第三者、それは、あの悪魔が助けた猫だった。
全身の毛を逆立てて、威嚇体勢に入っている。
その声に、はっと我に返った。
急に霧がすっきり晴れた感じだった。
すかさず、胸からかけてあった、十字架を手にとり、悪魔の前にかざす。
条件反射的に、口が祈りの言葉をつむぎだす。
悪魔の体を拘束したまま、そのまま祈りが力を持ち始めるまで、畳み掛けるように続ける。
くそっ・・・
あんなミエミエの魅了に引っかかるとは・・・
自分に対する怒りが、過剰にこの悪魔への制裁に転嫁するのか、半ば八つ当たりを自覚する。
結局は、証拠隠滅か。
強制送還か、抹消か。
どちらかをして、この場から悪魔をいないようにしたならば、何もなかったことになる。
治ってから、処置を考えるなどという日和見が、即決即断に変更になっただけだ。
何を甘いことを考えていたのか。
相手は悪魔だというのに。
そうして、相手のほうに非があると、心の勢力80%以上の支持を得ているというのに、残りの20%が、こう唱えるのだ。
我ながら卑劣、と。
“魅了”されて、その身を差し出そうとしていたのは、自分ではないか、と。
その責任を誰かに転嫁しようとするほうが間違っていると。
全てを差し出したいと、自分自身が思ったという事実から目をそむけてはいけない。
それは、自分が常日頃から拠りどころとしている信仰に対する裏切りではないか。
相手を罰するよりも、自分の方が罰せられるべきでは。
そう唱える20%の俺の良心とも言うべき勢力に対する言い訳は、とりあえず、この悪魔を片つけてから、ということでねじ伏せる。
経過から導き出される答えよりも、結果から導き出される答えの方が、第三者に対しては弁明しやすい。
今の状態で、途中経過だけ報告しても、自分の立場が悪くなるだけだ。
保身。
いつからそんなことを考えるようになったのか。
でも、身を守らなければ、いけない気がする。
あの悪魔の語りかけてきた言葉の、なんと耳に優しかったことか。
彼らの言葉が甘い、ということは、周知の事実だ。
そして、その言葉が偽りを隠す方便だということは、誰もが知っていることだ。それこそ子供さえも。
その危険を誰もが知っており、近づかないようにしているというのに。
そのことを知っていて近づくというのは、結局、知っていても偽りでもいいからと、その甘い言葉こそ、望んでしまうということなのか。
危なくない程度の火遊びで、すませられるほどの勘と理性が、長続きすればよいのだが。
きっと、それも長くは続きはしないのだ。
自分が魅了されているという事実は、何をしても覆されるはずもない。
そうだ。
もうすでに魅了されている。
あの、燃える火を背に立つ赤く照らし出された瞳を最初に見たときから、魅了されていたのだ。
だから、相手が”魅了”を仕掛けてこようが、きまいが、本当は関係なかったのだ。
そのまま相手の言に乗って魅了されてしまった方が、幸せだったと、思う自分を否定できない。
だまされたいのか、俺は・・・
いままで、悪魔に魅了された人々を愚かだと、せせら笑ってきたが、今は人ごとではない。
ミイラ取りがミイラに。
笑い事ではない。
この80%の勢いに乗じて、この悪魔を始末しなければ、きっと次はもうだめだ。
俺にはできない。
口は紡ぎだす、滅却への祈りを。
頭は全く正反対のことを考えているというのに。
職業訓練というのは、身に染みていて、条件反射のようなものらしい。
信仰、というのもそれと一緒なのだろうか。
こんなことを考えているというのに、祈りの言葉が天に届いて、何某かの力を発動しようとしている。
祈っているのに、祈りからは程遠い。
悪魔の上に馬乗りになって乗り上げ、首元を左手で押さえつけ動きを封じる。
右手に掲げている十字架に祈りの力が満ちてきたのを見計らって、悪魔の額にかざす。
悪魔の目が大きく見開いている。
その目に浮かぶ色が見たことのない美しい色で、決して忘れることがないように、最後の瞬間までずっとみていよう、そう思った。
つづく。
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