ぱすてるチャイム
Pastel Chime
アナザーシーズン
Another-Season
〜もうひとつの恋の季節〜
第\章 黒い賛美歌
「う〜…寒ィ」
カイトは革のコートの前を合わせ、小走りで校門に急いだ。
霜降る月。
最初はかなり辛く感じていた休日の早起きも、半年も続けば習慣になっていた。
落葉樹の葉っぱも紅葉が深まり、空気も刺すような季節。
閉じられた校門の前に、ふたつの黒い影が見えた。
「おはよ! 甲斐那さん、刹那さん」
「おはよう御座います。カイトさん」
律儀に挨拶を返す刹那の隣で、甲斐那は組んでいた腕を解いた。
「来たな。早速、始めようか」
「はい」
カイトも零式を掲げてそれに応えた。
刃が閃光のような火花を散らす。
ガラスが鳴るより硬質な、涼やかな音が響く。
「…ッつア!」
「ふん!」
自分から離れたカイトが、低い姿勢で甲斐那の足元を切り払う。
右手一本で震電を振るう甲斐那は、易々とその刃を弾いた。
再び飛び散る閃光。
『閃翼』の使い手同士に、一切の防御装備は無意味だ。
己の攻撃だけが、相手の攻撃を払い除ける手段となる。
『まだ、遊ばれてるよな』
カイトは刃を撃ち合わせながら、自分の実力を再確認した。
だが、刃を合わせられるだけ、一寸は進歩したというモノだろう。
再び距離を開け、甲斐那と向き合う。
未だにどう表現して良いか解らないが、例えるならば『構成』を走査する。
物、というよりは流れ。
流れ、というよりはそのモノの在り様。
それが白い糸の流れのように、カイトの視界に重なる意識に捉えられる。
甲斐那の立ち姿に、糸の乱れは全く無かった。
乱れは即ち脆い場所。
切りやすい場所。
それは物理的に脆いというだけではなく、そこを切るための段取りを含めた脆さだ。
例えば、相手がその場所を防御できる『可能性』が在るならば、その場所の糸は太く硬くなる。
言葉にするのは難しいな、こういう感覚は。
成る程、だから剣術の奥義などは、言葉として残せないのかもしれない。
「…気を散らせば隙を生むぞ」
「わっ!?」
横凪ぎの一閃を反射神経のみで切り落とす。
防がれたのが予想外だったのか、甲斐那は一瞬バランスを崩した。
身体が勝手に動いていた。
足元に生じた糸の捩れ、はざ間にクサビを射れるように左足で踏み込む。
震電で零式を弾かれる力を、そのまま背後に流すように誘導。
交差する一瞬、防御可能性を総て『殺され』て無防備になった甲斐那の胴体に、半月を描くように旋回させた零式の柄を押し当てた。
「あ…」
刹那の驚いたような溜息に、カイトの高密度に圧縮されていた意識が開放された。
そして、自分の胸部に押し当てられた『柄』に驚いている甲斐那と視線が合った。
「わ、悪ィ、甲斐那さん。別にふざけてる訳じゃ…」
「いや………見事だ」
苦笑した甲斐那は震電を鞘に収め、コートの前を合わせた。
「この身に一撃を受けたのは、本当に久しぶりだ」
しみじみと呟く甲斐那に、カイトは照れ臭いながらも苦笑した。
大袈裟な表現だったかもしれないが、本当に事実だったのかもしれない。
少なくともカイトは、甲斐那以上の使い手を知らない。
恐らくは舞弦学園剣術教師であるレパードより強いのではないだろうか。
「本当に………強くなられましたね。カイトさん」
「ははっ、止めてくれよ。刹那さん」
とか言いつつ頬が緩む。
「いや、冗談ではない。君は本当に強くなった」
「はい。春とは比べ物にならないほど、逞しくなられました」
「あはは、マジ勘弁してよ。俺、単純だから調子に乗っちゃうぜ」
とか言いつつ子供よりも素直にはしゃぐカイトを、兄妹は優しい眼差しで見詰めた。
そして、ふたりで視線を交わし、無言で頷きあう。
「………今日は君に伝えることがある」
「なんだい? 甲斐那さん」
「私達が君を鍛えるのも、今日で最後だ」
その言葉は唐突で、カイトは言葉を失ってしまった。
「前に、私達には探し物がある、といった事を覚えているだろうか?」
カイトは頷いた。
それが何なのか解らないが、ふたりはそれを探すためにベルビア国に来たのだと。
「それが見つかったんだ」
「………そっか」
良かった。
ふたりの探しているものが見つかって、本当に良かった。
だけど、それが見つかった以上、戻らなければならないのだろう。
「せめてさ、俺が卒業するまで、コッチにいる訳にはいかないのかい?」
「それは………残念ですか」
「そっか」
カイトは俯きかけた自分を叱咤するように、胸を張って笑顔を浮かべた。
これが最後なら、イジケタ子供のような自分をふたりに見せるわけにはいかない。
自分を鍛えてくれたふたりに、それがせめてもの恩返しになるだろうから。
「今まで、本当に有難う。甲斐那さん、刹那さん」
「カイトさん…」
「俺…上手く言えないけど、ホントに感謝してるんだ」
少しは自分に自信が持てたのは、ふたりのお陰だったから。
カイトは改めて頭を下げた。
「私も楽しかった。だが、気を抜いてはいけない。確かに君は、春とは比べ物にならないぐらい、力を身につけた。それでも、まだ君は満足してはいけない。君の目的は…」
「ああ、解ってるよ。ちゃんと、卒業できなくちゃな」
「………そうだな」
甲斐那は何かを言いかけ、頭を振って頷いた。
差し出された甲斐那の手を、カイトが握り返した。
「さよなら。甲斐那さん、刹那さん」
「さらばだ。カイト」
「…はい。お元気で」
去り際のカイトの目を眩しげに見送って、ふたりは舞弦学園を後にした。
「………兄さま」
「うむ」
校門を抜けて幾らもしないうちに、刹那が兄の背中に触れた。
振り返った甲斐那は口元を押さえて咳き込む。
砕けた肋骨が気管を傷つけていた。
触れた、としか見えなかった柄が、肋骨を砕いていたのだ。
折ったのではない、砕いたのだ。
受けたのが甲斐那でなければ、背骨までも粉砕されていた一撃であった。
「…本当に見事だ、カイト。君になら、極められるのかもしれない」
『轟凪』に続き『烈震』も、伝授されるまでも無くその身の内に。
恐らくは導かれるように。
時を留めた自分が到達できなかった、更なる高みへと。
弐堂式戦闘術が生み出された理由が唯ひとつならば、それはやはり必然だろう。
「ゆこうか、刹那。我らは我らの道を」
「………はい。兄さま…どこまでも、共に」
終わりかけた秋の風に、冬の足音が聞こえていた。
「あ、んあ…やああアぁ!」
ビクン、ビクンと痙攣する脚を抱え、カイトもまた腰を震わせた。
「っく!!」
「ぁ…あ、ぅ」
ミュウはカイトの腰に脚を絡ませたまま、突き上げる絶頂感に身を晒した。
胎内で飛沫のように弾ける、生温かくも滑る感触に、もう一度仰け反って身悶えた。
「ぁ………はぁ、カイトくんの…熱ぃ…のが」
真っ白いシーツに流れる桜色の髪に、艶やかに火照った頬を自ら埋める。
上気し震える肌は、うっすらとした汗に滑っているようだった。
荒い息に合わせてたわむ乳房の頂で、乳輪から隆起した乳首が痛々しいほどに充血したままだ。
「つ…はあ」
カイトは溜息のような吐息を漏らして、尻餅を突くように上体を起こした。
激しい性の交わりに、戦闘訓練とは別の類の充実した疲労を感じる。
カイトは額の汗を拭って、目の前にさらけ出されたミュウの姿態を見詰めた。
夢見るように火照ったままの顔。
頭上に投げ出すように伸ばされた細い腕が、シーツを力なく掴んでいた。
重力に弄ばれるように揺れる乳房。
恥丘から山谷を描くヘソからのラインに、汗が伝っていた。
元からスタイルの良いミュウだったが、ここ最近はカイトでも眩暈がするような艶かしさが滲み出るように感じられた。
「…カイト…くん…」
うっとりと呟いたミュウが、仰向けに寝そべったまま腰を浮かせた。
柔らかくなりかけていたカイトの逸物が、ちゅるり…とミュウの尻の中から顔を覗かせた。
ヌル、と粘膜が擦れる刺激に、カイトの逸物が跳ねた。
ぴち、とノックされるように叩かれたミュウの陰唇から、ちゅる、と白い粘塊が滴り落ちた。
「…カイトくん」
「みゅ、ミュウ…?」
自分で入れられていた逸物を抜いたミュウは、身体を起こしてそのままカイトの足元に顔を埋めた。
そこを指先で弄られ、カイトは戸惑ったように身動いだ。
「はぁ…ぁ、カイトくんと…私のが…こんなに、いっぱい…」
にちゃ…にちゃ、と指先に絡みつく粘液を、口元に運んで舐めとる。
そのまま開かれた桜色の唇の中に、どす黒い塊を含んだ。
咀嚼するように、口腔の中で舌に乗せたそれを弄ぶ。
カイトは目の前が真っ白になるような快感にうめいた。
ミュウの口戯が巧みだったわけではない。
初めてミュウにシテ貰う、というシチュエーションに昂ぶってしまったのだ。
早々に達してしまいそうになるカイトに、逸物の反応からそれを悟ったミュウは、裏筋の根元に強く親指を押し当てて終末を留めさせた。
「ミュウ…ッ、何…で」
「うふ…駄目だよ、カイトくん。………ちゃんと、一緒に」
緋色に潤んだ瞳に、すっかり呑まれたカイトが映る。
圧し掛かるようにカイトを押し倒し、腰の上に自分から跨る。
右手でカイトの逸物を摘まみ、左手で自分の陰唇を開いてみせる。
「………見え…てる? カイト、くん」
「あ、ああ」
カイトはカラクリ人形のようにカクカクと頷いた。
「挿れて…欲しい?」
「あ、ああ」
薄い桜色の茂みの奥で、ソレの先端が軽く飲み込まれる。
だが、その深度のままで、まるで弄ぶようにミュウは小刻みに尻を揺すった。
「あ、ィ…いい、よ………カイトくん」
「ッ…みゅ、ミュウ」
「うふふ、ね………欲しい? もっと、私が欲しいの?」
ゾクリ、とするほど艶やかに微笑むミュウに、おかしいと思う前に頷いていた。
『埋められ』ていく感触に疑問も何もかも、塗り潰されていく。
ぺたん、とカイトの腰に体重の全部を預けたミュウは、小さく仰け反るようにしてカイトの両膝に手を突いた。
カイトに向かって接合部を総てさらけ出したまま、ミュウはゆっくりと尻を揺すった。
内腿の筋が浮かぶほどに絞められるソコの圧力に、陰茎に鈍い痛みすら覚える。
あくまでも緩やかな腰つきに、器官ごと持って行かれそうな感覚になった。
それでも、そのあからさまに淫猥な眺めに、カイトはマグロのように硬直したまま、ただ悶えた。
「あ…あん、イイよ…カイトくん、凄いよ………硬いの、素敵」
「み、ミュウ…俺、駄目だっ」
「あ、あん…」
荒い呼吸だけが、薄暗い室内に響いた。
時の流れが解らない、濃密で淫らな空気。
カイトの胸板に縋るようにして、ミュウは熱い吐息を乱していた。
「………ミュウ、俺…そろそろ」
「いや…だよ。私…まだ、駄目だもの」
その瞳が、夕陽よりも紅く、深くに潤んでいた。
「カイトくんが…こんな私にしたんだよ。…私、本当はイヤなのに」
「あ、あのな、ミュウ」
十分に後ろ暗いカイトは、ミュウを拒むことは出来なかった。
「カイトくんが…私のココを…」
「みゅ…」
「私のココを…何回も…何回も」
背後に手を回し、自分のお尻を掴んで押し開いた。
体液で濡れたソコは、たった今茹でられたように、貪られるその時を切望していた。
ミュウの身体の中から、ソースのようにドロリ…と白く濁った粘液が滴り落ちた。
「ココに…何回も…」
薄暗い背徳感に血が滾るのを自覚した。
こんなシチュエーションにいきり立つ自分はやはり下種なのか。
ちらりと、頭の隅にそんな考えが浮かんだが、そんな事を考えるだけで精一杯だった。
「ね…カイトくん…もっと」
「ミュウ!」
獣のように圧し掛かるカイトに、ミュウは子犬のように鳴いた。
その瞳は、酷く紅く、暗かったけれども。
「………俺は下種かな?」
「はい?」
苅部は読んでいた参考書から顔を上げると、怪訝な表情で眼鏡を押し上げた。
男子寮のリクリエーションルームには、カイトと苅部しか居なかった。
リクリエーションルームは一階の入り口近くに位置する、八畳ほどの寮生のくつろぎ場所である。
建前上、ここだけに存在を許された魔法ビジョンが、外国語講座を上映していた。
大体、教育放送限定の魔法ビジョンを誰が見るというのだろう。
寮生のほとんどが、自分の部屋に魔法ビジョンを持ち込んでいた。
ただ、お茶だけは常備してあるので、風呂上りには結構混み合うことになる。
深夜に近いこの時間。
こんなところに居るのは、消灯を過ぎてからも勉強に励む優等生か、物好きな阿呆だけだ。
「質問の趣旨が意味不明ですが?」
「だから、俺は駄目っぽい奴なんだろうか」
ソファーに寝そべったカイトは、天井を見詰めながら独り言のように呟いた。
ぐるぐる回る送風機の回転数を数えていたりした。
「君がそう思うんだったら、そうなんだろうね」
どっかで聞いたような返答を返し、再び苅部は参考書に目を向けた。
聞く方も答えた方も、心ここに有らずだった。
週末の弐堂兄妹との訓練がなくなって以来、自然とミュウとデートする機会が増えた。
というか最近は毎週、遊びに出かけている。
それ自体は楽しいというか、自然な恋人同士のお付き合いと言えるかもしれない。
「まあ、受験の事を考えないんだったら、そうだろうね」
だがしかし、だ。
最近、微妙に記憶と行動が曖昧なのだ。
全く覚えが無いわけではないが、どうも著しくインモラルな感じが、凄くしないでもないのである。
「言葉は正確に使った方がいいだろうね」
ミュウと身体を重ねることに関しては、最近は自然な愛情行為だと信じられる気がしていた。
少し前の、独りよがりのオナニーのようなセックスではない、多分。
ただ、自分の性欲が、普通よりちょっぴり強いような気が、しないでもない。
「随分、仮定形が多いね」
ただである。
五回はないだろうと、自分でも呆れる。
それも、どう考えてもミュウの方から『お願い』されての行為である。
「若いからといって荒淫してると腎虚になるよ」
眉間に冷や汗を浮かべたカイトは、無言で起き上がった。
白々しく外国語会話を流している魔法ビジョンと、テキストに没頭している苅部が居る。
「………ひょっとして、全部口から出てたか?」
「ひとつ君にアドバイスがあるんだけど。………もう寝たら?」
「そう、させて貰おっかな」
カイトは後ろ頭を掻いて立ち上がった。
「あのさ、苅部」
「僕は自分の利益にならないことを、言いふらすほど暇じゃない」
「あ〜…サンキュ」
顔も上げない苅部に感謝し、リクリエーションルームを後にした。
一緒に居たのが苅部で幸いだった。
シンゴなどに話を聞かれた日には、全寮生から陰惨な迫害を受ける羽目になったに違いない。
どうも、疲れて頭がボケているらしい。
早朝の訓練は、かなりハードに自分ひとりで続けているのだ。
自分でも、何故こんな追い詰められている気分になるのか、理解できなかったのだけれども。
「いいや………寝よ寝よ」
カイトは階段下の自動販売機から缶コーヒーを買うと、お手玉しながら自室に戻った。
カイトの部屋は一階の一番奥に位置している。
舞弦学園の寮では、基本的に一人につき一室が割り振られる。
トイレと風呂は共通とはいえ、かなり贅沢だと入学当時に思ったものだった。
元々は学生寮ではなく、何かの施設を改築したのだと聞いていた。
特に三年生に割り振られるのは、トイレに風呂に炊事場を完備した、まるでホテルかなんかである。
カイトは扉を開けたままの姿で、石像のように硬直していた。
「………カイトぉ」
切なげな囁き声はまるで泣き出しそうで。
小さな、小学生のようなシルエットが、開け放たれた窓から差し込む月光に浮かび上がっていた。
「………コレット?」
カイトの手から缶ジュースが転げ落ちる。
その音で我に返ったカイトは、慌てて部屋に飛び込んで鍵を掛けた。
「な、何してるんだよ! この馬鹿」
カイトはコレットに詰め寄るようにして、小声で怒鳴った。
昼間なら男女寮に遊びに行く不心得者は結構黙認状態であったが、こんな時間にというのは笑い話を逸脱している。
実際、コレットがカイトの自室に遊びに来た事も何度かあった。
その時はミュウも一緒だったが。
「こんな所…誰かに見られでもしたら」
「やあ、カイト。昨日貸した漫画のことなんだけど…」
「気を失え!!」
何の脈絡も無く扉を開けて顔を出したシンゴの腹に、カイトは素手での『烈震』をぶち込んだ。
にこやかな笑顔のまま失神したシンゴをそのままに、扉を閉めて鍵を掛けなおした。
かなり手加減をしたので、運が良ければ朝には目覚めるだろう。
運が悪ければ、そのまま遠くに逝ってしまうだろう。
ていうか、逝け。
「音も無く鍵を開けて入ってくるなよ、ったく」
ロニィ先生の子分みたいな奴だけに、色々と怪しげなスキルを持っているらしい。
取り合えず、最悪の事態だけは避けられたわけだ。
カイトは額を押さえたまま、コレットに向き直った。
「それで」
深呼吸して怒鳴りそうな自分を押さえる。
「………何のつもりで、こんな悪趣味なマネをしてるんだ」
「アタシにも…解んないよ」
コレットは叱れた子猫のように、視線を逸らして俯いた。
逆にカイトはコレットから、目を逸らす事が出来なかった。
いつものツインポニーを解いた金髪は、腰の位置まで水のように柔らかく流れていた。
ネグリジェのようなワンピースの貫頭衣一枚だけで、それが背負った月光に透けて、ミスリルの貴糸で織った羽衣のようにも映る。
月に妖精が棲んでいるのなら、多分、こんな姿をしているのだろう。
「ただ………カイトに逢いたくて」
「そ、んなコト、聞いてるんじゃ」
ゾク、と背筋が凍るような甘い戦慄。
細い指先が、カイトのはだけた胸元をなぞる。
「カイトに逢いたくて…それだけしか、考えられなくなって」
「…夢遊病だな、それは」
カイトは息を呑み込んで、仮面の冷たい声で答える。
傷つけるほどに固く、鋭く。
そして、とても脆く。
「カイトに触れたくて…カイトに触れられたくて…」
「…」
「………カイトに愛して欲しくて」
金縛りにあったように呼吸も忘れたカイトは、指先に押されるようにベッドに尻餅をついた。
いつかの夕暮れの時のように虚ろな瞳をしたコレットは、両手でネグリジェの裾を掴んだ。
ゆっくり、持ち上がる真っ白いレースが、百合の花のように。
月の下に咲いた花弁が覗けた瞬間。
カイトは殴られたように震えていた。
それは実際カイトにとって、暴力にも似た強制的な認識だった。
下着を身に着けていない、という不条理に対する驚き。
そして、幼女のように無毛の恥丘が、暴行を受けた後のように乱れていた事。
ゆっくりと今も流れ落ちている透明な雫が、コレットの脚の内側に幾筋も糸引いていた事実に。
「カイトを待ってる間…ずっと、弄ってたんだよ…こんなになるまで」
コレットはむしろ見られるコトを待っていたように、無邪気に小首を傾げた。
「ね…カイト。どうしよう………?」
それは羽虫を誘う淫華のように、蜜を滲ませて誘う。
「治まらない…の。自分でシテも…何回シテも………助けて、カイトぉ」
「…コレット」
「助けて…お願い、助けて」
泣き声のような哀願に、カイトは飛び込んでくるコレットの小さな身体を抱き締めた。
消灯時間が過ぎて薄暗くなった廊下を、参考書を抱えた苅部が歩いていた。
ふと、何かに躓き掛けて足を止める。
廊下を塞ぐようにして仰向けに倒れたシンゴが、コントのような笑える格好をして、人当たりの良い笑顔を振りまいていた。
たまに手足をびっくんびっくん痙攣させるのが、怖くなるほど愉快だ。
「………流行のジョークかい?」
メガネを押さえた苅部は、一応詰問してみる。
自分が流行に関心が無いのは、自覚している事であった。
「身体を張ったパフォーマンスも程ほどにした方が良いと思うよ。お休み、風邪など引かないようにね」
あっちの世界とこっちの世界を逝き来しているシンゴには、去っていく苅部の足音も聞こえなかった。
背中に唇を押し当てた。
「ぁ…」
くすぐったそうに身動ぐコレットに圧し掛かったまま、横臥した身体に触れていく。
細い、小さい身体。
まるで陶磁器の人形のように。
乱暴に扱えば、すぐにも砕け散ってしまいそうな程に。
「やッ…だ」
乳房に触れたカイトの左手を、コレットはうつ伏せになるようにして拒んだ。
それでもジワジワと、判別できないほどの乳房に指を這わせていく。
乳房の膨らみがない分、その中心でしこっている突起がはっきりと感じられた。
「や」
「痛い、か?」
「ちが…っ」
カイトの腕の中で丸くなるコレットが、枕に埋めた頬を真っ赤に染めた。
「違う…よ。………アタシのおっきくないから、触って欲しくないダケ」
更に、包み込むように触れてきたカイトの掌を、コレットは拒むのを忘れて受け入れた。
撫でるように、乳首をノックするように弄られ、コレットは指を噛んで声を堪えた。
四肢を丸めるコレットの閉じられた太腿に、カイトのいきり立つ性器が擦れていた。
コレットはそ…っと後ろ手を伸ばし、手探りでソレを握った。
熱く張り詰めたような感触に、ビク、とソレが震えて指を放しそうになる。
自分の小さい掌に収まりきらないほど大きい肉塊が、自分の胎に入ってきたのだ。
コレットはもう片方の手で、自分の股間に触れた。
充血して腫れた陰唇はヌルリと滑り、膣の穴へと容易に指先を導く。
「…ぁ」
ボコボコした自分でも不思議な感触のその中に、ヌルヌルした何かが満ちている。
指先から逃げるような粘液の固まりは、まるで中で泳いでいるようだ。
その注ぎ込まれた異物を探すゲームに、コレットは夢中になりかける。
自分では鎮火できなかったケダモノの衝動が、ゆっくり満たされていくような、もっと深くへ誘っているような曖昧すぎる情動。
吐息が乱れ、乱れがカイトにも伝染していく。
「あ…あ、ぁ?」
片手で握り締めていた肉の棒が、指を弾くようにビクビクと震えだす。
「ッ…いいか? コレット」
何て馬鹿なコトを聞く男なんだと、コレットは固く目を瞑って頷く。
自分はケダモノなんだから、ケダモノのように扱ってくれればいいのに。
尻に挟むようにして、後ろから熱い塊が押し当てられる。
ゆっくりと、その形も感じられるほど鮮明に、胎内に押し入ってくるモノが解る。
初めての時の痛覚を身体が覚えていたのか、無意識に四肢が震える。
「大丈夫…だから」
それは半分嘘だ。
カイトの性器を挿入されると、限界を超えて引き伸ばされたような鈍い痛みを感じる。
当たり前かも知れない。
まだ、自分の身体は男性を受け入れるまでに成熟していないのだ。
そして、これから成長する保証も無い。
「奥…まだ、平気か?」
「も…だめ、一杯だもん」
ぎっちりと受け入れた胎内の突き当たりに、塊のような亀頭が押し付けられている。
コレットはヘソの下を掌で押さえ、指先に感じる異物感を確かめる。
カイトのモノを根元まで受け入れる事もできない、未熟な身体を何度呪ったことだろう。
「さっきよか、大分濡れてるから、大丈夫…っかな」
「アタシのじゃないもん………カイトのでしょ?」
それだけで真っ赤に赤面するカイトに、不安も痛みも氷解する。
だから、意地悪をしたくなる。
もっと、困った顔を見たくなる。
「カイトのって………量多いよね。なんか、お馬さんみたい」
「み、見たコトあんのか?」
「ううん。でも…ほら、お馬さんとか、鹿さんみたいじゃない? カイトって」
カイトはコトの真っ最中でも憎まれ口を叩くコレットに、肩の力が抜けそうになった。
それでも抜け落ちる気配さえない自分の逸物が、頼もしいやら憎らしいやら。
「コレット、頼む。も…ちょっと可愛くだな」
「アタシはいつでも可愛いよ?」
突き抜けるほどまっすぐに、そしてそれが事実だと思ってしまった自分が憎い。
「そして、カイトもいつでも格好良いしね」
「コ…っ、ッあ」
「え………?」
コレットは自分の中で震える逸物に、吃驚したようにカイトを見つめた。
カイトのあ然とした、泣き出してしまいそうな一瞬の表情に、達してしまいそうな嬉しさを感じる。
にちゅる、とあふれ出たカイトの精液が、尻を伝うのが感じられた。
「カイトの………ナルシー」
「う、ウルサイやい」
「あは…カイト、ね。もっとシテ………もっと可愛がって」
今だけはカイトは自分のものだから。
だから、コレットはカイトにしがみ付いた。
だから、コレットはカイトの部屋を訪れる事を止めないだろう。
たとえそれが、誰かの掌で踊らされている寸劇だと理解していても。
「どうかな、おキクさん………何とかなりそう?」
購買のカウンターに腕を乗せたカイトは、難しい顔をしたおキクさんに問い掛けた。
「まあ、任せとき」
縦に構えた零式の刃通を調べていたおキクさんが、ニッコリ笑って大きな胸を叩いた。
ちなみに、正面も横から見ても同じぐらいの幅でおっきいのであるが。
全校生徒の肝っ玉母さんのアダ名は伊達ではない。
カイトは安堵の吐息を漏らして、身体を起こした。
あらゆる武具の整備、補修に関しては、王室お抱えの魔鉄匠にも劣らないと豪語しているだけはある。
「………とは言ったものの、これはちょっと手間が掛かるよ」
「おキクさんに任せるよ。出来れば安くして欲しいんだけどな」
カイトは薄っぺらい尻ポケットの財布を意識した。
買い換えようにも、零式は通常購買で販売している武器の中で、もっとも高性能でもっとも高価な刀だ。
そして、クレイモアに次いで頑丈な武器だった。
「しかし、何をどうすれば、この頑丈な零式刀をガタガタに出来るのかねぇ?」
おキクさんは呆れたような溜息を吐き、零式を収まらない鞘と共に布で包んだ。
刃が欠けたり、潰れたりしているのではない。
刀身が歪んでしまっているのだ。
「手入れをサボってる訳じゃないぜ」
「馬鹿だね、そんなコトは剣を見ればすぐに解るよ。だからこそ、アンタの無茶な注文も聞いてやるってものさね」
「サンキュ、おキクさん」
代刀として雷電を預かったカイトは、手を合わせてから購買を後にした。
戦士科の受講内容には、武器の手入れや修繕が必須となっている。
だが、磨ぎ直しどころか、打ち直しすら必要なほど歪んでは、カイトには手が出せない。
「まだまだ、修行が足りねー…か」
極まれば、木刀でも閃翼を放てる。
一番最初に、折れた雷電でクイーンカニラスを断ち切った時のように。
わずかに残った落ち葉が、中庭の樹枝から舞い散る。
今年一年も、後少しで終わる。
来週に控えた年末最大最後のイベントが終われば、冬休みが始まる。
「やべ、昼休みが終わっちまう………ん?」
チャイムを聞いて駆け出したカイトの視界に、見慣れない制服を着た人影が映った。
学校の制服ではない。
真っ白いそれは多分、軍服だろう。
「ああ、君。ちょっと」
カイトに気づいた初老の男性は、見事な口髭を弄りながら呼び止めた。
カイトはその場に止まったが、足踏みを続けた。
午後からの授業はロニィ先生の担当講義である。
危険な相手は怒らせないのが利口者だろう。
「職員室はどこかね?」
「えっと、一階の…」
「案内してくれたまえ、至急に。私は忙しい身の上なのだ」
年上にはそれなりの礼儀を払うべきだと思っている。
だが、礼儀を知らない相手に、礼儀正しく対応するほど人間が出来てるわけじゃない。
カイトはこういう頭ごなしに命令を押し付ける輩が、一番嫌いだった。
「職員室ならアッチですから、おじさん」
「おじ…」
髭を引っ張ったまま硬直し、顔色が赤く染まっていく。
女の子じゃあるまいし、ムサイ男の百面相など見たくはない。
「…どうやら、君は私が誰だか、知らないようだ」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………ひょっとして学園長?」
「違うわ! というか、自分の学校の教師の顔も覚えとらんのか、貴様は」
「どうも、人の顔を覚えるのが苦手で」
アイドルやスポーツ選手などにも興味がないので、クラスメートとも話題が合わないのさ、どうせ。
関係ないけど、そうゆう全然どうでもよさそうな知識が、結局のところ社会人になってから一番必要とされる分野じゃなかろうかと思う。
仕事などしなくとも、上に気に入られれば出世するのがサラリーマンだと、親父が胸を張っていた。
汚ぇよな、大人の社会。
卑屈な上役と、権力者の馬鹿息子しかなれねぇ政治家が社会を牛耳ってる限り、社会は良くなんねぇよ。
「もう良い! さっさと、職員室に案内したまえ」
「………はいはい」
カイトは溜息と共に呟いた。
身体だけ成長したガキ大将と同じだ。
こういう手合いを相手にするのは疲れるだけなので、さっさと誰かに押し付けるに限る。
こういう態度も馬鹿を冗長させるだけかもしれないが、メンドクサイものはメンドクサイのだ。
「ここでスリッパに履き替えて下さいね。何も無い所で転んで、骨なんか折らないように。脆いでしょうから」
「ぬぅ…」
コメカミに浮かんだ青筋がピクピクと震えたが、黙って道案内についてくる。
どうやら、本当に忙しいらしい。
しかし、敵を作りやすい性格だと、自分でも思う。
「あら、相羽君。授業中ですよ?」
「ベネット先生。ちょうど良かった。こっち、来客です」
職員室の前にたどり着いた時。
ちょうど金髪のエルフの先生が扉を開けたところだった。
「君はこの学園の教師か?」
「これは………ディクソン宰相。お待ちしておりました」
多少緊張したようなベネット先生の台詞で、カイトは髭親父が誰だか理解した。
ここ、ベルビア王国の宰相。
即ち事実上の国務最高責任者である。
ディクソン宰相は勝ち誇ったような目つきで、カイトに胸を張ってみせる。
「で、俺の『雑用』は終わりましたんで、教室に戻ります」
「ぬく…」
あくまでベネット先生に頭を下げたカイトを、ディクソン宰相が忌々しげに睨む。
阿呆ではないか、とカイトは思う。
王国軍に志願するつもりもないし、公務員になるつもりもない。
着てる服や勲章や、地位がどれだけ偉いっていうんだ。
肩書きに下げる頭は持っていない。
見えないように中指を突き立てたまま踵を返したカイトを、ベネット先生が呼び止める。
「お待ちなさい、相羽君。ちょうど良いタイミングでした。貴方もこれから会議に出席してもらいます」
「………何で俺が?」
「どういうことだ、君」
「そのお話は後ほど。今、ロイド君も呼び出していますから」
「まず、これからの会話は、総て国家機密に抵触する事を認識してもらいたい」
学長室に入ったのは、カイトにとってこれが二度目だった。
シンゴと一緒に棚に陳列してある高級ブランデーを盗み、ではなく教材として拝借しようとした時以来である。
毛の長い絨毯、意味不明の置物、革張りのソファー。
「………無駄金使うなよ」
「………カイト」
カイトの呟きに、隣に座ったロイドが肘を入れる。
だが、その顔が苦笑しているところを見ると、カイトと同じ見解だったらしい。
「ゴホン! ………では、最初から説明しよう」
大学の講師が自慢気に論文を発表するような物言いに、早くもカイトは襲い掛かる眠気を認識した。
「話は今年の四月に遡る。カザン地方に残る伝承、及び王国占星術庁の警告を統合、及び………」
カイトは欠伸を噛み殺し、目蓋を無理やり固定して学長室を眺めた。
会議(極秘)の出席メンバーを流し見ていく。
ベルビア王国国務宰相、ちょび髭のディクソン。
舞弦学園魔法教師、冷徹のベネット。
舞弦学園剣術教師、薔薇の王子様・レパード。
舞弦学園神術教師、三千世界のバド。
舞弦学園体育教師、筋肉男爵のティオ。
舞弦学園スカウト教師、バッドマンレディ・ロニィ。
生徒側の代表として出席しているのが、チェリーボーイ・ロイド。
で、何故か、俺。
どう考えても、場違いな場所に連れ込まれた気がしてならない。
あ、後ひとり居たっけ。
舞弦学園学園長、無貌の………えっと、名前何だっけ?
暇つぶしに好き勝手なアダ名を命名していたカイトだが、自分に集中している視線に我に返った。
「えっと………それで、結局どういうコトなんですか?」
ディクソン宰相のコメカミの血管が、切れそうなほどにピクピクする。
いっそ、切れりゃいいのに。
「要するに、魔王が復活すると、言っておるのだ!」
マジに切れたか。
それがカイトの反射的な思考だった。
次いで襲ってきたのは、堪えられないほどの笑いの衝動。
「く、くは…ハハハ、す、済みません」
いい年した大人達が顔を揃えて、魔王復活の対策会議ときた。
「か、勘弁して下さい。漫画じゃないっての、アハ、ハ………………………冗談、ですよね?」
「誰が冗談でこんな事を口にするか!!」
「カイト。冗談でも、笑い話でもないんだ」
激昂したディクソン宰相を遮るように、ロイドが真面目な顔で向き直った。
「学園祭の夜を覚えているだろう?」
「そりゃ、覚えてるさ」
「僕たちが戦った相手は、間違いなく『不死兵』だった。そしてその中でも、あの『完全な守護者』は魔王のごく近くでしか存在を『許されない』モンスターなんだ」
「『許されない』………て、何なんだよ」
見計らったようにベネット先生が、手元の魔法装置を操作して、空中に立体映像を映し出す。
所々掠れたように荒い映像は、あの時現れた出来そこないのゴーレムに間違いなかった。
カイトは反射的に腰の刀を握り締めた。
映像だけだというのに、あの時の恐怖と殺意が蘇ってくる。
「これは、約四〇〇年前の遺跡から発掘された、第二次魔王戦争時代の記録です」
「地上の半分以上が、魔族に支配されていた時代ネ♪」
ロニィ先生が、何故か懐かしそうに、嬉しそうに注釈を入れる。
「『完全な守護者』は魔王が生み出したモンスターの中でも、ほぼ最強に分類されるでしょう。あらゆる攻撃からの絶対防御力、完璧な魔法耐性。まさに不死身の護衛者でしょうね。………しかし、それだけ強力なモンスターの『存在』をこの世界にを維持させるには、莫大なエネルギー、即ち『瘴気』の供給が必要です」
喉がカラカラに渇く。
嫌な考えが湧き上がろうとするのを、無理やり押し留める。
「即ち、無限の瘴気の供給元、魔王の側でない限り『存在』出来ないのです」
「そうだね。有史以前の記録でも、『完全な守護者』が単体で出現した記録はないね」
手元の資料に目を通したバド先生が頷く。
「だ、大体何で………」
本当に喉が渇く。
無理やり唾を呑み込んで、もう一度口を開く。
こんな馬鹿げた話は否定しなくちゃ、否定しなくちゃいけない。
「何で、ウチの学校に魔王なんかが封印されてたんですか!」
「魔王を封印したのは、何処かの『場所』ではないからだ」
ディクソン宰相は椅子に深く座り直すと、重い溜息を吐いた。
「魔王の本質は無限のエネルギーの塊だ。少なくとも、そう推測されている。滅ぼす事も消滅させる事も不可能だと判断した当時の賢者達は、純粋エネルギー体の魔王を、依代に憑依させて絶対に安全な場所へ追放した。この世界の『外側』へ。異次元へ、だ」
それは聞いた事がある。
この世界の者なら、誰でも一度は聞いた事があるお伽話だ。
『ふたつの道のお話』
黒い勇者と白いお姫様のお話。
第一次魔王大戦、この世界から魔王を追放した勇者と、その勇者が仕えていた国のお姫様の話。
実際にあった話を元にして作られた、悲しいお伽話。
「………違う」
そんな訳ないだろう。
「それでも我々は魔王復活に備え、内密に準備を進めてきた。何故なら…古代伝承、あらゆる未来視、占術が、その総てがこの大陸に、そしてこの年に魔王が復活する事を示唆していたからだ」
「空間の揺らぎ、狭間、裂け目がこの世界と魔王を繋ぐ接点となります。私達にも予測は出来なかったのです。まさかこの学園が『カザンの魔いずる地』だとは………」
違う、絶対に違う。
アレは魔王なんかじゃない。
ミュウの後ろに在った、ミュウに重なるように在ったアレは、魔王なんかじゃない、絶対。
魔王と呼ばれる存在は、神代の昔に退治された。
第一次魔王大戦の時に。
だが、一度復活した。
「魔王が復活するにはふたつの条件が必要です。千年に一度の星辰、そして其の時に『必然』として存在する依代…要するに神の血を濃く受け継いだ、まぁ…人間ということになるね」
バド先生が眠たげに眼鏡を押し上げて告げる。
『神の血を繋ぐ者』とは、即ち神術を好く施行できる存在。
生まれつきに神の力を宿した人間。
高レベルの神術士。
「僕たちが………いや、正確には君が倒した『完全な守護者』は、そういう存在なんだ」
「ロイド…」
振り返ってロイドの目を見た瞬間に解った。
ロイドも、同じ事を考えてしまったのだと。
「………違うだろ」
「カイト」
「………違うだろ、それは」
止めろよロイド、それは違うだろ。
足元がグンニャリと歪んだような気持ち悪さが込みあがる。
「………すんません。俺、失礼させて貰います」
「相羽君、待ちなさい………相羽君!」
カイトは制止の声も聞こえず、地に足がつかないように扉から出て行った。
「ふう…やはり、一般の学生に聞かせたのは誤りだったのではないのかね?」
ディクソン宰相は哀れむような目で扉を見遣った。
もしも魔王復活の話を口外したり、パニックを起こすようならば、早急に隔離しなければならないだろう。
「あのような少年が『不死兵』を撃退したとは、とても信じられん。恐らく、内申でも考慮して、虚言を弄しているのだろうが…」
「お言葉ですが、宰相閣下! カイトはそのような男ではありません」
ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がったロイドに、ディクソン宰相が仰け反った。
「な、何だね、急に」
「きちんと報告を受けられたのならご存知のはずです。僕とふたりの女生徒を助けるために、カイトが不死兵に立ち向かった事を」
「それは、どうだか」
ディクソン宰相は口元を歪めてロイドを見上げた。
「………君はグランツ家の跡取だったな。友人は選んだ方が良い…将来を考えるのなら、な」
「僕はあの男を、生涯の友と認めています。信頼し、尊敬できる相手として。………それでは、僕も失礼させて頂きます」
「ロイド君、お待ちなさい!」
「なんと無礼な…」
ディクソン宰相は忌々しげに呟き、背もたれに寄りかかった。
「いいのう。男同士の友情とはこうでなくては」
「そうね。いいわネ、いいわネ。ロイド君もすっかり男の子だわ♪」
「ああ、素敵だ。実に素晴らしい友情だ」
勝手に自分の世界に入っている教師三人を尻目に、ディクソン宰相は眉をしかめた。
「礼儀を知らない若者たちだ。教育方針が間違っているのではないのかね?」
「は、はい。申し訳…」
「あらあら。そんなコトを言っちゃ駄目よ、ディクソンちゃん。とても良い子たちじゃないの」
「せ、先輩」
いきなり宰相をチャン付けするロニィにベネットが慌てる。
だが、肝心のディクソン宰相は苦虫を噛み潰したような顔で黙っていた。
レパードも苦笑しながら立ち上がった。
「そうですねぇ。とりあえず、ボク達はボク達にできる事をやっておきましょう」
放課後のチャイムが鳴り響く廊下を、カイトは真っ直ぐに急いだ。
廊下に湧き出した生徒を押しのけるように、他の何も目に入らずに。
階段を駆け上がり、自分の教室を探す。
V−Aの扉を押し開けると、適度にざわめいている教室を見回す。
「あら、相羽君。余裕ね?」
「またサボり? ………いい加減にしなさいよね。ばカイト」
カイトに気づいた陽子と、机の向かいに腰掛けていたコレットが呆れ声で揶揄する。
だが、肩で息をするカイトは呼び声も聞こえないように、視線を彷徨わせる。
「………どしたの? カイト」
ちょっと尋常ではないカイトの様子に、コレットが顔の前で手を振る。
だが、その虚ろな瞳の焦点が合わさる事はなかった。
「ちょっと、カイト………大丈夫?」
「? カイト君」
自分の机でひとり鞄に教科書を詰めていたミュウが、無言のまま歩み寄るカイトに立ちあがった。
呼吸が乱れたままミュウをじっと見つめる姿は。
「………まぁ、ちょっとした変質者よね」
「そんなコトは前から知ってたモン」
カイトとミュウから視線を逸らしたコレットを、陽子は痛ましいような仲間を見るような眼差しで眺めた。
「カイト君。どうかしたの?」
少し驚いていたミュウだったが、小首を傾げるようにして問いかけた。
「………ミュウ」
「…あ」
カイトは両手を持ち上げると、そのままミュウの背中を抱き寄せた。
突然の抱擁に、教室中から悲鳴にも似た歓声が上がった。
「ちょ、ちょっと…カイト君ったら」
流石に恥ずかしさから手を振りほどこうとしたミュウだったが、カイトの身体が震えているのに気づいた。
だから、ミュウはその肩に優しく触れた。
「大丈夫だよ、カイト君。私はここにいるから…大丈夫だから」
「あ…ぁ」
「あの、ね…だから、ちょっと………恥ずかしいよ」
口笛と冷やかしの歓声に、我に返ったカイトは跳び退った。
俯いたミュウも耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「………辛いね」
「………最初から、知ってたモン」
「そうね。答えを知ってても、どうこうなるモノじゃないか。確かに」
背中を向けたままのコレットに、陽子は何となく同意した。
冷やかしに逆ギレしたカイトが暴れ出す。
そして、賑やかに騒がしい教室を遠い瞳で眺めるミュウが、独りシズカに嗤っていた。
私は夢を見る。
暗い暗い夢を見る。
私は嫌な子です。
私には大好きな男の子と、大好きなお友達がいます。
私はその男の子のコトが好きで、とても好きで。
子供のころからずっと好きで。
ずっと一緒に居たいと思っていました。
お友達は私にとって、初めての親友と呼べる女の子でした。
三人で一緒に笑って、一緒に過ごして。
ずっとこの時間が続けばいいと、私は思っていました。
だけど私は。
だけど私の心の奥では。
その男の子とその女の子が一緒に笑っているのを見るのが、とても嫌でした。
私は笑っていたけれど、私の中は酷く汚く、暗い気持ちが澱んでいきました。
だから私は引き金を引く。
ああ、なんて浅ましく汚い。
だけど、それでも私は男の子のコトが好きでした。
だけど、それでも私は女の子のコトが好きでした。
私は………もう、どうしていいのか解りません。
もう、見ているのは辛い。
もう、聞いているのは堪えられない。
醜い自分に耐えられない。
どうしていいか解らない。
「答えは簡単だ」
どうか教えて下さい。
これ以上、私はここには居られません。
「それが答えだ。お前が居なくなれば、何も問題はない」
ああ、そうなんだ。
それは酷く簡単なコトだ。
だけど、私が居なくなったら、誰かを酷く悲しませるコトにならないでしょうか?
「何も問題はない。代わりが居る」
そうなんだ。
そうだったんだ。
私の代わりにあの子が居るんだね。
だったら、消えてしまおう。
こんな汚い自分は消えてしまおう。
ドロドロと溶けていくような。
それはとても純粋に暗い色をしていて。
だから、とても綺麗な。
そんなマドロミからゆっくりと浮上し。
目を開けて部屋を眺め。
ベッドから足を降ろし。
鏡で微かに前髪を整えると。
『私』は窓を開けて、空を仰いだ。
「ああ、今日はとても良い日」
祭りが、始まる。
私の再誕を讃える、祭りが。
「ゅ…ッ!!」
手を伸ばす。
伸ばした手は、天井から下がったランプに向けられていた。
カイトはベッドで上体を起こすと、何とはなしに左右を見回す。
机に投げ出された鞄と制服。
ブルーとモノクロの色彩の、普通に散らかっている自分の部屋だった。
「………寝ぼけた、のか」
カイトは後ろ頭を掻いた。
掴みかけた右掌を開いたり、握ったりを繰り返す。
何だというのか、この喪失感は。
「まだ七時かよ………折角、休みに入ったってのに」
舞弦学園の冬季休みは聖誕祭から始まる。
三年生に休暇など無いも同じだが、寝坊ができるというのは非常に良いと思う。
その特典を無駄にしてしまった。
カイトはベッドから降りると、バンザイするように伸びをした。
と、視線を下げる。
生理現象を主張するナニが、鋭角に突き立っていた。
全裸で寝てしまうのは、幼い頃からの癖だった。
カイトは意味も無く尻を掻き、部屋に干してあったタオルを取って洗面所に向かう。
頭は半分以上寝ていたが、体が毎朝の習慣を忠実になぞる。
便所でナニを無理やり押さえつけて用を済ませ、そのまま隣のバスの扉を開けた。
「あ、お早う。カイト」
「…」
そのまま扉を閉める。
俯くように頭を掻いて、もう一度開ける。
「おはよ。………って、何度も言わせないでよね」
「…」
「どしたの? カイト」
壁に頭を打ち付けて覚醒しようとしているカイトに、シャワーを浴びているコレットが小首を傾げた。
背中まで流れるハニーブロンドから小さなお尻が覗いていたが、慌てた様子は無い。
額から血を流したカイトは、コメカミを押さえて思考した。
全然覚えが無い。
「………何故に」
「何が?」
「………何故にコレットが俺の部屋で朝風呂してるんだろう」
「あ…酷い」
コレットはシャワーを浴びたまま、身体を反転させてカイトに向き合った。
「昨夜、あんだけアタシの身体を貪っといて、そゆコトゆーんだ。カイトの匂い付けたまま女子寮に帰ったら、アタシ退学になっちゃうじゃない。責任取ってくれるの?」
「だから。適当なでっち上げ言うんじゃない。俺は昨日、清く正しく独りで寝たぞ」
証人ならしんごが居るぞ、いやマジで。
日付変わるまで宴会して、何故か一緒のベッドに潜り込もうとするしんごを隣の部屋に叩き込んだのだ。
まあ、受験生にあるまじき行いではあるが。
「アハハ………まあ、いいじゃない。細かいコトは」
「良くないぞ。全然」
ぷく、と頬を膨らませて拗ねるコレットから視線を外した。
こんなところを誰かに見られたら、本気で退学になる。
ていうか何考えてんだ、コレットは。
「だって、今日ってば聖誕祭じゃない?」
「だから?」
「………こういう日に好きな人と逢えないのはヤダもん」
唇を噛んで額を押さえる。
コレットを馬鹿だと思うけど、多分俺はもっと馬鹿だ。
「………昼から皆でパーティする約束してたじゃないか」
「そーゆーんじゃなくって………ふたりきりになれるのは、この時間しかないもん」
「そんなに俺とヤリたいのかよ?」
「カイトが…それを望むんだったら…それでも、イイ…よ」
浴室の壁に張り付いたままのカイトの足元にしゃがんだコレットが、素直な子供のように頷いた。
「ま、待った…冗談、だから」
「動かないで…ね」
コレットはまだ角度を維持しているソレを、両手の指で捧げ持つように握った。
擦るように触れながら、じぃ…とゆっくり勃起していく様を見詰める。
一個の生き物のような排泄器官。
その、赤黒い剥き出しの先端を、小さく舐めた。
ビク、とカイトの膝が笑った。
「っ…コレット、もう…止めよう…」
「ん…ヤダ」
出しっ放しのシャワーの湯気が、狭いバスルームを真っ白に染める。
コレットは背中にお湯を浴びながら、膝立ちになって奉仕を続ける。
両手で根元を押さえるように握り、上から咀嚼するように飲み込む。
「…コレット、頼む…から」
「…ヤダ」
一旦ソレを吐き出し、改めて深くまで咥え直した。
カイトの手が微かに震えたが、行為に対する抵抗は、結局それだけだった。
曖昧だが生々しい感触に、口腔に含まれた肉塊がビク、ビクと痙攣した。
「コレ…ッ…」
「ヤダ」
これ以上なくいきり立った逸物を頬に擦り付けるように、コレットはカイトの腰に手を回した。
「ヤダ………好きだよ」
「つ」
「アタシの方がミュウより、カイトを好きだモン」
「俺は、サ」
コレットの小さな肩に手を置く。
優しく、だけど、はっきりとした意思を伝えるために力を込めて押しやる。
「俺もコレットのコトが好きだよ」
「ぇ…」
「色々、考えてサ。やっぱ…俺、コレットのコト好きなんだよな」
カイトは照れたように笑う。
だけど、その瞳は真剣で、コレットは気圧されるようにタイルに尻餅をついた。
「友達としてじゃなく、『女』として…俺、コレットのコトが好きだ。でも、それは愛してるのとは、違う」
「………ヤダ」
コレットは蹲るようにして耳を塞ぐ。
今更、そんな割り切った都合のいい台詞を言わないで欲しい。
「ヤダよ。聞きたくない…聞きたくない…」
「俺が一番に守りたいと思う相手は………俺が一番大事に思う相手は、違う…」
「聞きたくない!!」
コレットはカイトを押し退けるように、バスルームを飛び出した。
「コレット、待てって」
「きゃ…」
「…っと、と?」
慌てて追いかけるカイトだったが、脱衣所の出入口でつっかえていたコレットにたたらを踏む。
濡れたままの身体を隠すことも忘れ、立ち尽くすコレットの目の前に立っていたのは。
「お早う。カイト君、コレット」
「み…ミュウ」
制服姿のミュウは、教室で顔をあわせた時と同じ笑顔で微笑んだ。
待ち受けていたとしか思えないタイミングでの出現に、カイトの頭は真っ白になる。
というか、真っ暗になる。
「あはは、そんなに緊張しないで♪」
呆然としたふたりの顔が面白かったのか、ミュウはクスクスと小さく笑う。
子供のような、笑い。
「今日はとてもとても素敵な日なんだから、寝ぼけてちゃつまらないよ?」
「…みゅう?」
「うん。そうだよ? コレット」
とぼけた自分の声色に、再びミュウは笑う。
余りにもハイテンションなミュウの様子に、カイトは現状も忘れて怒りを覚えた。
何かもっと他に、この状況で、言うべきコトがあるだろう。
イヤ、そもそも、何故ここにミュウが居るのか。
「それを言う前に、何でここにコレットが居るか、その事を気にするんじゃないカナ? 私は」
「なっ…」
「ああ、まぁ、そうフリーズしないで。別に、浮気現場で不誠実な恋人を問い詰めるために跳んで来た訳じゃないんだ」
カイトは一歩退いた。
今日はこんなにも良い天気だってのに。
何で、こんなに、黒い風が。
纏わりついて見えるんだ。
ミュウは緋色の瞳で、カイトの表情を覗き込む。
「………やっぱり、カイト君には『解る』んだ? ま、今更どうでも良いんだケド」
「………誰だ、お前?」
「えっ、カイト…?」
「嫌だな、恋人の顔も忘れちゃった? ああ、そっか…身代わりが居るんだもんね」
そして、泣き笑いのような表情で、ゆっくりカイトに掌を向けた。
だが、そのまま痛みを堪えるように眉を寄せる。
ミュウは一瞬だけ表情から微笑を消し、天井を仰いだ。
「………まだ、駄目…なの? 何故?」
「ミュウ…その、アタシ」
「…て」
ミュウはずぶ濡れたコレットの首筋に指を絡め、抱き締めるように引き寄せた。
「ね………私達、友達…だよね?」
「ケ、フッ…み、ミュウ…ぅ」
「止、めろ…!」
ドン、とミュウの背中が壁に叩きつけられる。
カイトは突き飛ばした自分の手を、信じられないように見つめた。
その手が震えている。
その肩も。
その背中も。
その足も。
強者に抱く、弱者の恐れという、絶対の真理に襲われて。
「クク…」
磔にされたように壁に張り付いたまま、ミュウは俯いて小さく肩を震わせた。
「アハは、ハぁは、はああああ」
「ミュウ!」
「コレット、駄目だ!」
カイトは手を伸ばして駆け寄ろうとするコレットを抱き止めた。
「………畏れるな。貴様達には何もしない。今は、ただ」
ゆらり、とミュウが起つ。
桜色の髪を糸のように靡かせ、空間を引き剥がすような存在感を滲ませて。
「我はただ、礼を言いに来ただけ」
「………嘘だ」
「称えろ、我が再誕を」
「………嘘、だろ?」
「謳え、素晴らしき悦びの日々に」
「………魔、王」
美しく、気高く、神々しく、禍々しく。
そして、この上もなく儚げに。
「さようなら。カイト君………」
身動ぎも出来なかった。
石像のように、ただ固まったままで。
「御待ちしておりました」
「…」
男子寮の入り口から現れたミュウの前に、黒い兄妹が跪いていた。
ミュウは鷹揚に手を振り、顧みもせずに真っ直ぐ歩を進める。
だが、ふと立ち止まり、宙を見つめる。
「私は………誰なの?」
「貴方は魔王、です」
「…」
俯いたままの刹那は、兄の隣で表情を変えずに安堵した。
それは、魔王復活の最大の功労者にして、魔王覚醒を妨げる一要因であった、ある男子生徒を抹消出来なかったという事。
「そう…そうか………そうね」
「本体を迎える降魔の準備は、総て整えております」
「では、行きましょう」
「………ミューゼル!!」
寮の扉を突き破る勢いで、ひとりの男子生徒が駆け寄る。
振り返った刹那の微かな表情は、兄である甲斐那にだけ感じられた。
安堵と、それと等分の失望。
ロイドは声を震わせて、手にした剣を握り締める。
「ミューゼル、君は………君は、まさか」
「下がれ」
甲斐那は震電を引き抜いて、ロイドの前に立ち塞がった。
「ミューゼル…違うと言ってくれ!」
「あら、ロイ」
ゆっくり振り返ったその瞳は。
微笑の一片も存在しない、氷のような緋色。
「邪魔ね………殺ってちょうだい」
「ミュ…」
一瞬の風が、ロイドの身体を凪いだ。
飛沫のように、霧のように舞い散る赤の中で、ロイドはミュウの口元の微笑を見た。
学園は水を打ったような沈黙に支配された。
重く張り詰めた緊張感の中で、だからこそ僅かな喚きが細波のように伝播している。
教師側が危惧していたパニックは生じなかった。
生徒たちにしてみれば、状況などすぐに理解できるわけがなかった。
普通の生徒にとっての心配事とは、勉学の成績や、食堂での昼飯の確保、つまりはそういった日常的なイベントなのだから。
世界を滅ぼす魔王が復活したとして、何を怖がれば良いのかも解りはしないのだ。
聖誕祭の総てのイベントは中止になり、生徒達は其々の教室での臨時ホームルームに呼び出されていた。
事実がそのまま伝えられた。
魔王復活。
そして、魔王は学園のダンジョン施設最下層に潜伏し、今なお完全な復活に備えている事。
ダンジョンは時空間を組替える機能を有しているが故に、異次元から魔王を召喚するのにも好都合なのであろう。
「………それじゃあ、最初からこの学園に魔王が復活するって解ってたんですか?」
硬く、ささくれた口調で委員長が問い掛ける。
幾つものクラスの中で、恐らく三年A組は最も空気の比重が重かった。
「いえ、そうではありません」
いつもは冷静なベネット先生の表情も青ざめていた。
「可能性としての候補地に挙がっていたことは確かですが、確率としては極小とされていました」
「でも、それでも! ロイド君、斬られたって」
「無論、我々としても、黙って手を拱いていた訳ではない」
沈痛な表情で言い掛けたベネット先生を制し、隣で腕を組んでいたディクソン宰相が踏み出す。
「万が一に備え、考えられる限りの準備をしてきた。既に王国騎士団、及び宮廷魔術師団がこちらに向かっている。君たち一般人が心配する必要はない」
「これから、一時的に学園は閉鎖されますが、幸い冬期休暇期間に入りますので、全校生徒は実家の方へ帰宅して下さい」
「このまま、家に帰れってのか?」
「………まあ。実際、僕達に何が出来るって訳じゃないだろうからね」
「あの、それじゃ…魔王は、学園はどうなるんですか?」
「この学校のダンジョンは…明日の正午をもって、封印されます」
「100年の時間封印だ。そのための準備は既に完了している」
時間封印とは、局地的に時間の流れを遅くする魔法だ。
実行されれば、ダンジョンの最深部から地上に戻るまで、実感はなくとも100年の時間が経過する事になる。
魔法の施行対象はダンジョンを含めた空間自体であり、内部からは如何なる手段を持ってしても解呪する事は出来ない。
たとえ相手が魔王であっても。
ディクソン宰相は髭を撫でながら、自慢げに胸を張った。
「100年もあれば、十分に復活した魔王への対策が取れるだろう。諸君等は何も心配する事はない」
その時。
教室の空気に満ちたのは、安堵、だったろうか。
「………ミュウは」
それまで俯いていたカイトは、天井から吊るされた人形のように起立した。
喉が嫌になるほど乾いて、唾を飲んで言い直す。
「ミュウはどうなるんですか?」
誰も触れようとしなかった、誰も視線を向けようとしなかったカイトの言葉に、沈黙が落ちた。
「そ、それは…」
弾かれたように顔を上げたベネット先生だが、それだけで言葉を失う。
「見捨て、るんですか?」
「それは…」
「勿論、一緒に封印する事になる。そのミューゼルという生徒が、魔王の肉体として選ばれたのは間違いないだろう」
「それは、ミュウを…見殺しにする、ってコトですか?」
「私個人の意思ではない。………これはベルビアの、ひいては世界のため」
「………」
「仕方のない事なのだ」
何だヨ、それは。
何だ、何なんだよ。
ディクソン宰相はカイトの震える肩に手を置き、もう一度台詞を繰り返した。
「仕方のない事なんだ」
「ふざけ…」
カイトは唇を噛み締め、肩に乗せられた手を振り払った。
「ふざけんじゃねぇよ! ミュウは…」
「相羽君っ」
「ミュウは、俺の大事な幼馴染だぞ………? それを、仕方ないって、何だよ?」
大事な、一番大事にしたいって、思ってる人なんだ。
それを。
「仕方ないって、何なんだよ! そんな言葉で片付けられて堪るかよ!」
「王国としての決定事項だ。………今更、どうしようもない」
「―――ッ、の野郎!!」
カイトは大声で怒鳴ると、そのまま拳を振り回した。
悲鳴と、机の倒れる音と、扉の開く音と。
「…相羽、止せ!」
「やめて! 相羽君」
「誰か、こいつを取り押さえろ!」
廊下から入ってきた数人の兵士が、カイトの腕を捻り上げるように床に押さえつける。
「きゃあ!」
「てめぇら! クラスメートに乱暴すんじゃねえよ」
「止めなさい! みんな」
ディクソン宰相は、尻餅をついたまま腫れた口元を拭った。
その顔が真赤に染まっていた。
「コイツを…拘束しろ!」
「ディクソン宰相っ! それは余りにも…」
「これは命令だ! さっさと連れ出せ」
「…ちくしょう、ミュウ………ミュウ」
ごちゃ混ぜになった音と、視界と、感情の中で。
ただ、無力さを噛み締めていた。
気が付くと、周囲は薄暗くなっていた。
「ぐっ…」
身体を起こす時に、胸に鋭い痛みが走った。
それでもベッドから身体を引き剥がし、床に足をつける。
剥き出しの上半身に巻かれた包帯を取り払うと、傷は一応癒着しているようだった。
もっとも治癒法術によって、辛うじて表面のダメージを消しているだけだ。
だが、手足は動く、剣も枕元に置いてある。
何も問題はない。
「………行くの?」
「………ああ」
背後から声を掛けられ、それでも振り返りはしない。
カーテンの向こう。
ベッドの脇に置かれた椅子に、ひとりの女生徒が座っていた。
「別に、貴方が行く義理はないんじゃない?」
「………そうだな」
「ミュウは、貴方の彼女じゃないんだよ?」
「………そうだな」
上着を羽織り、剣を腰に提げる。
「じゃあ! 何で貴方が行かなきゃらないのよっ」
「………友を助けるのに、何か理由が必要なのか?」
「あ、相羽君が、ミュウを助けに行くって言うの?」
「行くさ」
即答し、最後まで振り返らずに保健室を後にした。
「………馬鹿、だよ」
膝の上で握られた手の上に、雫が零れた。
牢屋、等という物は学園にあるわけはなかったが、それに似た物は存在している。
反省座禅室。
ていうか、窓に鉄格子もはめられた、立派な牢獄だ。
六畳の部屋の真中で、カイトは胡座をかいたまま俯いて座り込んでいた。
入り口から何か言い争いのような声が聞こえたが、身動ぎもしない。
そして、ノックの後、返事を持たずに扉が開かれた。
「………入りますよ? 相羽君」
薄暗い部屋に、明かりが灯される。
ベネット先生は入り口に立った兵士に頷くと、中に入って扉を閉めた。
時計も、一切の家具も存在しない、部屋の中。
「落ち込むのも解るけど、仕方ないわ………」
「………先生も」
俯いたまま呟いた。
「先生も仕方ないって、言うんだな………」
仕方がないんだと、皆が諦めろって、皆が自分で自分に言い聞かせてる。
でも、幾ら考えても。
ずっと、考えてたけれど。
「………俺、仕方ないなんて、思えなくて」
「相羽…君」
「だから、俺…行かなきゃ」
顔を上げて向き合う。
諦めや、自暴自棄や、慰めではなくて。
真っ直ぐな意思。
ベネット先生は視線を外して、手にした荷物を畳に置いた。
「………ミューゼルさんの荷物です。貴方に預けるのが、良いと判断しました」
「…」
「後は、これを」
ベネット先生は懐から、鎖のついた銀の円盤を取り出し、カイトに握らせた。
アミュレットに刻み込まれた呪紋の文字は、カイトの乏しい魔法知識でも解読できた。
それは空間転移、テレポート能力が封じられた遺失系アイテムの一種だ。
怪訝な顔をするカイトに、ベネット先生は声を抑えて告げた。
「…その時がきたら、これを地面に叩き付けなさい…」
「………先生」
「必ず、生きて戻りなさい」
その時。
再び入り口で、何か言い争うような音が聞こえた。
そして、何かボクン、という鈍い音。
「………あの、乱暴は」
「………なぁに、ちょっとしたコミュニケーションだぜ」
「………野蛮だね。大体、僕は肉体労働担当じゃないのに」
「………あれれ。鍵は開いてるようだね。シロアリかな、あはは」
ガチャリ、と開かれた扉の向こうと、目が合った。
「あ、貴方たち…」
ベネット先生は自分の担当クラスの面々に、こめかみを押さえてうめいた。
「クーガー君、しんご君に…クレアさんや苅部君まで」
「先生、ミュウを見殺しになんて、私達には出来ません」
「クラスメートを放って、のんびりとなんかしてらんねえぜ」
「僕としては、多少不本意な部分もあるんですが、クラス全員の総意には逆らえませんからね」
「ヤダなぁ、ホント、ボクは無理やり連行されてきたんですよ、先生」
ベネット先生は生徒達の思い(約一名を除いて)に胸を震わせた。
「………教師として、貴方達の行動を認める事は出来ません」
「先生っ!」
「教え子が誤った道に進むのを正すのが、教師の役目です」
ベネット先生は眼鏡を外し、背中を向けた。
「ですから、もしも………生徒が正しい答えを、選択していたとしたら。私に、それを訂正するのは許されない事なのでしょう」
「先生、何をおっしゃりたいのか、ボクには最早ナニが何だが………アウチ!」
「このボケ男が。見て見ぬフリしてくれるってんだよ」
「スマートじゃないな、君も。出せない台詞を言葉にするかい?」
「相場君…」
クレアは一見、全然調子の合わない仲間に苦笑し、カイトに右手を差し出した。
呆然と座り込んだままのカイトは、迷子の子供のような瞳で見返している。
「行こ? ミュウを助けに」
「みんな………」
「おめぇが行かなきゃ、話になんねーだろ」
クーガーがカイトの胸を叩くように、零式を押し付ける。
「行くのかい? 止めるのかい? 決めるのは、君だよ」
苅部の台詞にカイトは立ち上がって頷いた。
答えなら、もうずっと昔に出ているんだから。
桜の舞う、あの季節に。
「行くさ! 感謝するぜ、みんな」
「なになに、借りは後で返してもらうからね。身体で」
人畜無害な笑顔で、親しげに肩を抱いてくるしんごは、とりあえず置いておくとして。
「先生、ミュウの荷物は、アイツの部屋に戻しといてくれよな。必ず連れて帰るから」
背中を向けたまま、返事も身動ぎもしないベネット先生に頭を下げる。
そして、床に置かれたミュウのバックの中から、記憶のスミに引っかかる懐かしいソレを見つける。
それは、焼けて茶色に変色した、小さな古い、手帳。
他人には解読できないほどに、拙い文字で書かれた、約束の手帳。
カイトは酷く、何か納得した気持ちになった。
自分が何故、此処に居るのか。
自分が何故、冒険者を目指したのか。
自分とミュウが何故、此処で同じ道を歩いているのか。
遠い昔に交わして、忘れていた大切な約束を。
もし、運命なんてのが存在するのなら、この手帳に今めぐり合わせてくれた事に感謝しよう。
大事な約束を思い出させてくれて、サンキューだ。
だから、今、俺は行こう。
カイトは手帳を胸に収めると、一歩を踏み出した。
「必ず、帰ってきなさい………」
ベネット先生は目を閉じたまま、気配の消えた背後に祈った。
たとえ、それが時を越えた世界だったとしても。
夜の学園は、まるで祭りのように騒がしく始まっていた。
「な、何だぁ! コイツらは」
「えっ…モンスターが一杯」
学園のあちこちから、ザワメキが生まれていく。
次々と実体化していくモンスターの召喚は、かがり火のように映った。
もっともそのおかげで、学園に駐屯している僅かの王国戦士団が足止めされ、カイトたちが呼び止められる事はなかった。
「これは…学園祭の…時と…同じ…」
駆け足だけでバテる苅部が、途切れ途切れの感想を述べる。
「ああ」
頷いたカイトが零式の鳥羽口を切る。
先頭を走るクーガーを追い抜き、実体化しかけていたクライドラゴンを一刀両断する。
だが、全く同じではない。
召喚されるモンスターは、学園祭の時は比べ物にならないくらい深く、暗い領域の魔物だった。
渡り廊下を抜けてグラウンドに出た時には、学園の敷地にモンスターが溢れていた。
「あれは…学生寮にまで騒ぎが広がっているようだね〜」
「そんな! 下級生の子達は、まだモンスターとなんか戦えないのにっ」
就寝時間を過ぎており、三年生の応戦も疎らだった。
カイトは足を止めて、クラスメートを振り返った。
「おいっ、俺達も急がねぇと…」
「皆はサ、あっち…向かってくれよ」
カイトは悲鳴の混じり始めた学生寮の方を指差した。
もう一度、巡り合わせって奴に感謝しなきゃ。
こんな、最高に馬鹿なクラスメート達と一緒になったコト。
そして。
「お前ぇひとりじゃ、無理だぜ!」
カイトは黙って頭を振った。
独りじゃない、から。
「やあ、助けが…必要かい?」
「ロイド君!?」
「げ、ロイド…お前ぇ切られたんじゃねえのか?」
校舎の影に寄りかかるように、銀髪の騎士が立っていた。
胸の包帯も毟り取り、着乱れた姿でも颯爽と。
「来ると、解ってた」
「ああ」
ロイドはカイトの即答に笑って頷いた。
「チカラ、貸してくれ」
「その為に、僕はここに居る」
「チッ………美味しいトコ持っていきやがる」
ハルバードを肩に担いだクーガーが苦笑いする。
「その意見には同感。ま、人には其々役目ってのがあるってコトだろうね」
「ははは、それならボクは狂言回しって所だろうね」
「………自覚あったのね」
「みんな、アリガトな」
こんな状況だってのに、凄い嬉しいなんて、俺はどっか可笑しいのかもしれない。
だから、自然に礼の言葉が漏れた。
「馬鹿野郎、縁起でもねえ」
「頑張ってね。こっちは私達に任せて。必ず、ミュウを助けてね!」
そして、もうひとり。
クーガー達と入れ替わるように、寮の明かりを背に立ち尽くす小さな影。
「………ミュウを助けに行くんだ?」
「コレット、身体は…」
「仮病に決まってるじゃない」
トコトコとカイトの目の前にまで歩み寄って、見上げる。
「行きましょ」
「コレット―――」
「アタシにね、ミュウがね」
コレットは赤く指形が浮かんだ首筋に触れた。
それはけしてコレットの首を絞めようとした訳ではなかったのかもしれない。
「………助けて、って言ったの」
最後の正気で恨み言ではなく、親友へ助けを求めた。
「私、助けに行かなきゃ………ミュウは一番の、やっぱり大事な親友なんだもん!」
「当たり…前だろ」
カイトはコレットの頭を掴んで、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。
理由なんてのは、人それぞれで傲慢で我侭で理不尽で、いいんだと思う。
正しい事をしようなんて考えるから、足が止まる。
善悪の判断は、誰かから何時か渡される通知書みたいなものだ。
「カイト。今の僕達に、時間は金よりも大事だ」
「ああ、行こう」
真っ直ぐグラウンドを駆け抜けて、ダンジョン施設へと急ぐ。
「人だかり…?」
「王国騎士団…ではないだろう、な。まだ到着していない筈だ」
カイトも頷いて、ダンジョン施設を遠巻きにしてたむろしている人影を捉えた。
「誰でも良いさ。………邪魔はさせない」
「お任せ!」
コレットが承知とばかりに、ボルトワンドを引っ張り出す。
「待ちたまえ! 何で君らは、そう短絡的なんだ…」
「暴力は、手っ取り早く物事を押し通す最良手段!」
「力説すんなよな…」
「大体、話が通じそうな奴じゃないよ」
「き、貴様たち、一体どうしてココへ!?」
照明に先頭に立ったその男の顔が映し出された時、カイトはコレットの意見が正しかったんじゃないかと後悔した。
ディクソン宰相、そしてベネット先生を除いた、学園の実技担当教師陣。
こんな時でもにこやかなレパード剣術教師が振り返った。
「や。来たね」
「センセ…どいてくれ。俺、その中に大事な用があるんだ」
「ば、馬鹿な事を言うな。子供の遊びじゃないんだぞ!」
「吠えないでよね。おじさん」
コレットが的確な言葉の暴力で宰相を黙らせる。
「助けに行くのかい、あの娘を?」
「俺の大切な人なんだ」
「相手は魔王なんだよ?」
「魔王じゃない…ミューゼルっていう、俺の幼馴染で、要領が悪くて、フツーの女の子だ」
「死ぬかもしれないよ?」
「ココで立ち止まってるなら、死んだ方がマシなんだ」
自暴自棄でも感情暴走でもなく。
カイトの瞳が語るのは、絶対の意思だった。
善悪も正誤も関係ない、不撤退の決意。
「先生、僕達を行かせて下さい!」
「まあまあ、少しは落ち着きなさいネ」
ロニィ先生がさり気なくあしらうように手を振る。
「私達にはどうしようもない、そうネ…硬直状態になっているんだから」
「結、界?」
目を細めて施設を見ていたコレットが、適当な石を投げ込んだ。
弾かれる、というより、ある一線で空間に張り付くように停止する。
「そう、結界だね。空間だけじゃなくて、時間粒子すら遮蔽してるようだね。こんな完璧な結界は、ついぞお目にかかった事がないね」
「まさか、もう時間封印を!?」
「それは間違いだよ。これは内部から張られた結界だ。恐らく学園の異変と同時期にね」
バド教師は眼鏡を押さえ、疲れたように溜息を吐いた。
「見通しが甘かったようだね。彼等はダンジョンを通常の空間から隔離する事で異界に近づけ、魔王本体を降臨させる降魔の儀式を成就させるつもりだろう。………やれやれ、すべてが裏目に出るね」
時間封印のための術式を、逆利用されたのだ。
「拳が通用せんのでは出番がない。くぅ、無念だ」
「と、言う訳だ。いい加減、諦めたまえ」
「………『結界』、に覆われてるなら、ダンジョン内のモンスターが出現してるのは、どういうコトなんですか?」
「学園祭の時と同じだよ。聞いていなかったのかい? ダンジョンの隔壁を、空間ごと切り裂いて学園に繋げているらしい。そんなコトがどうやって出来るのか、解らないけれどね」
ああ、そっか。
やっぱ、そうなんだ。
カイトは結界の手前で立ち尽くすように、その領域を見詰める。
こんな凄い結界、一度しか見た事が、ない。
そして、こんな結界を空間ごと『切り裂ける』ような人も、ひとりしか知らない。
この先に、あの兄妹が待ってる。
そして、ミュウも。
「カイトぉ………」
振り返ったカイトの泣きそうな微笑に、コレットが胸を押さえて俯く。
「カイト、これでは確かに…」
沈痛な表情のロイドに頭を振って、カイトは教師陣に告げた。
「先生………俺、やっぱ行かなきゃ。色々、待たせてる人が居るんだ」
「貴様、馬鹿か? 話を聞いて…」
「黙ってて、ディクソンちゃん」
零式を引き抜き、夜空を見上げるように十字に起つ。
風が冷たい。
月の光が、シンシンと降り注ぐ夜空に、どこからか紛れ込んだ雪の結晶がちらついた。
壁のようにそびえる『界』の絲繭は綺麗で。
継ぎ目のひとつもないような、硬く、切ないほどに繊細に編まれた壁。
それでも、編み出した人のココロを映し出しているように。
優しい、柔らかさと脆さが、其処に。
一筋の糸のように。
「行くよ………甲斐那さん、刹那さん」
上段に構えた零式を、頭上に高く高く掲げ。
月を割るほどに高く掲げられた刃が、空を『斬った』。
百本の剣を叩き割ったような音と共に空間が共振し、爆ぜ割れた空気が帯電した閃光を走らせた。
「クうッ…!!」
「きゃ!」
「カイト…っ!」
氷のように砕け散る零式の刃の先に、空が切り取られた裂け目が広がっていた。
初めて目にする、だが確実にダンジョンの内部の景色。
「ば、馬鹿な………」
「弐堂式戦闘術。絶招・刃之極………『絶空』」
腰を抜かしてへたり込む宰相の隣で、レパードは感嘆の思いで呟いた。
古の勇者と神が魔王と戦うために編み出した戦闘技術。
「カイト、大丈夫か?」
「ああ。行ける、ぜ…これで。………覚悟は?」
「あったりまえ!」
「勿論だ! 先に行くぞ」
ロイドは不安定な空間の裂け目に、迷わず飛び込んでいった。
次いで、思い切り助走をつけたコレットが飛び込む。
カイトは砕け散った零式に黙礼し、痺れた手から滑り落とした。
閉じかけた空間の裂け目に踏み出す。
「カイト!」
呼びかけに振り向きかけたカイトは、反射的に投げられたそれを受け止めた。
一振りの、それは刀。
黒漆塗りの鞘に収められた、古びた太刀。
「持って行きなさい。君にあげよう」
「サンキュ! 先生」
ジャージ姿の教師に礼を言い、そのまま踏む込む。
迷わずに、一直線に。
カイトが飛び込むのを待っていたように、空間の裂け目が消失する。
「頑張りなさい」
「レパード………将軍! 貴方はなんというコトをしてくれたのです!」
ディクソン宰相の呼びかけに苦笑し、レパードは苦笑して頬を掻いた。
「あれは彼が受け継ぐべき物だよ」
「しかし、ですな。御神刀『富嶽』は、代々ベルビア王国に伝わる神器。対魔王戦用の切り札で」
「だったら尚更、今の彼らに必要でしょうね」
「バド、大神官まで…」
「罪滅ぼしになるのかは、解りませんが。本来なら、魔王の依代となるのは私の筈だったのだけれどね」
王国は魔王復活に備え、準備を怠ってはいなかった。
だが、それら総ての思惑を嘲笑うかのように、最悪の方向へと舞台は傾いていった。
少なくとも、ディクソン宰相には、そのようにしか思えなかった。
「あんな、子供達に、何が出来ると………」
「あらあら♪ 貴方も学生の時は、あの子達のように後先なんて考えずに走り出していたのよ?」
「ロニィ…先生」
途方にくれたような宰相の肩を、ロニィ先生は優しく叩いた。
「さあサ。落ち込んでいる暇なんてないわ。世界の運命なんて面倒臭いものは若い子達にうっちゃって、私達はゴミ掃除をしなくっちゃネ」
一筋の赤く、黒い血が、白魚のような指先から流れ落ちた。
痛みも感じないほどに、鮮やかな切れ口。
刹那は閉じていた目を開き、魔水晶から手を放した。
そして、ゆっくりと振り返り、大きな扉の前で腕を組んで立ち尽くす人影に告げた。
「…来ました」
「…そう、か」
それは、ふたりにとって確認だった。
希望と願望。
過ぎ去った、捨て去った物への追憶。
そして、許されるのならば、一筋の希望を。
濃密な闇の胎動が、まるで穢れた子守唄のように満ちていた。
運命の交差点で待っている。
過去と現在と、これから訪れる未来を選び取る者を。