ご祭神
ご祭神

由緒略記

 


 国道二一九号線バス停「遥拝」の近く、球磨川を見下ろす小高いところに当社はある。一般には「遥拝さん」と呼ばれているが、その由来は『八代古跡略記』に「諸説あぐるにいとまあらず、いずれが是なるや」とあるように諸書一定しない。

 『八代郡誌』によれば「天平宝字二年(758)天地地祇十六柱を勧請し、神護景雲二年、阿蘇三座の神を合祀して村の氏神とす」とあり、創建の年代については、『熊本県神社誌』も同年を記している。

『八代市史』では、名和義高が後醍醐天皇より元弘の恩賞として、八代の荘を頂き、建武二年(1335)河内義真が地頭代として八代に下向した。義真は荘園を守るため居城を古麓の上り山一帯に築き、八代城下に用水の取り入れ口として杭瀬を作った。これが遥拝堰の起こりで、これら用水施設の総鎮守として、南岸の高田山の麓に賀茂宮を勧請し、用水の守護と五穀豊穣の神と尊んだとある。

石段

 『八代郡誌』には、「征西将軍懐良親王、高田御所御在館の時、常に当社より吉野の行在所を遥拝せられ、社殿の修復を営み、随従の諸士に命じて石段四八段を献納せしめ給う。故を以って遥拝宮と称す」とある。

現存の石段に、いろは一二三等の文字の刻みが今なお残っている。しかし、征西府最後の高田御所に御在館あったのは良成親王でありこの宮に参拝され、吉野の皇居と阿蘇宮を遥拝して、国家の安泰を祈られたのは良成親王ではないかという伝えもある。

『球磨神社記』によると、戦国時代、洪水で流され、前期の杭瀬に引っかかった球磨遥拝大明神の御神体が、賀茂神社に祀られているのを知った相良公が田畑を寄付し、遥拝宮としたとある。このことは『八代郡誌』に「相良義陽公(第二五世)当社を崇敬せられること深く、神領二二九石、山林六町を寄付し、古麓・平山両城の祈祷所となせり」とあるが、これと関わりあるのかもしれない。

高田みかん

天正年間、小西行長により社殿等は焼却せらる。僅に御神体のみ白石神左衛門藤原惟照、社山に遷座す。寛永十年(1633)細川忠興公より社領が寄進され、社殿が再建された。

慶安元年には拝殿、承応元年には本殿を改築、元禄十三年に鳥居建立、嘉永五年には本殿・幣殿・拝殿・社務所が改築された。社号は賀茂宮から、木綿葉大明神・遥拝宮・そして明治維新後、豊葦原神社と改称し村社に列された。それらを詳明する資料が現存するかは知らないが、立ち木鬱蒼の境内地は、今も由緒の古さを偲ばせる。

ご利益


境内北

なまず信仰

 ナマズは日本全域に分布しており、古くから日本人に馴染みの深い魚です。
 ナマズといえば「地下の大ナマズが暴れて大地震が起こる」というように地震と関連付けられた伝承が有名ですが、九州においては古くからナマズを神の使いとして信仰する「なまず信仰」が存在します。

 神武天皇の孫神にあたられる健磐龍命は阿蘇にカルデラ湖があった時代、外輪山を蹴破って水を抜き田畑を造られたという伝説があります。その際、湖の主である大ナマズが水をせき止めたため、健磐龍命によって退治されました。(阿蘇伝説)
 現在大ナマズの霊は、当社を含め県内各地で祀られております。

 また、北部九州には白ナマズと美肌、皮膚病治癒に関する伝説が残っています。
 海神の娘・豊玉姫は傷ついた大ナマズを不憫に思い温泉をかけてあげました。すると、大ナマズは見違えるように美しい肌の白ナマズになり、喜んだ白ナマズは豊玉姫の使いになりました。 その後、皮膚病がはやった際にそのナマズが人々を治癒したとのことです。(佐賀県嬉野の豊玉姫神社)
 
 当社でも白ナマズをお祀りしており、皮膚病の治癒にご利益があります。
 

お守り

 開運・家内安全・商売繁盛・交通安全・学業成就・厄除け・安産等の他、「運を開く開運玉の輿お守り」、「皮膚病平癒お守り」等、当神社ならではのお守りを取り揃えております。当社にお立ち寄りの際には是非お尋ねください。


絵馬
ナマズの祈願絵馬をご奉納いただけます。
皮膚病の治癒にご利益があります。
初穂料 500円です。
お守り
皮膚病除けのお守り。
初穂料 600円です。

地図


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