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何故、そんな話題になったのか今では思いだせない。
何気ない言葉だったのかもしれない。
ジョークだったのかもしれない。
それでも、私の心臓に直撃したようなインパクトで、その言葉の後のやり取りははっきりと思いだせる。

それは魔法のような言葉だった。
他の人が聞いても、首を傾げるようなものかもしれない。

ただ私だけに作用する魔法。

私の中に深く深く浸透して、少しも疑わなくていいように。
私という存在を全肯定してくれてくれた言葉。
それから先ずっと、私が私でいられたのは、彼が居てくれたから。





青空の向こうで、待ってて  〜 前編





暖冬だったその年は、道路にはすでに雪は残っていなかった。
日中はこのまま春が訪れるかのような暖かな風が頬を撫でていた。
暗闇の中、街灯の下。道路の端、アスファルトが途切れた場所からちょこんと顔を覗かせる緑に、私は苦笑する。

(春はもう少し先なのに)

春が来る前に、まだ何度か雪が降る。
例え暖冬だと言われていても、4月までにあと数回は雪が舞うだろう。
その証拠に、駅から歩いてきた数分で、風向きが変わって来ていた。
今夜はぐっと冷え込むらしい。
暖かくなって、また寒くなって、その繰り返し。
一歩進んで二歩下がって、そんなじれったくなる様な季節の変わり目。
春が待ち遠しくて、人恋しく思う時だった。

(卒業まで、あと少し。こんな時間ももうすぐ終わるんだ・・・)

私は少し前を歩く後ろ姿を見つめ、なんともいえない寂しさを感じた。
こんなことなら、もっと早く、こうやって話をしていればよかったと溜め息が零れた。

「・・・ずっとひとりだったら、俺がもらってあげるよ。」

気がついたら、彼がそう言葉にしてた。
さらりと、けれどもどこか内に秘めた強い想いを滲ませて、2つ年下の幼馴染み・・・隣人は言ったのだ。
言われた内容に最初は首を傾げ、じわじわとその言葉の内容を噛みしめて、次第に驚きに変わっていく。
だけど弟と同列の扱いだった彼の言葉に驚いたことを気取られるのは恥ずかしくて、私は彼の隣を足早に通り抜けた。
大きな歩幅で歩き、何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、幾分落ち着きを取り戻してから、笑顔を作って振り返った。
心の中では「どひゃー!」とか「マジで?」なんて大騒ぎしていたのだけれど、少し余裕があるように!と意識しながら。

「保険ってとこ?」
「まあ、そんなところかな。」
「・・・これは大きな安心ですね」

CMで女優さんや俳優さんがよく呟くセリフになぞらえて、口にした。
彼を恋愛対象として見たことがなかったし、彼が私を恋愛対象として見るなんてこともないと思っていた。
それだけは、絶対にないと。
私はソワソワと髪を耳にかけた。
真面目を絵にかいたような彼がこの手の話をするなんて、体中がむず痒くて仕方ない。と同時に、なんだか妙に私の中の"お姉ちゃん"意識がくすぐられる。
ああ、いっちょ前にこんなこという年になったのねえ・・・なんて感慨深くなって。

そんな私とは対照的に、彼は少しだけ寂しそうに笑った。その表情がやけに大人っぽく感じて、私はドキドキしてる自分の鼓動を聞かれちゃうんじゃないかと焦ってしまう。

「・・・あくまで最終手段。向こう行っても、誰も見つからなかったら。」
「なんか酷いこと言ってますが?そりゃ、可愛くも綺麗でもないけどさー・・・」
「そういうことじゃなくて。」
「それとも、私のことが心配だとか?」

恋愛感情ではないとしても、好意をもってもらっているというのは素直に受け取ってもいいだろう。
"興味ない"という枠から"嫌いじゃない"へ、そしてまた少し格上げされたような気がして嬉しい。
こうなるとたった2つとはいえ、私の方が年上だと優越感を持ってしまう。

「寂しかったら・・・ずっとひとりだったら、カワイソウって思っただけだよ。」
「ふーん」

私の心の中を知ってか知らずか、彼は意地悪く目を細め、立ち止ってニヤけてる私を追い越した。
「いっそお試しで付き合うってのもあるけど・・・」とその背中に向かって笑うと「もうすぐ居なくなるくせに」と溜め息交じりの声がした。

東京の短大への推薦入学も決まり、4月からは憧れの一人暮らしを始める。
先週末、父と向こうに居る叔父と私で新しい生活の基盤となるアパートも決めてきた。
小さなワンルーム。
お洒落、とはとてもいえないような部屋だけれど、短大にも近く叔父の家は電車で2駅と程よく近かった。
両隣りが短大の先輩だということもわかっていて、不安だとか心配だとかは今のところ感じていなかった。
今は残り僅かとなった高校生活を惜しむように、すでに進学や就職先の決まった友人たちと毎日楽しくやっていた。

(ほんと、ちょっと見ない間にこんなおっきくなっちゃって・・・)

いつの間にか見上げるほどの高さになった月人(つきと)の学ラン姿に、私はこっそり見惚れていた。
肩幅だとかピンと伸びた背筋だとか、実はかなり魅かれていた。
少年と大人のはざ間のアンバランスな感じが不思議なほど色っぽい。
ショルダーバックが腰のあたりで月人の歩調に合わせて揺れる。
ジッパーのところで、きらきらと輝くものが3つ同じリズムで揺れていた。
私はそれを見て、なんともいえない気持ちになって微笑んだ。
どう考えても、月人にもバックにも不似合いな可愛らしいものに気づいたのは、つい昨日だった。
なんてことはない。
テーマパークや修学旅行先なんかで売っているキーホルダーたちだ。
ただ、その3つが3つとも・・・私があげたものだった。
もう、あげた私自身が忘れちゃっていたような。

小学6年生の時に行った修学旅行の旅館で買ったキーホルダーに、中学3年で行ったテーマパークで当時限定品だったイニシャルを入れたキューブ、そして高2の時に行った北海道で見つけたレザーのキーホルダー。
一年前のものはともかく、小中の頃のものなんてセンスの欠片も今となってはないもので、買った私ですらとっくに外してしまっているものなのに、この隣人はまだつけてくれているということに驚いた。
特別仲良くしてたわけじゃない。けれど、修学旅行に行くたびに、弟のお土産を買うのと一緒に月人の分まで買っていた。
お菓子好きなおばさんへのお土産に、お菓子を買って持って行くついでに、月人へのお土産も紛れ込ませたりして。

(律儀だなあ。)

弟にも同じものをあげたけれど、そう言えば一度も見たことがない。

(あーちゃんのことだから、とっくに壊れてるだろうし。)

そんなことを考えていたから、月人の声が半分聞こえていなかった。

「・・・・・・・・・たんだ?」

月人の言葉に、私は「え?」と訊ね返した。
前を歩く月人は、歩幅を変えずに歩き続ける。

「何?」
「東京、行くなんて思ってなかった。」
「ああ、うん、私もね、びっくり!」
「そんなに、ここじゃつまんなかったんだ?」
「そりゃーなーんにもないからね。」

けらけらと笑って月人の隣に並ぶ。
月人はお隣さんだ。生まれた時から、ずっとお隣同士。
仲がよかった・・・という記憶は生憎ない。
3つ下の弟は月人を兄のように慕っていて、小学校くらいまでは本当に毎日遊んでいた。
面倒見がよくて、すぐに泣く弟にそっぽを向く私なんかより、ずっと根気よく遊んでくれてた。
弟は月人が大好きだった。
私は弟たちがするようなゲームや遊びには興味がなかったし、一緒に遊んだことは数えるほどしかない。
だから幼馴染みというよりはお隣さんという方がしっくりくる。

「やっぱり、いたくない・・・か。」
「そんなんじゃない、よ?」

少しだけ顔を歪めた月人に、私は真面目な顔で首を横に振った。
この隣人は知っているから、だからこんなに苦しそうなんだ。
そう思うと申し訳ない気持ちになる。
だから私はもう一度「大好きだよ、ここのこと。」とはっきりと言葉にした。

週一、木曜日だけ活動する茶道部に在籍していた私は、部活以外の日は毎日帰宅部で帰りが早かった。
だけど推薦入学が決まり、心残りがないといえば嘘になる高校生活をなんとか華やかな思い出で彩りたくて、今更ながら友達と出かけて。
我ながら、模範的な高校生だったと思う。門限なんてものを決めなくていいほど、早い時間に帰宅してた私だったのに、高校も終わりだという今頃になって門限ができてしまった。

月人は工業高校へ進学したことは知っていた。工業と言っても県内でも屈指の進学校だってのが凄い。就職率もNO1。
スポーツだって全国クラスだ。
月人はバレーボール部らしい。それで毎日帰りが遅くなるようで、さんざん遊んで帰宅する私と、ここ数日帰りが一緒になっているのだ。
実は普通に会話をするなんて凄く久しぶりだった。
それどころか二人きりで話したこと自体、初めてだったりする。
いつもあーちゃんが一緒だったから。

初日は挨拶だけ。無言で同じ道のりを歩いた。
翌日「また一緒だね」と思わず声をかけた。
それから。
駅から家まで10分ほどの道のりを、並んで歩く。他愛もない話しをしながら。
まるでここ数年分を一気に埋めるように。
それが意外と楽しくて、気がつけばこの一週間、私は毎日同じ電車に乗るようになっていた。もっと遅くまで遊ぼうという友達の誘いを断ってまで。

「ね・・・さっきのさ、なんだか予約された感じだよね。」
「予約?」
「恋人・・・うーん、結婚の?」
「あー・・・予約っていうより、売れ残りを回収・・・?」
「うっ、嫌だなあ。その響き。」

一昨日よりは昨日、昨日よりは今日、私たちは確実に距離を縮め、ゆっくりゆっくりと歩いていた。家に着くのを少しでも先延ばしするかのように。

「・・・月人はそんな売れ残りでいいわけ?・・・っていうか・・・」

多分、これは私が高校生活であまり味わえなかった"ときめき"という奴だ。
共学ではあったけれど、女子とばかり遊んでいたから男子と遊ぶことが少なかった。
クラスの男子とはこんな風に力を抜いて話せたこと、なかったかもしれない。
・・・違う。
私は極力男子を避けていた。

私の体のあちこちに、目には見えない傷がある。
思い出すだけで、その傷跡から身体の中心に向かって、私は真っ黒になっていく。





* * *





小学生の頃、近所に男の人が住んでいた。40くらいの痩せて背の小さなおじさんだった。
一人暮らしで、どこかの学校で用務員をしているのだと聞いたことがある。
見かける時はいつもにこにことしていて、優しそうなおじさんだった。
子どもがいるわけではないけれど、地域の子供会の活動なんかによく顔を出していた。
仕事柄、子ども好きなんだろうと、両親も地域の人も、その日までは私も、思っていた。

5年生になったばかり、桜の花が一気に咲いた日だった。
夜桜祭りの日だ。
市内で一番の桜の名所。
城跡に造られた公園で、春の宴が開かれる。
花びらが風で舞う夜の公園は、その年も大勢の人で混雑していた。

私の家と月人の家は、毎年この夜桜祭りに一緒に出掛けていた。
普段ほとんど遊ぶことのない私は別として、あーちゃんと月人は二人で嬉しそうに夜店をまわってた。
ほろ酔いの大人たちと居てもつまらなくて、私は二人と一緒に行動してた。
だけど、いつの間にか二人とはぐれてしまった。

『どうしたの?』

あーちゃんたちを探していた私におじさんが声をかけてきた。おじさんも酔っているようで、目つきが少しだけおかしかった。
その時の私は、弟たちとはぐれてしまったことに不安になっていて、見知った顔に会えたことで随分ほっとした。

『一緒に探してあげる』と、手をひかれて行ったのは、何故か花火が見えなくなる木立の中。
人通りも少なく、同じ公園内とは思えない場所で、私は怖くなっておじさんの手を振りほどこうとした。
少し前を歩いていたおじさんは『駄目だよ』と、私の手を強く掴んで振り向いた。
木の幹に押しつけられ、突然身体の自由を奪われた。

桜の花が途絶えたその場所はほとんど人気がなく、陽気な歌声や笑い声がとてつもなく遠くに感じた。
叫び声をあげようとした私の喉を緩やかに締め付けながら、おじさんはにやりと笑った。

『かわいがってあげるからね』と。

頭上で花火のあがる音がした。拍手や歓声も。
生い茂った葉と枝が時折鮮やかな色を帯びる。

まるでその時を待っていたかのように私を押し倒したおじさんは、体中に舌と指を這わせてきた。
私は生まれて初めて感じる生理的な恐怖に怯えながら『ヤダ』『やめて!』と叫んでいた。
何が起きようとしているのか、わかるようでわからない。
でも、確実にわかるのは、自分の大切なものが汚されていくのだという感覚。
おじさんが触った場所、口を付けた場所から黒くなっていく気がした。
怖くて、気持ちが悪くて、恐ろしくて、自分の身に起きていることのおぞましさに震えが走った。

『っ…!』

下着の中にまでごつごつとした乾いた指が入り込んできた時、私の上で荒い息を吐いていたおじさんが突然ひっくり返った。

『おまえっ、ね、ねーちゃんに、何やってんだよっ!!!!』

あーちゃんの叫び声。

『ねえちゃん!!』

視界にはあーちゃんの泣きそうな顔と、おじさんと私の間に立ちはだかり、小さな体で壁を作ろうとする月人。
ガタガタと震える私はなんとかずらされていた服を直し、起き上がった。月人の向こう側に居たおじさんは、弾かれたように花火会場の方に向かって駆け出した。月人はその後を追って行った。
すぐに月人と両親が駆け付けた。

その日のうちに、あのおじさんは姿を消した。



不幸中の幸い――乱暴される前に、私はあーちゃんと月人に助けられたのだ。
その恐ろしい出来事は、私の家族と月人の家族だけの秘密になった。



* * *



あれから、私は大人の異性に対して恐怖を覚えるようになった。
中学になる頃には、好きになったクラスメイトでさえ、怖くなってしまうほど・・・。
それでも、表面上は普通の女の子として振る舞えていたはず。
両親もそんな私を気遣い、女子高を勧めてくれたけれど、私はこれ以上心配しなくていいように、共学を選んだ。
あんなことで、潰れてしまうのは嫌だった。
あんな人間の所為で、もう誰かを好きになれないなんて嫌だった。

月人は全部知っている。知っているから、私は避けていた。

月人も同じ。
わかっているから、必要以上に近寄らなかったのかもしれない。

あの記憶をなるべく消してしまいたかった。
月人やあーちゃんも・・・。
私の身に起ったことで、月人やあーちゃんに嫌な記憶を残してしまったことが気がかりだった。

それでも、こうして時間を共有してみれば、心の深い場所で"大丈夫"という声が聞こえてくる。
月人は無条件で信頼してしまう。
そして、ここ数日でその想いは強くなっていた。

(でも、だからって――)

私は眉を顰めて深呼吸した。
楽しすぎてついつい調子に乗ってしまってる。
結婚とか、誰かと付き合うとか、あの夜桜祭り以来考えないようにしていた。
決定的なことがあったわけじゃないけれど、あれはかなりのトラウマになってしまった。
されたことやあの時の話を両親にできるくらいには、強いつもり。
ただ・・・"汚れてしまった"という気持ちだけは残った。

(それなのに、月人は・・・)

こんなことくらいでドキドキするなんて、そんな子供じゃあるまいし、と冷静に突っ込みを入れているくせに、私の頭は月人にタキシードを着せて微笑ませていた。
自らの妄想力が意外と豊かだったことに驚く。

(ちょっと、あまりにも馴れ馴れしいデショ・・・)

この隣人は、ご近所さんの間でも評判がいいのだ。
今時の高校生にないくらい礼儀正しくて、本当に心優しい。
このあたりのどの家のおばさんに聞いても同じ答えが返ってくる。
高校生で地域のごみ清掃に参加しているのは、月人くらいだ。私なんて小学生の頃の強制参加時代以外、参加したことはない。これから先だって、きっと関係ない。

(そんな隣人だもの。)

私の残り少ない田舎暮らしの思い出作りに付き合ってくれているのは、本当にちょっとしたボランティア精神からなんだろう。

(優しすぎだよ。・・・あんなコトあったからって、同情してくれてるんだろうな。それに――)

「彼女に悪いよね、こんな会話。」

あまりに心地よい時間をくれるからって、ちょっと気を緩め過ぎだ。
溜め息交じりに言って、苦笑した。

「カノジョ?」

不思議そうな声に、私は「うん。」と頷いて隣を歩く月人を見上げた。

「何それ。」
「え、あれ?付き合ってなかった?中学の時。」

あーちゃん情報だからあやふやだけど、確か笑顔の可愛い女の子と付き合っているって聞いたことがある。

(クラスメイトだって言ってなかった??)

そうだ。去年、お隣にお土産を渡しに行く前に聞いた。回覧板を持ってくついでに、お土産も持って行こうと思って・・・それで。
『月人、マネジャーに告白されて、付き合うことにしたんだぜ!』ってあーちゃんが急にまくしたてて。
凄く可愛い子だとか性格もかなりいいとか、あーちゃんはまるで自分のことのように話した。
『姉ちゃんいいの?月人のことだから、付き合いだしたら絶対大事にするぞ?』って、そんなこと私がいいとか悪いとか口出すことじゃないし、と肩を竦める私に、あーちゃんはかなりイライラした口調で言い募った。
あの日、何故あーちゃんがあんなにも熱っぽく語るのか私にはさっぱりわからず、ひとしきり首を傾げてた。
・・・あーちゃんは何かと言うと『姉ちゃんはそれでいいの?』と言う。特に月人に関することだったけれど、あーちゃんほど仲良くしていたわけじゃない私にそう言われても答えられるものは一つもなかった。
いつの間にかそれがあーちゃんの口癖みたいなものになってて、私は「変なの」と心の中で苦笑しながら、おばさんにお土産を届けに行った。

(結局、あーちゃんは何が言いたかったんだろ??)

立ち止まった月人に私も合わせて立ち止まった。不自然に時を止めた月人を見上げる。

(あ、れ?)

訊ねた答えが返ってこなくて「違うの?」と首を傾げた。
あーちゃんが言ったことの半分は理解不能だったのだけど"付き合いだしたら大事にするぞ"ってことだけは、私も大きく頷いていた。
そういう人だもの。
だから、疑いようもなく、私はずっと信じてたのだ。月人は工業だから彼女と高校は違うだろうけれど、彼女を大事に思ってほっとするような心地よさで包んでるんだろうなって。

(あれ・・・れ?)
月人は何故か少しだけ不機嫌そうな顔をして私を見下ろした。
そして小さな声で「1日だけだったよ」と呟いた。

「はっ?1っ!?何それ・・・」

(一日って、そんな、そんなの付き合ったっていえるの?)

月人のことだから、きっと彼女を大切にしてるだろうと思っていた。
優しい笑顔だとか、話し方だとか、私がどきっとするような仕草だとか、それはやっぱり彼女に対してそうしてきたんだろうなって漠然と思っていたから。
私の言葉に月人は大きく溜め息を吐いて視線を逸らした。
月人が、この話題を終わらせたいって思っているのがよくわかる。
だけど背を向けて歩き出さないのは、私の次の言葉を待っているからなんだろう。
暗がりだからそう見えるのかもしれないけれど、俯き加減の月人の表情は、まるで拷問に耐えてるみたいで苦しそうだった。

「・・・ま、まあ、でも、月人カッコよくなったし、彼女なんてこれからいくらでもできるし・・・」
「慰め口調?」
「え?あ、そか、別に月人がフラれたってわけじゃないのよね・・・・」

慌てる私に月人はくすくすと口元を押さえて笑いだした。
その笑顔に、どきんと心臓が跳ねた。

「彼女は・・・当分いいや。」

月人は笑顔のまま、私を見つめた。

「・・・なんで?」
「今は無理そうだから。」

何が?と問いかけて、だけど私は言葉にはせずに首を傾げた。

(部活が忙しいとか?そういうこと?)

月人はそんな私に困ったような、それでいてどこかこのやりとりを楽しんでいるような表情を見せ、それから深呼吸をひとつすると「だから」と、少し掠れた声で言った。

「だから・・・何年か経って、それでも一人だったら・・・俺がもらうよ。」

静かに――祈りを捧げるように、月人は、強く、柔らかく、言葉を紡いだ。




* * *




「うわっ、キモッ!!」

ぼんやりと一年前の記憶を反芻していた私の向かい側で、あーちゃんが携帯片手に思いっきり退いた顔をして言った。
私はちょっとムッとしたものの、あーちゃんがそう思うのも無理はないと思いつつ「じゃ〜見るな!」と言い返して頬杖をついた。
視線が月人の家の方に向いてしまうのは、さっきまで思い出していた言葉の所為だ。

(あれが冗談だとしても、あの言葉のお陰で、私の中の"恐怖"がなくなったのよね)

本気にしたわけじゃなかったけれど、月人の言葉は本当に私の心の保険になっていた。
凄く自分勝手な考えだったけれど、あの日から、私の中に残っていた消せない汚れが浄化されていくのを感じていた。
月人の言葉が、信じられないほどの威力を発揮していた。

東京での一人暮らし。
新しい生活、新しい友人。
広がっていく世界。知らなかった世界。
サークルだとか、バイトだとか、コンパだとか、勉強以外のことも一通り楽しんで。
ホームシックなんてありえない!と思っていたのに、東京に留まる為に入れた夏期バイトだったのに、いざ帰れないことが決まると寂しくてどうしようもなかった。

嬉しくて楽しくて、だけど不安や戸惑いも多くて。
そんな中で、唯一、私の心の中で絶対だったもの。

"恋人"でもなく、"友達"でもない。
兄弟に近いかもしれないけれど、やっぱりそうじゃなくて。
お隣の"月人"という存在。場所。
不思議だけれど、勝手だけれど。

今、私に彼ができても、月人に彼女ができても、きっと何年か後・・・私たちがその明確な歳月を知らないだけで、それは初めから決められていて、その時間が経てば、その刻がきたら、私たちはきっと一緒にいることになる。

今まで、こんな風に物事を考えたことがなかったし、乙女ちっくな思考回路に普段なら自分で大笑いするところなんだけれど。

彼は、本当に、何年か後に私が一人ぼっちで居たら・・・もらってくれるんだろう。
5年後か10年後か、もっと先か。
もしかしたらお互いバツイチになってからとか。
あるいはもうお互いにおじいさんおばあさんになってからとか・・・。

誰かが聞いたら呆れて肩を竦めるだろう。
コイツは危ない奴か!?とドン退きされるだろう。

(あーちゃんなら間違いなく退くね。)

すでに退いているあーちゃんをちらりと見て、私は手元の雑誌に視線を落とした。
カチカチと忙しなく指を動かしながら、あーちゃんは小さな画面から視線を外さなかった。

私たちは携番もメルアドもお互い知らせなかった。
知ろうと思えば、あーちゃん経由だって・・・そんな難しいことしなくたって本人から聞けばいいだけなんだけど、簡単にわかるだろうけど。
私はそうはしなかった。
月人との繋がりは、何もツールを必要としなかった。
ただ月人がくれた言葉だけで、よかった。
本当にそれだけでよかった。
あの言葉だけで、私たちは気の遠くなるような時間さえ、共有していけるのだと感じていた。

(今なら・・・人を・・・誰かを好きになれる。もう・・・怖くない。)

必要以上に、自分が汚れてしまっていると思わなくてもいい。
それくらい、月人がくれた言葉は私の中で強い効力を発揮していた。
実際、ステディ―な関係とまでは言わないけれど、バイト先とか合コンで仲良くなった男の子もいる。警戒心がなくなるわけではなかったけれど、男の人と話す時に必要以上に感じていた恐怖や緊張は薄らいでいた。
それ以上の関係を求めるつもりはなかったけれど。

(月人、今、何してるかな?)

夏もお正月も会わなかった。
会いにもいかなかったし、連絡もしなかった。
限られた日数の中で、私は高校や中学の頃の友人たちと遊んだりして、ほとんど家に居なかったのだから当たり前だ。
主だった移動手段は電車だった頃に比べ、友人たちはみんな車を運転するようになった所為で、ほとんど電車には乗らなくなった。
東京への行き帰りに使うくらいで、尚更会う機会はなかった。
お隣と言っても、接点がなければ顔を合わせることがない。それは昨年まで私たちが接点なく過ごしてきたのだから、よくわかっていた。

「姉ちゃんウザッ。そんな気になるなら、行ってくりゃいいじゃん。」
「え?」

呆れたような声に、私ははっとした。
ずっとお隣の方を見ていたこと、あーちゃんにバレてしまっていたらしい。

「そんなんじゃないよっ」
「ハイハイ。」

あーちゃんは開いていた携帯のフラップを閉めて、だるそうに立ち上がると私を見下ろして溜め息を吐いた。
「ホント、イラつく・・・」と呟いて、だけど、あーちゃんはその言葉とは裏腹な優しい目をした。

「月人、今日は帰り遅いんだって。明日の午後なら暇らしいぜ?3人で出掛けるか?桜でも見にさ・・・」
「あーちゃん・・・?」
「せっかく東京行ったのに、休みに帰ってくるなんてさ。ホント、相変わらずだよ。」
「すみません・・・」

思わず謝ってしまうと「月人もだけど」と重く長い溜め息が続いて、私は首を傾げてあーちゃんを見つめた。
その言葉の意味を図りかねて「どういう意味?」と訊ねる。
あーちゃんはそんな私を見て苦笑する。

「こんな奴のどこがいいんだろうなって話。」
「はい?」

なんの話なのかわからずにいる私に、あーちゃんは「こっちの話」としれっと答えた。
そして「色気ねえよなあ。」と呟き、泣きそうな顔をして、不意に腕を伸ばしてぐしゃっと頭を撫でた。
「もう、いいだろ?」と囁く声に、痛みと憐みが共存しているのを知って、私は急速に鼓動が早まった。

(ああ、そうか・・・)

私は泣きそうになって慌てて「ぐしゃぐしゃになるっ!」とわざと怒った口調であーちゃんの手を掴んだ。いつの間にか、ずっと大きくなっていた。私の手よりもずっと大きく。
あの恐ろしかった夜には、私より小さな手だったのに。
あーちゃんも、あれからずっと、消えない傷を抱えていたのかもしれない。

(きっと月人も。)

「たいして変わんねーじゃん。もともとぐしゃぐしゃだろ。」
「くるくるカールでしょ!結構大変なんだからー!」
「くるくるくるくるーこうしてやるっ!」
「ぎゃーやめてよっ!」

両手でわしゃわしゃと髪を弄りながら、あーちゃんはほっとしたように笑っていた。
私は怒ったふりをしながら、口元は緩みまくっていた。

心の中で、私は二人に「ありがとう」と呟いていた。

――そして。
月人への気持ちが一年かけて"恋"に育っていたことに、ようやく気がついた。


"ずっとひとりだったら、俺がもらってあげるよ。"
"・・・何年か経って、それでも一人だったら・・・俺がもらうよ。"


(ねえ月人。その言葉に甘えていい?まだそんな何年も経ってないけれど。)


答えは明日、聞けるはず――。


2009,3,15








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