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slowly slowly slowly


step by step   − 25 −








唯が居なくなった室内は、住み慣れた部屋であるにも関わらずとても寂しく感じられた。
・・・けれど、憑きものが落ちたかのような感覚もあり、私は大きく息を吐いた。
扱い慣れない感情。やはり私には馴染みにくいものなんだろう。
自分の部屋に戻ったということもあるけれど、体調が戻ってくれば穴を開けてしまった仕事のことも気になってくる。
体を起こして携帯に手を伸ばせば、まるでそんな気持ちに呼応するかのように忙しなく小さなライトが点滅している。

「連絡、しなくちゃ・・・」

でも、電話をかけるには・・・少し遅い気がする。
逡巡していた私を甘い香りが包んだ。
室内にほんのりと苺の香り。
昨晩、わざわざ家までお見舞いに来てくれた鈴木さん。でも、鈴木さんには連絡のとりようがない。今日のシフトがどうかわからないから、警備室に電話するのは躊躇われる。
心配してくれてるだろう人のいい鈴木さんの顔を思い浮かべて、今度差し入れをする時はちょっと奮発しなくちゃ、と考える。

それに吉原クンにも確実に迷惑をかけてそうだ。
昨日、資料室に返すこともしなかった資料の山・・・あれが吉原クンのデスクに雪崩を起こしてるんじゃない?
なんせそのあたりの記憶は曖昧だ。
課長に引きずられるようにして席を立った。
普段から散らかすことのない吉原クンのことだから、溜め息をつきながら資料を他の人の迷惑にならないように返却してくれただろう。
お礼を兼ねて飲みに誘おうか。彼女の誕生日に"プロポーズするかも"なんて話していたから首尾よく事が運んだのか聞けるかもしれない。もちろん、厭味の一つや二つは零されるだろうけれど。

次に思い浮かんだのカワイらしい後輩たちだ。
たまたまエレベーターに乗り合わせてしまったばっかりに、お粥まで作らせちゃったらしい。
唯が冷蔵庫にお鍋ごと入れてくれてるから・・・せめて一口くらいは食べておかないと・・・。
なんとも情けない姿を曝したんだろうな。
部屋に運ばれてすぐに着替えさせてくれたのも、弥生ちゃんたちだったのよね?
私よりずっと小柄な弥生ちゃんとその後輩を思い浮かべると、恥ずかしいというよりも、重かっただろうな、と申し訳なくなってくる。
どうせ服を脱がせるなら、可愛い弥生ちゃんみたいな女の子のほうが楽しそう・・・って、いや、さすがに私だって女の子を脱がしたりしないけれど。

「・・・あー・・・でも・・・昔は唯をよく着せかえて遊んだな・・・」

可愛らしい"女の子"だった唯を思い出して思わず微笑む。
本当に可愛かったなあ・・・。
"唯ちゃんひとりでお着替えできるのに"って膨れるのがまた可愛かったんだよね・・・

『着替えさせて、唯・・・』

不意に脳に浮かぶ甘えた声。
そして、困惑したような・・・・

『・・・理子、わかってる?俺、弟じゃない、よ?』

唯の声。

――!?
・・・ちょ・・・ちょっと待って・・・

これは、なんの記憶? ・・・いつのことよ?
問いかけながら、思わず今着ているパジャマを見つめた。
季節外れのワッフル地のパジャマ。
これを自分で着た覚えはない。
体中が痛かった。
自分で無意識に着替えた、なんてことは・・・ないだろう。
それならば、この記憶の言葉は。

「うあぁぁ・・・」

しっかりと記憶があるわけではない。故に、断片的な記憶は酷く、その、アレで。
そりゃ、今までだって唯の前で平気で着替えてはきたけれど。
あいたた・・・と思わず頭を抱えてしまう。
これじゃ、呆れられて当たり前だ。

そんな醜態を曝した私は、そのあとようやく気付いた自分の気持ちを唯に伝えた。

な、なんて間抜けなのっ・・・!

急速に体中の血が沸騰したみたいに感じた。
呻き声をあげながら、ひとりソファーの上で膝を抱える。
ひとしきり羞恥に身悶えて、それでもいつしかそれすらも凌駕する温かな優しさの中に自分がいることに気がつく。

どんな姿を曝け出しても、唯は――私を受け入れてくれる。

ぎゅっと自分を抱きしめて、小さな幸福感ににやけてしまう。
そんな自分に「イヤイヤ、そうじゃなくて!」と突っ込みを入れる。
自分の思考の脱線ぶりに肩を竦めた。

ええと、なんだっけ?
着替え・・・そうそう! 弥生ちゃんと川名さんの二人にも、何かお礼をしなければ。
食事に誘おうか? 
それとも弥生ちゃんお気に入りの”蒼クン”のいるあのお店に行く?
川名さんは・・・紺野課長が好みって言ってたような? 合コンでも設定しようか?
けれど、その思いつきに首を横に振る。ちりりと胸が痛み、あまりに自分の考えが傲慢だと反省した。
それに、今のこの状態で、"蒼"に逢う自信はない。
他の案を考えよう。
それにしても、・・・課長、もてるんだ・・・。
わかる気はする。
今の彼は、本当に優しいから・・・。
唯以外、こんなにもプライベートに入り込んできた人はいなかった。
好きになりたいと思えた人。
でも、私は自分の感情に気づいてしまった。
課長に、謝らなければいけないだろう。

心配そうに覗き込む彼の瞳を思い出して、苦しくなった。
こんなにも、誰かに対して罪悪感を抱くのも、初めてかもしれない。

ソファーにもたれながら、消化しきれない想いを持て余す。
泣きたくなるくらいの愛しさや、自分ではどうしようもできない感情が胸の中でぐるぐるする。

ああっ!もう!!

けれど、そのまま溺れてしまうことはできなかった。
つくづく、恋愛には不向きな体質なのだろう。

次第に課長への罪悪感は焦燥へ姿をかえ、私に関わったことで仕事に支障をきたしたのではないか? とわが身を呪いたい気持ちにさせた。
課長のことだから、仕事に響くような公私混同はしないはずだけれど。

携帯をひとまずソファーに放り、ソファーから滑り降りて閉じられているノートPCを開いて起動ボタンを押した。
それから先ほどダイニングのイスからソファーの脇に唯が移動させてくれたバックを引き寄せ、手帳を引っ張り出す。
課長、プレゼンは明日だったはず。
今回、私はそのプロジェクトには参加していないものの、昨日しっかりまとめきれなかったプロジェクト案の練り直しや、打診されていた企画書の提出は迫っている。
これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
私は、私の仕事をきっちりこなさなくちゃいけない。

携帯の不在着信やメールにひとつひとつ目を通し、容態を案ずる弥生ちゃんや吉原クンや部内の同僚には、お礼と明日は通常出勤する旨をメール送信した。
すぐに弥生ちゃんから"よかった!"とレスポンスがあり、吉原クンや部内の面々からは"無理しないように"と返事が返ってきた。
みんなマメだなーなんて感心しながら、課長からメールがなかったことに気付く。
多分、返信したり連絡したりしなくていいように、と気遣ってくれたのだろう。

私はPCに向かい、熱が下がったこと、明日は出勤できること、看病してもらったことへの感謝の気持ちを簡潔に記すと、課長のPCアドレスに宛てて送信した。
数秒後、携帯がブーンと音をたてて震えだし、電話着信を伝えた。課長からだ。

「はい」
『ああよかった・・・! メール、届いたよ。熱が下がったんだね。』

私が応答すると同時に、課長はほっとしたように言葉を吐きだした。
声が少しだけ拡散して聞こえる。

「ご心配おかけしました。・・・まだ会社ですか?」

PC画面の表示を見つめ、私はふうと息を吐く。
22:57。
残業しているかも、とPCのアドレスにメールしたわけではなく、むしろすでに帰宅してリラックスしているのに無粋な真似はしたくなくてPCへメール送信したのだが。

『ああ。でも、電源を落とそうとしていたところだったんだ。ちょうどよかったよ。電話しようかどうしようか、迷ってたんだ。』
「お疲れ様です。」
『まだ、声が辛そうだね。何か・・・イチゴは食べれたの?』
「はい。」
『まだお粥は食べれない?』
「え? ・・・ええ。」
『そうか。ふむ。』

やけに納得した声に首を傾げる。
何故、私がお粥を食べれないことを知っているんだろう?

『回復に向かってるのは間違いなさそうだね。でもまだ無理しちゃダメだよ。』
「課長?」
『熱の後はイチゴしか食べれないんだろう?』
「そんなこと、口走っていた?」
『ふふふ。』

はあ、と情けなく答えるとまた空気が震えるような・・・忍び笑い。ちょっと悔しい。
何になのかはわからないけれど。 

『・・・まだ無理しない方がいい。』
それまでの面白がるような声色から一転、とても静かで重みのある声が耳の奥に甘やかに届く。

『今朝方まで熱が高かったんだ。今下がってるのだって、薬のお陰だろう? それは"治った"とは言い難い状況だ。』
諭すような言葉は、どこまでも私を思い遣る気持ちで溢れている。
わかっているのに頷けずにいると『明日熱がなかったら出勤してよし。あったらダメだ。これは上司からの命令。』と、びしりと言われた。
「課長・・・」
『いい? わかってると思うけど、この忙しい時期にまた理子に倒れられたら大変なんだ。他のスタッフが熱を出しても困るしね?』
痛いところを突かれて、私は渋々「はい」と頷いた。
私の答えに、課長は小さく笑う。

『いろいろ・・・話したいことはあるんだけれど・・・明日はプレゼンだし。どうしても理子は出勤したそうだから、今日はもうやめておくよ。』
だから仕事しようなんて思わず寝た方がいい。
課長の見透かしたような言葉に、私も苦笑する。
「そうですね・・・このお礼は、後日・・・」
『礼だなんて。僕が理子の傍に居たかった、それだけだから。それに、実際看病してくれたのは日浦君だったよ。僕の方こそ、彼にお礼しなくちゃいけないくらいだ。』
「唯に?」
何気なく呟いた一言に、課長は『そう、』と言葉を区切り『理子のナイト君』と続けた。
その言葉にどきりとして、私は携帯を落としそうになる。

『・・・理子、おやすみ。』

おやすみなさい、と言おうとしたのに、声が喉に張り付いてしまった。
すると、それまでの優しい声とは違う、どこか違和感を抱かせる声色で課長が囁く。

『弟クンに、宜しく』
「え?」

聞きかえした声は、彼に届かなかったのか?
携帯はぷつりと音をたてて切れてしまった。

「お、とう、と・・・?」

"日浦君"と課長は言った。
私と血の繋がりなんてないと、知っているということだ。
それでも、私と唯は姉と弟にしか見えなかったということだろうか?

待ち受け画面に切り替わっている携帯を見つめながら、私はしばらく何も考えることができなくなっていた。

「おとうと」

繰り返し呟いてしまう。
得体のしれない不安が胸に押し寄せていた。
唯のお姉ちゃんでいたかった。
でも、今はもう、お姉ちゃんでなんか居たくない・・・。





* * * * *






自ら再構築しようと、もう一度向き合おうと決心したはずだった。
ボスが絡んでくるのだから、面白くない話になることも予想していた。
まだ離れがたい理子を残して。

それなのに、と自嘲してしまう。
こんなことなら、理子の傍を離れるんじゃなかった。

奥まった部屋の中では、この店に相応しくない雰囲気が充満していた。
メンツが悪いんだろうとわかっているが、俺がどうにかできる立場じゃない。

「どこをどうしたら、そんな話が俺のところにくるんです?」
「そういうことは、彼に聞いて欲しいんだけれど? わざわざ来てくださったんだから。」

不機嫌に訊ねる俺を見ようともせず、やけにゆっくりとした動作でグラスをテーブルに置きボスは艶然と微笑んだ。
そして「音・・・ショウクンだってそう思うでしょ?」と、ソファーに寄りかかり欠伸を噛み殺していた音哉に向かって言外の圧力をかけている。
"あんた関係ないんだから、向こう行ってなさい!"

音哉はまったく気付かないフリで「えー?」なんて間延びさせた声を発してる。
これからどんな楽しいことが起こるんだろう? とわくわくしてるんだ。
「まあ、仕方ないんじゃない? 正式な依頼なんだし〜」
唇に載せる言葉を聞けば、この状況を楽しんでるのがバレバレだ。

「いや、まだ正式な依頼というわけではない。とりあえず、君の・・・日浦君の演奏を聞かせていただきたいのだ。いくら探しても見つからなくて・・・。ようやく見つけたと思ったら、ここでなければ君の演奏は聞けないと、雨宮さんが仰るので。」
苦虫を噛み潰したような渋面で正面から向けられる瞳は、胡散臭いものを見るような、この手の職種に嫌悪し見下す感情が表れていた。
音哉もその視線に気づいたのだろう。
「ここでは、彼は"蒼"クンというんですよ? Mr.X氏」
揶揄するように言いながら、音哉は長い脚を組み直した。
それまでのちゃらんぽらんな態度から一変し、横柄な態度でせせら笑って見せる。
ボスはそんな音哉の態度に、溜め息を吐きだす。

「・・・こらこら、わかってて言うんじゃないの。彼は・・・」
「いえ、Xで十分です。」
ちらりと音哉を見た彼は、無視すると決めたらしい。あえて名乗ろうともせずにボスの言葉を遮った。
それが音哉の癪に障ったのだろう。
「それで、蒼に何を弾かせたいの。本人にそのつもりもないのに、公開オーデションなんてホントいい趣味してる。」
音哉はますます不遜な態度で言いのける。
フォローする気になれないのは、俺もそう思うからだ。

「ここでは、ゲストのリクエストに応えて"なんぼ"でしょ。私も今日はゲストとして来てるのよ?」
「えー雪華(せつか)さんなんて、思いっきりここの経営者じゃん。大人ってズルイー! 」
「ええ、ええ。狡くなくて、どうやってこの世知辛い世の中生きてけると思ってんの? さあ、楽しませて頂戴?」
「世知辛くしてるのは、雪華さんみたいな狡猾な大人の所為だと思うんだけど? 」

好き勝手言ってなんだかんだ楽しんでる二人とは対照的――この店では浮きまくっている神経質そうな初老のX氏は、そんな音哉をどこまでも無視して俺を睨めつけている。

そんなに気に入らないなら、放っておいていただきたいのだが。

「今までこそこそと隠れてるからでしょう? あんなに鮮烈なデビューをしておいて、音楽界から消えちゃうんですもの。」
「デビューなんてしていませんよ。」

この話の流れについていけず、冷めた口調になってしまう。
俺は営業用の笑顔を持ち出して「人違い、ではないですか?」と首を傾げて見せる。
認めたくないと全身で拒絶している彼に促してみる。
何も、俺にこだわる必要なんてないはずだ。

けれど「・・・いいえ。僕もあの時、あの場所にいましたから・・・」と、それまでの嫌悪を忘れたかのように、憐みをこめて正面に座る彼は目を細めた。その瞳の意図することに、俺の中で不協和音が鳴り響きだす。

ああ、そうだった。
確かに彼は、あの場所にいたのだ。

俯きかけた俺の顎がぐいっと華奢な人差し指で持ちあげられる。そこにはボスの"ほら見たことか"と言った見慣れた表情が待っていた。
同情と、憐憫。
俺が忌み嫌うその感情を湛えながらも、その瞳の奥でくすぶる強い意志が俺を射ぬいていく。

「あのこ・・・涙(るい)が言ってたわ。"なんで壊れてしまった音なのに、こんなにも惹きつけられてしまうんだろう"って・・・」

人形のようなガラス玉の瞳。生きているのが不思議なほど、何も映さない瞳。
それなのに、鍵盤に触れた指は多彩な音色を奏でる女(ヒト)。

面影をボスに重ねて首を振る。
よく似ていても、ボスは彼女ではない。彼女もまた、遠い世界に旅立ってしまったのだから・・・。

ボスが零したその名前に、音哉の肩がぴくりと反応する。
それを視界の端に捉えながら「・・・それで? 」と呟く。
感傷に浸っていた男は、俺の声に「え? 」と一瞬視線を彷徨わせ、スポットライトを浴びて佇む父さんのピアノをじっと見つめた。
まるでそこに何かが宿ると言いたげな、信仰に似たような面持ちで。

「それで、何をリクエストするのですか? 」

これがここでの仕事だ、と言われてしまえばそれまでだ。
彼の求める音色を奏でられず、希望を叶えることができなくても。
神などいないのだ、と、絶望に追いやってしまうかもしれないけれど、ね。

ピアノを見つめたまま静かに考えこんでいた彼は、ゆっくりと顔をあげて俺を見据えた。

「日浦君が、最期のリサイタルで弾いた曲。ショパンの・・・ポロネーズ 7番 変イ長調 作品61」
「・・・幻想ポロネーズ」

無言で立ち上がると、音哉が「・・・悪趣味だ・・・」と目を閉じてソファーに沈み込んだ。

「ここには楽譜(スコア)は・・・?」
「必要ありませんわ。"日浦 悟"が弾いた曲なら、すべて彼の頭の中に入っているはずですから」

そんな会話を背に、ピアノに向かって歩きながら「確かに悪趣味だ」とひとりごちる。

この曲を弾き、父さんは旅立った。
本当に悪趣味だ。


俺は理子の元へ帰れなくなるような・・・そんな予感に囚われていた。










2010,4,30



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