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淡いピンクの花びらが舞い上がり、澄み切った青空へと溶けていく。
どこまでもどこまで青く広がる空。
泣きたくなるくらい水色の、どこまでも澄んだ空。
それはまるで月人自身のようで。
見上げれば優しく包んでくれて、私を励ましてくれる。
大きくて、優しくて、清々しくて。
月人は空だ。
どこまでも広がる、青い空。
その青に浮かぶ白い月。
ああ、そこにずっと居てくれたんだね。
月人はずっと、見ていてくれたんだね。
月人の気持ちをなんにも知らなかった私を、ううん、本当は心の片隅に感じていた気配に気づかないふりをしていた私を。
それでも、ずっと、ずっと、優しく私を待ってくれていた。
青空に今でも月人の笑顔が浮かぶ。
目を閉じれば、月人が優しく抱きしめてくれるような感覚になる。
愛しさが胸に溢れて、苦しくなる。
いつも側にいる。
何年経っても、どれだけ離れていても。
私に永遠をくれた人。
青空は私の愛しい人。
この先も、ずっと――。
青空の向こうで、待ってて
〜 後編
空の色が明るい紫に変わり、淡い光があたりを照らしだした。
夜が明けるのをこんなにも悲しい気持ちで迎えるのは初めてだった。
長い長い夜。
悲しみの向こう側で、目に映る景色から闇が光で洗い落とされていく。
それでも。
私の心はもう二度と朝が来ることがない。
たった一つ、私の光だった月人が・・・闇夜でさえ明るく照らしてくれていた優しい光は、すでに失われてしまった。
愛しいと思う気持ちも。
――もう月人には届かない。
時間の感覚がおかしくなっていた。
たくさんの人が訪れて、そのたびに泣き声や呼びかける声が続いていた。
死因は心不全。
練習も終わり、後片付けをしていた時だったらしい。
いつもと何も変わらない一日だったという。
私はあーちゃんと一緒に家に帰った。
自分の部屋のベッドの上で、私は放心状態のままだった。
目に映るもの、耳に聞こえるものすべてが、心を素通りしていく。
私のココロも、あの強烈なブラックホールに飲み込まれてしまったのかもしれない。
どれくらいこうしているのか、どれくらいそうしていたのか、わからなかった。
部屋の扉がノックされ、静かにドアが開いた。
学生服を着こんだあーちゃんが、何かを手に立っていた。
私に向って無言で突き出されたもの。それは、あーちゃんの携帯だった。
訳の分らぬまま携帯を受け取って、私は掠れた声で「なに?」と訊ねた。
体中の水分が全部なくなってしまったかのように、喉がカラカラになっていた。声を出して初めて気がついた。
「メール、読んでみな。月人と俺の。・・・昨日きたいろんなメールで、前の方はなくなっちまったけど・・・」
「・・・」
じっとメタリックシルバーの携帯を見つめたまま、私はあーちゃんの言葉を頭の中で繰り返した。
「あとで転送してやるから・・・こんなことなら・・・ずっと保存しといてやればよかった・・・」
「・・・見ていいの?」
声を出すのも辛いくらい、喉が潰れていた。
あーちゃんは「いいよ」と言って、学習机の椅子を引いて座った。
震える手でフラップを開き、メール機能を押す。私の携帯と機種が違うけれど操作はほとんど変わらない。受信BOXを選択して過去のページをさかのぼる。
[月人]と記された一番新しいものでカーソルを止めた。
昨日の16:03、件名は「了解」。私とあーちゃんがリビングで話をしてた頃だ。
あの時はまだ、月人が生きていたんだと思うと涙が滲んできた。
(これが、月人からの最後のメール・・・。)
"明日の花見了解。
陽ありがとうな。
でも、焦らないって決めてるし。
果純が笑ってくれてれば、それでいい。
つか、あんま期待させんなよ。
俺そんな聖人君子じゃないんだぜ?
部活終わったら電話する。"
あーちゃんがどんな内容を送ったのか、その前が気にならないわけじゃなかった。
でも、私は月人からのメールを読むだけで精一杯だった。
"笑ってくれてれば、それでいい"
「・・・・!」
もう体中の水分なんて残っていないと思っていたのに、また新たな涙が鼻の頭を痺れさせ、瞳を刺激する。
微苦笑を浮かべたままのあーちゃんは「すげえだろ?」と私の手元の携帯を見つめたまま呟いた。
「月人は、ずっと姉ちゃんのこと好きで。俺が"どこがいいんだよ!?"って呆れるくらい、ずっと姉ちゃんのこと好きで・・・。だけど姉ちゃんは月人のことそんな風に見てなかっただろ?それなのに、どうして想い続けられるのか、俺にはわかんなかったよ。」
あーちゃんは視線を私の手元から顔にあげて、ほんの少し眉を顰めた。
「月人はさ、姉ちゃんの笑顔が好きだって言ってた。みんなを明るくするって・・・そんな可愛くねえのにな?」
私は泣きながら「何気にあーちゃん酷いよね」と零して笑った。
「あの日、姉ちゃんが襲われそうになった・・・桜祭りの日・・・あの後、俺も月人も、父さん、母さん・・・もちろん月人ん家のおばさんもおじさんも・・・姉ちゃんどうなっちまうのかなって心配して・・・姉ちゃんが・・・しばらく笑えないんじゃないかって。」
私自身も不安だったのだから、周囲はもっと不安だっただろう。
だからこそ、私は気にしない素振りでいたのだから。
「俺も月人もまだまだガキだったから、具体的なことはわかんねー状態で、"あんな目に遭って姉ちゃんどうなっちまうんだ?"ってすっげえ怖かった。」
二人はまだ小学校低学年だったのだもの。当たり前だ。
「だけどさ、姉ちゃん笑っただろ?翌日には『あー気持ち悪かった!今度会ったらやっつけてやるっ!』って意気込んでさ。すげえ怖かったはずなのに。でも、まるで"こんなことなんでもない"って風に笑ったんだよ。ガタガタ震えてたのにさ。それ見て、月人言ったんだ。『果純ちゃんって青空みたいだね』って。『青空って、落ち込んでても見上げるとそれだけで元気になるだろう?』って。だから、姉ちゃんは"青空なんだってさ。
俺意味わかんなかったんだけどさ。月人はずっとそう思ってたんだ。『怖いこととかキツイことあっても笑ってる』って。『そうやって、怖がる俺たちをほっとさせて、元気にしてくれる。』って。月人は俺以上に姉ちゃんのことわかってた。」
それは負けず嫌いな性格がそうさせていただけだ。
だってあんなことで泣き続けるなんて嫌だった。
あのことでみんなを悲しませるのが何より嫌だったのだ。
「姉ちゃんに好きな奴できて。中学ん時。・・・でも結局ダメになったじゃん?・・・怖くなったんだろ?大人のオトコが・・・」
「・・・知ってたの・・・?」
「あれくらいから、月人ますます姉ちゃんの視界に入らないようにしてた。"怖がらせるんじゃないか"って。すげえ身長伸び出した頃だったし。」
そう・・・。月人が大きくなっていくにつれて、私はあの夜のことを今まで以上に思い出すようになっていた。
助けてくれた背中が、私を押さえつけていた大きな体に成長していくのが・・・怖かった。
守ってくれた月人に対して、そんな風に感じるなんて酷いって思ったけれど、どんなにそう思っても、怖くなってしまったんだ。
力では敵わないということを身をもって知っているから、私の心は怯えてしまっていた。
「あれから随分経ってたけど、やっぱり姉ちゃんの心の中には『癒えない傷ができてる』って月人、わざわざ母さんに言いに来たんだぜ?」
「え・・・?それじゃ・・・急に母さんたちが女子高を受験しないかって言ったのって・・・?」
「月人の所為だよ。でも、『それは余計なお世話だった』って、『幼稚な考えだった』って・・・月人かなり落ち込んでた。姉ちゃんの性格上、母さん達の気遣いに『余計プレッシャーを感じさせた!』ってさ・・・。」
溜め息を吐いて、あーちゃんは肩を竦める。
「・・・あんなこと、月人の所為じゃないのに・・・守れなかったこと後悔してた。あんなシーン見たら・・・俺だってそうだけど、守ってやりたいって・・・ずっと思ってたんだろうな・・・」
その時のことを思い出したのか、あーちゃんは目を閉じて苦笑した。
「姉ちゃんはそんな弱くない。だけど、そんなに強くもない。わかってたから、知ってたから、月人は距離を置いてた。『ただ笑っててほしいんだ』って言ってさ。その一途さが歯痒かった。月人すげえもててたんだぞ?振り向きも気が付きもしない姉ちゃんにはもったいねえって何度も言った。でもさ、俺がどんな言っても、月人の気持ち変わらなかった。・・・そして、やっと姉ちゃんの心に月人が居るってわかって・・・。」
ぎゅっと両手を握りしめて、あーちゃんは俯いた。
「こんな・・・こんな早く逝っちまうなんて・・・俺思ってもみなかったしっ・・・姉ちゃんの気持ちなんて待ってないで、もっと・・・・! 悔しくて仕方ないよ。こんなことなら、もっと早くセッティングしたのに。正月だって、夏休みだって、俺いくらだって姉ちゃん連れ出したのに・・・」
私は片手で口を押さえて、叫びだすまいと必死だった。
(神様・・・! 神様が本当にいるのなら、何もいらないから、何も他には望まないから! お願い、時間を戻してください!)
月人が想ってくれた全部に、応えたかった。
月人が望むことを全部叶えたかった。
一年前に戻れるなら、あの瞬間に戻れるなら、私はすぐに気持ちを伝える。
東京になんて行かないよって、月人に抱きついて離れない。
(こんな別れは嫌だ。こんなお別れは、嫌だ!)
「どうしてそんな風に思えたのか、俺はいまだにわからないけど・・・月人言ってたんだよ。『ずっと姉ちゃんを想うだろう』って。例え姉ちゃんが誰かのものになっても、笑っていてくれればいいって・・・。
"なんだよ、随分弱気じゃん"なんて茶化したんだけど・・・今思えば、まるで・・・こうなること知ってたみたいで・・・」
あーちゃんはぎしっと音を立てて椅子から立ち上がった。
瞳には悔しさと寂しさが浮かんでいた。
大好きだったんだから、当たり前だ。
「それでも、一度だけ・・・姉ちゃんがもうすぐ東京行くって頃・・・それまで"気持ち伝えずにいようって"思ってた決心が揺らいだんだ。思いがけず、東京行く前一緒にいる時間できただろ?月人がすげえ浮かれてたなんて知らなかっただろ?」
知らなかったよ。
だって、私は普通に話せるってだけで、なんだか不思議なくらいだったんだもの・・・。
「姉ちゃんにどんなこと言ったのか、月人最後まで教えてくれなかったけど。でもさ、すっげー真っ赤な顔で『言っちゃったよ』って部屋で頭抱えてたんだぜ。・・・あの時の月人、見せてやりたかったよ。」
背を向けて、あーちゃんは静かに扉を開けた。
いつの間にか大きくなった背中。
その後ろ姿に、月人を重ね見た。
あーちゃんの残した言葉が胸の中で渦巻く。
私の知らない場所で、私を想ってくれていた。
私以上に、私を知ってくれていた。
(神様・・・っ!)
あーちゃんの携帯を見つめて心の中で神様とやらに問いかける。
(気がつかなかった罰ですか?)
月人の真っ直ぐすぎる気持ちを気づけなかった、そして知ってからは、それが永遠に続くのだと疑いもしなかった、これは罰なのだろうか?
(罰なら、何故私を連れて逝かなかったのですか?)
答える声は聞こえなかった。
(残される方が、苦しいからですか!?)
――そう。わかってる。
神様なんていやしない。
* * *
お通夜も、告別式も、斉場ではなく、自宅で執り行われた。
たくさんの人が訪れて、どれだけ月人が慕われていたのかをまざまざと見せつけられた気がした。
先輩も、後輩も、他校生も、近所の人も、本当に多くの人が訪れた。
月人自身は真面目な生徒だったけれど、不思議なことにそうじゃない生徒も数多く訪れていた。
彼らは一様に月人は誰にでもわけ隔てなく接していたと涙を流した。必要以上に恐れたり、媚びたりすることがなかったと。
「あんまりにもいい子だから、早く召されてしまったんだね。」
誰かがそう言った。
「人を殺したり、悪いことする奴が生きてるのに、こんなの理不尽だ!」
そう声を荒げる人もいた。
どの言葉にも、月人を突然失った悲しみと憤りが滲み、同時に月人に対する想いが溢れていて、そのたびに涙が零れた。
(こんなにも愛されているのに・・・)
女の子も多く訪れていた。
花を供えたり、手紙を託したりする女の子の中で、私を見つけて真っ直ぐに向かってくる子が居た。
握られたハンカチが、ぐしょぐしょなのがわかる。
聖心女子の制服だった。清楚なその制服が、よく似合う可愛らしい女の子。
私は中学時代にその子に会ったことがあることに気がついた。
そして、不意に月人が一日付き合ったという彼女の話を思い出した。
(ああ、きっと・・・"彼女"さん)
その子は私の前で一礼すると、大きな瞳から涙を零しながら私を見つめた。私が月人を隠してしまったかのように、私の瞳を覗き込んで。
「平山先輩・・・私、先輩になりたかった・・・ずっと、先輩になりたかったです・・・月人くんの気持ちを独占している・・・先輩になりたかった!ずっと・・・私、ずっと月人くんのこと好きでした・・・私のこと見てくれなくても。・・・それでも、よかったのに!」
何も言えなかった。
言葉は何も出てこなかった。
この後輩の気持ちも、月人の気持ちも・・・あんまりにも真っ直ぐで。
それを受け止めきれずに、私は心の中で何度も謝ることしかできなかった。
(私・・・なんて無神経な女なんだろう・・・!)
私の前でうずくまってしまった彼女に思わず手を伸ばしていた。
私になんて触れられたくないかもしれないのに、彼女は私を一瞬見上げ、そしてぎゅっと手を握りしめてまた泣いた。
悲しみと絶望の中で、それでも触れあった場所からは人の優しさや温かさが感じられることに驚く。
同じ痛み、と、一括りにはできないけれど、好きな人を大切だと思う人を失った悲しみを、私たちは共有していた。
友達と思われる女の子達が「恵美!」と駆け寄ってきた。
泣きながら抱え起こすようにして彼女を立たせると、女の子達は私に向って頭を下げた。
握りしめていた手から力が抜け、"恵美"ちゃんはもう一度私を見つめた。
「先輩に会えてよかった・・・」
小さな声で呟いて、恵美ちゃんは儚く微笑んだ。
遠ざかるその後ろ姿を見つめながら、浅く早くなる呼吸を落ち着かせようと息を止める。
"それでもよかった"
恵美ちゃんの言葉に宿った想い。
"・・・生きてさえいてくれればいい・・・誰かを好きでも、私を見てくれなくても。生きていて欲しかった・・・!"
みんな同じことを想っている。
"生きていて欲しかった"
こんなにも多くの人がそう願っているのに、それだけは叶わない。
出棺の時間になって、棺の中に生花が入れられていく。
おばさんは棺に縋るようにして月人の名を呼ぶ。
おじさんはそんなおばさんの傍らで、目頭を押さえていた。
月人のおじいちゃんは立ち上がれずに座りこんだまま、棺を見つめていた。
「果純、アキ」
お父さんに呼ばれて、私はあーちゃんと二人で棺に近づいた。
逃げ出してしまいたかった。
こんなのは全部嘘だと、認めたくないと。
それでも、月人を見れる最期になるのだという想いが、私をここに留まらせた。
棺の中で眠る人。
花に囲まれて眠る、月人。
その手には、私があげたキーホルダーが1つだけ握らされていた。
一昨年あげた皮製品のものだ。
「他のはね、プラスチックだから・・・溶けちゃうのよ。でもね、せめて一つは持っていかせたくて。」
おばさんのか細い声が背中越しに聞こえた。
私は振り返って、お父さんを見て、それからおじさんとおばさんを見て「ごめんね」と頭を下げた。
棺の中の月人に手を伸ばす。
「姉ちゃん!?」と驚くあーちゃんの声を聞きながら、月人の指先に触れた。
「月人、今まで、ありがとう・・・」
頬を撫でて、それから。
冷たくて、硬い、月人の唇に自分の唇を重ねた。
悲しいキス。
返されることのない、冷たいキス。
それでも、私は望んだ。
(私の初めてを・・・全部月人にあげたかったよ・・・)
月人へのキスはタブーだとわかっていた。
それでも、おばさんも、おじさんも、お父さんも、誰も止めはしなかった。
私が「さようなら」と言ってその場に座り込むと、おばさんもしゃがみこんで私を抱きしめた。
月人との、最初で最後のキスだった。
* * *
火葬場に、私は行かなかった。
このまま気を失ってしまえたら、どんなに楽だろうと思えた。
小説や映画なら、気を失ってしまうのだろう。
悲劇のヒロインなら、もしかしたら、願いも叶うかもしれない。
でも、違う。
現実は、そんなに都合よくはないのだ。
こんな時だというのに、頭の中で冷やかな声がした。
もうこの世に月人という人間は居なくなるのだと思うと、そのすべてを灰にしてしまう場所へはどうしても行けなかった。
向き合える自信がなかった。
私はそんなに強くない。
本当はこんなにも脆くて、情けないのだ。
私が笑えたのは、月人が居てくれたからだったんじゃないか? とさえ思えた。
月人が逝ってしまってから、私の中で感情がひとつひとつ死んでいくような気がしていた。
虚ろな気持ちのまま私は家に帰り、感情が完全に失われるのを待っていた。
今はもう、悲しみしか残っていない。
私には、月人との思い出だけしか残されていなかった。
今思い出すことのできる全部をカタチに残しておきたいのに、その術は何もなかった。
こんなにも簡単に、こんなにも呆気なく、人の命は奪われてしまう。
死に対して恐怖はなかったけれど、それまで生きてきた・・・頑張ってきた全部はなんだったの?と空しくなってしまう。
(月人はまだ、これからだったでしょう?)
縋りついて、月人の名前を呼んで、泣き続けることができたなら、少しは心が癒えただろうか?
でも、私は、ベッドで丸くなって、ブランケットを頭まで被り枕に縋りついて声を殺して泣くしかできなかった。
心配そうな家族の瞳に気づいていたから・・・気付かずにいれたらよかったけれど、それを無視することはできなかった。
「大丈夫だから」と気丈に振る舞えるのが、私だ。
暗く沈むおじいちゃんやおばあちゃんの笑顔を見たいと思うのも私だ。
だから、心配する家族になんとか笑顔を取り繕うことはできた。
・・・けれど、私の心の中は空っぽになってしまっていた。
あれから何日経ったのかも、定かじゃない。
まるで覚めない夢の中で闇雲に逃げ回っているような感じだった。
月人が居てくれたから、私は前を向いて歩いて行けたのに。
月人が居てくれたから、私は自信が持てたのに。私を好きになれたのに。
月人が背を伸ばして歩く後ろ姿に、憧れたのに。
月人がくれた言葉で、私は恋を知ったのに。
月人のことを、こんなにも求めているのに。
こんなに苦しいのに、こんなに切ないのに、二度と会うことができない。
私の中で"永遠"だったものが、急に途切れてしまった。
ここが終着駅ではないのに、私は列車から下ろされてしまった。
私は月人行きの切符を握りしめたまま、どうしてよいかわからずに、ただ立ち尽くすだけ。
だって、月人行きの列車はもう二度と私の前に現れてくれないのだ。
それでも、私はその切符を捨てられなかった。
月人のくれた言葉をまだ信じていたかった。
このまま永遠に離れてしまうことは耐えられそうになかった。
でも、そこに留まっていることは、生きている私たちには許されない。
新年度はとうに始まっていた。
私は周囲の心配を感じつつ、東京へ戻って行った。
東京に向かう新幹線の中、私は座席の背もたれに寄りかかり備え付けの雑誌の表紙から目が離せなくなった。
各地の観光名所が紹介されているそれを、私は田舎に帰る時に手にして読んだのだ。
淡いピンクの花びらが・・・桜の花が風情たっぷりに咲いている表紙。
まさかこんな別れが待っているとは思わずに、弾む胸を押さえつけるようにしてその表紙をめくり記事を追いかけた。それがほんの数週間前だ。
(3人で花見に行こうって言ってたのに・・・)
もう二度と、会うことはできない。
何度考えても、それは変わらない残酷な事実。
それでも、思わずにいられない。
3人で桜を見ることはできなかった。
想いを伝えることが、できなかった――。
(夢でもいい、幽霊でもいい、もう一度私の前に現れて・・・!)
それが非現実的な、とんでもない願いだということはわかっていた。
どんなに願っても、どうしようもないことだとわかっていても。
それでも、それは嘘偽りのない私の本心だった。
気持ちは、想いは、膨れ上がるばかりで、桜の花が舞う雑誌の表紙はもう涙で見えなくなっていた。
* * *
ただ、毎日が過ぎていく。
もう月人が帰って来ないのなら、このまま月人の傍に逝きたいとさえ願っていた。
もう一度だけでいい。
月人に逢いたい。
どうしてこんなに悲しい別れがあるのか、どうしてこんなに愛しいのに想いを告げられないのか、私は行き場のない感情で壊れてしまいそうだった。
悔やんでも悔やんでも、もう戻りはしないのに、今の私には悔やむことしかできない。
時間が経てば月人への感情が薄れるかもしれないと、悲しみから逃れる術があるかもしれないと、私は必要以上に忙しくしていた。
自棄になってコンパの誘いに乗ってみたりもしたけれど、それで何が満たされるわけでもなく、また恐怖を抱くことになって私は逃げ出してしまっていた。
大人の男の人が、また怖くなっていた。
それでもよかった。
(月人が居ないなら、月人じゃないなら、誰も居ないのと同じだもの――。)
そんな時、おばさんから電話がかかってきた。
「果純ちゃん、ご飯食べてる?ちゃんと学校行ってる?」
いつも張りのある明るい声を出すおばさんの声が、弱々しく耳元で響いた。
私の体を心配する言葉に、"おばさんはげっそりと痩せてしまった"というあーちゃんからのメールを思い出し、悲しいのは苦しいのは私よりもおばさん達だということを思い出した。
(それなのに、おばさんは気遣ってくれて・・・。)
私には"学校"という逃げ場所があった。月人を知らない人たちの中で生活をして。だけど、そんな場所を持たないおばさん達は、常に月人が居ないあの空間で、どんな日々を過ごしてきたんだろう。
「あのね、渡したいものがあるの。送っていいかしら?」
かなり思い悩んだらしいその声に、私はあれから意識的に避けていたカレンダーを見つめた。
もうあの日から1か月以上経っていた。
(そ・・・・っか・・・・連休も帰らなかったから・・・・)
「あ・・・49日・・・」
「納骨したのよ。この間の日曜に。」
あーちゃんから帰ってくるか?と訊ねられたのは連休前だった。
私は「バイト忙しいから」と帰郷しなかった。あーちゃんもお父さんたちも、それ以上何も言わなかった。
忘れたいほど苦しいのに、忘れたくないほど愛しくて。
これ以上、月人を失いたくなかった。
納骨されてしまうなんて、考えたくなかった。
せめてキスした時のまま、たとえ見つめてもらうことが叶わない冷たいキスだったとしても、あの最期のキスの時のまま、時間を止めてしまいたかった。
(月人が、お墓に――・・・)
口元を押さえて、私は乱れる呼吸を隠そうとした。
もう、あの冷たい唇も、ただ眠っただけのような綺麗な顔も、何も残ってはいない。
「あのこね、果純ちゃんに渡しそびれたものがあったの。・・・今度帰って来た時にでも・・・果純ちゃんが嫌じゃなければ、もらってくれる?」
私は何から逃げようとしているのかわからなくなる。
いつも、私を見ていてくれた月人。
それなのに、私はまだ月人に背を向けている。
どんな時も、私の笑顔を想ってくれた優しい人を・・・私は同じように優しい気持ちで見送ることができなかった。自分の気持ちでいっぱいになって、笑顔を見せることができなかった。
悲しさも苦しさも、それはそれとして、旅立つ月人が安心できるように、笑うことはできたはずなのに。
おばさんの話に相槌も打てないくらい、私は涙を堪えるのに必死になっていた。
「果純ちゃん?」と心配そうに訊ねる声が、私の心に直接響く。
私は携帯を握りしめて、立ち上がる。
そしてバックを掴んでおばさんに告げた。驚くおばさんの声に、泣き笑いしながら。
「今から、行きます。」
新幹線の窓から、私は青空を見つめた。
いつから空を見ていなかったんだろう?
お世辞にも綺麗とは言えない新幹線の窓からでさえ、空は泣きたくなるほど青く見えた。
その青空に、白い月。
振り返り、私にあの言葉をくれた月人が見える。
あれはもう日も落ちて、星が瞬いていたというのに。
そして唐突に思った。
ああ、月人はずっと私を見ていたんだ。
夜だけじゃなくて、昼にまで。
(月人、月人、月人・・・!)
私は窓に両手をついたまま、声を殺して泣いた。
掴めない青空に近づきたくて、額を押しつけて窓の外を見つめ続けて。
* * *
「行ってみればすぐにわかるから」と、突然押し掛けた私におばさんは微笑みながら言った。
「そのままだから・・・あのこが逝った日・・・部屋を出て行った、あの日のままだから。」
久しぶりに見るおばさんの笑顔に、私は抱きつきたくなるのを堪えた。
階段を上ったことはない。先を歩いていたおばさんが立ち止り、私一人を行かせようとしているのを感じて、戸惑っておばさんを見つめた。
「月人の部屋は一番手前だから。」
おばさんはそう言って、そのまま背を向けてリビングへと向かった。
私は深呼吸して階段を一段一段上った。
あれから、おばさんとおじさんしかこの部屋に入っていないらしい。
二人にとって、ここはそのままの状態で残しておきたい場所だろう。
階段を上りきると短い廊下がある。
窓はすべて開け放たれ、月人の家の前の木々の若葉が揺れているのが見える。
一番手前の部屋の前で、私はその扉を見つめた。
衝動的に東京から押しかけたこと、実家にも寄らずに真っ直ぐ月人の部屋に来たこと。
その一つ一つが、自分のしたことなのにどこか信じられない。
躊躇する気持ちが沸き上がったけれど、その扉の向こうの月人に逢いたくて、その気持ちの方がずっと強くて、私はノブを握りそっと扉を開けた。
ふわり、と締めきっていたはずのその部屋から、優しい空気が溢れて来た。
私は思い切りその空気を吸い込んで、満たされていくのを感じていた。
扉の向こうは、眩しい光で満ちていた。
まるで今起きていることが夢の中の出来事のようだった。
そこは、月人の息遣いで満ちていたから。
月人がここで過ごした時間分。
生前、私はこの部屋に入ったことがない。
今、こんなかたちで月人の部屋に入ることになった不思議さを感じずにはいられなかった。
しばらく廊下で立ち尽くしていたけれど、まるで月人が招き入れてくれたように部屋の中に足を踏み入れた。
参考書や問題集が机の端に重ねられていた。
ジャージが椅子にかけられている。
漫画本や雑誌が散らばっているあーちゃんの部屋とは大違いだ。
私のアパートよりずっと片付いている。
初めてなのにどこか懐かしさを感じるのは、この部屋の主らしい部屋だったから。
もうここに戻らないのだという悲しい現実をまるで拒否するかのように、そのままの状態で待っていてくれたからかもしれない。
どこにもここにも、月人の生きていた証が詰まっていると思うと胸がきゅっと締め付けられた。
窓越しに私の部屋が見えた。水色のカーテンが締められている。
(・・・月人が居なくなってから・・・私自分であのカーテンを開けてない・・・)
目を背けていたかったから・・・月人が、もう居ないという現実から。
ベッドカバーはきちんと整えられて、その枕もとには動き続ける目覚まし時計。
静まり返った部屋の中で、私の鼓動とシンクロするようにその秒針が刻む音だけが響いていた。
部屋の中央にある小さなテーブルの上に、紙袋が置いてあった。
私の部屋のカーテンと同じ、水色の紙袋だった。
私はそれに引き寄せられるように、ぺたんとラグの上に座った。
春になったとはいえ、まだ肌寒い。
毛足の長いラグは冷えた足元を暖かく包んでくれているようだった。
両手で紙袋を持ち上げた。
小さなそれは意外と重かった。
私はひととき悲しみを心の片隅に追いやって、月人が渡そうとしていたという中身に想いを馳せた。
もう、これ以上の悲しみはないと知っていたから、純粋に月人の想いを受け取ろうとしていた。
「開けていい・・・?」
微笑みながら、そっと問いかける。
ずっと感じていた。
月人がここに居るようで、私はそう言わずにはいられなかった。
手のひらに収まるくらいの小さな箱、修学旅行で行ったのだろうか地名の入った小さな袋、私はその一つ一つをテーブルの上に並べていった。
自然と笑顔になる。
可愛らしくラッピングされたもの。ただシンプルに袋に入っているだけのもの。
開けるのがもったいなかった。
――開けてしまったら、この密やかな幸せな時間が終わってしまう。
だから先延ばしして、私は膝を抱えて指で突いて見つめていた。
ふと、もう何もないと思っていた紙袋の一番底に、画用紙が四つ折りになって入っているのに気がついた。随分と焼けていて、一番古いもののように思えた。
私はその画用紙を手に取り、ゆっくりと広げた。
そこには、クレヨンで描かれた青空と、笑っている女の子。
その女の子の下に"かすみちゃん 元気出して"と大きく書かれている。
いつ描いてくれたのだろうと首を傾げ、すぐに思い当たった。
(あの桜祭りのあと?)
だから月人は渡せなかったんだ。
私を元気づけようとして描いてくれたのに、あの後の私は・・・月人を避けてしまったから・・・。
「・・・ごめんね」
"笑ってくれてれば、それでいい"
(月人は、本当に心からそう思ってくれていたんだ。それなのに、私は避けてしまっていたなんて。)
私は画用紙を胸に抱きしめた。
涙が画用紙に落ちないように、私はきつく胸に押しつけた。
「私、こんな可愛くないよ」
月人の描いた絵を見るのも、初めてだった。
それから、私はゆっくりと包みを開けていった。
キーホルダー、写真立て。センスがいいとは言い難いのは、私も同じようなものだった。
どんな顔で選んでいたのか、なんて言って渡そうとしてくれたのか、私は馬鹿みたいに一人想像していた。そのたびに、きゅんとしたり切なくなって、また一人泣いた。
一番新しい包み紙は北海道に行ったものだった。
(月人も、北海道だったんだ・・・)
見学コースは微妙に違っているだろうけれど、自分が見た風景を月人も見たのかもしれないと思うと、たまらなく嬉しくなった。
私はその包み紙のリボンを解いた。茶色の小箱が現れて、私は恐る恐る蓋を開けた。
黒いビロードの中に、結晶を模った飾りのはめ込まれたコンパクトが入っていた。
銀細工の繊細なもので、私は思わず見とれてしまった。
指紋がついてしまうことを気にしながら蓋を開けると、鏡に私の顔が映る。
涙でぐしょぐしょで、だけどとても嬉しそうなわたしの顔。
鏡の端に刻み込まれた言葉をそっと指でなぞり、声に出す。
「"keep your smile . your smile makes me happy "」
"笑っていて。あなたの笑顔は私を幸せにする"
名前さえ呼べなくなるほど、私の胸はいっぱいになっていた。
苦しくて切なくて、だけど月人が残してくれたものは、私の心に優しい火を灯していく。
月人が残してくれたものは、全部私の笑顔を引きだそうとしてくれているのがわかる。
(こんな風に想われて、私以上に幸せな人間なんていないよね?)
私という人間を特別な存在にしてくれる、勘違いしそうになるほど大切な人間なんだって、そう想わせてくれる月人の想いが胸に溢れる。
もう自分が悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのかわからなかった。
月人がくれた全部が、私を優しく包んでくれていた。
月人がくれた想いが、私を微笑ませてくれた。
(月人)
名前を呼ぶだけで、心の中が甘く苦しくなる。
やっぱり生きてて欲しかった。
それはどうしても、諦めきれない思いだけれど。
(それでも、留まろうとする私の背中を、やっぱり月人は押してくれるのね)
ただ長い時間、私はそこに居ることが許されていた。
あの優しい空間で、私は精一杯の気持ちで、月人のことを想った。
月人からの言葉が刻まれた鏡に、本当の笑顔が映るまで。
* * *
「この人がママの大好きな人?」
小さな手で私のワンピースの裾を引っ張り、大きな瞳をくるくると輝かせながら小首を傾げる娘に私は頷いて頭を撫でる。
桜の花びらが、どこからともなく流れてきて庭先で踊る。
月人の遺影を見つめる娘を後ろから抱きあげて「月人っていうんだ。あーちゃんの友達」と陽が笑った。
「どうして、お写真だけなの?お兄ちゃん、どこに居るの?」
今年4つになった娘は好奇心いっぱいの顔で、私の隣で手を合わせている夫へと手を伸ばしながら訊ねた。
娘の言葉に私を見つめた優しい瞳が「それはママが知ってるよ」と悪戯っぽく細められる。
(月人、ただいま。)
窓の向こうに広がる空を見つめ、私は微笑む。
(桜、見にきたよ)
「あの空で待ってるの。ママがいっぱい笑っているかなって、お空から見ててくれるのよ」
「・・・?」
不思議そうに眉を顰めた娘に、おばさんもおじさんも笑う。
あーちゃんも眩しそうに窓の外の青空を見上げる。
「ママは、パパとれいちゃんといっぱい笑ってるよって、お兄ちゃんに教えてあげなくちゃな?」
その紡がれた言葉に確かな幸せを感じながら、私は夫と娘を抱きしめる。
"笑ってくれてれば、それでいい"
そう思える相手が、今、私には居る。
「青空の向こうで、待ってるのよ。いつか、みんなで逢いに行こうね。」
私が私のまま。
愛し愛されることを願ってくれた。
想いの強さを、それが笑顔の源になるのだということを、教えてくれた。
『ずっとひとりだったら、俺がもらってあげるよ。』
『・・・何年か経って、それでも一人だったら・・・俺がもらうよ。』
私だけに作用する魔法の言葉。
それは、今も、変わらずに私を包む。
青空の向こうから、今もずっと――。
2009,4.9
◇ END ◇
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――大好きな、二度と逢うことのできない幼馴染に捧げます。
真っ直ぐに思ってくれたその気持ちに、私は応えることも、本当の想いを伝えることもできなかった。
後悔しても、もう声は届かない。でもね、本当に、大好きだったよ――
天国から、今、私は見えていますか?
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