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7月7日翼サイド


7月7日

催 涙 雨 −1−
−2年後の織姫−








少女趣味だと言われた。感傷に浸りすぎだとも。
それでも、どうしても譲れない想いだった。

『もう縛られる必要はないじゃないか』
彼の友人が言った。
『いい加減、過去に囚われるのはやめたらどう?』
私の友人たちも言った。

縛られてなんかいない。

私が言うと肩を竦めて苦笑する。
『その指輪が何よりの証拠』だと。

囚われてなんていない。

そう言うと肩を叩いて首を振る。
『仕事仕事で休まないあんたを見てると不安になる』と。

私は心の中で呟く。

翼は、いつだって私を縛ったりしなかった。
縛ってほしかったのは、私の方。
翼を恋しく想っても、彼は夢にすら訪れてくれなかった。
休みが取れないのは仕事が忙しいからで、現実から目を背けているわけじゃない。

『やめておきなよ』
友人たちが言う。
『わざわざ辛い気持ちを呼び起こす必要ないでしょう!?』

悲しみは時が癒してくれると、誰かが言っていた。
でも、私には悲しみに浸る時間すらなかった。
忙殺される日々。
オフの日にはただ泥のように眠る。

思い出さないわけじゃなかった。
生と死の狭間で、むしろ彼の最期に重なるオペには胸が痛んだ。
助ける事ができなかった時には、酷く自分を責めた。
同僚たちに『感傷に浸りすぎだ』と窘められたりもした。

疲れた脳は時折錯覚を起こす。
飽きもせずにメールを確かめたり、留守電を気にした。
本当はまだアメリカに・・・シカゴに居るのではないか?と思ったりした。
あれは悪い夢で、彼は相変わらず、私の事など忘れて研究に没頭しているのではないか?と。

だけど、仕事中はネックレスに通して身に付けている指輪と、留守を待って居てくれるハッピーが、彼はもう居ないのだと知らせていた。

寂しくなんてない。
寂しさを感じる余裕なんてなかった。

ハッピーはあの頃よりも大きくなった。
私の髪も長くなった。
今でも、助けられない命に涙が零れそうになる。
弱虫で、意地っ張りで。

それでも、愛しい気持ちは少しも変わらなかった。

気がつけば、あの人が逝ってから2度目の夏が近づいていた。





学会以外で渡米したのは初めてのことだ。

彼の住んでいたと言うアパートメントを見上げて、私は目を細めた。
同じ季節だとは思えないくらい、風が心地よかった。
こちらに向かう前の東京は、雨の落ちてきそうなどんよりとした雲に覆われていた。
なんともいえない重たく湿った空気に、不快指数が上昇していた。
ここは、まだ空気が冷たい。
緯度が函館と同じだと、翼から聞いた事があった。
そう、こちらに来たばかりの彼が、電話で話していたっけ。
『さえ、羨ましいだろ?』
笑って。

ずっと、来たいと思っていたのに随分と遅くなってしまった。
ううん、来るのが怖かったのかもしれない。
だって、やっぱり足が震えてしまう。
彼が住んでいたはずの部屋には、もう違う誰かが生活を始めている。
もう2年も経つのだから、当たり前のこと。

それでも、私は感じたかった。
翼が最期にどんな風景を見ていたのか。

私は、彼が遺してくれた指輪にそっと触れた。

彼が暮らした街。
翼が、ハッピーを拾った街。

ゆっくりと視線を落とす。
彼が向かっていたという場所に向けて、私は歩き出す。
見上げた先の緑を翼も見つめただろうか?


まとまった休みが取れた。
・・・違う。
この日にあわせて休みを調節した。
家族のいるドクターたちは8月に休みをとりたがっていたから、まだ夏休みと言うには少し気が早いこの時期に休むことに、異論はなかった。
一昨年も昨年も、研修や人員の不足で休みがとれなかったから、長期の休暇申請をすると眉毛が八の字になって固まる部長も、快く休みをくれたくらいだ。
長期と言っても5日間。
それでも常に人手不足に悩まされている救急だから、実はこんなに長く休むのは異動してからは初めてだった。

部長はどこに行くのかを知って、心配そうに表情を曇らせた。

部長は覚えている。

今日は、翼の命日。



この通りのどこかで、翼は小さな命を助けて――自らの命を失った。

そう思うと胸が苦しくなった。
思わず立ち止まり、振り返ってしまう。
何度も周囲を見回してしまう。
時間が戻るわけではない。
それでも、彼がどこかに佇んで居そうで、振り返った。
過ぎた時間は取り戻せないとわかっていても、それでも振り向かずにいられなかった。

「・・・・っ!」

心臓が一瞬動きを止めた。
息を吸うのも忘れ、ただ一点を見つめた。
周囲の景色がぐにゃりと曲がる。

「つ・・・」

翼、と叫びそうになる。
そこに居た人に向かって。

まさか!と心が震えた。
嘘よ、そんなことがあるはずない、そう唱える頭は混乱していく。
その人は俯き加減で歩き、何かを求めるようにふと空を見上げた。
私はがくがくと震えだして、両手で口を押さえて叫びだすのを何とか堪えた。

翼、翼、翼!

ありえない出来事。

彼は空から視線を通りに戻し、驚いたように立ち止まった。
そして、困ったような顔で首を傾げると、ゆっくり私の方に向かって歩いてきた。

見慣れた眼鏡。
それを押し上げる仕草も、纏わせる空気も翼に似ていた。
だけど・・・翼より一回り大きな体。

違う。
翼じゃ、ない。

「・・・艶・・・くん?」

呟いた言葉に、彼は苦笑して「冴実さん?」と訊ねた。

そうよね、翼がここに居るわけない。
彼はもう逝ってしまったのだから。









2008,7,6






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