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「別れ」は突然やってくるんだと、私はそれまで知らずにいた。
なんの前触れもなく、予感もなく、引き離されることがあるなんて、知らなかった。
その失われていく過程もなければ、焦燥感すら抱かせてもらえない。

ただ、今まで灯されていた光が、消える。
暗闇に突き落とされる。

突然。

光を失って、初めて気がつく。
その光の温かさや優しさに。
どれほど暗闇を明るく照らしてくれていたのかを。





青空の向こうで、待ってて  〜 中編





「こんばんは」

帰省している間、私は何度か夕飯を作ることになっていて、今日は前もって残業だと言っていたお母さんに代わって腕を奮った。・・・といっても、私が作れるものなんて限られていて、今日は無難に水炊きにした。
あーちゃんと私、おじいちゃんとおばあちゃん、そして帰宅したばかりのお父さんと鍋を囲んでいた。
余程のことがない限り、失敗することはないメニュー。
お母さんの分はタッパーに入れてキープしてある。
一人暮らししていると、こうやって鍋を囲むなんてできなくて。
ここに居た時には、いつも誰かが居ることが少しうざったく感じて、早く家を出たいと思っていた。それなのに、やはりこうしてみんなの顔を見ながら食べる食事は美味しく感じるのだ。

「こんばんは」

玄関先から聞き覚えのあるしわがれ声がする。
先ほども聞こえた気がしたけれど、呼び鈴がならなかったから聞き間違いかと思ったのに。どうやら本当に来客らしい。
耳が随分遠くなったおじいちゃんとおばあちゃんには、まだこの声は届いていない。
いつも回覧板を持ってくる、向こう隣りのおじいちゃんの声だ。

「はーい」

父さんが手にしていた缶ビールをテーブルに置いて、リビングから廊下に出て行った。

「誰か来たのか?」
「風間のおじいちゃんみたいよ」

お父さんが玄関に向かったことに気がついたおじいちゃんが、私の顔を見て複雑な顔で訊ねた。

「わからなかった・・・」
「チャイム鳴らしてなかったから。俺もわからんかったし。」

あーちゃんは大きな声で言って、鶏肉を頬張る。
聴力が落ちたことを気にしているおじいちゃんを気遣う言葉に、私も頷いた。

「私も聞こえなかったよ。お父さん、よくわかったね。」

おじいちゃんは少しだけ口元を緩めて「そうか」とほっとしたような顔をした。
おじいちゃんは自分の体が人一倍丈夫なことが自慢で、だからこそ衰えを隠せない聴力や視力のことは特に気になるようなのだ。

「今日の夕飯は美味しいなぁ。」
「私が作ったから?」
「っていうか、姉ちゃんも一緒だからだろ?」
「みんな一緒が一番だ。」
「母さん居ないじゃん。」

本当に、いつも通りの時間だった。
おかわり、と茶碗を私に渡すあーちゃん。おじいちゃんは気分がよほどいいのか、珍しくビールを飲み始めた。
おばあちゃんはそんなおじいちゃんに「飲みすぎないでくださいよ」と小さく笑って・・・。
何故わざわざ東京に出たりしたんだろうと、一年前の自分に問いただしたくなるくらい、優しい時間に微笑んでいた。

「え!?」

突然、お父さんの驚いたような声が玄関先から響いた。
思わずあーちゃんと顔を見合わせる。
お父さんが大きな声をあげるのは私たちを叱るときだけ。

「そんなっ・・・何かの間違いじゃないんですか!?」

動揺を隠しきれないお父さんの声に、私たちは互いに眉を顰めた。
明らかにおかしいと、私の中で得体の知れない不安が広がっていく。

「それで!?岳は?」

"岳"とは月人のお父さんの名前だ。
お父さんと月人のお父さんはそれこそ幼馴染だ。

(月人の家で何かあった?)

ついにあーちゃんが立ち上がり「親父、どうしたんだよ」とリビングから玄関先へと出て行った。
風間のおじいちゃんが来たということは、ご近所で何かあったということで、お父さんのあの驚き方と零れた名前。
月人の家で何かあったらしいということが推察された。
窓越しに月人の家の方を見る。
すでに日が落ちた暗闇の中、いつものように家の電気が点いているだけのように見えた。

「今時分に・・・なんだろうねぇ・・・誰か亡くなったんだろうか・・・?」

流石におばあちゃんの耳にも声が届いたらしい。
おばあちゃんはお箸を置いて椅子から立ち上がった。

「ここのところ、誰かが調子悪いって話もなかったし・・・」
「そうだな。入院してる佐々堀さんだろうか?」

おじいちゃんの話におばあちゃんは深刻な顔で頷いて、ダイニングから出ていった。
二人にはお隣の家だというところは聞こえていないようだった。
"違うよ"と伝えたかったのに、声にならない。
まだ何が起きたのかわからなかったけれど、今までこの部屋を包み込んでいた優しさはそのままに、ひたひたと忍び寄る冷たさに不安で鼓動が速くなっていく。

「・・・・嘘だろっ!?」

あーちゃんの声に、それまでかろうじて残っていた幸福の名残りがぱちんと音をたてて割れた。

「冗談っ!俺、さっきまでメールしてたし!」
まるで罵倒するように声を荒げるあーちゃんに、お父さんが「アキ!」と制止する声。
「冗談だったらどんなにいいかっ!」と風間のおじいちゃんの呻くような声。

(え、なに?)

ぱたぱたと不自由な足をそれでも懸命に動かすおばあちゃんの足音が近づき、ダイニングに戻ってくる。

「岳ちゃんのっ、岳ちゃんとこの月ちゃんがっ」

(え?)

名前を聞いて、予期せぬ展開に心臓が壊れたように脈打ちだす。

(月人!?)

握りしめていたことも気づかなかった手のひらに爪が食い込む。
じわりと広がる恐怖で息が苦しくなる。
聞きたくないと私の頭の片隅で声がした。

(事故、とか?)

わかってはいたつもりだった。
事故では、事故だけでは、こんな隣近所の人たちが夜に知らせに来たりはしないんだって。
どくんと胸を突き破るかのように、心臓が強く強く跳ねる。

「今・・・・月ちゃんが・・・・な、亡くなったって」

ひゅうっと、息をのみ込む音がした。それが自分の喉と肺からでた音だと気がついてまた驚く。
背筋がぐいっと伸びて、そのまま空気の塊が喉に張り付いたように止まった。
身体が強張り、狼狽えているおばあちゃんの目を凝視した。
息を吸い込むことも、吐きだすこともできず、次第に指先が冷たくなっていく。

(ナクナッタ・・・?)

酸素がいかなくなった私の脳は、「ナクナッタ」という言葉に漢字をあれこれあてはめようとして、小さなパニックを起こしていた。

(無くなる・・・?なくなるって・・・なくなるって・・・・!?)

「月人って・・・・何かの間違いだろう?じいちゃんじゃないのか?それとも岳ちゃんが・・・」
「学校で、倒れたんだって。そのまま、病院で亡くなったって。なんで・・・なんでこんなことが・・・こんな老いぼれが長生きさせてもらってるってのに、なんで・・・・」

(亡くなる・・・)

おばあちゃんは半ばパニックしていて「早くお母さんに連絡しないと」と言いながら、電話をかけようとしている。
玄関先でバン!と乱暴に扉が開けられる音がして、誰かが駆けていく音がした。
おじいちゃんも蒼白になり「何かの間違いだ」と呟きながら、玄関へ向かった。

(ナニヲイッテルノ?)

私は湯気の上がる鍋に視線を落としたまま、自分の身体が銅像のように固まってしまったように思えた。
目に映るすべてがよく見知っている場所だというのに、見知らぬ場所に置き去りにされてしまったかのようだった。
玄関からは、風間のおじいちゃんの訛りの強い声が開け放たれたドアから聞こえてきていた。
何もかもがあまりにも現実離れしている。

「学校って・・・休みに入って・・・」
「ほら、なんだったか・・・バレーボールって言ってたか、練習に行ってたって。それで練習中に急に倒れたらしいんだ。」

足元に広がった暗闇に、私は立っていられなくてそのまま飲みこまれる。あまりの恐怖に上手く動かせない強張った手で、それでもなんとか支えが欲しくて、椅子の背もたれに触れた。
震えた手では上手く背もたれを掴めず、ガタンと派手な音をたてて椅子が転び、私は支えをなくしてその場に座り込んでしまう。
おばあちゃんが持っていた受話器を転がし、びっくりした顔で私を見ていた。
そして這うようにして私のところまで来ると「大丈夫かいっ!?」と肩を抱かれた。

(待って・・・みんな何言ってるの?)

痛みも何も感じなかった。
おばあちゃんのかさかさの手が私の頬に触れ、その指先からあたたかさを感じて・・・。
それが引き金だった。
私は縋るようにおばあちゃんに抱きついた。

(これは本当のことなの!?亡くなるって、死んじゃったってことなんだよ?)

叫びたいのに声がでない。
心の中で声にならない声は、ただ一つの言葉を連呼する。

"嘘だ!"

"嘘だ!"

"嘘だ!"

「〜〜〜っ!!!!!」

内側で何かが弾け飛んだ。私という入れ物の中で。
目を閉じることもできず、溢れてくる涙で視界が霞む。
おばあちゃんの頼りない肩越しに、リビングの大きな窓越しに月人の家の方を見つめる。
瞳を開けていても、夢を見ているようだった。
だって、まるでそこに居るかのように月人の背中が見える気がした。

今思えば、こうしてガラス越しに私は月人を見つめていた。
何年も、何年も。
あーちゃんと遊ぶ姿を、家の手伝いをしてる姿を。
視界の端にいつも捉えていた。
振り向いて笑う顔、横顔、照れたような苦笑いを浮かべる顔。

「やだ・・・」

喉が破れそうなほど痛くて、それでもどうしても声に出したくて、そうすればまるで悪い夢から覚めるのだと思いながら、私は絞り出すように声をあげた。

「いやだ、いやだ!月人が居なくなるなんて・・・・っ!!」

声に出すと、それまで強張っていた身体に不意に力が入った。
何かに突き動かされるように、私は立ち上がった。

(確かめなくちゃ・・・こんなのは何かの間違いに決まってる)

ダイニングテーブルの上にあーちゃんの携帯が置かれていた。
私は咄嗟に携帯を手にして、着信履歴を辿っていた。
月人の名前は上から3番目にあった。日付から、昨晩月人があーちゃんに電話していることがわかる。

(そうだよ、あーちゃん言ってたじゃない。"さっきまでメールしてた"って。)

私は履歴から月人の番号をリダイヤルして耳に押しあてた。
ピ・ピ・ピ・ピ・ピ、とやけに明るい電子音が響き一拍間があく。
そのわずかな間に息を止める。
先ほどから上手く酸素が頭まで届いていないせいか、こめかみのあたりが微かに痛んでいた。
呼び出し音が響きだすと、今度は心臓が激しく乱れだした。

(どうか、どうか!月人、何かの間違いだって・・・電話に出て!声を聞かせて・・・!)

繰り返される呼び出し音。
1コール1コールの狭間に願いをこめて、ただ一人の声を求める。
その永遠とも一瞬とも思える時間、私は芽生え始めていた月人への想いをはっきりと意識していた。
心が焦がれて愛しさが溢れる。

(好きだよ、月人、大好きなの。たとえ月人が誰かを好きでも、それでも月人が好きだよ!)

続くコール音。

(月人、お願い!月人、でて!)

ふと、規則正しく響いていたコール音が途絶えた。私はギリギリのところで繋ぎとめられた希望に「月人っ!」と携帯に向かって声をあげた。
よかった、間違いだったんだ!と心から神様に感謝して。

「留守番電話サービスに接続します。メッセージがのある方は・・・」

一瞬、安堵しかけた私の心がぎゅっと握りつぶされる。
呆然とする私の隣でおばあちゃんが「月ちゃんかい!?」と一縷の望みに縋るように見ている。
耳元で"メッセージをどうぞ"という音声ガイドが流れて、急かすようにピー音が鳴っている。
私は震える声で取り落としそうになる携帯に語りかける。月人が聞いてくれることを願いながら。

「月人、これ聞いたら、電話して・・・私、やっと気づいたんだよ・・・だから・・・あの約束・・・」

そこまで言って、涙が再び溢れだした。
一年前の月人の言葉。
声も息遣いも、まだ覚えている。
あの日の風の暖かさも、急に冷たくなったことも、風の中に含まれていた微かな春の香りも。

「っ・・・・・私っ、月人のこと・・・っ」

"好き"と言葉にする前に、再びピー音が響いた。
そして、月人の無事を願う気持ちを――私と月人を結びつけていた微かな絆さえ引き離すかのように、通話はぷつりと無情に途切れた。

ツーツーと電子音が繰り返されるたび、私の心は鋭利な刃物で切りつけられていくようだった。
その攻撃を避けることもできず、私はその音を聞いていた。
やがてその音も途切れ、無音の世界が広がる。
私は携帯を握りしめたまま、不安そうに見つめている老いた瞳に向かって首を横に振った。
再び声が喉に張り付いてしまっていた。

(・・・・病院って・・・どこの・・・・?・・・・そう・・・・きっと、月人は携帯置いて行って・・・だから電話に出れないんだ・・・)

絶望の中で希望を見出そうと、私の頭は僅かでも可能性を探していた。
どうしても信じられなかった。
信じたくなかった。
何故こんなことが起きているのかわからなかった。
まだ自分の目で何も確かめていないのに、言葉だけを信じるわけにはいかなかった。
私の中で狂おしいほどの感情が月人に向かっているのを止められなかった。

「おばあちゃん、私、月人のとこ・・・」

とにかく月人の家に行こうとおばあちゃんに話しかけると、あーちゃんの携帯がけたたましく鳴り響いた。
私は画面を確かめもせずに通話ボタンを押した。

(月人!?)

「つっ」
「アキ!?俺、カズマだけど、さっき兄ちゃんがつっきー先輩が学校で倒れたって・・・」

(月人じゃ、ない・・・)

興奮したような声が携帯越しにまくしたてる。

「兄ちゃんの話じゃ、救急隊来た時には心臓マッサージしてたって・・・・それからどうなったかわかんねーって、お前んち隣だろ!?なんか聞いてねぇ!?」
「あ・・・・」

思わず零れた声に、携帯の向こうで「あ、れ?これ、陽の・・・携帯じゃ・・・?」と戸惑う声がする。

「そう。これ、あーちゃ・・・陽の携帯。私は、姉で。ねえ、えっと、カズマくん?」
「あ、アキのねーちゃん!?」
「教えて、今の話っ・・・陽は今・・・月人のところ行ってる、無事を確かめにっ・・・」

なんとかそれだけ言葉にする。
誰かに嘘だって言ってほしかった。
誰でもいい、この覚めない夢から私を引きずり出してほしかった。

桜の花の下、首を絞められ身体の自由を奪われて、あの時も同じように願った。
怖くて・・・本当に怖くて・・・。
あの時、私を救ってくれた背中を思い出す。
小さな背中、月人だって怖かったはずなのに、大人の男の人を前にして、私を庇うようにしていた背中。

私を助けてくれた守り手は、二人とも、今、ここに居ない。

壊して欲しかったのに、こんな悪夢なんて終わらせてしまいたいのに。
誰一人として、これが悪い冗談だと言ってはくれなかった。



< * * *



それからどれだけ待っても、月人から電話がかかってくることはなかった。
あーちゃんの携帯にはその後もメールや電話がひっきりなしにきた。いつの間にか帰宅した母が、私の手から携帯を取り上げてその電話に対応していた。
お父さんもおじいちゃんも家には居ないようだった。
奇妙な静寂があたりを包んでいた。

お母さんが何か話しかけてきても、私は次第に反応しなくなっていた。
ただポロポロと涙だけが落ちていく。
目が痛くて仕方ない。涙でずっと潤っていたはずなのに、瞳が渇いてヒリヒリとしていた。
眠りたくなんかないのに、瞼が重くなっていく。
苦しくてどうしようもないのに、"眠くなる"という日常的な反応ができる自分が、あまりに図太く感じた。

テーブルに突っ伏してまどろんでは、はっとして目覚める。
時計を見ると自分が数分間意識がなかったことに気づく。
眠ってしまったことに自己嫌悪する。
眠らずに待っていたらご褒美が待っているかのように、この睡魔に打ち勝てば願いを叶えてもらえるんじゃないかなんて莫迦げた考えに囚われていた。

日付が変わる頃、表が騒がしくなってお母さんが立ち上がった。
深夜だというのに、月人の家に面しているリビングの窓際はカーテンも開け放したままだ。
車のライトが月人の家を照らしだしていて、啜り泣く声や嗚咽が聞こえてくる。
私は窓辺へ向かい、窓を開けた。
支えられるようにしておばさんがワゴン車から降りた。その姿を確認して、私はそのまま庭先へ下りて駆け出した。

「果純!靴!」

お母さんの声が聞こえたけれど、何も考えられなかった。
靴下のまま月人の家まで駆けた。
月人の家の玄関先にあーちゃんが真っ青な顔で立っていた。
まるで亡霊のように生気のこもらない瞳で、開け放たれた玄関を見つめている。
私の知らない、だけどどこかおばさんに似た雰囲気の女の人に抱えられながら、おばさんがようやくといった足取りで歩いていた。
そのおばさんの憔悴ぶりに気づかないほど、そしてそれが何を意味するのかわからないほど、私は混乱していなかった。
散々泣いた頭はある一点だけは奇妙なほどクリアになっていた。

「・・・おばさん・・・」

私に気づくと、あーちゃんもおばさんも一斉に私を見つめた。
おばさんが「果純ちゃん・・・」と私の方へ進行方向を変えた。一足ごとに顔が歪み、私に向かって手を伸ばした。
今にも倒れてしまいそうな土気色になっているおばさんを、両腕を伸ばして迎えた。力が入らない指先を握りしめると、おばさんは私を抱きしめた。

「果純ちゃ・・・・」
「おばさん・・・月人は・・・?」
「・・・なんで靴履いてねえんだよっ」

私はいつの間にか隣に来ていたあーちゃんを見上げた。
真一文字に結ばれた唇から呻き声が洩れ、大きく見開かれた瞳から涙が一粒零れ落ちた。
あーちゃんの言葉に反応できないまま、私は呆然とその姿を見つめた。
私はおばさんを抱きとめたまま、あーちゃんにも手を伸ばして自分に引き寄せた。

ブラックホールのようだった。

急速に私の重心がその暗い穴に向かって吸い込まれていく気がしていた。
私が持っていた本当に大切なものが、全部その穴に吸い込まれていく。
どんな希望も願いも叶いはしないのだと嘲笑うように、私の周りから幸せを奪い取っていく。
月人という一人分の空間がぽっかりと空いてしまった悲しみによって、私たちはどうしようもない重力の変化を受けていた。
立っていることも覚束ない。それがわかるから、あーちゃんを引き寄せずにはいられなかった。
私よりずっと大きな体を折り曲げるようにして、あーちゃんは私の肩に頭を乗せた。私はその頭をぎゅっと抱きよせる。あーちゃんは「こんなん嘘だよ」「なんで」と小さな声で呟いた。私の肩口が濡れていく。

「月人は・・・一緒に・・・連れて帰って来たから。」

おばさんはそう嗚咽混じりに呟いて、家の中を見つめた。
見慣れた月人の家の中は暗く重く沈んで見えた。
おじさんや顔だけは知っている月人の親戚の人たちに混じってお父さんの姿が見える。
みんな目が真っ赤で、家の中からは大きな泣き声が響いていた。

「・・・顔、見せてあげて?・・・月人、果純ちゃんが帰ってくるの楽しみにしてたから・・・」
「!!」

(待っていてくれたの?私なんかを・・・?)

あーちゃんがぎゅっと私の腕を掴んだ。おばさんからあーちゃんに視線を向けると「マジで。月人、姉ちゃんのこと待ってたんだ」と絞り出すような声で言った。
どうしてそこまで?と思わずにはいられなかった。
どうして月人はそんなに私を大事に思ってくれていたの?と。

(私は、そこまで月人に想ってもらえる価値のある人間なんかじゃなかったのに――。)





* * *





玄関先で汚れた靴下を脱ぎ、裸足で上がり框(あがりがまち)に上がった。
こんな気持ちで月人の家に来たことはない。
掃除の行き届いた廊下。月人がきちんとしているのは、おばさん譲りだなって思いながらお土産を片手にリビングに向かう。
だけど、今日はいつも通されるリビングとは反対の部屋に向かう。
仏壇のある座敷の方だ。
私はそこにたどり着く前に、立ち止ってしまった。
布団が一組敷かれていた。

(月人・・・)

「姉ちゃん」

あーちゃんに支えられて歩み寄る。
そこに横たえられた月人は、ただ眠っているだけのように思えた。
ぴくりと目蓋が震えて、今にもあの優しい瞳が開いて。
みんなが自分を取り囲むようにしているのに気づいて「何があったの?」と驚いて。

だけど。
月人が目を開けることはなかった。
私とあーちゃんは、おばさんの傍らで月人の綺麗な顔を見つめた。
どうしたら、これが亡くなった人だなんて思えるんだろう。
頭の中はこれが現実なのか夢なのか、明確な線引きを拒否したままだった。


何度も何度も、おばさんは月人の名前を呼ぶ。

「月人、月人」

弱く、囁くような声で。時に大きな声で。

「起きて。目を覚まして。"いってきます"って出かけたでしょう。"ただいま"って帰って来なくちゃダメでしょう?」

玄関先は今ではひっそりとしていた。
一旦人の出入りは途絶えたようだった。

「月人、果純ちゃん、帰って来たのよ。あなたに会いに来てくれたわよ。・・・・渡すものがあるんでしょう?"今度会ったら"って、言ってたじゃない。」
「もうすぐだったのに・・・!」

おばさんの言葉に、あーちゃんの言葉が続く。
おばさんが少し後ずさり、私は月人の枕もとに移動した。
そうするのが当たり前のように。
触れたらまだ温かいのじゃないかと思いながら、月人の頬に触れた。
冷たい頬。

私が月人に触れたのは、これが初めてだった。
また涙がこみ上げてくる。

「・・・っ・・・月人・・・ただいま・・・」

ぽたっと月人の頬に私の涙が落ちた。
それでも、月人は目を開けない。
これは現実なのだと、私の中で冷酷な声が響く。
私は月人の上下することのない胸の上に頭を乗せた。鼓動は聞こえない。
それでも、私は月人に触れることを止められなかった。
月人を忘れてしまいたくなかった。

「言っちゃダメだって言われてたんだけどな・・・月人、姉ちゃんのことずっと好きだったんだ」
「・・・・・・・え?」
「そうね、小学校に上がるくらいから、ずっと・・・果純ちゃんのこと好きだったわ・・・ね、月人?」

おばさんはまるで微笑んでいるかのように、優しく語りかける。

「・・・ずっと?」
「果純ちゃんからもらったお土産を大事に持ち歩いてたのよ。あーちゃんからこっち帰ってくるって聞いて、昨日なんてホントに喜んで・・・」

私は顔を上げ、再び月人の顔を覗き込む。

(月人・・・)

心の中で呼びかける。

(月人、お願い、目を開けて・・・)

幾粒もの涙が、月人の頬に落ちて行った。
まるで月人が泣いているみたいで、私は自分が落とした涙を指の腹でそっと拭っていく。
こんなにも愛しいのに、月人はもう私に笑いかけてはくれない。その事実が私の瞳から涙を零す。

「・・・なんで」

月人のバックで跳ねていたキーホルダーを思い出す。
深い意味なんてこめていないお土産だった。
それを大切にしてくれていた。
後悔が押し寄せる。

(どうして、もっと早く気がつかなかったの?)

接点がほとんどなかったのに、どうして月人は想ってくれたんだろう。

「おばさん・・・私、私ね・・・」

今言うべきことではないと、冷静な私が制止した。
なのに、どうしても言わずにいられなかった。
胸の奥に留めた言葉を押しだすように痛みが襲い、言葉が喉を競り上がって出た。

「月人に・・・・好きだって言っっ・・・っ・・・お嫁さんにしてもらおうって・・・・思ってたんだよ・・・・」

好きだと気持ちを伝えたわけでもない。
好きだと言われたわけでもなかったのに、私は、心の中でそう決めていた。
手を繋いだことも、キスを交わしたこともない。
それでも、私は、本気でそう思っていたんだ。

「月人が言ってくれたから・・・私、どんなに遠くに居ても、新しい場所でも寂しくなかった。自分を好きになれた。安心できた・・・」

"ずっとひとりだったら、俺がもらってあげるよ。"
"・・・何年か経って、それでも一人だったら・・・俺がもらうよ。"

「月人、私、月人にもらってほしかったよ・・・」

信じて疑わなかった言葉。
こんな風に終わるなんて、考えてもみなかった。
私たちには、まだまだ長い時間が用意されていて、すこしの寄り道やよそ見をしても、間違いなく辿りつけると信じていた。
こんな別れがあるなんて、魂が引き裂かれるような瞬間があるなんて思いもしなかった。

「月人、大好きだよ・・・」




2009,3,22








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