ぱすてるチャイム
Pastel Chime

アナザーシーズン
Another-Season
〜もうひとつの恋の季節〜







第[章 Count Down






 秋晴れの空の下、賑やかな音が舞弦学園のあちこちから聞こえる。
 トンカチの音。
 気合を入れる掛け声。
 元気の良い女子の呼び込みの声。
 秋も深まる心地よい季節。
 舞弦学園では学園祭が開催されていた。
「割と、ウチのガッコってお祭り好きだよな」
「そうだね。普通の進学校とはちょっと違うから」
 冒険技能訓練学校は即戦力となる冒険者育成を掲げている。
 普通なら大学進学に追い込みを掛けるこの時期でも、学校行事に力を注ぐ余裕があるのだ。
 最も『冒険者資格』を獲得するのも簡単では無い。
 卒業後の進路も、全員が冒険者として新大陸に赴くわけではない。
 ベルビア王国軍に入隊する者、王国防衛大学への進学を希望する者、家業を継ぐ者と千差万別だ。
 ふたりで適度に賑やかな廊下を並んで歩きながら、カイトは何となく隣を見る。
 桜色の髪を黄色のリボンで纏めたミュウは、ただ並んで歩いているだけで何となく嬉しそうに見えた。
 ミュウの成績は相変わらず学年でトップクラスを維持している。
 そして自分は相変わらず鳴かず飛ばずといった体たらくだ。
 実力といった方面では、以前の自分とは比べ物にならないぐらいレベルアップしたし、自信が無いといえば嘘になる。
 だが、どうも自分は要領良く単位を稼ぐというコトが苦手だ。
 来年の今頃、いや、舞弦学園を卒業した後。
 俺とミュウは、こうして並んで歩いている事が出来るのだろうか。
「どうしたの?」
「いや、別に…」
 それだけ呟いて頬を掻くカイトの手を、ミュウは自然に握った。
 照れから反射的に振り解こうとして、思い留まる。
 カイトは自分で苦笑した。
 そして、その手を握り返す。
 それだけで不安な気持ちが消える。
 幻かもしれないけれど、確かに気持ちが通じた気がした。
 こんなにも簡単な事が出来なかったから、今までミュウを傷つけてしまった。
「いや………これから、どこ見回ろっか?」
「う〜ん、そうだね。カイト君に任せるよ」
「あ! 居た居た。おふたりさ〜ん、やっと見つけた」
 廊下を駆ける元気のいい足音。
 ほぼ全力疾走に近い。
 『廊下は走らないようにしましょう』というポスターの意味を、コイツには熟考していただきたい。
「来たよ………必要以上に元気なヤツが」
 眉間を押さえて俯いたカイトは、イヤイヤながらも振り返った。
「き・た・よ…オォ!!」
 ダン・ダン・ダンッ! とリズム良く踏み込んだコレットは、半身になってカイトの懐に潜り込む。
 阿呆のように無防備に棒立ちなカイトは、その小さい姿を捉えるコトができなかった。
 くの字に曲げた左腕を、下からエグり込むように。
 コレットは速力と踏み込みによる衝撃を乗せた肘を、真っ直ぐにカイトのミゾオチに叩き込んだ。
「げほお!!」
 ゴツンでもガツンでもなく、ドボンという打撃音がした。
 カイトは足元に崩れると、四肢をビクン…ビクン…とイイ感じで痙攣させる。
 吹っ飛ばされずに足元に倒れたのは、肘打の衝撃がほとんどカイトの体内に撃ち込まれたからだ。
 体育教師のティオあたりが今のコレットの技を見れば、『見事』と男泣きに泣いたかもしれない。
 まぁ、誉められてもウザイだけだろーが。
「ちょお必殺・ちゅーしんちゅう! イイ感じイイ感じぃ」
「コ…コレット、ったら」
「あ、ミュウ、見た見た? アタシの新必殺技。やっぱ、これからの時代、魔法使いも武術くらい出来なくっちゃネ!」
「ネ………じゃなくって」
「…ッカ、かは……ハ…」
 のた打ち回るコトも呼吸も出来ないカイトは、暗転しそうになる意識を必死に堪える。
「あはは、何してんのばカイト。口パクパクさせて金魚のマネっこ?」
「…こ…コロす」
 ていうか絶対殺す、百回殺す、必ず殺す。
「あ、そうそう。はい、これミュウの分ね。学園祭実行委員会発行のフリーチケットだよ」
「こんなにいっぱい、どうしたの?」
「えへへ。ベネット先生からね。実習やら雑用の手伝いのお礼だって貰っちゃった♪」
「私にも良いのかな?」
「うん。半分ミュウにって渡されたから」
「…ほ、ホントは…おめ〜が上前をハネて………げふう!」
「ささ! 行こ、ミュウ。焼きソバ、たこ焼き、ワタアメ、リンゴ飴、チョコバナナぁ、どんどん焼き〜♪」
「……全部食いモンか…食っても育つコトね〜のに………ごふう!」
「なんか足元がウザイわね。黙れ、ていうか潰れろ」
 ゴリゴリゴリ…と床とコレットの上履きの間で、凄く良くない感じの音がした。
「こ、コレット。頭はまずいんじゃないかしら、その………直踏みは」
 解ってるなら、なぜ止めてくれないのだろうか。
 カイトはミュウの愛情に、そこはかとない疑惑を抱いた。
「コレット、お前なぁ! マジで泣かすぞ。冗談でもやっていいコトと悪いコトが」
「今日はアタシが奢ってあげるね」
「………まぁ、ささいなコトで腹を立てるのも、大人気ないコトだ」
 弱え。
 アリンコより弱えよ、俺の意地は。
 カイトは窓枠に肘を乗せ、涙で滲んで見える青空を仰いだ。
「あはは、どうでもいーじゃない? そんなササイナコトはさ。今日は遊ぼ? 目一杯ね!」
「お、おい!」
「コレット…?」
 コレットは右手にカイト、左手にミュウの腕を捕まえると、そのまま駆け出した。
「ほらぁ! 二人ともぼさっとしてないで、行っくわよ」
 カイトとミュウはお互いの顔を見合わせ。
 同時に吹き出した。
「急がなくとも出店は逃げやしないぜ?」
「コレットったら、そんなに引っ張らないで」





 ニコニコと楽しそうなふたりの後ろを、げんなりとした顔のカイトが付き従っている。
 中庭に面した渡り廊下を、なんとはなしに散策する。
 中庭にはカイト達と同じ、休憩にきた生徒が散らばっていた。
「あ〜楽しかった」
「うん、楽しかったね」
「お腹も一杯になったしね。後は甘いものぐらいしか入んないよ」
「ほお………甘いモノ、ときたね?」
「うん。フラッペとか、両国焼きとか、ベッコウ飴とか、アイスとか、チョコバナナくらいならイケるよ」
 カイトは両手に掲げ持ったビニールブクロを見せた。
「この戦利品の始末はどーするんだ?」
「奢ってあげるって言ったでしょ♪」
「いくら俺でも、味噌田楽を百本も二百本も食えるか!」
「あ、はは…だから、途中で止めようって言ったのに」
「う〜ん。何でか止められなくなっちゃうのよね。あの『田楽クジ』は」
 一応説明しよう。
 『味噌田楽』とは、普通の板コンニャクを薄切りにした物を竹串に刺し、湯を張った鍋で温め、同じ鍋で温めた味噌タレに突っ込んで出す、というダケの代物だ。
 『田楽クジ』とは、その『味噌田楽』を子供の玩具のようなルーレットを回して貰える本数を決めるのだ。
 つまり、同じ金額を支払っても、一本だけの時もあるし、五〇本貰える時もあるのである。
 下手に友人と一緒にこの『田楽クジ』をやったりすると、勝つまで止めない、という恐ろしい現象が生じる。
 何が恐ろしいかというと、所詮『味噌田楽』は、味噌を付けたコンニャクに過ぎないということである。
 はっきり言って、美味い代物ではない。
 そんな『田楽クジ』をコレットのような奴がやると。
「………こんな有様になるわけだ」
 カイトは味噌塗れの大量のコンニャクを手に溜息を吐いた。
「欲しい人にあげちゃうとか?」
「冷めた味噌田楽を食いたがる奴がいるとは思えないんだが」
「も〜最近の子供はすっかり贅沢になっちゃって。勿体無いお化けが出るわよ!」
「婆ムサイ………ってーか、お前ほんとに幾つなんだよ」
「うーん。でも、本当にどうしようか?」
「食べないんだったら、カイトが使ったらいいんじゃない?」
「食えないって、言ってるだろ」
「だからぁ、他の使い道…とか、あるんじゃない? カイトの場合」
 コンニャクに食らう以外の使い道があるのかと、ミュウは小首を傾げて頭上にクエスチョンマークを浮かべる。
 が、カイトは赤面してコレットの頭を殴った。
「い、痛いじゃない! ゴン、って音がしたわよ、ゴンって!」
「ば、馬鹿野郎! おめーが詰まらねーコト言うからだ」
「反応したってコトは、アンタだって使った経験があるってコトじゃない!」
「だっ…大体な、あれは板コンの塊として使うんであって、こんな細切れで味噌塗れの田楽じゃ………て、何言わせんだ、このエロ餓鬼」
「勝手に力説して、人のせーにしないでよね! このエロがっぱ!」
「………くす…」
 話の流れがわからずオロオロしていたミュウは、小さな笑い声に慌てて振り返った。
 気配もなく、足音もさせず、最初からそこに佇んでいたように。
 黒い制服に身を包んだ兄妹が立っていた。
 訳もなく。
 本当に訳もなく、『怖い』とミュウは感じた。
「甲斐那さん! 刹那さん!」
「やあ」
「………カイト、知り合い?」
 口喧嘩を見られて赤面したコレットが、カイトの袖を引っ張る。
「ああ。そっか、話した事無かったっけか。式堂 甲斐那さんと、刹那さん。無理言って、稽古つけて貰ってるんだ」
「そんな、大層なものではない。私も楽しませてもらっている」
「ええ、そうですわ」
 落ち着いた雰囲気を身に纏ったふたりに、コレットは溜息を漏らした。
 制服を着ているということは恐らく同年代であろうが、老成したような気配に怯んでしまいそうになる。
 それに、何処かで。
 何時か、何処かで、ふたりに逢っているような、そんな気がした。
『そんな訳、ないわよね。ボケてるかな、あたし? カイトじゃあるまいし』
 頬を掻いたコレットは、隣で立ち尽くしているミュウに気づいた。
 後退るように硬直し、胸の前で組み合わせた手が震えている。
 視線の先には、カイトと談笑している兄妹がいるだけだった。
「………ところでカイト。私達にも紹介してもらえないか?」
「ああ、ゴメン。こっちの、ちっちゃいコレがコレット」
「誰が『ちっちゃいコレ』なのよ!」
 コレットはガス、とカイトの背中に蹴りを入れる。
「ふふ…よろしく、コレットさん」
「あ、はい。こっちこそ…よろしく」
 たおやかに刹那から微笑まれ、コレットは何となく赤面して頭を下げる。
 カイトは地面から顔を上げ、ふたりを見比べる。
 同じハーフエルフでも、見かけも性格も全くと言っていいほど違う。
 特に性格が。
 カイトは再び踏みつけられる前にミュウの側に避難した。
「で、こっちがミュウ。俺の幼馴染で………その、彼女。一応」
「一応…って、アンタね」
 頭を抱えるコレットに、くすり…と刹那が微笑む。
 そして、細く白い白魚のような手を、ミュウに差し出した。
「始めまして、ミューゼルさん。刹那と申します」
「あ、え…はい」
 固まっていたミュウは自分の名前を呼ばれてビクっと震えた。
 そして、差し出された手に気づいて、慌ててそれを握り返す。
 もう一度、震えた。
 その手の冷たさに。
 握手をしたまま、刹那の顔を見返す。
 端正な、まるで人形のように整った容姿に、痛ましいような、哀れんでいるような表情が浮かんで、消える。
「甲斐那さん達は学園祭に遊びにきてくれたんだろ? 良かったら俺達が案内するぜ」
「有難う。だが、少しばかり覗きに来ただけなのだ。直ぐに暇するつもりだ」
「そ…っか、たまには俺にも恩返しさせて貰いたいんだけどな」
 カイトは頭を掻いて苦笑した。
 式堂兄妹と出会って半年以上になるが、ふたりのプライベートというものを全く知らない。
 大抵、週に一度は訓練を受けているというのに、自分は何をしているのかと思わなくも無い。
 だが、感じるのだ。
 内面に踏み込ませない、壁のような空気を。
「じゃ、しょうがないか。今度はなんか奢らせてくれよな?」
「む。そうだな、楽しみにさせて貰おう」
「あ、多分しょぼいと思いますから、期待し過ぎるとガックリきますよ?」
 甲斐那は『ウメボシの刑』を受けて身悶えるコレットに苦笑し、妹を振り返った。
「刹那、そろそろ行こうか?」
「…はい。兄様」
 ミュウと無言のまま見詰め合っていた刹那は、小さく頷いた。
 逃げるコレットと追いかけるカイトに溜息を吐き、ミュウは小さく一礼して式堂兄妹から離れた。
「もぅ…カイト君もコレットも。騒がしくて御免なさい。じゃあ」
「ええ…また、お会いしましょう………」
 残されたふたりに、木の葉を乗せた風が吹く。
 秋の匂いと、微かなざわめきと共に。
 それは兄妹にとって、あまりにも遠い望郷の景色だった。
「………刹那」
「…はい。間違いないでしょう」
「そう、か」
 秋の陽だまりは、自分達の身体を温めはしない。
 解ってはいたが、それは酷く悲しい。
 甲斐那は日差しに手をかざして、青い空を見上げた。
「私は、悪人だな」
「いいえ、兄様………いいえ」
 小さく、しかし幾度も頭を振る刹那の、小さな肩に触れる。
 後悔こそ、下種というものであろう。
 総てを捨てたのだ、あの時に。
 そして、二度と戻れはしない。
「始めるぞ」
「は…い」
 刹那は何かを言いかけ、静かに頷いた。





「しっかし、特訓ね〜…カイトも似合わない事してたんだ」
「ぬかせ。俺は地道な努力家なのだ」
「うわぁ、自分でそゆコト言うんだ。頭の中も特訓してもらった方がいいんじゃない?」
「くっ………コレットも刹那さんみたいにオシトヤカになって貰いたいもんだなぁ?」
「ぐくっ。………でも、ま。実際、ちょっと憧れるかな、あーゆー大人びた雰囲気には」
 オレンジジュースのグラスを両手で押さえたコレットは、ほぅ…と溜息を漏らした。
 学園祭を一通り堪能した三人は、喫茶店を催している3年C組に来ていた。
 『学生喫茶どなどな』は他の喫茶店を催しているクラスに比べても、なかなかに気合が入っていると言えよう。
 話に聞いた限りでは、他のクラスがやっている『食逃げ喫茶ローキック』という喫茶店も流行っているらしいが、そこはそれとして。
 壁や天井にも花や紙輪が飾られ、普段の教室とは別物だった。
 何より手作りの制服まで用意しているとは、見事だとカイトは感心した。
 というか、自分的に物凄くOKであった。
 是非ミュウにも着て見せてもらいたい、と密かに思う。
「そう、かな?」
「ミュウ?」
 アイスミルクをストローでかき混ぜ、遠くを見るような目でミュウが呟く。
「あ…ゴメンなさい。でも、そーゆう風には見えなかったから」
 そう、刹那のあの表情は、大人びているのではなく。
 まるで、泣き出しそうな子供のようだった。
 迷子になってしまった、子供のような。
 そんな顔をしていた。
 何よりも、地平線に夕陽が沈んだ一瞬の、空の色のような瞳が。
 余りにも夜に近すぎる気がして。
 ぼんやりと、してしまいそうな程に不安になる。
「…ミュウ」
「そうか………竜胆に頼めば貸してくれるかもしれぬ」
 ミュウとコレットはジト目でカイトを睨んだ。
 その、だらしない顔を見れば、何を妄想してるのか一目瞭然だった。
「まったく、この男は………」
「あ、あはは」
 コレットは机に肘を突いて、呆れたように手を振る。
 ミュウも困ったように、少し乾いた笑いを漏らす。
「こんな馬鹿は取り合えず置いといて」
「え、う…うん」
 コレットは頬を掻いて視線を逸らすと、思い切り頭を下げた。
 オデコが机に着きそうなほど。
 吃驚するミュウに、コレットは震える声で告げた。
「一生のお願いなんだケド。その…カイトと、デートさせてくれない…かな?」
「あぁ………うん。いいよ」
 ニコリと微笑んで頷いたミュウは、アイスミルクを口に含んだ。
 その即答された答えと口調の穏やかさに、コレットはポカンと口を開ける。
「えーと、その………ホントに?」
「うん。今から、でいいのかな?」
「あ、アリガト…ゴメンね、ミュウ。…ちゃんと、後夜祭の時までには返すから」
 本当に許可が下りるとは思わなかったコレットは、赤面したまま俯く。
「ふふ…じゃあ、待ち合わせはその時にしましょう」
「うん。………それじゃ、借りてくね」
「ん」
 ミュウは微笑んだまま頷いた。
「ほいじゃ、行くわよ。ばカイト」
「…え、何が?」
 今の今まで妄想に耽っていたカイトは、いきなり首根っこを掴まれて慌てる。
「『何が?』じゃないの! さあって、思いっきり遊ぶわよ」
「ちょ、ちょい待て。な、何がどうなってんだ?」
「考える必要なし! アンタに決定権は無いんだから。さ、行っくわよ〜!」
「え、え、え? ちょっと待てえぇ!」
 とか言いつつ、カイトは首輪を引かれる犬のように連行されていった。
 ミュウは頬杖をついたまま、ひらひらと手を振って見送った。
 そして、小さな溜息をひとつ。
「………ホントに、良かったのかい?」
「うん。どうなんだろ? 私にもわかんない」
 ミュウは背後からの問いかけに、振り返らず苦笑した。
 ウェイトレス姿の竜胆は、ヤレヤレと頭を振って空になった椅子に座った。
「あたしは余り健全じゃない気がするんだけどサ…?」
「あはは」
「ったく、相羽の奴も優柔不断だからね」
「………………沙耶ちゃんも、本当は」
「え?」
 ミュウは偽りの微笑を浮かべたまま、何でもないと呟く。
 竜胆は訳もなくゾクリ、とした。
 夢見るような、熱に浮かされたような、不安定な色を浮かべたミュウの目に。
 夕暮れと、夜の狭間のような曖昧さ。
「ところで、沙耶ちゃん」
「な、なんだい?」
「今度、その制服貸してくれないかな?」





「………まだ喰うのか?」
「ふへ…ふぁひいぺね」
 猫のようにぽっぽ焼きを咥え(それも横にだ)、両手で大事そうに抱えたフラッペをシャクシャクとかき混ぜる。
「んぐ…いいじゃない。カイトに奢らせてるわけじゃないでしょ?」
「ベロが青い」
 まったく、ブルーハワイって奴はどうして、ああまで毒々しくグランブルーなのか。
 蛍光塗料じゃあるまいし。
 夜になると光るっぽいし、放射性廃棄物かあれは。
 どっちにしろ、身体に害毒があるとしか思えない。
 というカイトの舌は真っ赤だったりする。
「大体、こーゆー場合。男の子が奢ってくれるのが普通ってもんでしょ!?」
「俺がそんな金持ってるわけ無いだろ。普通は割り勘だ」
 自分で情けないが、声を大にして言いたい。
 だが、自分の甲斐性無しを認めているようで、クールを装いサラリと流す。
 これぞ大人の対応。
「でも…こーゆー場合は」
「人間の付き合いってのは、一方通行じゃないからな。まだ、経験が足りないね」
 我ながら、微妙に芯を外した、言い訳臭く聞こえないトコロがイイ感じ。
 ていうか、『こーゆー場合』って何だ。
 高速射砲のような反論が返ってくるかと思ったが、コレットは怯んだように俯いてしまった。
 言い過ぎたか?
 と、疑問を持つ前に、身体が勝手に防衛反応を示して身構えた。
 経験上、口論が行き詰まると、コレットは暴力に訴えると学習していた。
 ………なんか、調教された小動物みたいだ、俺。
 ふたりは暫し言葉の無いまま、それなりに騒がしい廊下を歩いた。
「しょうがないじゃない………」
「な、何がだよ」
 ナイフを突きつけられているようにビクつくカイトが、俯いたままのコレットを覗き見た。
「デートなんて…カイト以外としたコト無いもん………」
 思考硬直。
 原因は以下の三つだったと思う。
 ひとつは、休日にコレットと遊びに行ったのがデートだと思われていたコト。
 ふたつは、そりゃそうだ、と自分が納得したコト。
 みっつは、顔を伏せたコレットが耳の先まで赤くなっているのを見て『ああ、コイツやっぱ可愛い』と思ってしまったコト。
 つまりは今の状況も、『こーゆー場合』なんだろう。
 まずい、な。
 それは、まずいコトだ
 良く解らないけど、凄くまずい気がした。
「………カイト?」
 足を止めたカイトに気づいたコレットが振り返る。
 照れたような、甘えたい時の子猫のような顔。
 カイトはその顔を見て、躊躇いを打ち切った。
「戻ろうぜ」
「え…?」
「やっぱ、こーゆーのは良くない気がする」
 ぶっきらぼうに言って踵を返すカイトの手を、コレットは反射的に握り締めた。
 カイトは振り返らなかった。
 コレットがどんな顔をしているのか、知りたくなかったから。
「…えーっとね。ミュウに許可は取ったよ?」
「許可がどうとか言う、問題じゃない」
「……後夜祭までの時間でいいから」
「駄目だ」
「………あたしのコト、顔も見たくないくらい嫌いだった?」
「ッ…だから」
 だから駄目だって言うのが、何でコイツには解らないんだ。
 俺は多分、自分で思っているより、人から思われているより、ずっと弱い人間だから。
 俺は多分、自分で思っているより、人から思われているより、ずっと不器用な人間だから。
 だから、大事なものはひとつしか持てない。
 ひとつか、全部失うか、どっちかだ。
「あたしは何も望まないよ」
『この娘は何も望んでいない』
 それは嘘だろう。
 何らかの渇望が無ければ、人は行動する意味が無い。
 行動には目的が付随するものだ。
 物事には、意味が存在する。
 意識下であれ、無意識下であれ。
『ならば、何故?』
 カイトは頭を振って、唇を噛んだ。
『ならば、何故?』
 ならば、何故ミュウはこんなマネを許したんだろうか。
 俺を信頼しているのか、コレットを信頼しているのか、自らの想いの自信なのか、同情心なのか。
 それとも。
『試しているんだ、君を』
 試しているのか、俺を。
 それは、あまり愉快ではない想像だった。
 ミュウにどんな思惑があるにせよ、それは裏切りにも似た行為だろう。
 そうなら、面白い、乗ってやろうじゃないか。
 時間にすれば、一呼吸にも満たなかっただろう。
 手を離したカイトの背中を、コレットは不安げに見つめた。
「カイト…」
「………………奢りか?」
「ぇ…?」
 振り向いたカイトは、悪戯っ子の笑みを浮かべていた。
 コレットは一瞬呆け、意地悪っ子の笑みを浮かべる。
「冗談、でしょ。こっからは割り勘よ、ばカイト」
「けちんぼ」
「人の財布を当てにするなぁ!」
 ボコボコとカイトの背中を殴るコレットに、カイトは慌てて逃走を図る。
 本人達がどう思おうと、それはやはり酷く楽しげだった。





 体育館でアマチュアバンドコンテストを覗いた後、何となくブラブラと校内を連れ歩く。
 学園祭は一般開放されており、他校の生徒や父兄の姿もちらほらと見受けられた。
 背丈はコレットと同じぐらいの小学生の子供を、父親らしき人物が手を引いて歩いていた。
 すれ違う親子を目で追っていたコレットが、顔を前に向けたまま口を開いた。
「カイトはさ。ご両親とか、呼ばなかったの?」
「ああ、来てない」
 そもそも学園祭の事も知らせていない。
 わざわざ話すほどの事でもないと思ったからだ。
「教えてあげれば良かったのに。そしたら、絶対来てたよ」
 そうかもしれない。
 だとすれば尚更、報せは届けなかっただろうけれど。
 それは、何となく気恥ずかしい気がしたから。
「そういや、親父やお袋の顔見たのって、正月に実家に帰って以来だよな」
 カイトは頭上に手を組んで韜晦した。
 舞弦学園は全寮制ではないが、圧倒的に寮暮らしの生徒が多い。
 カイトにしても、帰る気になれば半日も掛からない距離だ。
 普通の住宅地にある、普通の家だ。
 代々サラリーマンという普通の家系に育った俺が、冒険者を目指していると知れた時、実は結構進路の事で両親ともめた事があったりもした。
 隣の家でも同じような悶着があったらしいのだが、その話を聞いた母親は逆に納得してたりした。
 今では結構、放任されている状況だ。
「まぁ、顔見せても何するわけじゃないし」
「そんなコト………ないよ。きっと」
「じゃあ、コレットの両親は来るのか? こねーんだろ」
 いつに無く絡んでくるコレットに対応し、からかうように冷やかす。
 で、言った瞬間後悔した。
 ハーフエルフのコレットは親父さんが人間で、お袋さんがエルフだったと思う。
 人種差別が無くなって久しいとはいえ、全く途絶えたわけじゃない。
 どんな時代でも、異端者は的にされるものだ。
 最近は本当に、コレットをハーフだなんて感じていなかったから、口が滑った。
 変な顔で黙り込んだカイトに、振り返ったコレットはクスリっと笑った。
「うん。カイトのコト、解ってるから。別に怒ってないよ? 逆に…ちょっと嬉しい、カナ」
「あ〜う………悪ィ」
「変な顔しないでよ。笑っちゃうじゃない」
 コレットは力を込めないでカイトの背中を叩く。
「まあ、確かにあたしも来てないしね。ていうか、来れないんだケド………」
「コレット…?」
「カイトさぁ〜ん」
 どこか遠くを見つめるようなコレットの呟きに、手を伸ばしかけたカイトの動きが止まる。
「カイトさぁ〜ん」
 たとえようも無くのんびりした呼び込み。
 こんな声で自分の名前を呼ぶ人物を、カイトはひとりしか知らない。
 視線をめぐらせた先には、教室の出入り口前に置かれた机に座った女生徒がいた。
 大きなメガネをかけた、緑色の髪をしたエルフ。
「セレス………何やってんだか」
 気づいてもらえたと解ったのか、ぱたぱたと手を振ってくる。
「カイトさん、偶然ですねー」
「まあ、偶然といえない事も無いだろうな」
 実習中のダンジョンではあるまいし。
 隣のクラスの前に座っているセレスと出会うのは、はたして偶然と判断していいものか。
「当番かい?」
「はい。受付けをですね、頼まれちゃいまして」
「そっか」
 何となく、その曖昧な笑顔から内情が知れる。
 あの金髪と黒髪の、性格の歪んでそうなふたり組みが本来の受付け担当に違いない。
 カイトは改めて3年B組の教室を見た。
 廊下に面した窓には暗幕。
 セレスの隣に立て掛けられた看板には『お化け屋敷・マジDEADはうす零號』の表記。
 入り口の扉に赤ペンキで書き殴られた『お前を殺す』の文字が、意味不明な癖に変に切実に訴えてくるようで、とってもイイ感じ。
 そういや、3年B組の担任はロニィ先生だったな。
「そっか、V−Bはお化け屋敷か」
「はい! それで、ですね………」
「じゃ、頑張って」
 カイトは迷わず、コレットの背中を押してその場から離れようとした。
「ああっ…待って、待って下さい」
「頼む、マジ勘弁してくれ。ていうか見逃してくれ」
「何よ? いいじゃん、カイト。面白そうだし、入ってみようよ」
「ば、馬鹿者」
 お前は感じないのか、この扉の向こうで胎動する、たっぷり悪意に満ちた無邪気な笑顔が。
「お願いしますよ〜…カイトさぁん。さっきから誰も入ってくれないんですぅ」
 セレスの泣き落としに屈しそうになりながら、酷く納得する。
 こんな、近づいただけで禍々しい気配をかもし出すお化け屋敷は存在しちゃいけない。
 確かに、お化け屋敷は怖い気分を味わいたいが為に作られており、廊下を通り過ぎるだけで『怖い』と感じさせるココはある意味立派に役目を果たしている。
「うん、じゃ生徒ふたり分ね」
「あ、有難う御座います」
「なっ…何てコトを」
 チケットを受け取るコレットに、カイトは天を仰いで絶望した。
 死刑執行書にサインしたようなものだ。
「ほら、馬鹿言ってないで、入った入った」
「イヤだ! 入りたくないッ」
「ごゆっくりお楽しみ下さーい」
 セレスは引きずり込まれるカイトに、ひらひらと手を振った。
 実は朝から受付けに座っていたセレスだが、来客はカイト達を含めて三組だけだった。
 出て行った客は、居なかったのだけれど。





「何をビビッてんの? 顔、真っ青にして冷や汗ダラダラ流して」
「見くびるな。俺はどんな恐怖にも屈しないと、春に決心した」
 決心したから恐怖を克服できるというものでもないだろう。
 コレットはカイトの背中を押しながら呆れた。
「じゃあ、足ガクガクさせてないでちゃんと歩いてよね」
「任せろ」
「ハイハイ………っと、最初の出し物ね」
 入り口を潜って直ぐに、小さな部屋に出た。
 ベニヤ板で囲まれ、天井の蛍光灯も明るい普通の教室の切り取りだ。
 何の捻りも無い。
 ビクビクしているカイトを尻目に、コレットは拍子抜けしてその部屋を物色する。
「何コレ? コレのどこがお化け屋敷だっての」
「これは確かに」
 多少は安堵したカイトが左右を見回すと、ふと部屋の中心に置かれた机に気づいた。
「つうか、最初から在ったか…?」
「何か乗ってるね。えと………3年A組、相羽カイト」
 その紙切れに目を通したコレットが、哀れみに満ちた瞳でカイトにそれを手渡す。
「こ、これっ! 俺の成績表じゃないか!?」
「確かに恐怖ね。ジャブとしてはイイ感じ」
「な、何で、何で留年って書いてあるんだ。って何で俺の成績表がココに置いてあるんだよ!」
「あたしのも在ったよ。卒業オメデトウって書いてある。ま、ある意味………怖いかな」
 コレットは複雑な顔をして、手にした偽成績表を握り潰した。
「俺たちが入ってくるのが解ったのか? セレス、の仕掛けなわけ、ないし」
「あの先生ならそれぐらいヤルでしょ? ………あたしは其々の心理まで見抜かれてる方が、ちょっと怖いケド」
 念入りに破いているカイトの隣で、コレットは小さな溜息を吐く。
 だが、最初の出し物は、文字通りのジャブだった。
 次の部屋は、オーソドックスにゾンビが襲い掛かってくる仕掛け、だった。
 だが、客が来なくて腐っている腐乱死体のエキストラが、隅で愚痴をこぼしているだけだったが。
 腐っている腐った死体。
「見事すぎて泣けるわ」
「泣きたいのはこっちだ」
 カイトは窓枠に指を引っ掛け、外の風に身体を揺らせながら死に物狂いでよじ登った。
 ゾンビの部屋を通り抜けた後、いきなり目の前にシュモクザメの模型が突進してきて、吹き飛ばされた。
「だけど、後ろが開けっ放しの窓ってのは、やり過ぎだと思わないか?」
 ハンマーヘッドだけに釘打ちね、と感心するコレットに殺意を押さえるのは難しいと思った。
 だが、通路の左右から飛び出すゾンビの模型が、いちいちガツンガツンと図ったように激突するのは作為としか思えない。
 随分と暴力的な匂いの漂うお化け屋敷である。
「どう考えてもイキ過ぎだろう?」
 頭から生臭い赤い液体を被ったカイトが、なんかヌルヌルする物体を肩から摘んで捨てた。
「だったら、避けなさいよ」
「お前、被りたいのか、こんなモノ?」
 天井から山ほど降ってきたコンニャクを払い除けたカイトが呟く。
 人肌に温められたコンニャクの感触が、ヤバイほど気持ち悪い。
「あ、あたしだって避けられるもん」
「…へー…」
 カイトは顔面に張り付いたタコを掴んで引っぺがす。
 落ちゲーの部屋か、ココは。
 もはやお化け屋敷でも何でもない。
「つまんないコトで、保護者気取りしないでよね」
「つまんないコトでも、保護者気取りしたいものなんだよ。男の子ってのは」
「な、なによ。それ」
「タガメだな。どっから捕まえて来たんだ? ゴキブリかと思ったぞ」
「そうじゃなくって」
 カイトは貴重な水棲生物を踏み潰さないようにしながら、次の部屋のノブを回した。
「まぁ…それで、ちょっとだけ自分に価値があるような気になれるんだよ」
「馬っ鹿じゃない? そんなで優越感じてんの?」
「自分が馬鹿だってのは解ってるけどさ。馬鹿でも意味無くても、そーやって格好つけてないと、まともにコレット達と付き合えないんだよな」
「………格好良くなんて、ないよ」
「あはは、うん。俺もそー思う」
 本当にそう思うんだけど、俺はまだ自分に価値があるなんて、とても思えないから。
 ツマラナイ意地でも張ってないと、自分の足で立っていられない。
 ああ、全然駄目じゃないか。
 俺はまだまだ弱いままで、全然強くなんかなってない。
「………弱いままでも、イイと思う」
「え?」
 コレットは背後からカイトの制服の裾を掴んで呟く。
「あんたなんて、ホント全然格好良くないんだけど………」
「悪かったな!」
「うん…格好悪いんだけど。意地張って、頑張ってるカイトは………いーと思う」
「そっか?」
 頭から小麦粉を被って真っ白になったカイトが小首を傾げる。
 どうでもいいが、出口に風呂とか用意してて欲しいと切に願った。
「意地張れるのは強いからだよ…」
「意地っ張りじゃコレットに負けると思うぜ?」
 卵を脳天に食らい、パン粉のシャワーを浴びたカイトがウンザリとして最後の扉に手をかけた。
 注文の多い料理店か、ここは。
 扉を潜ると、不自然なほどにありきたりな街角(夜)の舞台セットが出迎えた。
 もはや一教室に収まる舞台設定じゃない。
 何か怪しげな装置でも使用しているとしか思えない。
「あたしはカイトみたいに強くなれない」
「どうしたんだよ? ………今日のコレット、少し変だぜ」
「全然、変じゃない。だって…!」
 振り向いたカイトに口を開きかけたコレットの動きが止まる。
 カイトの後ろを指差して口をパクパクとさせる。
 街角セット(夜)の電灯の下に、『鶏と包丁もった男』としか表現できない奴が、立ち竦んでこっちを見ていた。
「………何かスゲー怖いんスけど」
「な、なんか近づいてきてる」
「…You are longer here…」
 血色の悪い肥満体型のプロレスラーみたいなエキストラさんは、首を握り絞めた鶏を掲げ持って近づいてくる。
「ぜ、絶対、生徒じゃねーだろ!?」
 ここまで確信を持って『殺られる』と感じたのは、春先以来だ。
 カイトは硬直したコレットの手を掴み、全速力で逃げ出した。





「あら?」
 受付けに、ぽーっとして座っているセレスが、微かな悲鳴に首を傾げた。
 だが、出入り口に何の変化も無いのを確かめると、再びだらぁ…と机に伸びる。
 缶チャと差し入れの柏餅を前に、ほやぁ…としながら窓の外を眺めた。
「今日も………平和ですね〜」





「まあ、いろんな紆余曲折があって、今オレ達は屋上に居る」
「状況見れば解るでしょ」
「経過は問わないのか? 経過は」
「うん? えーもん見せてもらった、って感じだわよ。テレポーター・トラップなんて、超A級の遺失魔法技術だもん」
 カイトは鍵の掛かった鉄扉にしゃがみ込みながら、呆れた顔でコレットを振り返る。
「なによぉ、壁の中に跳ばされなかっただけ、あの先生にも良心があったってコトでしょ?」
「………イヤ、そーゆーんじゃなくて」
 こんな屋上に閉じ込められた状況で、何でそんな楽しそうなツラをしていらしゃるんだ、コイツは。
 カイトは伸ばしたクリップを抓み直し、再び鍵穴に挑む。
 本人も忘れていたのだが、実はカイトはスカウトとしての技能を有していた。
 もっとも、技能レベルもTで『鍵開け』の技しか保有していない。
 おまけに全然技術を使っていないものだから、腕もボロボロに錆び付いていた。
「………迷宮じゃ吹っ飛ばすか、『ギャロップ』か『クサナギ』に頼ってたからな」
「まぁ、他力本願のツケね」
 カイトは奥歯を噛み締めて堪えた。
 ある意味事実だが、コイツから言われるとムカツク。
「大体、何で学校の屋上の扉に、んな分厚い鉛と複雑な錠前が必要なんだ」
 諦めたカイトは拳で扉を叩く。
 大抵の扉を打ち砕く自信があるが、何センチあるんだ、この鉛層は?
 助けを呼ぶ声も通りゃしねえぞ。
 流石に校庭に向けてSOSを叫ぶのも惨め過ぎる。
「そりゃあね。こんな学校でも、ホントなら一般人立入禁止の封印施設扱いだもん。校舎自体がちょっとした要塞になるんだよ。もしもの時のためにね。教室の窓だって耐刃耐魔仕様でしょ?」
 ダンジョン等の危険施設が存在する為に、それなりの安全建築基準がある。
 それにしても、少し頑強過ぎやしないだろうか。
 どうでもいいけど、その『安全仕様の耐刃耐魔窓ガラス』を溶かした馬鹿が居たっけ。
 カイトは尻を突いて扉の前に座り込んだ。
 どうやら本格的に挑戦するしかない。
 恐らく学園祭の間は屋上は封鎖されたままだろう。
 いつもは開けっ放しの屋上が施錠されているには理由がある。
 過去に自殺しかけた神術教師がおったそうだ、わざわざ学園祭の日に。
 俺達をここまで跳ばした本人に救出の意思がないのは明らかだ。
 いい加減、涼しくなってきたので屋上で夜を越すのはしんど過ぎる。
 しばらくの間、かちゃかちゃ…と小さな金属音だけが屋上に響いた。
 手摺の下から聞こえてくる賑やかなザワメキが、まるで別世界のように感じられた。
「コレット」
「何よ?」
「………来れないって、何でなんだ?」
「来れないって、何が?」
 扉に耳を押し付けて針金を動かすカイトは、指先に意識を集中したままだった。
 後ろから覗き込むのにも飽きていたコレットは、小さな尻を床に落とし、カイトの背中合わせに寄り掛かるように座り込んだ。
 まだ夕暮れまで少しあるが、だいぶ風も冷たさを増していた。
 コレットはいつも通りのスパッツに薄着だったが、それでも何となく嬉しそうに膝を抱えて丸くなる。
「………お化け屋敷に入る前に、そんなコト言ってたろー…確か」
「………何でそんなコト聞くの?」
「ヒマ、だから」
 一瞬体を強ばらせたコレットだったが、のんべんだらりとしたカイトの返答に脱力した。
 殴ってやろうかと拳に力が入るが、『ま、いっか』と呟いてイワシ雲を仰ぎ見た。
「それで、何が聞きたいの?」
「………んだから家の奴が来れないってのさ」
「それは死んじゃったら来れないじゃない?」
 カイトの指先が止まる。
「まー…ていうか来られても一寸怖いじゃないの」
「ひょっとしてサ………俺、嫌なコト聞いたか?」
「カイトがそう思うんだったら、嫌なコト話したコトになるよ」
 カイトはしばし考え込んだ後、頭を振った。
「それで、続きはどーするの?」
「話したかったら、聞いても良いぜ」
 コレットはしばし考え込んだ後、小さく頷いた。
「アタシがね、王都からコッチに引っ越してきたのは、ママが死んじゃったからなんだ。パパの実家ってのが結構格式がある資産家筋でね、親戚連中なんかスッゴイ性格悪いのよね」
「…そっか」
「パパも正直、アタシでもナニ考えてるか解かんないような人だったし。あんま仲良くなかったし、親戚連中もごちゃごちゃ色々うるさかったから、今はママの実家に居候してるんだ」
「…ああ」
「うーんとね、イジメられてるわけじゃないんだよ? 今も前も。それなりに優しくして貰ってると思うし、ご飯も食べさせて貰ってるし」
「…うん」
 相槌を打つだけのカイトの指先は、既に止まっていた。
 コレットは背中合わせに座り込んだまま、猫のように身体を丸める。
「だけどね、だけど、アタシってココに居ていいのかなって、ずっと疑問に思ってた。邪魔に思われてるわけじゃないけど、望まれてココに居るわけじゃないもん。でもっ………それって、居ても居なくても同じってことだよね? どっちにも行ける、両方を自由に選べるって、それは結局どっちでもなくって、どっちにも居場所が無いんじゃないか…って、居ちゃ、いけない…んじゃ、無いかって」
「あのさ…」
 カイトは背後からの鼻を啜るような音が聞こえないように口を開いた。
「…カザンじゃ混血のコトさ、ハーフ何とかってゆーじゃん?」
 それは『半分』という意味だろう。
 ふたつの血が混じったものは、片方の血から見れば半分しか同じではない。
 どちらから見ても、半分でしかない。
「でもさ、どっかの地方じゃ、混血のコト『ダブル』ってゆーらしーんだよな」
 詰まらない事かもしれないが、カイトはその話を聞いた時、酷く納得したものだった。
 半分欠けているのではなく、ふたつの血が重なり合っているというコト。
 『どちらでも無い』という訳ではなく、『どちらも在る』というコト。
「………だから、なんだってゆーの?」
「あ、イヤ…その、な」
 醒めた、というか呆れた口調にカイトは慌てた。
「その、格好良いじゃん。『ダブル』の方が………『ダブルエルフ』ていうか『ダブルマン』。なんつーか、こう…二倍早く動きそうで」
「あ、あ…アンタって」
 コレットが小さく震えているのを、カイトは背中越しに感じた。
「ホントに、最低」
「そ、その、泣いてんじゃないだろ?」
「う、ウルサイわね。寒いだけなんだから」





「…」
 噴水の縁に腰掛け、水面に掌を当てていた刹那が瞳を開いた。
 人影もまばらな中庭だったが、兄妹の居る場所だけが、結界でも張られているように静かだった。
 腕を組んで立っていた甲斐那が、同じように目を開けた。
「どうした?」
 その声は厳しく、同時に酷く優しい。
「…いえ」
 刹那は兄を見上げ、小さく頭を振る。
 だが、思い直して俯いた顔を上げる。
「兄様は、『だぶる』という言葉を、如何に思われますか?」
「重複する、倍増する、曖昧である、等の意味をもつ」
 甲斐那は辞書を読み上げるように答えた。
 そこには、どのような解釈も存在しない。
「はい………私も、そう思っていました」
「少し、疲れたのか? ここからは、私が勤めよう」
「いえ」
 刹那は甲斐那の顔を見つめ、もう一度訴えた。
「いいえ、兄様。 ………私が」
「そう、か」
 甲斐那は腕を組み、再びそこに立ちはだかった。
 ただ、風のように、物言わぬ一本の樹のように。





 トン、と鉄扉に背中が当たった。
 ゆっくり、スローな動きで寄りかかる。
 ふたり分の体重を支えきれず、カイトはそのまま尻餅をついた。
「あ…」
 何が起きたのか。
 どうなっているのか解らず、半端に伸ばされた手が震える。
 呆然と、阿呆のように開かれた唇へ、もう一度小さな唇が重なる。
 右の頬に、左手が添えられる。
 左の頬へ、細い指先がなぞるように触れた。
 盲目の僧侶が、ただ指先で相手を探るように、ゆっくりと。
「………はぁ」
 止めていた呼吸を思い出したように、小さく身体を引いて吐息を漏らす。
 澄んだブルーの子猫のような瞳が、熱にうかされたように潤んで見えた。
「カイトが…悪いんだからね」
 溜息のような囁き。
 コレットはカイトの上に跨って、もう一度キスをした。
「カイトが悪いんだから………」
「な、ん…っ」
 抗議も問いかけも封じるように、コレットはカイトの顔を両手で挟んで、繰り返しキスをした。
 ぎこちなく、憑かれたように熱を込めて。
 カイトは人形のように四肢を硬直させ、されるがままになっていた。
 頭の奥が何かに捕まえられているみたいに重く、現状の判断が出来ていない。
 視界が熱い靄に覆われたみたいで、指先を動かす事すら出来ない。
 ただ、舐めるようなぎこちないキスの感触だけが、嫌になるほどハッキリ感じる。
「カイト………抱いてよ」
「っ…ッ!」
 言葉として形になったイメージに我に返る。
 小さな肩を掴んで、縋るように寄り添うコレットの身体を離させた。
「何を! 何考えてんだ、コレット………冗談は止めろ」
「…違う」
 押さえた肩が、小刻みに震えていた。
 小さな身体が、不安になるほどに熱く火照っていた。
「こんなのは違う………ケド。違うよ、冗談なんかじゃないよ」
「何だよ、それは」
「好きだから…カイトのコト、ホントに好きだから…大好きだから、こんなのッ………抵抗できないよ」
 それは一体何のコトか。
 何を言っているのか全然理解できない。
 否、考えようとすると、脳みその奥を鷲づかみにされたように、痺れたように曖昧に痛んだ。
「うふっ…」
 けれどその痛みは決して不快ではなかった。
「うふふっ………カイトぉ」
 焦点を失ったようなウツロな蒼い瞳が、夕陽のように赤く染められて見えた。





「ミューゼル?」
「あ…」
 背後から肩を叩かれたミュウは、小さく声を漏らして振り返った。
「あれ、ロイ。…どうしたの?」
「どうしたの、じゃないだろう? 一体、こんな所で何をしているんだい?」
 呆れたようなロイドの台詞に、ミュウはぼんやりとした目であたりを見回した。
 階段の踊り場で、上へ一歩踏み出している自分の足を、不思議そうに見る。
 下階からまだまだ賑やかな学園祭の喧騒が聞こえた。
「ええと………何をしてるのかな?」
「それを僕に聞かれても、ね」
 ロイドは片目を瞑って髪を梳き上げた。
「ここから上は屋上しかないし、確か今日は一日施錠されているはずだよ」
「あ、そうだよね。そうだった」
 ミュウは自分に納得させるように呟いた。
 だが、だったら何故自分は屋上に行こうとしたのだろう。
 何故、行かなければならないと思ったのだろう。
「やれやれ、まったく君って子は………ところで」
「何? ロイ」
 まだ夢見るような不安定なミュウの声には気づかず、ロイドは左右を見回した。
「イヤ、その………もし、時間が空いているようなら、僕に少し付き合ってもらえないだろうか?」
「…え?」
「他意はないんだ。ただ、君と学園祭を見てみたいだけで」
 ロイドは赤面する自分に気づいて言葉を区切った。
 自分は子供か、ただ見学に誘うだけだというのに。
「うん………いいよ」
「そ、そうか。感謝する」
 一瞬、遠い目をしたミュウの返事に、ロイドは子供のように喜んだ。
 ロイドの後ろについて階段を降りながら、ミュウは一度だけ屋上を振り返った。
 正確には屋上の扉を。
 見えるはずの無い、その向こう側を。





「くっ…ゥ」
 ゆっくり、酷くゆっくりと。
 絡み付くように上下に、ねっとりとしたモノが這う。
 ぺチャぺチャと、ヌルリヌルリと。
 根元を細い指先で押さえつけるように握り、突き出すように舌先を伸ばしていた。
 その蜂蜜色の髪を、ぼんやりと撫でる。
 くすぐったそうに首を竦め、しかしどこか心地よさ気に身を委ねる様は、まるで子猫のようだ。
 物珍しそうにフニフニ…と袋を弄っていたコレットが、少しだけ歯を当てるようにしてソレを食んだ。
「…ッ」
 新鮮に走った痛覚に、カイトの背筋がビクンと跳ねた。
 目を開けて覗き見るコレットの瞳が、悪戯っぽいブルーに染まっている。
 指先を曖昧に動かし、問うていた。
 カイトは唇を噛んで頷いた。
 コレットは嬉しそうに微笑んで続きを始めた。
 もしも。
 今の感情を表現するならば、何なのだろうかと考える。
 後悔。
 情欲。
 怠惰。
 思慕。
 憐憫。
 自己嫌悪。
 すべてが均等に入り混じった思いを一言で著すならば、それは『望郷』かも知れない。
 何故そんな感傷を抱いたのか。
 ゆっくりと抜け落ちた衝動の淵で、総てが同じ緋色に染まっている。
 コレットの細い脚を撫でる。
「………んっ」
「鳥肌」
 コレットの身体には寒さを防ぐような脂肪はほとんど無い。
 まして、今のコレットは下肢に何も身に着けていない。
 ゾクリと心臓を刺されるくらい色の白いコレットの尻は、まるで少年のように小さかった。
 太腿の間に差し入れた指先を、身体の中心に向けて這わせる。
 意思なのか反射なのか、太腿に締め付けられる掌が、ソコに触れた。
 く…っと赤ん坊がぐずるように、コレットが身体を丸める。
 気温との温度差が、『温かい』の感触を『痛み』のように感じさせた。
 ヌ、ちゅ…と指先に絡む粘身。
「ぁ…」
 コレットは逸物から唇を離し、怯えたように震えていた。
 カイトは中に触れるコト無く、ゆっくりとなぞった指を抜く。
 指先から緋色が混じる白い粘液が糸を引いた。
 太腿を捩ったコレットの股間から、つぅ…と同じ色の体液が流れ出した。
 その色が。
 夕日にも染まって鮮血のようで。
「………済まない」
「………何が?」
 上着一枚のコレットが、向かい合うように身体を起こす。
 何なんだろうか。
 それも解らないほどに愚かなのか。
 解っていても言えないほどに臆病なのか。
「そ、のだ。………痛かっただろ?」
「それは…もう、思いっきりね」
 コレットはニコリと微笑を浮かべてカイトの肩に手を置いた。
 というか、首を両手で挟んだ。
「殺る気か! とかホンキで思ったし、最中ずっと呪ってやるぅ…って何時もの五割増しぐらいで祈ったし」
 カイトは背中に冷たい汗が伝うのを自覚した。
 まさかコトの最中に呪われてるとは思わなんだ。
 そもそも、日常的に俺に呪詛を祈願しとるのか、この子狐は。
 引きつるカイトの口元に、微笑んだコレットの唇が触れた。
「でも、その100倍くらい嬉しかったから、全然許してあげちゃうんだケド」
「っ…コレット」
 熱ぁ…と赤面したカイトに、にィっと悪戯っ子の笑みを浮かべてみせる。
「絶対、すっきりなんかしちゃ駄目だからね。アタシ、カイトのコト大好きだから。このまま思い出になんか絶対させない」
「は、う」
「いっぱい後悔させてあげるし、アタシもいっぱい後悔する。だけど………アタシはミュウに『済まない』って思わない」
 カイトは扉に寄り掛かるように蹲った。
 顔を隠すように頭を掻く。
「随分、直球だよな」
「そりゃあね。もう、子供じゃないもんネ」
「そゆコト、女の子が言うな」
「あーもー…カイトってば、女の子に幻想持ってるんじゃない? 女だって下ネタで盛り上がるし、エッチな妄想だってしちゃうんだから」
 だとしても、それを口にしないのが慎みというものであろう。
「大体、そーゆーカイトも………全然、節操が無いじゃない」
 跨るような姿勢のコレットの真下で、カイトの逸物は無骨に勃起していた。
「こ、これは、こういう物なんだ!」
「や、やだ! ビックンビックンさせないでよ」
 西空の残滓が消えた後も、しばし屋上は賑やかだった。





『………ホントに好きだから』
「やれやれ。どうも、僕はああいう音楽は好きになれないね」
 夕暮れの校舎は終わりかけた祭りの寂れが漂い始めていた。
 教室の出し物も大半が片付けを終え、最後のイベントであるグランドでの後夜祭の準備に回っていた。
 ミュウとロイドのふたりは、体育館でのコンサートを見回っていた。
『……大好きだから』
「大人しい音楽が好きなのかと聞かれても、そういう訳ではないのだけどね」
 喧騒も遠く、穏やかな時間の流れが支配している。
 ゆっくりと沈んでいく。
 不自然なほどの静寂の中に。
『…好きだよ』
「だけど、ミューゼルがああいう音楽が好きだというのは、正直なところ意外だったよ」
 廊下を歩くふたりの足音が木霊する。
 何時になく口数の多いロイドの後ろを、ミュウは曳かれるように歩いていく。
 青いウツロな瞳には、ガラスのように温度が無い。
 何故こんなに、ココは寒いのか、良く解らない。
 ココは寒くて、冷たい。
 ココはとても、とても寒くて冷たくて暗い。
『カイト…ぉ』
「君が隣に居てくれたから楽しかったというのは、やはり可笑しいのだろうか?」
 自嘲するように照れるロイドは、同意を求めるようにミュウを振り返った。
 だが、ミュウはそこで足を止めたまま立ち竦んでいた。
 ロイドはようやくミュウの様子が『外れて』いるのに気づいた。
「………ミューゼル?」
「………止めて」
「………何故拒む?」
「ミューゼル、どうかしたのか?」
「もう…止めて」
「ミューゼル?」
「何故拒む?」
 ミューゼルは自分の身体を抱くようにして後退る。
「何故拒む?」
「ミューゼル!」
「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」「何故拒む?」
 ロイドは小刻みに震えるミュウの肩を掴んだ。
 ミュウは縋るようにロイドを仰いだ。
 だが、その瞳は焦点を失っている。
「止めて………もう、見せないで」
「受け入れろ」
「どうしたんだ、ミューゼル! 気をしっかり持ってくれ」
「もう、見せないで! 聞かせないで! もう止めてえええェ!!」
 ドン、と突き飛ばされたロイドは、激しく壁に背中を撃ちつけた。
 手で突き押されたわけではない。
 不可視の、生暖かくも酷く冷たい風に、吹き飛ばされていた。
「ミューゼル………?」
 ロイドは立ち上がる事も忘れ、呆然とミュウの姿を見た。
 足元から吹き上がる風にスカートを靡かせ、操り糸に吊られているように立ち尽くしている。
 ゆっくりと周囲から滲み出してくる気配に、ロイドは身体が震えだすのを押さえられなかった。
 余りにも暗く、生暖かくも冷たい。
 人は其れを『瘴気』と呼ぶ。
「我を受け入れよ。其れが汝の定め」





 校庭の真中に大きな櫓が組まれていた。
 次第に増えていく生徒は、ほとんどが三年生だった。
 在校生なら学年に関係の無いイベントではあるのだが、高校最後の思い出を作ろうと考えている者が多いのだろう。
「まあ、キャンプファイヤーなんて、今更な感じはするんだけどね」
 段差になったグラウンド際の芝生に腰掛けたコレットが猫のように伸びる。
「でも、嫌いじゃないんだ。こういうお祭りみたいな雰囲気」
 ミュウとの待ち合わせには、まだ幾ばくかの時がある。
 コレットは抱え込んだ膝に頬を乗せるように、隣に座り込んだカイトを覗き見た。
 ずっとコレットの横顔を眺めていたカイトと目が合う。
 瞬間。
 引きつるように硬直したカイトが真っ赤に赤面した。
 コレットは大きな溜息を吐いた。
「………あんたねー、そんな態度じゃ、ミュウに何かあったって叫んでるのと一緒だよ」
「あう、う」
「子供より表情豊かだよねー、カイトってば」
 優しい微笑が、意地悪っ子の微笑みに変わる。
「カイトがそーゆーつもりなら、アタシは…いいよ?」
「あ、うあう」
「なんて、冗談」
 まともに言葉も喋れないカイトを突っついて、クスクスと笑った。
「ミュウと気まずくなるのイヤだし、今すぐどうこうしようなんて思ってないから。そうだね………卒業まではっきりしてくれたらいーよ」
「………イジメっ子」
 カイトはいじけたように呟く。
 随分と雰囲気が変わってしまったような気がする。
 それとも自分の見る目が変わってしまったのか。
 多分両方のような気がした。
 何が間違ってたのか、何が原因なのか今でも解らないけれど。
 後悔している自分と、喜んでいる自分が居て、それが心臓の辺りを凄く痛くさせていた。
「もっ、そんな目で見詰めないでよ。こっちが恥ずかしくなるじゃない…」
「わ、悪い…」
 コレットは怒ったように呟いて、視線を外した。
 伏せられた長耳が心なし赤く染まって見えた。
 点火されたキャンプファイヤーの色が映っていたのかもしれないが、それが酷く映えて、見れないほどに幻想的だった。
 カイトは無理やり視線を逸らすように俯いた。
 もう、時間も過ぎてしまったというのに、何故ミュウは来てくれないだろうか。
 早くここに来てくれないと、俺はどんどんオカシクなってしまいそうだ。
 だけれど………なんだ、コレは。
 どく、どく、と心臓の鼓動が乱れる。
 警戒している?
 俺の身体が?
 何だ、コレ。
 何か、オカシい?
 何処か、何時か、同じような不安と予感を感じたコトは無いか?
「………どうしたの? カイト」
「いや、どうしたんだろう」
 はぁ、と呆れたコレットを尻目に、カイトは腰を浮かせて周囲を見回した。
 火の入れられた櫓が、夜空に蝶のような火の粉を散らす。
 まだ、キャンプファイヤーを囲む人の輪より、自分たちと同じように見物している生徒の方が多かった。
 だが、何だろう。
 この不安は、不安になるような空気の重さは。
 この、目に見えてしまいそうな、違和感は何なのだろう。
「カイト? どうしちゃったのよ」
「………コレット。俺の武器を…俺の刀を」
 自分は何を言っているのか。
 コレットが怪訝な顔をしているのが解る。
 違和感とは何だ?
 それは不自然であるコト。
「カイトってば、ふざけてないで」
「早く!」
 何で解らないんだ、こんなに不自然なのに。
 校庭が、学校のあちこちが不自然に歪み始めているのに。
 不自然なほどに歪んで。
 歪んで。
      歪んで。
           歪んで。
   歪んで。
        歪んで。
 ああ、とても醜く、酷く歪んで。
 現実が歪みに耐えられなくなったその瞬間。
 空の砕ける音が聞こえた。





 悲鳴と怒声と罵声が、入り混じった。
 その間にモンスターの唸り声が重なる。
 ほとんどの生徒たちが、何が起きているのか解らずにパニックを起こしていた。
「何? いったい何がどうしたの?」
 コレットは愛用のボルトワンドを握り締めたまま、グラウンドで暴れるモンスターをただ見ていた。
 武器程度の大きさの私物なら、アポーツの呪文で召喚できる。
 カイトは答えず、零式を握り締めたまま左右を見回した。
「相場!」
 校舎の方から、ウエイトレス姿の沙耶が駆け寄ってきた。
 手にクレイモアを握っているのは、流石というか何と言うか。
「ねぇ! どうしちゃったの? 何が起こってるの?」
「あたしにだって解るもんか。突然、湧いて出るみたいにモンスターが現れやがったんだ! 校舎の中にも何匹か。皆パニックになっちゃってて」
「大した事、無い」
 お互いにまくし立てるように声を荒げていたふたりが振り返る。
 カイトは半分目を瞑るようにして、周囲を見回していた。
「歪みが小さいから………浅い階層のモンスターなんだ」
「ぁ、え? それは………確かに」
 沙耶は改めてグラウンドに出現したモンスターを見やった。
 大蝙蝠に赤カニラス、ゴーレムもスライムも小型のモンスターばかりだった。
 下級生ならばともかく、実習を経験した三年なら物の数ではないだろう。
 本来ならば。
「ああ、もう! 何やってるんだ、皆」
 沙耶は逃げ回るだけの生徒たちに苛立たしげに爪を噛む。
 だが、自分もさっきまでは同じだったのだ。
「竜胆。そこらの三年生まとめて、グラウンドからダンジョン施設まで抑えてくれないか。数は多分少ない」
「う、うん。解った」
 沙耶は飲まれるように頷いた。
「相場はどうするんだ?」
「俺は…」
 カイトはコレットと沙耶を振り返ったが、『見えて』いるようには見えない。
 カイトは校舎の一角を、睨むように見詰めたままだ。
 そこがまるで鏡を歪めたように、割れてしまうかのように、怖いくらいに歪んでいた。
 多分、あそこに凄く良くない物が、在る。
 でも、あそこに行かなくちゃ、いけない。
『………そう、ソコへ』
 解ってる。
『………まだ、間に合います』
 直ぐに行かなくっちゃ。
 そう、まだ俺は間に合うから。
「ここは任せた!」
「あ、アタシも行く!」
 まっすぐ駆け出した。
 導かれるように、迷いもせずに。





 ゴキン、と鈍器が撃ち合うような、重い音が響いた。
 動きは苛立たしくなるほど鈍い。
 否、鈍く見える。
「破ァ、はあああッッ!!」
 ロイドは渾身の力を込めて、振りかぶった剣を真横に凪いだ。
 柄に騎士の紋章が彫られた両手持ちの剣は、彼の家に代々伝わる魔法剣だった。
 『紋章の剣』と銘打たれた剣は、あらゆる物質を紙のごとく両断する。
 威力があり過ぎ、実際ロイドは実習では他の武器を使用していた。
 その刃が、玩具のプラスチックのような頸部を凪ぐ。
 ゴキン、と重い音がした。
 首から上は揺れもしない。
 傷ひとつ、無い。
 ヘルメットの奥の暗闇から、禍々しい赤い瞳がロイドを睨んだ。
 技も何も無く、子供が腕を振り回すように、片手に握った槍をロイドの胴に叩きつける。
「げふ!」
 肺の中の空気が、押し出される。
 まとめて肋骨をへし折られる、嫌な音が胸の奥から聞こえた。
 壁に張り付いたロイドは、膝が震えるのを抑えられなかった。
 フェアじゃない。
 この戦いは、まったくフェアじゃない。
 幾ら斬りつけようが全く無傷の相手の攻撃が、冗談のように重圧を持っている。
 まるで、子供のころ見た悪夢のようだ。
「………ミューゼル」
 ロイドは剣を杖代わりにして、渾身の力を込めて立ち上がった。
 そこに、廊下の中央にミュウが居た。
 黒い渦のようなものに掴まれるように、その身体は宙に浮いていた。
 何かが、酷く嫌らしい気配のする何かが、その身体に絡み付いていた。
 そして、ミュウを守るように二体の守護者が立っていた。
 子供が作った粘土細工のような、稚拙なデザインのゴーレムが立ち尽くしていた。
「ミューゼル…済まない」
 ロイドは近づいていくるゴーレムに気づいたが、その場に膝を屈して目を閉じた。
「君を………助けられなかった」
「スーパー…ラアァィトニイィィング!!」
 瞬間、廊下を真っ白に染めるような閃光が走った。
 電撃の余波が廊下の蛍光灯を片っ端から砕く。
 ロイドも余波をモロに食らい、もう一度壁に叩きつけられた。
 大電流を全身に浴びたゴーレムは、真っ白い煙を吹き上げて起動停止していた。
 ガラスを踏まないように跳ねるコレットが、両手を握り締めて言った。
「直撃ィ! いい感じ、いい感じィ」
「おい、ロイド。大丈夫か!」
「き、君たち…か」
 カイトはボロボロのロイドに手を貸して立ち上がらせた。
「お前らしくないぜ、ロイド? 途中で諦めるなんてな」
「僕のコトはいい………君たちだけでも、逃げるんだ」
「何言ってんのよ! ガラクタ人形ならアタシの魔法で」
「…ッ!」
 振り返りざま、居合抜きの要領で抜刀したカイトは、叩き込まれた槍の穂先を流した。
 手が痺れるほどの重さに戦慄する。
 玩具のようなゴーレムは全身から煙を噴いたまま、無表情にカイトを睨んでいた。
「な、何よコイツ! 雷に耐属性でも持ってんの?」
「ち、違う…」
 ロイドの制止も聞かず、コレットは呪文の詠唱もそこそこに、立て続けに魔法弾を撃ち込む。
 マジックシュートの魔法弾が、ゴーレムの手にした巨大な盾の表面で弾ける。
 それでも何発かは身体に直撃したが、揺らぎもしなかった。
 魔力を直接、物理攻撃としてぶつけるマジックシュートの呪文は、使い手によってはほぼ最強の単体攻撃魔法となる。
 その衝撃は鉛製の野球ボールを投げつけられるのと変わらない。
 打撃のダメージを与えられるか否か以前に、衝撃を受けてよろめきもしないのは本来有り得ない。
 慣性という、絶対の物理法則の『外側』にいるのだ。
「こ、コイツ…おかしいよ。ねぇ、カイト………」
「逃げるんだ………これは、多分『不死兵』だ」
「何言ってんの…そんなのおとぎ話の世界じゃない!」
 何百年も前。
 神様と魔王と、勇者の時代。
 魔王が率いた不死身の軍勢。
 今では学校の教科書にすら載せられないほど、非現実的な世界の存在。
「子供のころ、実家の書斎で、祖父に見せられたことが…ある」
 ロイドは恐怖に震える肩を抱きしめた。
 作り話だと思っていた。
 子供を怖がらせるための、物語の怪物に過ぎないと。
「こいつは、コレは………『完全なる守護者』だ」
「なんで、何で…そんな、魔王の親衛隊じゃない…」
「知らねーよ。そんなの」
 吐き棄てるように、呟く。
 邪魔だ、こんな、恐怖なんて感情は。
 少なくとも、今の俺には必要ない。
 二度とこんなモンに負けないと、春に誓った。
「カイト…駄目だって」
「俺、馬鹿だからよ。………聞いたコトも無い奴にビビル必要ねーだろ?」
 ギリギリと握り締めた零式の柄が軋む。
 視線の先に、囚われたミュウが居る。
 必ず助ける。
 それは絶対の約束だから。
「カイト!」
 盾が裂ける。
 下段から振り上げた零式の刃が、『完全なる守護者』の巨大な盾を真っ二つに割った。
 片手を翼のように振り上げたカイトが、回り込むようにその右足を切った。
 踊っているように。
 その戦闘の体捌きは、とても本気で力を込めているようには見えない。
 弐堂式戦闘術。
 絶招・刃之弐『閃翼』。
「ば、馬鹿な…」
 その呟きはロイドの口から漏れたものだった。
 その驚きは、攻撃が敵にダメージを与えているコト、にではない。
 不死兵自体は強力な魔法具や神器を使用すれば、滅ぼすコトは不可能ではないのだ。
 だが、『不死兵』を最狂たらしめている理由を、ロイドは知っていた。
 その存在自体が発している『瘴気』だ。
「何故、君は…」
 カイトの身体が震えているのが解ったからだ。
 軋むほどに噛み締められた歯が鳴っているのが聞こえたからだ。
 理屈ではないのだ、この恐怖は。
 存在自体が放つ気配『瘴気』は、生物総てに等しい恐怖を抱かせる。
 それは魔法にも似た、不可避の感情だ。
 その恐怖に負け、死ぬことすらあるだろう。
 それを噛み締め、ねじ伏せて。
「何故、君は…それで戦えるんだ」





 切り裂いたはずの盾と腕が、いつの間にか元通りに戻っていた。
「…ッ、はァ!」
 左手に持ち替えた零式を囮に、反転するように『完全なる守護者』の足元に伏せる。
 膝の位置を両断する。
 古流剣術『独楽落し』。
 背中に攻撃の流れを知覚。
 跳ねるように後退った。
 完全に斬り壊したはずのもう一体が、廊下に槌を打ち下ろしていた。
 こちらも、斬り痕ひとつ残っていない。
 『自己再生能力』ではない、もはやこれは『復元』だ。
 傷を直しているのではなく、傷の無い状態に戻しているのだ。
 ドウスル、ドウヤッテ、殺セバ良イ。
 酷く鋭角な意識の中、カイトは『完全なる守護者』の向こうに浮いたミュウを見た。
 何処かに引き込まれているような、何処からか何かに掴まれているような。
 苦しげな表情が、カイトの意識を焼いた。
 時間がないと、本能的に解った。
『この世に切れぬモノは無い』
 でも、切っても戻ってしまうものは、どうすれば滅ぼせるんだ。
『この世に切れぬモノは無い』
 確かにそうだ。
 今の俺には、それが解る。
 こいつらは本来コッチの世界に在るモノじゃないから。
 無理矢理コッチの世界に贋物の身体を送り込んでいる。
 だが、贋物だということは。
「………元があるんだ」
 こいつ等がこの世界のモノじゃないのなら、こいつ等が在る世界ごと切れれば。
 そうだ、ミュウを取り込んでいるソイツが、元凶だ。
 この、形の無いコイツが。
 でも、そんな事は。
『この世に切れぬモノは無い』
「この世に切れぬモノは無い………だったよな。甲斐那さん」
 カイトは零式を鞘に収めると、無造作に歩を進めた。
「贋物でもコッチに『在る』んだったら………」
「くっ、何を?」
「っ…カイト、馬鹿!」
 躊躇無く武器を振りかぶった『完全なる守護者』だが、ふたりの援護攻撃が動きを止める。
「………神でも悪魔でも、切り伏せてみせるさ」
 それすらも知覚できず、ただ真っ白の意識と視界。
 本来在ってはならない黒い糸がたなびいている。
 真っ白の糸が風のように感じる世界の中で。
 逆手に零式を引き抜いたカイトは、目に見える総ての黒い糸を凪ぎ切った。





「弐堂式絶招・刃之参………『轟凪』」
 下階から地震のように響いてくる衝撃波に、甲斐那は目を閉じたまま呟いた。
 手摺がカタカタ…と揺れ、直ぐに収まる。
「…校庭での騒ぎも、落ち着いたようです」
 屋上から下を眺めていた刹那が、呟くように告げる。
 黒絹のような髪が、夜の風にシズと舞う。
 生きているモノの存在しない静かな屋上で、ふたりの兄妹は月の光よりも気配が無かった。
 やがて甲斐那は目を開け、組んでいた腕も解いた。
「どうやら、失敗したようだ」
「はい…兄様」
 刹那は静かに頷く。
 ふたりともその言葉に、落胆や失望は無かった。
「まだ…時が満ちてはいないのでしょう」
「そうだ、な」
 そう考えるのが、自然という物であろう。
 魔王が復活するという予定調和に、誰がクビキを挿れられるというのであろう。
 魔王を倒せる勇者は、もはやこの世に存在していないのだから。
 だが、本当にそうなのだろうか?
「後悔して…いらっしゃいますか?」
「いや。不思議と、私は後悔をしていないようだ………」
「はい…私も、そう思っています」
 それに、これで総てが終わったわけではない。
 これは前哨戦に過ぎないのだ。
「上がって来るがいい、カイト。もしも、それが本当に君の守りたいものならば。総てに打ち勝つだけの力を持てなければ、守り切ることは出来ないのだから」





「あらあら、まあまあ」
 スカウト技術担当教師ロニィは、夜空を見上げるように手を翳して呟いた。
 校舎の外壁にはポッカリと大穴が開いている。
 捻じ切れた鉄線、砕けたコンクリートの欠片が廊下に散らばっていた。
 大型の魔法爆弾が爆発してもこんな有様にはならないだろう。
「大したものネ。何をどうすれば、こんな大きな穴を開けられるのかしら?」
「イ、痛たた…もうチョイ、優しくして下さい」
「まったく………たいした怪我がなくて良かったです」
 カイトの腕に包帯を巻いたベネットが、大きな溜息を吐いた。
 利き腕の肉離れに亀裂骨折。
 ロイドにいたっては四本の肋骨骨折。
 大した事無いと片付ける担任教師に、カイトは尊敬と畏怖の念を新たにした。
「取り合えず、ふたりとも今日は寮に帰りなさい。詳しい話は明日聞くことにします」
「………うぃス」
「解りました」
 神術担当教師のバドに治療を受けていたロイドも、上着を着た後に頷いた。
 先生達は事件の原因究明と後片付けに、夜を徹して走り回ることになるだろう。
 カイトとロイドのふたりは、何も言わずとも示し合わせたように保健室に足を向けた。
「………明日、授業あるのな。休校になると思ったぜ」
 カイトは独り言のように呟いた。
 人気の無い廊下に、ふたり分の足音が響く。
「高校最後の学園祭だってのに、ついてねーよな」
「…」
 伸びをするように頭上に腕を組む。
 右腕の痛みはほとんど無い。
 惚けて見えてもバド先生の神術は、超一流の部類に入るのだろう。
「後夜祭、中止になっちまったろうなー…」
 幸い、生徒でモンスターに襲われた死傷者は出なかったらしい。
 パニックで軽い怪我をした生徒は続出だったらしいが。
 一般来場者が居なかったのは幸いだろう。
「あのさー………何か言えよ」
「…」
 いや、別に無人の夜の学校にビビッてる訳じゃないぞ。
 マジで。
「………最初に、礼を言わせてもらう。有難う、助かった」
「いらねえよ。別にお前を助けたつもりは無いし」
「君がどんなつもりだったかは問題ではない。あのままだったら僕は殺されていた。本当に感謝している」
「止めろよ」
 『殺されていた』という言葉に反応して、身体が震えた。
 『死ぬ』というコト。
 不死兵に対して感じていた恐怖が、今更のように襲い掛かってくる。
 奥歯を噛み締めて身体を押さえる。
 ロイドに震えている自分は見せたくない。
「………ちきしょう」
 だけど、肩が小刻みに震える。
 歯がカチカチと五月蝿い。
 歩けないほどに膝が笑う。
 ロイドはそんなカイトの姿を、足を止めて見ていた。
「君は、本当に………強くなったんだな」
「な、何言ってんだよ」
「君はそんな有様で不死兵に立ち向かった。誰にでも出来ないことだ」
 別にそんな大それた事をやったつもりは無い。
 ただ、本当に夢中だったから。
 ただ、本当に怖かったから。
 ミュウを失うコトが、本当に怖かったから、身体が動いてくれた。
 それに比べたら、あのブリキの玩具に対する恐怖なんか関係ない。
「君がそこまで強くなったのは………ミューゼルの為か?」
「………ああ」
 顔が熱くなるのを自覚する。
 コイツに嘘は吐けない、だけど、何て恥ずかしい事を真顔で言うんだ。
「それに比べて僕は自分を過信し、あまつさえミューゼルを危険にさらし、膝を屈してしまった。………済まない」
 この時俺は、ああ、コイツは強い奴なんだな、と思った。
 だって、俺は春のあの時に、こんな風に自分から逃げずにいられなかったから。
「僕は誓おう。二度と無様な姿を晒さないと。そして、君とミューゼルに何かあった時、必ずや力になろう」
「あ、ああ」
 右手を心臓の位置に当てて頭を下げる。
 それは、カイトの記憶が正しければ『騎士の宣誓』と呼ばれる誓いだった。
 騎士に古から伝えられる、自分と同等の相手と認めた者にしか行うこと事の無い、神聖な誓いだ。
「………僕を許してくれるだろうか?」
「ああ。当たり前だろ? ロイドがどんな奴かは、知ってるつもりだからさ」
「感謝する。カイト」
 良い友人が出来たのかもしれないと思った。
 ここで握手するほど、恥ずかしい真似は出来やしないけれども。





 ドロドロとした黒い泥濘。
 赤く燃え盛るような馮河。
 青く凍りついた焔。
 例えるならば、そこを地獄と人は呼ぶのだろう。
「………あっ、ミュウ! 気が付いた?」
「………ココ、は?」
 目を開ける。
 白い天井、白いカーテン、白いシーツ。
 今まで『居た』世界とはあまりにもかけ離れた、人の世界。
 そして、自分を見て喜んでいる、金色の髪をした少女。
「コレット…?」
「うん。…うん、そうだよ。全然、怪我は無いし、変な呪詛もかけられてないって」
 酷く頭が重い。
 酷く身体が重い。
 ミュウは身体を起こして頭に手を当てた。
 先程までは賑わっていた保健室も、ふたり以外誰も居なかった。
 外はすっかり夜の帳が落ちていた。
「センセがね、もし調子が悪いんだったら、このまま保健室で寝てて良いって。具合が悪いんだったら病院に連れてくように言われてるけど、平気?」
「う…ん。大丈夫だよ。………ちょっと頭が重いだけ」
「熱でもあるのかな?」
 コレットはベッドに身を乗り出すように、ミュウのオデコに触れた。
 瞬間。
 パン…と、ミュウは反射的にコレットの手を振り払っていた。
「あ…」
 ミュウは払った自分の手と、唖然としたコレットの顔を呆然と見比べた。
「ご、御免なさい。コレット」
「あ、ううん。アタシもゴメンね………ビックリさせちゃった?」
「………奪い返せ」
「止めて!!」
 叫ぶような大声に、コレットがビクンと震えた。
「………ミュウ? どうしたの」
「あ、わ…私」
「ミュウ…ホントにヘーキ? センセ呼んできたほうが良い?」
「ううん。大丈夫…何でもないから」
 ミュウはズキズキとした頭痛を押さえて笑みを浮かべた。
 ああ、なんて。
 なんて甘美で、絞められるような苦痛。
「何でもないの………本当に大丈夫だよ」
「そう………何も問題は無い」







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