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*シリアスです。本編7月7日の翼サイドです。本編はこちら

7月7日      ―僕は君に会いたかった―







彼に会ったのは、初めてじゃなかった。
今思えば、彼はいつも身近に居た。
だから、予感していたのかもしれない。
それでも、僕は、日本に帰りたかった。

離れていて、どんなに彼女が僕にとって大切で特別な存在か、ようやくわかった。

さえ・・・
7月7日、僕は君のところへ戻るよ。
もう離れないように。



7時
パソコン画面の時計を見て、カーテンから漏れる日差しに目を細める。
日本は22時。
僕は小さく伸びをして、電話の受話器を手にとった。
いつのまにか諳んじられるようになった番号を押して苦笑する。
多分、実家以外ですらすらと押せるのは、彼女の携帯番号だけだろう。

冴実の携帯はすぐに留守番電話サービスに繋がる。
まだ仕事中・・・いや、夜勤だろうか?
僕は夜勤明け、ふらふらになりながらも患者を一人一人診てまわる彼女を思い出して微笑んだ。

『発信音の後にメッセージをどうぞ』
無機質な声の後に、聞きなれたピーっという発信音。
「さえ、7日に帰るから、20時にあのバーで会おう。――会えるのを楽しみにしてるよ。」
僕はいつものように用件だけを告げると、電話を切った。
受話器を置き、じゃれつくハッピーの頭を撫でた。
「こら、やめろって。そんなに噛んじゃダメだろう?ハッピー、ストップ!」
ズボンの裾を引きちぎるんじゃないかってくらい引っ張っていたハッピーは、僕の少しキツメの声に「くうん」と寂しそうに鳴いて一歩後ずさった。

「今日はこれからドクターに挨拶に行かなくちゃいけないんだよ。戻ってきたら散歩に連れて行ってやるから。それまでいい子で待ってるんだぞ?」

最初は英語で話しかけていたが、このコリーを日本に連れて帰ることに決めてからは、日本語で話しかけるようになった。
十数時間も飛行機に乗り、検疫で2週間ほど足止めされてしまうが、エゴだろうが何だろうが、どうしても連れて帰りたくて。
こんな風に何かに執着しないように、生きてきたつもりだったのに。

真冬に迷い込んだ仔犬に、僕は冴実を重ね見ていた。
切り捨ててきたはずの冴実の笑顔ばかり浮かんだ。
研究に没頭しては、冴実の笑顔で満たされる。
――そう、寂しさを初めて知った。

付き合ったのはたった3ヶ月、その頃には、もう渡米は決まっていたから、ほんの少し、楽しむだけのつもりだったのに。

歯痒さでパソコンに向かいながら、冴実のように『構いなさいよ!』と僕のズボンの裾を引っ張るハッピーが、僕を何度も笑わせた。

冴実は僕が諦めかけると『あんたならまだ何とかできるでしょ!』って何度も食い下がる。
気が強いのに、寂しがりで、どんなに辛いことがあっても逃げださない。
人手が足りなくて回されたきた彼女は、最初こそ戸惑っていたけれど、救命医として成長するのは早かった。
僕がどんなに冷たく接しても、食い下がってくる。
どんな状況でも、患者を見捨てようとはしない。
医師というよりは、患者にとってはナースに近い存在だったかもしれない。
彼女は立場だとかにこだわらない主義だから。
時にそんな情は彼女を酷く傷つけ、打ちのめす。
それでも、彼女はいつも『今できることは、やる』と、唇を噛み締める。

あまりに感情的な彼女に呆れてしまっていたのに、いつの間にか、僕は彼女に惹かれていった。
仕事に感情を持ち込まないと決めた僕に、冴実はずかずかと入り込んで、歓びを呼び覚ます。

一人でも多くの人を救いたい。
生命の喜びを、分かち合いたい。
誰かに必要とされたい。

ハッピーを膝の上に抱きながら、僕は冷たくなったコーヒーを喉に流し込んだ。

「きっと、お前も気に入るよ。お前らそっくりだし。それに・・・・さえ、犬が飼いたいって言ってたから。」
「くう〜ん?」

CD−Rをバックに入れて、ずり落ちそうな眼鏡のフレームを押し上げた。
いつもなら、ハッピーは出かける前に頭を一撫でしてやると、寂しげに瞳を向けながらも、玄関で寝そべるのだけど、今日はいつまでも僕のズボンやバックに食いつく。
帰国準備で忙しかったから、ストレスでも溜まっているのか?
「こら、ハッピー。なるべく早く帰るから。」
なんとか引き剥がし、ドアをガリガリと掻く音を聞きながら、僕はドクターの自宅に向かった。





アパートメントから通りにでると、日差しが容赦なく降り注いでいる。それでも、木々がその光を受け止めてくれるから、柔らかな木漏れ日の下を歩き、すがすがしい気分になった。

きっと東京は、今頃ジメジメとした湿気で最悪だろう。
一昨年、救命病棟に冴実が配置された時のことを思い出す。
うんざりしながら空を見上げ。『梅雨って、なんでこんなにうんざるするほど女々しいのかしら』と言っていた。
同じ台詞を、去年は電話越しに聞いた。
「こっちは気持ちいいぞ〜」
言って、くすくすと笑った。
『ずるいよ!』
まだ渡米したばかりで、慣れない生活に冴実からの電話すら面倒に感じていた。
多分、冴実は言葉にしなくてもそんな僕に気づいてた。
だから、彼女からの電話はそれからほとんどかかってこなくなった。
メールや留守電がメイン。
お互い忙しいんだから、それすらよくやってたと思う。
時差は、イヤでも距離を思い知らせた。

いつしか、彼女のことなんて、忘れてしまうと思っていたのに。

「もうすぐ、僕もその鬱陶しい東京に帰るから」
鬱陶しさが懐かしい、なんて言ったら、彼女は眉を顰めるかもしれない。
バックの中にある、小さな箱に想いを詰めた。
ちゃんと伝えなきゃいけない。
こんなに誰かを愛せるなんて、思っていなかったんだから。


言いながら、見つめた先に、その男の人は立っていた。

その男の人に、僕は何度か会ったことがある。
まだ若いのに銀髪で、黒い礼服をいつも着ていた。
初めてあったのは・・・・まだインターンだった頃か。

こんなところで奇遇・・・。
僕はそっと頭を下げた。
彼も寂しそうに頭を下げた。
その瞳に、僕は何かを悟った。
だけど、そのまま表情を変えず、僕は静かに銀髪の青年の隣を通り過ぎた。

彼に最後にあったのは、日本でだ。
処置室に佇む彼を見た。

いつでも彼は、申し訳なそうに見つめていた。
僕と目が合うと『驚かせてスミマセン』と小さく言うのだ。
最初は関係者かと思っていたが、そうでないことは直感が告げていた。
信じてはいなかったが、彼は存在している。

――処置中の冴実に言ったら、メスを向けられてしまいそうだけど。
彼は・・・―そう生死を司るものだろう。
僕らの商売敵ってところか。

多分、誰にでも見えるけど、誰も彼を見ようとしないのだ。
その瞬間に深く関わらなければ、多分、人は彼を見ないまま過ごせるのだ。
いずれ訪れる、その瞬間まで。

ちょっと、待って。
それじゃあ、今日は、僕に逢いに来たっていうのかい?

だから、僕は、その瞬間に気づいてしまった。

ボクハ、サエ二アエナイ・・・

カバンを握り締める指先に力が籠った。
震える自分が情けなかった。
こんな仕事をしてるんだから、人にはどんなことが突然起きるのかわからないって、一番知っていたはずなのに。

いつだろう?
僕は、いつ?

しばらく歩いて、僕は立ち止まって振り向いた。
黒い人影は小さく佇み、離れている距離であるのに、まっすぐに自分を見つめているのがわかる。
バックに手を差し入れて、小さな箱を取り出した。

これを、冴実に渡すことは、できないの?

研究の成果より、何より、彼女に伝えた約束が守れなくなることのほうが怖かった。
「・・・・僕は、冴実に会いたい。ただ、それだけなんだけど」
言って、知らず涙が頬を伝うのを感じた。

ああ、知っている。
こんな風にあたりまえに来るはずの未来を『死』というやつは、突然奪っていくんだ・・・。
誰も、今日が終わりだなんて気づかずに。

祈るような気持ちで、僕は箱を握り締めた。

瞬間、頭上のアパートメントから悲鳴が聞こえ、目の前をたどたどしい足取りで、男の子が飛び出すのが見えた。
咄嗟に駆け出して、男の子を抱き上げた。
休日の、空いている道路に、急ブレーキのタイヤが軋む音が響いた。
僕が覚えているのは、それだけだった。





見慣れた廊下を、仲の良い医師たちが忙しなく走り回る。
僕はソファーに腰掛けていることに気づき、隣に座っている男の人を見上げた。
「・・・こんにちは。真島 翼さん。」
遠慮がちな声は、僕の身に起こったことを暗に伝えていて、僕は壁に寄りかかった。
不思議だ、壁の感覚はある。
「正しくは、まだ亡くなっていません。あなたの体は、まだあそこで戦っています。」
ERに運び込まれた僕は、頭を覆う包帯を紅く染め、輸血用のパックを持って出入りするスタッフは大きな声で何か話している。

「・・・真島さんには、僕、新米の頃から何度もお会いしてて・・・その、こんなに早く貴方とこうして対峙しなくちゃならないなんて、僕も驚いています。」
「あなたは・・・・」

僕が訊きたい事を察して、彼は申し訳なそうに佇み、そして徐に手帳を取り出した。

「実は、田沼さんに・・・・覚えてらっしゃいますか?真島さんが渡米する決心をしたのは、田沼さんの為と聞いていますが。」
「ええ、そうです。」

何故あそこに立っていなければいけない筈の僕が、ここに座っているのだろう?
「あ、あの!あの子は?あの男の子。」
不意に抱きしめた小さな存在を思い出し、僕は立ち上がってERを覗き込んだ。
「大丈夫です。彼は無傷です。あなたが無意識に彼を歩道側へ押し出したのですよ」
今は両親と一緒に、向こうであなたの処置を見守ってます。
銀髪を柔らかく揺らして、青年は寂しそうに笑った。

「田沼さんが、貴方に『ありがとう』と。そして『待っていられなくて。ゴメンな』と。真島さんが彼女とまた訪れるまで、待ってるって約束したのにって苦笑されてました。」

僕はまたどさりとソファーに座り込み、自分の掌を見つめた。
後悔が僕を飲み込む。

間に合わなかったんだ。
田沼さんを助けるって、約束したのに。
また二人で必ず行くからって。
プロポーズに、あの店を使わせてって、言ったのに。

両親の顔が思い浮かんだ。
弟も、そしてハッピー、教授、ドクター、病院のスタッフ、患者の顔や業者の人たち、学生時代の友人たち、そして冴実。

「さえっ・・・・」
俯いて、両手を握り締めた。

一番の後悔は、想いを伝えなかったこと。
愛していると、言えなかったこと。
これからずっと、一緒に歩いていくことができないということ。

望んだものは、たった一つだけ。

冴実の笑顔が見たかった。

「あんな電話、しなきゃよかった。田沼さんも居ないあのバーで、冴実は独りぼっちで、待つことになるなんて・・・!」

涙が溢れた。
涙は、まだ出るんだ。

医者という職業についていながら、こんな非現実的な事態を受け入れている。
冴実なら『諦めるもんですか!』って、この青年を揺さぶっているだろう。
でも、そうだ。今回ばかりは、僕もただ受け入れるだけ、なんてできそうになかった。

7月7日、僕らは会うのだから。

「死ぬわけには、行かないんだ。冴実を、一人で待たせるなんて・・・・!それに、ハッピーも・・・!」
呟いてみたけど、それもやっぱり無理なんだと、頭の中では知っていた。

これはゲームなんかじゃない。
間違ったから、死んでしまったからやり直す、なんてことはできないのだ。

「田沼さんの最期の願いは、またあの場所で貴方たちに会いたいというものでした。あなたの最期の願いはなんですか?
真島さん、最後にたった一つだけ、願いをかなえてあげられます。もちろん、なんでも、というわけにはいかないのですが。」

心臓病を抱えて、それでも大切な店を守っていた田沼さんの優しい笑顔を思い出し、僕はまた涙が零れた。
「田沼さん、ありがとう」
呟くと、耳元で「こっちこそ、ありがとう」と囁く懐かしい声が聞こえた気がした。

「離れていて、どんなに彼女が僕にとって大切で特別な存在か、ようやくわかったんです。」
送り出す方が、どんなに辛かったか。
それなのに、僕は最後の約束も果たさず、彼女にまた見送らせるだけだと・・・?
顔をあげて、不思議な色を見せる瞳を覗きこんだ。

7月7日、僕は君のところへ戻るよ。
もう離れないように。

「さえに会いたい。あの場所で。」

君なら、きっと、また一人で立ち上がって生きていけるから。
君の幸せを願わず、僕は我がままを言う。
ごめんね、僕は、ただ、君に会いたい・・・。

「さえに出会えて、僕は本当に幸せだった。」
その一言を、伝えさせて。






おわり


2006,7,17




続編 催涙雨−

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