させて、世界を破滅させようとしている悪党だぞ!」
「違う」
 違うよ、ロイド、それは。
 そんな狂った狂人の夢を見てるわけじゃない。
 誰かを、大切に思ってる人が、そんな狂気に身を委ねるわけはない。
 そう、だよね?
「違いはしない。その男の言う通りだよ、カイト。私達は…私は、世界を自分の『願い』の為に、魔に売り払った悪党だ」
「…」
 影のように寄り添う刹那が、黙って俯く。
「世界も、仲間も、誇りも………命も、総て捨てた」
「嘘だろ? 甲斐那さん…」
「罪を犯したのは、私達なのか? この世界が、私達に何をした?」
「嘘だって、言ってくれよ…」
「私が咎人だというのなら、先に裏切ったのは貴様たちだろう!!」
「甲斐那さん!!」
 カイトは叫び声を打ち付けるように、富嶽を引き抜いた。
 甲斐那も刹那を背後に庇うように踏み出し、震電を引き抜く。
「………それで正解だ、カイト」
「俺は、アンタ達を、殺してでも進む」
「何よりも望むものがあるのなら、それは正しい答えだ」
 甲斐那は何時か見た眼差しを思い出し、そして総ての感傷を捨てた。
「―――来い!」





「………って」
 コレットは密度を増していく殺気に気圧されながら、胸を押さえて小さく踏み込む。
 なにか。
 酷く大切な何かが、間違っているような気がした。
 カイトと甲斐那が刃を構えて向かい合っている姿に、酷い違和感を感じた。
 それは不思議なほど自然に、そして決定的に不自然に。
「…待って…駄目だよ、カイト」
「コレット、君は下がっているんだ」
 ロイドも黒い兄妹から目を放さず、剣を構え直す。
「待って、ロイド…ふたりを、止めて…っ」
「何を、今更………もう、僕達には時間がない!」
「…でもっ」
「あの男は強さは異常だ。卑怯かも知れないが、僕も…ッっ!」
 ロイドとコレットを囲むように、火の子のような燐炎が舞った。
「誰にも兄様の…ふたりの邪魔はさせない………」
「くッ…止めてくれ、女性に向ける剣を、僕は持っていない」
「では………そこで、黒く焼けて死ぬしかありません」
 刹那が葬送曲の指揮者のように指を泳がせると、軌跡に波紋が刻まれるように、火の燐光が生じていった。
 それは、焔の蝶々のように。
 舞い狂う、紅い吹雪のように。
 ひとつがふたつに。
 ふたつがよっつに。
 よっつがやっつに。
 やっつが十を超える蝶へと爆ぜた。
 焔の円舞は、赤い花びらのように、刹那の姿を浮かび上がらせた。
「さあ…剣を握り、立ち上がりなさい。それとも…屍となって消えて逝きますか?」
「おのれ………化物め」
 ロイドは剣を握る掌に滲む汗を、震えと共に自覚した。
 満天の夜空を彩る星のように、無数に浮かぶ火蝶のひとつひとつが、濃密な魔法力の結晶だった。
「なれば、そのケモノを滅するのが、騎士の勤めでしょう………」
「言われるまでも無い!」
 ロイドは立ち上がり剣を構え、威風堂々と宣誓した。
「ロイド・グランツ。この紋章の剣に賭けて、邪悪を討つ!」
「はい…それで、良いのです」
 まるで微笑むように頷いた刹那が、両手を振るった。





「待って………駄目だよ」
 コレットはその場所で膝をつき、拳を握り締めた。
「こんなの、違う………戦っちゃ、駄目だよ………」





 刀を握った右腕を、翼のように大きく振りかぶる。
 ―――閃翼。
 光が流れるような水平の軌跡が、空間をナイフのように切り裂き、討ち合う。
 弾かれた刃を、鏡合わせのように、同時に旋回しての一撃。
 ―――烈震。
 富嶽と震電の撃ち合ったところから、空間が悲鳴を上げるように鳴いた。
 黒い革のコートを翻し、甲斐那は偽りの無い感嘆の表情を浮かべた。
「………見事だ。カイト」
「甲斐那さん。何でこんな真似を!」
 カイトは痺れの残る右手から、左手に刀を持ち直す。
 床を滑るような、瞬間移動にも似た甲斐那の撃ち込みを、辛うじて受け止めた。
「今更、言葉に何の意味がある?」
「それでも…俺には、聞く権利があるだろ!」
「それこそ感傷だ、カイト。それは」
 つばぜり合いのまま、睨むように視線を合わせる。
 刃が擦れる音が耳障りに響く。
「知ってたはずだ。ミュウが俺の大切な人だって!」
「…ああ。だが、それがどうした」
「ッ…だったら」
 カイトは力ずくで甲斐那を押しやり、そのまま刃で薙ぎ払う。
「だったら、何でなんだよ………?」
「君に大切な者が居るように、私にも、大切にしてやりたい者が居る」
 左右からの斬撃に、刃が打ち合うたびに燐火が散る。
 迷宮の底に咲く花のように、刹那に咲いては消えていく。
「何よりも、私自身よりも………何を犠牲にしてもだ」
「だったら、何でミュウなんだよ!」
「辛いか? 愛する者を奪われて。怒りを抱くか? 理不尽な現実に!」
 甲斐那は天を裂くように大きく振りかぶった震電を打ち下ろした。
 その心に澱む憤怒を、直接ぶつけられたような衝撃波にカイトは踏鞴を踏む。
「カイト、君にも理解できるはずだ。私の選んだ道が」
 繰り返す斬撃と、瘴気の鼓動が伴奏となる。
「納得しろって言うのかよ。俺に、この現実を!」
「ならば聞くがいい! 我等が闇路を」
 力任せの横殴りの一撃に、弾き飛ばれたカイトが片膝をついた。
 強い意志の力で己を律し、いつもは無表情にさえ見える甲斐那の瞳が、冷たく燃え上がるような憤怒を宿す。
「なら、囀れよ! 俺は折れないッ」
 カイトは叫ぶように叩きつけて、富嶽を両手に握り締める。
 甲斐那の『気』圧だけで呑まれてしまいそうだった。
 ここで膝を屈するというコトは、ミュウを失うというコトだ。
「………私達は遠い、此処とは酷く遠い国で生まれた」
「ッ、っく!」
 襲い掛かる震電の刃を、盾のように構えた富嶽で受け流す。
「国は貧しく、民の心も貧しく、そして…私達の居場所は、その縮図だった」
 手が痺れる。
 片手で撃ち込まれる甲斐那の、一振り一振りが重い。
「君達には想像もつくまい。人は魔の脅威に怯え、人同士が自慰をするように自身を傷つけあった」
 富嶽が悲鳴を上げるように軋む。
「まして、異端者である事がどれだけ迫害の対象になったか、君に解るか?」





「それは何処?」
 コレットは呪いのような甲斐那の独白に、知らず引き込まれるように呟いた。
 人の住める場所は、ルーベンス大陸しか知られていない。
 餓えるような国も、魔族との戦争も、すべて歴史の中だ。





「………どうしました?」
「くっ」
 ロイドは闘気を込めた切っ先を、どうしても刹那に向けることが出来なかった。
「同情や憐憫は、戦士にとって美徳ではありません」
「…」
「………貴方には失望しました」
 祈るように組み合わされた刹那の目の前に、無数の火蝶が群がった。
 数多の羽が組み合わさり、翼を形作る。
 深紅に燃える火の鳥が、嘶くように震えた。





「私は考えた。何故、人はこのような酷い過ちを犯すのかと。何故、世界はこう在るのか、と」
「そんなの、知らない!」
 叩きつけるように振るった富嶽を、細枝のように振り払う。
 刃筋の歪んだ一撃に、どのような力もない。
「人が醜い行いを成すのは、優しさを失うほどの過酷な日々に在ると、私は考えた」
「…ッつ!」
 刃が肩をかすめ、血の飛沫が舞った。
「跳梁する魔の恐れが、人の心に巣食うのだと」
「…ァつ!」
 太腿に赤い線が走る。
 装甲の代わりとなる舞弦学園の制服が、紙のようにボロボロに裂かれていく。
「私にできる事は、所詮戦うことだけだ。私は、集った仲間達と世界の半分に戦いを挑んだ。モンスターと………元凶たる『魔王』に」
「嘘だ!」
 カイトは強ばる身体に、歯を食いしばって前へ踏み込ませる。
「そんな、何百年も前の昔話…ッ」
 だが、甲斐那は冷たく燃えるような瞳を、此処ではない何処かに向けたまま鍔迫り合いを受ける。
「昼も夜も、ただ剣を振るった。仲間もすべて討ち果たされていった」
 それは、今から千年も昔の記憶。
 歴史に伝えられる、第二次魔王戦争。
「だが、私は魔王を討つことが出来た」
 淡々と。
 何の虚勢も、熱意も抜け落ちた台詞が、言葉のリアリティが真実だと告げていた。
「私は誇らしさと共に、歓びを抑えられなかった。賛美や名誉など関係なく、人が人として生きてゆける世界を築けたコトが、何よりも嬉しかった………………なんと愚かな!!」
 叫んだ声が、その表情が醜く歪んでいた。
 まるで泣き出しそうに。
「故郷に戻った私を待っていたのは…私が、何よりも守りたいと願い…愛した異母妹の、変わり果てた『亡骸』だった………」
「なっ…」
 カイトはあまりにも理解を超えた話に、刀を取り落としそうになる。
 ふたりが何百年も昔の時代の住人であるコト。
 そして、カイトは甲斐那の肩越しに、静謐と佇む刹那を見た。
「………私は絶望した。自分に…そして、現実に。死を望んだ私は、虚無に堕ちるその時、『声』を…問いかけを聞いたのだ。
 『それで、良いのか?』と。
 『これが、お前の望んだ結末なのか?』と。
 『お前の大切な者を奪い、蹂躙し、踏み躙ったのは誰なのか?』と。
 私は気づいた。
 最初の答えが間違っていたのだ、と。
 世界が醜く歪んでいるのは、魔の所為ではない。
 醜く、歪んでいるのは、人間なのだ!!」
「甲、斐那…さ、ん………」
 迸るような、血を吐く叫びに、打ちのめされる。
 それは、呪詛だった。
 世界に、人間に対する憤怒。
「『我を黄泉還らせよ』と、奴は言った。そうすれば、刹那に新しい命を与えると」
 甲斐那はボタンを引き千切るように、胸元をあらわにした。
 真夏でも脱ぐことのなかった黒い学生服の下から覗く肌は、生物のオーラを一切見せなかった。
 その代わりに、四肢に鎖のように纏わりつく、其れは。
「カイト。今の君になら『見える』筈だ。私達を操る黒い『操糸』が」
「………もう、止めてくれ」
「私に退く事は、もはや許されない」
「俺は…戦いたく、ないよ」
 カイトは両膝を突いて俯いた。
「甲斐那さんと…刹那さんを、殺すことなんて………出来ないよ」
「ならば、カイト…君が死ぬしかない」





「カイト…!」
「人の心配が、できる立場ですか?」
 火の鳥を従えた刹那が、ロイドに歩み寄る。
 ジリジリと焼ける熱気に、眉ひとつしかめる事無く。
「お友達を助ける方法を、貴方は知っているはずです」
「く、ぅ」
 ロイドは剣を握り締める。
「成すべき事を果たせないのならば………それは、とても愚かな事です」
 そう、解っている。
 そして、自身がそれを望んでいるというコトも。
 操り人形としての自分が果たせない、最後の願いを託されているコトも。
 それでも、腕どころか指ですら動かせない。
「………貴方は、とても意気地なしです」
 さらに近づく。
「………騎士としての使命も果たせず、友を救う事もできない」
 刹那は一歩踏み込んで、ロイドの目の前に立った。
「貴方も、カイトさんも、あの子も………とても愚かで…とても優しい、人………」





「そこを、退き給え」
「絶対、に………イヤよ」
 ボルトワンドに寄りかかるように、だがコレットは二本の足で甲斐那の前に立ち塞がった。
 泣いた子供のように膝をついたカイトが、小さな背中を仰いだ。
「…コレット」
「カイトを殺させたりしない、絶対に」
「君に何が出来る?」
「アンタが!」
 カラン、と魔杖が床に転げる。
 コレットは両腕を左右に伸ばし、小さな胸を張って甲斐那を見詰めた。
「アンタが、何処の誰で、どんな事情があるのかなんて、アタシには関係ないんだから!」
「相反する望みがあるのなら、勝者が未来を奪い得る。それがこの世界で唯一の真理だ」
「………それでも、殺らせない」
「許されるとは思っていない」
「………でも、カイトは殺させない。絶対に許さない」
「―――ならば、先に逝くがいい」
 鏡のような刀身が、半月の軌跡を残す。
 限界まで巻き上がった螺子バネの留め金が、弾けた。
「甲斐那さんッ!!」
 身動ぎもせずに立ち尽くすコレットを抱き寄せるように、短距離走のスタートのような姿勢で、カイトは前へ踏み出していった。





 ―――ドン!、と―――
 黒い影が交差する、音がした。





 肉を突き貫く、感触が富嶽に伝わる。
 魔素が凝縮した擬肉のモンスターとは違う、重く冷たい手応え。
「………あ」
 カイトは富嶽を両手で握り締めたまま、吐息を漏らした。
 寄りかかるような冷たい身体に、塚元まで切っ先を埋め込んだまま。
 黒く、赤い雫が、刀身から鍔を伝って、床に零れた。
 黒く、長い髪がカイトの肩を凪いだ。
「刹、那…さ…ん?」
「…はい」
 とても、とても透明で、優しい微笑み。
 肩が嫌に冷たくて、口蓋の奥がキシキシと痛い。
「あ、あ」
 カイトは震える指先から富嶽を放した。
「あ、ああ、あ…」
「せ…刹那! 刹那ァ!」
「にぃ…さま…」
 振りかぶったままだった震電を取り落とした甲斐那が、崩折れる刹那を抱きかかえた。
「刹那! 刹那!!」
「刹那さんっ! どう、して………?」
「…よいのです、これで…」
 小さく咳き込んだ口元が紅色に染まる。
 兄の身代わりに受けた富嶽の刃は、刹那の鳩尾を正面から貫いていた。
「ロイド! 薬…薬を早くっ」
「あ、ああ」
「…無駄、です」
 カイトは見た。
 富嶽が突き刺さった刹那の身体が、砂のように灰のように崩れていく。
 その様は、死んだモンスターの屍骸が風化するのに似ていた。
「その…神刀、富嶽は…色々な…人達の、優しい…想いが…込められた…つるぎ…だから」
「刹那…さん」
「私の、最後の願いも………叶えてくれる…」
 何で、そんな。
 塵のように、消えるのが、最後の願いだなんて。
「カイト…さん、許して…下さいとは、言いません。ただ…」
「どうして…?」
「…にぃ…さまを、責めないで…」
 ガラスのように透明な、生を喪失した微笑み。
 白い指先が、自分を支えるカイトの手に触れる。
 そして、もう一方の自分を支え続けてくれた、優しい手に触れた。
「もう…よいのです。兄さま」
「刹那…刹那、なぜ………?」
「…私達は…長い間、ずっと…暗い闇路を…歩いて…きました。温かい…場所を探して」
 永遠にも感じた、冷たい夜の道を歩いてきた。
 ただ、ふたりで。
「…ようやく…見つけた、優しい世界を…壊す事は…できません」
「っ…それでも!」
 甲斐那は自分と同じ冷たい刹那の手を握り締めた。
「僅かばかりでも、お前が幸せになってくれれば…!」
 この気持ちを、この思いを、どうやったら表現できるのか。
 刹那は崩壊していく氷のような冷たさの中で、ただ。
 ―――微笑んだ。
「刹那は幸せでした」
「刹那、…」
「刹那さん…!」
「もしも、叶うのならば………貴方達と、同じ時を生きて…みたかった」
 狂い咲いた桜の花が、時の果てに散るのならば、それは美しくも潔い舞いだろう。
 黒い瘴気に還元した刹那の果てを、それでも涙が零れるほどに美しいと思った。





「こんな…コト」
 両手で口元を覆ったコレットの肩を、ロイドは顔を俯かせて押さえた。
 そして、胸に拳を当て、誇り高くも悲しい魂に祈りを捧げた。
「カイト………行こう。まだ、僕達にはすべき事がある」
「だけどっ、ロイド」
「………行け」
 塵と舞った刹那を抱えていた腕で、自分の肩を抱いた甲斐那が呟いた。
「行って…くれ。頼む、どうか………刹那の願いを」
「甲斐那…さん、俺は」
「刹那の、夢見た世界を………頼む」
 奥歯を痛いほどに噛み締めた。
 理由は解らない。
 だが、ふたりを恨む気持ちは、無かった。
 そして、すまないと思う気持ちも無かった。
 それは刹那の覚悟と想いに対する、何よりの侮辱になるだろうから。
 あの優しすぎる心を持った少女ならば、ただ、潔く消えることを願ったはずだ。
 だから、何も言わず頷いた。
 富嶽を拾い、握り締めて、自分を待つふたりの仲間の元へ歩む。
「行こう。………アイツが待ってる」





 巨大な扉が、軋むような音を立てて開いていく。
 守護天使の意匠が施された青銅色の観音扉が、まるで招き入れるように開いていく。
 パン、パン、パン、と酷く乾いた、音が響いていた。
 面白げに、そして気だるげに。
「な、何…」
 身体を硬くして緊張していたコレットが、ゾクリ…と震えた。
 甘いほどに生温かい、闇色の風が開ききった扉の奥から吹きつけた。
 吐き気を催すほどに甘美な、黒い空気。
 カイトを先頭に、右にコレット、左にロイドがその神殿のようなホールに足を踏み入れる。
 ホールの中心に据えられた祭壇の頂で、人影が佇んでた。
「………ミュウ」
 ちょうど、人ひとりが横たわれるような石造りの祭壇に、ミュウが肩膝を立てた格好で腰掛けていた。
 黒を基調に設えられた衣装に身を包み、酷薄で怠惰な笑みを浮かべている。
 声や、姿はカイトの知っている幼馴染のままだったが、その笑みだけで本来の彼女ではない事を雄弁に物語った。
「良くぞ訪れた。当代の勇者たちよ」
 投げやりに叩いていた拍手を止め、カイト達を見下ろす。
 其処に存在しているだけで膝を屈してしまいそうな威圧感に、気勢が奪われる。
 例えば、数百年を経た巨木の根元に立ち、覆い隠された天を見上げた時に感じるだろう。
 畏怖、という感情を。
「情をもつ者同士が憎みあい、殺し合うさま、実に愉快な余興であった」
「な、何を…何言ってんのよ…ミュウ」
「遅かった、のか………」
 絶望し、俯くふたりの間から、カイトは一歩踏み出す。
 微かに愉快げな笑みを浮かべるミュウ=魔王に、右手を掲げるように差し出した。
「帰ろうぜ? ミュウ。迎えに来たんだ」
「くっ…」
 ミュウ=魔王は苦しげに身体を折り、ビクン、ビクンと痙攣した。
「ク………くは…ッ、くはははははははあ! あ、ははハァ!」
「み、ミューゼル?」
「イイ、良いぞ…お前、凄くイイ。我は、人間のそういうトコロが堪らなく好きだ」
 重力の束縛を感じさせない動作で立ち上がり、祭壇から降りる。
 其処に存在するだけで、総てを朽ちさせるような瘴気を、カイト達は屈することなく堪えた。
 どこか、ぎこちない人形のような動きで首を傾げるミュウ=魔王が、楽しそうに嗤う。
「楽しい!! こんなに楽しいのは久し振りだ。貴様等をカテゴリーA以上の人間と認識する」
「そりゃ、そうだろうさ。何百年も、お寝んねしてたんだ」
 カイトはガクガクと震える身体を自覚しながら、唇に無理やり笑みを浮かべてみせる。
 こんな時でも軽口が回る自分が、何となく好きだ。
「その身体、さっさと返せよ。その女は………俺の女だ」
 にイィ…と唇を吊り上げて笑う表情は、ミュウの微笑とかけ離れすぎて、眩暈すら感じるほどに禍々しい。
「小便は済ませたか?」
 一歩、階段を降りる。
「神様にお祈りは?」
 更に一歩。
「部屋のスミでガタガタ震えて、命乞いをする心の準備はOK?」
「………お前がな」
 左手に掲げた富嶽に添えた右腕が、霞んだ。
 悲鳴も、吐息すら漏らす事もできず、コレットの目にはその居合抜きが知覚できなかった。
「どうした?」
「…!」
 首筋にあてがわれた冷たい神鉄に怯む事もなく、ミュウ=魔王は笑う。
「神器、『富嶽』か………我を二度も討ち果たしたその神剣ならば、或いは我を駆逐できるやも知れぬぞ? クク…くッ」
「ちく…しょう」
「悲鳴をあげろ、豚の様な」
 突き上げられるような打撃を鳩尾に食らい、カイトの身体が宙に浮く。
「ッ…げはア!!」
「アハ、アハハハッ…クッハハハハ」
「ミュウ! もう………駄目だよ、止めようよ。こんなの絶対おかしいよ!」
 踏み出して訴えるコレットに、ミュウ=魔王は糸が切れたように俯く。
 そして、震えるように、瞳に涙を浮かべた。
 その瞳の色は、緋から湖面のようなブルーに戻っていた。
「こ…コレット…?」
「ミュウ!」
 その口調や表情が、見覚えのある親友のものだと悟り、駆け寄る。
「良かった…戻ったのね、ミュウ…」
「酷い、よ………コレット」
 だが、ミュウは口元を押さえたまま、後退さるように距離を取った。
「酷いよ…酷いよ…、私のカイト君を寝取るなんて…酷い酷い酷い」
「あッ…そ、それ…は」
「親友だって、信じてたのに…酷いよ…カイト君と、あんなに何回も何回も何回も」
 コレットは震える身体を抱えるように震える。
 突きつけられた弾劾に、足場を見失ったようによろける。
「酷い、酷い、酷い………酷い、よね? コレット」
「だっ…だって、それ…それは」
「…だって、とっても気持ち良かったんでしょう? …それは、とてもとても気持ち良かったんでしょう? ぎゅ…って抱き締められて、カイト君をお腹の中に受け入れるのは、とっても気持ち良かったでしょう?」
「あ、あ、ああ…」
「親友を裏切っても構わないぐらい、気持ち良かったでしょう?」
 撫でるように指が首に回されても、コレットは小さくうめくだけで身動ぎもできない。
 その顔に浮かんだ表情は。
 ………嗚呼。
 なんて嬉しそうな喜悦。
 両手でコレットの首を絞めながら、悦楽に酔うように腰を震わせていた。
「や、止めるんだ。ミューゼル、しっかりしてくれ!」
「ああ…ロイ。私を…追ってきてくれたの?」
 ゾクリ、とするほど艶っぽい眼差しに、ロイドは怯んだ。
「私が欲しいんだよね…ずっと、解ってたよ。いいよ………私を好きにして」
「ミュー…ゼル」
「いいんだよ…ロイ。私の胸に触りたいんでしょう? 私のお尻に挿れたいんでしょう? 私の身体を貪りたいんでしょう? いいのよ…何回でも、何処でも、何時でも」
 ロイドは殴られたような衝撃に立ち竦んだ。
 ミュウの淫らな誘いに、ではない。
 自分の心が、その誘惑にザワメイタ、その事実に。
「や、止めてくれ、ミューゼル。いつもの君に、戻ってくれ」
「ふふっ………くくク…クハハハ」
 コレットの首を掴んだまま、ミュウの表情が歪んでいく。
 どこまでも暗い、緋色の瞳をロイドに向ける。
「これだ。これが、イイ。それがとても好きだ」
「や、やはり、貴様の悪ふざけか! 魔王め」
「今の台詞が、我の悪ふざけだと思うのか? 違うぞ、それは違う。貴様らはこの娘の心の奥に溜め込まれた情念を知らぬ」
「どういう、コトだ?」
「親友を裏切り、惚れた男を手に入れ、それでも嫉妬を抑えられぬ自分を嫌悪する。肉欲を否定しながらも、肉の悦楽に焦がれ、悶える。仲間と信じる者たちと笑い合っていても、孤独感に苛まれ、泣く。………なんという矛盾。浅ましくも歪んだ情念か」
 右手が、コレットの首から離れ、振り子のように垂れる。
「望んだのは、この娘だ。穢れた自分を否定したのは、ミューゼル自身だ」
 瞳が。
 右の瞳の虹彩が、ブルーに染まっていた。
 歪んだ笑みで嘲笑しながら、大きく開いた右の瞳から、涙が流れ落ちた。
「そんな、コトは…」
 無いと、言い切れない自分に、ロイドは言葉を失う。
 ―――だが。
「………………そんな、もんだろ」
 床に這いつくばっていたカイトが、呟くように吐き棄て、身体を起こす。
 千切れた制服の下から、抉れた鎖帷子が覗く。
 反吐と涎に塗れた口元を拭い、痙攣する身体で仰け反るように胡座をかく。
「そーゆーもんだろ、人なんてサ。少なくとも、俺はそーだし。それで悪ィなんて、オレ全然、思ってねーし」
「…カイト」
 無責任といえば、あまりに無責任なカイトの投げやりな独白に、ロイドは眉を寄せる。
「ぶっちゃけた話、俺たち皆がみんな、んな聖人君子なわけねーじゃんか。凄ぇ惚れた女がいても、可愛い子がいれば、そっちにも目がいっちゃうしサ。宿題とか、忘れたフリして遊んじまうし、掃除当番なんか大体はクラスメートに押し付けたりするし、寝坊するのも最高だし」
「そ、それ…ケホ…関係ーない。ケホッ…ケホ」
 ミュウ=魔王の手から開放されたコレットが、咳き込みながらも突っ込む。
「友達だと思ってた人達に裏切られても、凄ぇ腹立ったけど、やっぱ…恨めないし。先生の命令無視して俺を助けてくれたクラスメートとかロイドとかコレットとか、泣けるほど嬉しいけど、『内申響くぜ? 馬鹿だなー』…とか、ちょっと思っちまうし」
「き、君って奴は…」
 ロイドは握り締めた拳を、プルプルと震わせる。
 だが、震えているのはロイドだけではなかった。
「コレットから『好きだ』って…言われて、すげー嬉しく思っちゃったり…してさ。抱いてて、愛しく感じたり、した」
 カイトはミュウ=魔王の足元に蹲ったままのコレットを見た。
 だけど、コレットは何だか泣きそうな、それでも何故か面白そうな顔をしていた。
 答えの解っている問題を、先生に『解いてみなさい』といわれた時のような、そんな顔。
 凄く、恥ずかしくて顔が火照る。
「ゴメンな、コレット。俺…やっぱしサ、ミュウのコトが馬鹿みたいに大好きなんだ」
「…うん」
 コレットは最高に不細工な笑顔を作って、泣いた。
「解ってるよ、ばカイト。アンタが最高に馬鹿だってコトも、ミュウを………最高に好きだってコトも」
「………止めろ」
「だからサ、ミュウ」
「……黙れ」
「こんなんで、いーじゃん。俺なんか全然強くも、格好良くも、立派でも、誠実でもないんだけどサ」
「…カイト、く…ん」
「ただ、誰より………愛してる、ミュウ」
「ヤメロ!ヤメロ!ヤメロ!ヤメロ!ヤメロ!!」
 カイトは富嶽を取り落としたまま、後退さるミュウを捕えて、手を差し出した。
「帰ろうぜ? ミュウ。迎えに来たんだ」
「………………うん」
 痛いほどに握り締められた手を強く引かれ、ミュウはそのままカイトの身体を抱き締めた。
 黒い翼のように広がっていた瘴気の渦が、千切れて散華する。
「う、あう………ごめん…御免、なさい…」
「うん………俺も、御免な」
 ただ、軋むほどに抱き締めた腕の痛みが、何よりも愛しかった。





「良かった。………本当に」
「あ〜ん、もう! 悔しいイイ、よぉ。超ムカツクー…ってば!」
「全く、君が羨ましいよ」
 ぱたぱたと床で地団駄を踏みまくるコレットを呆れたように、だがロイドは笑って呟いた。
「ケンカ売ってる? アンタだって同類でしょうが、気障男!」
「否定は、しないよ。でも、そうだな…やはり悔しいかな」
「ひょっとして、アタシ達って………凄っごい、馬鹿?」
「多分ね」
 頷きながらもふたりの顔は笑っていて、それはとても楽しそうだった。
「………コレット」
「ミュウ…!」
 両手を身体の前に揃え、俯いたミュウがコレットの前で立ち尽くす。
 だが、カイトに背中を押されて、振るえながら顔を上げた。
「御免なさい…コレット…本当に、御免ね」
「何言ってんのよ、水臭いじゃない? そんなコト当たり前だモン。アタシこそ、ミュウに色々…酷いコトしちゃって。言わなくちゃいけないコトとか、いっぱい…あって………でも…やっぱり」
 ミュウの手を取ってはしゃいでいたコレットだが、直ぐに声が震えだした。
「コレット…」
「うん…良かった。ミュウが戻ってきてくれて…ホントに良かった。良かったよぉ………」
「ありがと…コレット」
 ぽろぽろと涙を零すコレットを、同じように涙ぐんだミュウが抱いた。
「ったく、手間がかかるよな………あ痛!」
「君が言えた言葉か?」
 ロイドはカイトの頭に鉄拳を見舞った拳に息を吹きかけた。
 意図したよりかなり力が入ってしまったが、カイト風に言うならば『こんなのも有り』だろう。
「大体、君がしっかりしていれば、ここまで問題は大きくならなかったはずだぞ?」
「い、いやさ…ロイド。俺も、その色々と」
 オドオドとした態度は、魔王にすら毅然と立ち向かった男とは、とても思えない。
「男ならば言い訳はするな」
「………ああ、俺が悪かったよ! 俺は優柔不断だもんよ! こーゆー奴なんだもんさ!」
「逆ギレした上に、開き直るか………君は、本当に」
 全然、勇者などには見えないが、実際、立派な人格者でも何でもない。
 そんな奴でも、友として、男として誇らしいと感じている自分が、何となくロイドには笑えた。
 ―――その時。
 遠くに鐘の音が、響くのが聞こえた。
 終末を告げる鐘のように、届くはずの無いダンジョンの最下層で鳴り響く。
 それは、強大な魔法の施術が始まりを告げる合図。
 ダンジョン全体が震えるように振動した。
 次第に空気に満ちていく、強力な魔法の気配。
「これ、まさか………?」
「時間封印か!?」
「何でよ! 魔王は、もう居なくなっちゃってるのにっ」
「上じゃ、状況が解ってないんだろ!」
 一行は一気にパニックに陥る。
 直接ダメージを受けたり、死ぬわけではないが、このままでは地上から100年の間切り離される。
「えっと、えっと! どうしよう?」
「どうしようって…そんなコト俺に言われても、どうしようも」
 カイトは唇を噛み締めて唸る。
 基本的にダンジョンからの帰還には、内部に設置された転移装置を使用するしかない。
「あ………そういや俺、帰還アイテム預かってたっけ…がふッ!?」」
「「大馬鹿者ーッッ!!」」
 手を打ったカイトに、全員分の突っ込みが炸裂した。
 ど突かれた拍子に、ポケットを探っていたカイトの手から、アミュレットと薄汚れて古ぼけた手帳が零れる。
「あっ………そ、それは」
 ミューゼルがその手帳に気づいた。
 同時に円盤型のアミュレットは、ベネット先生の指示通りに地面に叩きつけられた。
 パアアッ!、とアミュレットを中心に光の柱が立ち昇る。
 空間転移を可能とするフィールドが発生するが、その明滅は消えかける蝋燭のように酷く不安定だ。
 時間封印魔法に拮抗し、急速に消滅しかけているのは明らかだった。
「急げ! みんなで飛び込むんだ!」
「ああ、早く手を………って、ミュウ!?」
 手を繋いだ輪の中から、ミュウが離れた。
「ごめんなさい! 少しだけ、この手帳だけは…」
 足元に転がる手帳に手を伸ばそうと、しゃがみ込んだミュウの背後で、水の弾ける小さな音が聞こえた。
 ぱちゃ…と、床に弾ける。
 自分の頭上を掠めた何かを感じ、ミュウが振り返る。
「………あ、れ?」
 ミュウに向かって手を差し伸べたままのコレットが、不思議そうな顔で自分の足元を見下ろしていた。
 紅い、紅い、血だまり。
 そして、ふたつに裂けた白いシャツに広がる、染み。
 内側から押し出されていくように、零れ落ちていく血の流れ。
「あれれ………これ、ナニ…?」
「こ…コレット!」
「………逃、ガサヌゾ」
 撃ち放った瘴気の刃を指先に纏わりつかせ、『魔王』が立っていた。
 扉の向こうから、足を引きずるように。
 手に刀をぶら下げて。
「甲斐那、さん…?」
「どこまで…どこまで人の運命を弄ぶつもりだ!」
 コレットを抱きかかえたロイドが叫んだ。
「逃ガサヌゾ。我ガ肉体…闇ノ巫女ヨ…」
 甲斐那の顔に、表情は全く無かった。
 恐らくは肉体の適性を強引にねじ伏せての憑依なのだろう。
 刻々と、砂が崩れるように、甲斐那の身体が崩壊していた。
 だが、澱み、絡みつく瘴気の渦は、カイトだけでなく全員の目に映っていた。
「其ノ肉体ヲ我ニ捧ゲヨ!!」
「いい加減にしろよ!」
 甲斐那=魔王の右手から、瘴気の爆流が放たれる。
 カイトはとっさに富嶽を抜刀し、盾のように刃を構えた。
 瘴気の破壊流は富嶽に触れるのを避けるように、左右へと裂けた。
 ビリビリと震える刃に、カイトは唇を噛み締めた。
 転移魔法陣は時間封印と瘴気に影響を受け、消滅寸前だった。
 腹を裂かれたコレットも、すぐさま治療を施さなければ命に関わる。
 魔王は自滅秒読みとはいえ、その時まで誰も生きてはいないだろう。
「ロイド………一生の頼みがある」
「待て! 駄目だ、カイト…それは!」
 振り返り、微かに笑った。
「ミュウと、コレットを頼んだぜ?」
「カイトくん!」
「ヤダ…よ、カ…イト…」
 それは、もう叶えられない、日常なのかもしれない。
 それでも、きっと後悔はしない。
「ちゃんと、みんなで一緒に卒業しようぜ!」
 カイトは背を向けたまま、弾丸のように踏み込んでいった。





 真っ黒な視界を祓うように、閃翼の軌跡が瘴気を切り裂く。
 震電の刃が、富嶽の一撃を受け止める。
 悲鳴のような金属音に、闘気と瘴気のフィールドが干渉する振動響が重なる。
「…邪魔ヲスルナ、人間!」
「…つれないコト言うなよ。俺と遊ぼうぜ?」
 鍔迫り合いをする富嶽に全力を込め、押し込んでいく。
 甲斐那の身体とはいえやはり不適合なのか、ミュウに憑依していた時よりも力が劣っていた。
 魔王は瘴気流の攻撃を止め、両手で震電を握り締めた。
「オノレ、オノレ人間如キガあああああァァァああ!!」
「っハハ! もう我慢できないってか? 魔王ォォ!!」
 横凪ぎからの一閃。
 下段と、上段からの一閃。
 甲高い音と共に飛び散る、聖・邪の残気。
 縦横無尽に乱舞する、白と黒の軌跡。
 文字通り、振動する震電の刃が振るわれる度、神殿のようなホールが悲鳴を上げる。
 増幅され、指向性を付加された瘴気が、壁に、天井に、床に、抉るような破壊をくわえていく。
 カイトはしゃがみ、跳ね、相殺し、同時に甲斐那=魔王に富嶽の刃を撃ち込んだ。
 神器で力が増幅されているとはいえ、人間の域を超えた剣舞での戦いに、カイトは恐怖より先に滾る血の流れを感じた。
 恐らくは初めて、自分の中にある戦士のサガ、というものを自覚した。
 技も何もなく。
 無限の瘴気に任せて子供のように震電を振り回す魔王を、もはや微塵も『怖い』とは感じなかった。
 千人の騎士を纏めて薙ぎ倒す剣撃波も。
 千人の魔法使いを呪い殺す瘴気も。
 甲斐那本来の剣技、刹那が使う魔法に比べ、なんと未熟である事か。
 そして、甲斐那から伝授されたカイトの剣技は、ただ魔王をのみ倒す事を願い、練り上げられた弐堂式戦闘術。
「おい! 小便は済ませたか?」
「グ、ググァ…オノレ」
「神様にお祈りは? 部屋のスミでガタガタ震えて命乞いをする心の準備は、OK?」
「オノレ!オノレ!オノレ!オノレ!オノレ!オノレえええええェェ!!!」
 全方位に撃ち出された回避不可能の瘴気波動を、カイトは円を描くように富嶽で切り貫いた。
 ―――轟薙。
 雪崩のように逆流する瘴気の渦に、甲斐那=魔王がたたらを踏む。
 カイトは轟薙の流れに乗って、魔王の懐に踏み込んだ。
 『御免………甲斐那さん。今、楽にしてあげるから!』
 カイトは心の中で謝り、富嶽の切っ先を甲斐那=魔王の胸に突き刺した。
 一心に、祈りを捧げるように、真っ直ぐに。
 ―――絶空。
 肉と、空間を貫く手応えに、歯を食いしばる。
 心臓と、『核』を貫く確かな手応え。
 ビクン、と痙攣し動きを止める魔王。
 カイトが力を抜いた瞬間。
 ニイィ…と唇を吊り上げた魔王が、拳でカイトの顔面を殴りつけた。
「がアぁ!」
 吹き飛ぶカイトには、富嶽を握り締めるだけで精一杯だった。
 倒れたカイトに跨るように、魔王が思い切り震電を振りかぶった。
「…悠久の祈り…捧げる。貴き神々の『母の掌』よ!!」
 一瞬にしてカイトを包んだ不可視の障壁が、震電の刃を弾き返す。
 強い祈りが具現した、強力な防御魔法。
 カイトは九死に一生を得た安堵もなく、呆然と背後を振り返った。
 そこには、二度と逢えないと覚悟した、少女が。
 何モノにも揺るがないほど毅然と、ただ祈りを捧げる姿は、まるで聖女のように。
「………ミュウ、ど…して?」
「立って、カイトくん!」
 言葉に弾かれるように、カイトは反転して跳び退さった。
「…永遠の聖女に誓い…ここに『乙女の祈り』を捧ぐ!」
 殴られた頬が、限界を超えて悲鳴をあげそうだった身体が、優しい風に総て拭い取られていく。
「カイト君…大丈夫?」
「馬鹿! どうして、ここに残ってるんだよ!」
 カイトは構えることも忘れてミュウに詰め寄る。
 足元に、光を失ったアミュレットが転がっていた。
「私が…カイト君を置いて、行けるわけないよ」
「何で、そんな我がまま…っ!」
「本当の私は!………凄く我がままなんだよ?」
 震える指先で、自分を庇うカイトの背中に触れる。
「我がままで…嫉妬深くて…見栄っ張りで………カイト君を本当に大好きな、そんな…つまらない、女の子…なんだよ?」
「………ホント、馬鹿だな」
 胸を押さえた甲斐那=魔王が、足を引きずってゆっくりと近づいてくる。
「俺の好きな子が、我がままで…嫉妬深くて…見栄っ張りだってコトは、ずっと…ずっと前から知ってたさ」
「そっか………カイト君には、バレちゃってたんだね」
「当たり前、だろ? ずっと一緒で、ずっと側で見てたんだからサ」
 近すぎて気づかないという想いは、それが当たり前になるほど、自分の心の一部だという感情。
 誰よりも自然に寄り添う、誰よりも深い相方。
「ずっと、一緒だよ?」
「ああ。一緒に行こう」
 これから先に、何が待っていようとも。
 それが、たとえどんな世界でも。
 もう、恐れるモノは何も無い。
 そんな、富嶽を構えたカイトの立居振舞いは、余りにも自然で。
 カイトはただ、余分なものも、足りないものも無く、そこに存在していた。
 魔王は怯み、立ち尽くした。
 総てを渇望する、総てが欠如した存在であろうとするが為に。
 永遠に届かない存在として、カイトが其処に居た。
「貴様ハ………何者ダ?」
「舞弦学園三年A組、相羽 カイト………ごく普通の、オチコボレさ」
 呆然とした甲斐那=魔王の足が崩れ、手が落ちる。
「………良イダロウ。我ノ敗北ダ」
 震電が床に突き刺さり、塵が舞う。
「………我ヲ黄泉還ラセヨ。サスレバ、如何ナル望ミモ叶エヨウ」
「願い?」
「…黄金ヲ授ケヨウ。…王座ヲ授ケヨウ。…永遠ノ命ヲ授ケヨウ」
 カイトはミュウと顔を見合わせ、小さく頷きあった。
 そっと、お互いの手を握る。
「何も、いらない」
 魔王に従えば、時間封印から逃れる事もできるのかもしれない。
 魔王に従えば、この世界の王になれるかもしれない。
 魔王に従えば、永遠の時間を自分達のものにできたのかもしれない。
 生まれ、老いて、愛し合い、喧嘩して、悩んで………。
 そんな日常の当たり前から、抜け出せたのかもしれない。
 だけど。
「………そうゆうので良いんだよ」
「…総テヲ授ケヨウ…」
「ていうか…サ。そーゆーのが良いんだよ」
「…総テヲ…」
 塵になり、甲斐那だったものが消滅した。
 舞い、流れ、そして消えていく。
 これが、夢の終わり。
 囁くような、夢の狭間。





 玄室に静寂が戻る。
 瘴気も、そして時間封印の施術余波も感じない。
 消え去った魔王。
 閉じられた時間と空間。
 残された、ふたり。
「ミュウ」
「なぁに? カイト君」
 ただ、お互いに身を寄せて、手を握る。
 守りたかったのは、そんな当たり前の日常。
「帰ろうぜ。俺たちの学園へ」
「うん」
 頷いて―――微笑んだ。
「行こう。一緒に」







BackNext