秘書として、坂本氏の下に配属されたのは板橋猛氏だった。

板橋氏と坂本氏は、顔見知りであった。

板橋氏は、高杉氏の恋人・緒方氏の双子の兄弟・等々力氏の恋人で、よく、昔は仲間内で集まっていたものだった。

坂本氏の記憶にある板橋氏は、高校2年生の元気のいい男の子で、弟のいない、坂本氏にもかわいい弟のように感じられる存在であった。

その板橋氏が、いまや、スーツを着こなしている若手サラリーマンとして、彼の前に立っている。

時の流れとは、思わぬところでかくも進んでいたらしい。

坂本氏は、まさかこのような場所で会うとは思っていなかったため、呆然としてしまったが、介添えとしてつれてきた人事部長の説明などに適当に相槌を打って、その場をとり繕った。

そうして、坂本氏が役員用にもらっている個人の部屋で、ようやく二人きりになって話をすることができたときには、一種の興奮状態になっていた。

坂本氏は、まったく自分が、来る秘書に対して興味を持っていなかったことを恥じた。ちゃんともらっていた経歴等を見ていれば、心の準備ができたというのに、このような不意打ちをくらうとは。それは坂本氏にはとても喜ばしい不意打ちではあったが。

板橋氏も、久方ぶりに会う坂本氏に、色々聴きたいことがたくさんあったようだが、何から口にしていいのか迷っているようだった。

とりあえず、この場では顔見世程度の時間しか予定していなかったため、その晩に飲みに行く約束をして、とりあえず板橋氏は元いた部署のほうへ戻っていった。

正式配属は来週からだ。

坂本氏は、板橋氏の経歴にちらりと目を落としたが、まあ詳細は本人の口から今晩聞いてみようと思い直し、残業しないですむようにと、たまっている仕事を片し始めた。新しく来る板橋氏に任せる業務についても考えなければならない。やらなければならないことは、ありがたいことに目白押しだった。とりあえず最優先事項の、今晩の店の予約は忘れないようにいの一番で行なわれた。



金曜日の夜は、週末ということもあって、どこも賑わっているようだった。待ち往く人々も仕事から解放された喜びからか、みんなどの人も笑いあって歩いている。

そんな人々の間を縫うようにして、路地のちょっと奥まったところにある和食の店にはいった。ほの暗く、しゃれた内装の店内の奥の個室を坂本氏は予約していた。元来、おいしいものをこじゃれた店で食べるのが坂本氏は好きだったが、近頃はもっぱらビジネス仕様で、個人では行けないようなえらく値のはる店に接待で連れて行かれたり、連れて行ったりするばかりで、こうした、親しい人同士で気楽に会話を楽しむような、そういう店からは遠のいていた。

だいたい、坂本氏の日本に帰ってきてからの食事事情といえば、接待・ミーティング・密談・歓送迎会・親睦会・見合いというような感じで、うまいものでも食べ続ければ食傷気味、といった感じである。ほぼ、仕事にすべてを費やしているため、こうして、仕事が絡んではいるものの、昔からの知り合いと食事に行く、ということは日本に帰ってきてからは初めてのことである。

だから、坂本氏は、今晩の店を決めるときに、そばにいた女子社員にリラックスできて食事のおいしい店、ということで紹介してもらったのだ。聞かれた女性のほうに、過度の期待をそのとき抱かせてしまったことは否めないが、若い女性が薦めるだけあって、なかなか落ち着くいい店である。



「それじゃあ、再会を祝して、乾杯」

と、グラスを合わせる。仕事あとのビールはひときわうまい。このために働いているのでは、と思う瞬間である。

一息で飲んで、ひと心地ついてから、

「今日は、急に誘ってしまったけれど、うちのほうは大丈夫だったかい?」

と板橋氏に確認してみる。なぜなら、板橋氏の左手の薬指にはしっかり指輪がはめられていたからだ。

「はい。耕平にも、坂本さんと飲んでくるって、電話して言っておきましたから。もう、電話口でいろいろ騒いで大変でしたよ。」

といって、にっこり笑った。うすうすというか、きっとそうであろうと思っていた通り、板橋氏は、どうやら等々力氏と結婚しているようだ。ついうっかり、

「なに、たれ目とまだ続いているのか。」

とぽろりと言葉が飛び出してしまった。そんな坂本氏の失言に、気を悪くした風でもなく、

「俺、高校卒業してから、すぐに結婚して、耕平のうちに引っ越して、大学の工学部に入学してマスターをとったんです。」

と、一通りの説明をしてくれた。めでたく、彼らの愛は実を結んでいたらしい。まあ、あの等々力氏の板橋氏への愛という名の情熱がそうそう枯渇するとは思えないが。

あとは、問わず語りで、酒と食事を楽しみながら、今まであったことを話していく。

板橋氏は、大学で新素材燃料の開発・研究に携わっているゼミに入り、そこで超小型軽量燃料の開発に成功している。成功しているといっても、板橋氏だけの成果ではないのだが、中核を担ったことは確かだ。この燃料の特性は、ビデオデッキ等電化製品は、使用しているとどうしても熱を持ってきてしまうが、その熱が発生しない、というところにある。そのため、熱を冷却したり散らすファンをつける必要がなく、今後の製品化が非常に期待されるものである。その開発が縁で、就職の際に、坂本氏の会社にある研究所に就職したのだ。しばらく、そうした板橋氏の話す仕事について耳を傾けていたが、坂本氏はハタと気がついた。

「なあ、もしかして、研究職の君が、私のところに秘書としてくるのは、その研究の一線から私のせいではずされてしまったということなのだろうか。」

と。坂本氏の父は特に過保護というわけではないが、坂本氏への援護射撃として、こうして昔の知人という板橋氏を連れてくる、ということは考えられないことではない。何も知らないふりをしながら、結構なことまで調べているものなのだ。特に策略というわけではなく、配慮ということはわかるのだが、今回の人事については、板橋氏のおそらく仕事の生きがい・やりがいを取り去ってしまいかねない。研究職から秘書へチェンジなど、なかなかに普通の人事ではないのだ。

「いえ、そんなことないです。というか、研究のほうも一応ひと段落着いて、どちらかというと製品開発のほうに主眼が置かれるようになっていて、今回の人事では、坂本さんの秘書業務をしつつ、技術的に、坂本さんをサポートするようにというお話を伺っているのですが。」

ということらしい。そういわれれば、坂本氏が受け持っている部門の中に、板橋氏が所属していた研究所も含まれていた。まだまだ、自分の仕事についてすべてを把握しきれていない。確かに技術系の内容については門外漢のため、こうした技術面でのサポートをしてくれる人物はありがたい。

「猛君が納得しているのならいいんだが、もし、研究所に戻りたい場合はいって欲しい。すぐにはさすがに外聞が悪いからできないが、一山越えたら戻れるように手を尽くすから。いろいろ、面倒かけると思うが、よろしく頼むよ。」

といって、坂本氏は、板橋氏に手を差し出した。

「はい。こちらこそふつつかものですが、よろしくお願いします。」

と、頼もしく答えて、板橋氏はぎゅっと手を握り返してきた。



「でも、坂本さん、元気そうでよかったです。本当に、ぜんぜん音信不通になったから、みんなで心配してたんです。」

と板橋氏に言われ、坂本氏は、非常に耳が痛かった。確かに、10年近く日本には連絡をいれていなかったのだ。

「いや、心配かけて申し訳ない。」

そういうより他はない。おそらく、彼らは自分のことを本当に心配していたはずだから。ほとんど逃げるように日本をあとにして、誰にも何も言っていかなかったのだ。だから、高杉氏に連絡を入れるのもたたらを踏んでしまったのだ。だから、ここで板橋氏に彼らの近況を教えてもらうことにした。

高杉氏・緒方氏も結婚しており、いまは目黒ではなく、月島のほうに居を移しており(緒方氏が花火大会のときに、ベランダから花火を見たいと主張したらしい。)、それぞれ前から勤めている会社でバリバリ働いているらしい。ついでに高杉氏の携帯電話の番号も教えてもらった。いい加減、逃げているわけにはいかない。まあ、ここで板橋氏と飲んだから、その内容は瞬時に彼らに伝わるとは思うが。

そうして、昔の溝をある程度外観だけ補強して、その日は別れた。まあ、互いにとって、有意義で、楽しい夕べだったことは確かだ。

坂本氏は、きっと板橋氏となら気持ちよく働くことができるだろうという手ごたえを感じることができた。



こうして、坂本氏に秘書がついたのである。

その座を狙っていた乙女は、みんな涙節になったが、大方の乙女は、坂本氏と板橋氏が並んで打ち合わせをしたりする姿を一目見ようと、群がった。

中には、

「次期社長と男秘書・・・」

と、何か、いろんな妄想のつばさを羽ばたかせているものもいたが、もしその内容を等々力氏が聞きつけたら、

「秘書なんて辞めろ、会社なんて行かせない!!!」

とひと騒ぎあること請け合いである。

まあ、幸い、そんな話が、等々力氏の耳に届くこともなく、ましてや、坂本氏と板橋氏の間にそのようなときめきが発生するわけもなく、スムーズに二人の協力関係はスタートした。





つづく。



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