歴史紹介
龍洞山 永泉寺 (りゅうとうざん・ようせんじ)
開創 元和九年(一六二三・江戸時代前期)
開山 道叟道愛(どうそうどうあい)大和尚 (正法寺三世)
開基 本荘初代藩主・六郷兵庫頭政乗(政乗院殿茂道巨繁大居士)
本尊 聖観世音菩薩
六郷家家紋(六郷亀甲)
〔寺伝〕
永泉寺は、江戸時代初期の元和九年(一六二三)最上氏の重臣・楯岡豊前守の退去により、本荘藩主として入部して来た六郷兵庫頭政乗を開基とする寺院です。政乗公はかつての菩提寺であった仙北郡六郷町の永泉寺との因縁を慕い、藩主および家臣一同の菩提寺として開創されたと伝わっています。
この六郷氏は、鎌倉幕府御家人を代表する名門で、政所執事(庶務一財政担当)に任じた二階堂氏の一族として室町期に仙北に入部し、政乗の父・二階堂弾正道行の代に本拠としていた六郷を苗字とし、織豊期に"六郷衆"と称され活躍した武門です。
六郷氏は政乗の代の関ケ原合戦で徳川方となり、上杉勢についた雄勝平鹿の強豪小野寺義道と孤軍よく戦い、その功により慶長七年(一六〇二)常陸国府中(茨城県石岡市)一万石の大名となり仙北六郷から転封されました。ところが、この国替えで由利を領した最上氏の重臣・楯岡豊前守が、由利統治の本拠を赤穂津(亀田)から本荘に移し、本格的な城下町づくりに入った矢先の元和八年(一六二二)、主家最上氏のお家騒動による改易にともない退去するに及び、代って六郷氏が常陸転封二十年目にして、いわば"ふるさと帰り"の形で本荘に入りました。そして本荘藩創設に当って、父祖伝来の六郷・永泉寺との因縁を尊び、本荘に同名の寺を建立したというわけです。
六郷町の永泉寺は、同じ二階堂氏系の出身といわれ、名僧の誉れ高い道叟道愛禅師が、南北朝期の文和四年(一三五五)ごろ、真言宗寺院を改宗して開創したといういわれをもつ寺院です。道叟道愛禅師は『月の出羽路』によると、飯詰郷野守城主久米又左衛門行長の長男とされており、「藤原姓久米氏家伝系図」では二階堂美作治郎左衛門尉の長男とされています。いずれにしても中世六郷地方を支配した二階堂氏一族の武門に生まれたらしいのですが、十六歳にして六郷の真言宗實珠院で出家剃髪し、長じて峨山禅師(大本山總持寺二世)に参じ、師命を奉じて奥羽開教の錫を進める途中、故郷の實珠院の荒廃を憂い、これを改宗して「龍雲山賓珠院永泉寺」されました。そして陸奥国胆沢に永泉寺の本寺となる永徳寺を開かれ、時の東北の本山正法寺三世に請されたほどの高僧になられました。
こうしたことから、本荘に永泉寺を開創するに当り、父祖伝来の法脈を受け継ぐと共に、二階堂系六郷氏という同族出身である道叟愛禅師とのつながりから、同禅師を開山に仰ぎ、十世までの法系を世代に勧請し、六郷氏を慕ってきた旧知の華岳舜栄大和尚を中興開山十一世として開創されました。
爾来、初代藩主政乗から六郷氏十三代の菩提寺となり、本荘藩の僧録所として「法幢地」の資格を与えられ中核寺院の役割を果してきました。また大本山総持寺五院の輪番寺としても数多くの名僧を輩出して、今日に法灯を継いでおります。
〔寺宝・文化財〕
山門は永泉寺住職三十六世義門達宣の発願により、本荘藩十一代六郷政鑑の外護で、慶応元年(1865に)完成しました。 建物の規模は、高さ8.035m、桁行7.755m、梁間4.950m、構造は十二本の円柱による三間一戸、二層から成る楼門で、左右に仁王が配される仁王門です。
屋根構造は浅瓦葺入母屋造に入母屋(千鳥)破風付、本体は総欅材、軒は二軒、組物は一層が出組、二層が二手先で、当地方の社寺建築物の中でも重厚なものとなっています。 棟札によると、棟梁は尾留川惣助・竹内熊平、脇棟梁は安保左治兵衛、彫刻は庄内鹿之沢住人御船治喜二・遊佐村宮内の後藤幸二郎の作として知られています。
本建築は軒廻りを中心とした彫刻が特筆され、扉の「寒山捨得図」の他、一層の「獅子」「波に龍」「牡丹に獅子」「松に鷹」「池に亀」二層の「獏」「雲鶴」「鳳凰」「竜馬」「牡丹」などが虹梁や木鼻その他各部に施されています。
付随する文化財としては、彫刻では一層左右間の本荘の梅津巳之吉作の金剛力士(仁王)木造、二層内部の如来坐像、京都七条左京仏師作の十六羅漢、掲額では一層虹梁に義門達宣筆の「龍洞護国峰」掲額、六郷政鑑筆の「城西禅林」掲額があります。これらの他、本荘藩お抱え絵師の増田象江・牧野雪僊・鈴木梅山・阿部永暉の四名の手による二層内壁の極彩色の「天女」「鳳凰」図や一層格天井の花鳥図があります。
この山門の最大の特徴は、彫刻や絵画といった建築装飾が華美かつ優品であることで、「飽かずの門」とも呼ばれます。旧本荘藩内の他、庄内地方の工人たちによる地方的要素がわかる建築物であり、内部の文化財とともに当地方の近世末期を代表する仏教美術であることから、昭和43年3月秋田県有形文化財に指定されました。 山門建築後、明治35年、平成6年と二度全焼規模の火災に遭いましたが、山門だけは被災することなく現在に至っております。