今日の就業時間が終わろうとする頃に、受付より来客を次げる旨の連絡があった。

本日の来客予定はもうなかったし、こんな遅くにどこのどいつかと、坂本氏は若干不機嫌になったが、来客の名前を聞いたら、それどころではなくなった。

やってきたのは、ハットリコーポレーション勤務の高杉氏だった。

おそらく、高杉氏は板橋氏にあらかじめ、坂本氏の予定を聞いていたに違いない。



逃げたい・・・

坂本氏は冷や汗をだらだらかきながら、高杉氏が受付からこちらに案内されてくるまでの間に、そう思った。

もう板橋氏と働き始めて1ヶ月以上経過しているというのに、坂本氏は高杉氏に連絡もせずに、そのままでいたのである。

おそらく、向こうが何らかのアクションを待っていただろうことは想像に難くない。そして、今日わざわざやってきたということは、高杉氏が業を煮やしたということに他ならない。

わざわざ会社にやってきたことでもそれが伺われる。自宅なら、何食わぬ顔をして居留守ができるが、会社だとなかなかそれはできない。まさか、昔の友人がきたので、都合が悪いからばっくれる、などということはできるはずないのだ。

高杉氏からの「逃げるなよ」という無言の圧迫が、坂本氏の上に重くのしかかる。

こういうときの高杉氏は、容赦がなく、絶対敵に回したくない、常々坂本氏は思っていたのに、すっかり忘れていたらしい。

忘れたままずっといければよかったのだが・・・

扉の外からノックされる音がする。坂本氏は、ようやく、いつかは通る道と腹をくくった。



久しぶりに会った高杉氏は、若さと風格が同時に存在する、いかにもピリッとしたサラリーマン然としていた。

にっこり笑うビジネススマイルも堂に入っており、どんな不測の事態にでも内面の変化はともかく、表には出さないでいられるくらいの経験と、仮面をかぶっているようだ。

サラリーマンにも女優のように1000の仮面をかぶらなければならない場面が多々発生するのだ。

高杉氏は、そうなると、さしずめサラリーマンの名優の領域に足を踏み入れているようだ。

にっこり笑っているのに、えらく圧迫を感じるのは坂本氏が後ろ暗いだけではないだろう。

蛇ににらまれたマングースである。

苦しまぎれに、最初から電話ぐらい入れろ、と坂本氏が悪態をついても、どこ吹く風で、取り澄ました様子で、名刺を差し出してくる。

名刺を渡されると、条件反射のように交換してしまうのがサラリーマンの性である。

高杉氏の役職には「課長」とかかれていた。36歳・一部上場企業の昇進スピードからするとかなり早い、というところか。このまま順調に営業畑で昇進していけば、45歳くらいには部長で、もっとうまくいけば50を越えたあたりで役付きになれるかどうか。まあ、高杉氏ならうまくやりそうだが。

坂本氏が名刺を見ながらそんなことを考えていると、高杉氏はものめずらしそうに坂本氏の役員部屋を見回して、

「すごいな、坂本。もう部屋持ちか。」

といってきた。

「まあな。風当たりがきついが、楽チンでいいぞ。」

と、若干渋そうな顔をしつつも坂本氏は答えた。話の接ぎ穂に困って、

「コーヒーでも飲むか?」

と聞いてみる。生憎、板橋氏は別の用件で席をはずしており、もう今日は戻ってこない。かといって、そこいらにいる女子社員に頼むには、時間が遅く、あまりいい顔をされないに違いない。

(実際には、高杉氏くらいの色男がやってくると、色めきたっていれたがるものだし、坂本氏の要請を断る女子社員はこの社内ではそうそういないだろう。)

そのため、坂本氏は、相手は高杉氏だし、まあいいかと、若干の私物をしまっている棚から、コーヒーメーカーを出して、自分でいれ始めた。休日出勤してきたときに、自販機で購入すればいいものを、何とはなしに、一人部屋を満喫したさにうちから持ってきたのだ。(コーヒーの匂いが部屋一杯に充満するのを堪能したかったらしい。)

急に棚を開けだした坂本氏の行動にも特に驚くことなく、あまつさえ、棚の中を一緒に観察して、

「お前、こんなにおやつ詰め込んで、いつ食べるつもりなんだ。」

と、あきれて言うあたりは、やはり20数年来の友人である。

高杉氏の来訪は、特に坂本氏にビジネスの用件があったわけではなく、他の部署に訪問したついでに、戻ってきたにもかかわらず、いつまでたっても電話を入れてこない友人に不義理をなじりにきたらしい。

坂本氏が入れてくれたコーヒーを一口飲むと、高杉氏は、にっこり笑いつつ、本題とばかりに

「世界がグローバル化してるっていうのに、天下のサカモトの取締役本部長は、日本に戻ってきても電話もメールの1本もよこさないときている。どんな原始的な世界にタイムスリップしてたんだが。無事に生きて戻ってきたからいいものの。次どこかに行くときは、ちゃんと一声掛けてから行くように。」

と、釘を刺された。耳が痛い所ではない。この友人はかなり怒っているらしい。

顔は笑っているが、内側から発せられるオーラがブラックだ・・・

昔から、この友人の筋道だった怒りに坂本氏は弱かった。いつだって分が悪いと思わずにはいられないのだ。

だから、正直に謝ってしまう。いつもそれで丸く収まってきたから、一種の様式化したコミュニケーションのようなものだ。

それで10年間不義理にしていたということも、何もいわずにいなくなってしまったということも水に流そうというのだから、高杉氏も気風がいいというか、なんというか、そういう時は昔からの知り合いというのはありがたいものである。

まあ、三つ子の魂百まで。青春時代をともに過ごしたという強みは、よほどのことがない限り有効らしい。

が、そんな高杉氏もやはりまだいい足りなかったようで、

「緒方君やらみんなにえらく心配かけたんだから、ちゃんと謝れよ。」

と強く念を押してきたのだ。それには素直に、「ああ」と答えて、あとはそれまでの空白を埋めるように色々なことを話した。

といっても、坂本氏の空白といわれる話の大きなものは、方々のパーティーで誇張されたりして伝聞で聞いていたらしい。いまさら、そんな話を高杉氏にする気もない坂本氏は、主に、高杉氏の近況を聞きたがった。

すると、

「論より証拠。今日は緒方君が手料理を用意してお前を待ってるから、このまま行くぞ。」

と、有無を言わさず、そのまま連行されることと相成った。

坂本氏の晩の予定なども、しっかり板橋氏に確認済みだ。

やはりできる男は手回しがいいのである。



つづく。



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