聖ドミニコの手紙

 

朱門岩夫 訳

1999


序文

 

聖ドミニコは説教者であって、著作家ではなかった。彼はキリストと同じように、書き物による以上に、言葉と行ないによって他の人々に影響を与えた。彼の手になる四つの文書だけが、今日の我々に伝わっている。第一は、説教者会の原始会憲である。この原始会憲は、間接的に彼の考えを反映している。この会憲の言葉は、おそらくサクソニアのヨルダヌスのものであろうが、その考えと規定は、確かに彼のものである。他の三つの文書は、以下に紹介する書簡である。

第一の書簡は、1220年にマドリッドの修道女たちに宛てられた。ドミニコは、1219年にスペインにいたとき、托鉢修道士たちの説教によって修道的召命を呼び起こされた修道女たちに修道服を与えた。そのとき、ドミニコは、彼女らのための修道院を持っていなかった。彼女らは、最初の一年間、おそらく各自の家に住み、托鉢修道士たちの神の奉仕に参加するために、一日に数度、ドミニコの教会に集まったと考えられる。1220年、神父たちは、おそらく聖ドミニコの指示の下に行動し、自分たちの小修道院を修道女らに譲渡し、彼女らが共同生活をして、自分たちの回廊を確立することができるようにした。この出来事が、この書簡の執筆を促した。

第二の書簡と第三の書簡は、ドミニコがアルビジョワ派の支配地域で働いてきたときに、書かれたものである。この二つの書簡は、修道女たちに宛てた第一の書簡と原始会憲よりもはやく書かれたものであるが、我々は、それを後に置くことにした。それは、これら二つの書簡が短く、しかもそれらの書簡の事務的な性格が、後者の二つの文書ほどに聖人自身の思想を明確に反映していないからである。これら二つの書簡の内の最初の書簡は、ポンス・ロジャー(Pons Roger)にドミニコが課した償いの項目を載せている。ポンス・ロジャーは、「完成者」と呼ばれたアルビジョワ派の階級にかつて属していたが、真の信仰に回心した人物である。二番目の書簡も、同じアルビジョワ派からの回心者に宛てて書かれた。この書簡は、信者の現世的福利にも向けれたドミニコの配慮を映し出している。一般に、幼児期からカトリックであった者たちは、アルビジョワ派からの回心者たちへの対応が遅かった。トゥールーズの毛皮商人オットリヴのレイモンド・ウィリアム(Raymond William of Hauterive)は、その時、顧客を失いかけていた。なぜなら彼は、回心前はアルビジョワ派であることが一般に知られていたウィリアム・ヒュー(William Hugh)を雇ったからである。かつてウィリアム・ヒューは、この派に特徴的な衣服を身に着けていた。このことに関して、レイモンド・ウィリアムは、ドミニコに二つの質問を提起した。(1)償いの状態にあるウィリアム・ヒューを雇用することはできるのか。(2)もしも雇用することができるとして、この状態を示すこと(たとえば、回心した異端者であることを表示するために十字架のしるしを付けること)をこの男にさせるべきなのか。書簡から明らかなように、ドミニコは、前者の質問には肯定的に答え、後者の筆問には否定的な回答をしている。

 

 

本文

 

聖ドミニコの手紙(一)

聖ドミニコの手紙(二)

聖ドミニコの手紙(三)