『八代郡誌』には、「征西将軍懐良親王、高田御所御在館の時、常に当社より吉野の行在所を遥拝せられ、社殿の修復を営み、随従の諸士に命じて石段四八段を献納せしめ給う。故を以って遥拝宮と称す」とある。
現存の石段に、いろは一二三等の文字の刻みが今なお残っている。しかし、征西府最後の高田御所に御在館あったのは良成親王でありこの宮に参拝され、吉野の皇居と阿蘇宮を遥拝して、国家の安泰を祈られたのは良成親王ではないかという伝えもある。
『球磨神社記』によると、戦国時代、洪水で流され、前期の杭瀬に引っかかった球磨遥拝大明神の御神体が、賀茂神社に祀られているのを知った相良公が田畑を寄付し、遥拝宮としたとある。このことは『八代郡誌』に「相良義陽公(第二五世)当社を崇敬せられること深く、神領二二九石、山林六町を寄付し、古麓・平山両城の祈祷所となせり」とあるが、これと関わりあるのかもしれない。
天正年間、小西行長により社殿等は焼却せらる。僅に御神体のみ白石神左衛門藤原惟照、社山に遷座す。寛永十年(1633)細川忠興公より社領が寄進され、社殿が再建された。
慶安元年には拝殿、承応元年には本殿を改築、元禄十三年に鳥居建立、嘉永五年には本殿・幣殿・拝殿・社務所が改築された。社号は賀茂宮から、木綿葉大明神・遥拝宮・そして明治維新後、豊葦原神社と改称し村社に列された。それらを詳明する資料が現存するかは知らないが、立ち木鬱蒼の境内地は、今も由緒の古さを偲ばせる。 |